⑦
俺はトラロープを跨ぎ、寂れた庭へと歩を進めた。校舎の老朽化のため立ち入り禁止となっているこの区域には生徒はいない。それをいいことに入り浸っていた。
枯れ草と枯葉で覆いつくされた中庭で佇みながら、俺はぼんやりと真朱のことを考えていた。
真朱は怖いが、恋心が消えたわけじゃない。むしろ、複雑な思いを纏い拗れていた。
俺は真朱との思い出を振り返る。最近ではそうして自分を慰めていた。
色素の薄い琥珀の瞳。白い肌。鮮血のような朱の唇。
真朱の外見は特徴的だ。
「何代か前に外国の血が混じっているらしい、俺は先祖返りなんだって。小さい頃は結構いじめられたよなー。気持ち悪いって。ま、返り討ちにしてやったけど!」
真朱はぎゃははと笑う。
「真朱は綺麗だよな。なんつーか外国の犬みてぇ」
そういって髪をワシワシと撫でれば、真朱は擽ったそうに目を瞑りながらもされるがままになっていた。
そう、真朱の容姿は異国風というより人間離れしているといった方がしっくりくる。確実に怒るだろうから本人には言わないが。
「なら俺、雄星に飼ってもらおうかな。きちんと餌を与えてくれそう」
「飯の美味さは保証されてるな。なんたってじいちゃんが板前だからな」
「俺は散歩担当ね。真朱、購買でココアオレ買ってきて」
「それはただのパシリだろ」
――そうやって笑いあっていた頃が懐かしい。
「あの時の真朱は可愛かったなぁ……」
「はぁ? てめぇ、あの頃ってどの頃だよ」
背後から飛んできた声に、俺は飛び上がった。
「ななななに、真朱。なんでここにいるんだよ」
「休み時間になると、お前がここへ来ることぐらいとっくにバレてるんだよ」
いつの間にか前に回り込んだ真朱に真下から見つめられ、俺は慌てて顔を上げた。
「真朱近い近い、ちょっと離れて」
俺は両手を上げて後退る。
「別にこんくらいの距離、今更だろうが」
「彼女に誤解されちゃうから」
「お前の彼女は別の高校だろうが。それとも監視カメラでもつけられてんのか?」
「彼女千里眼だから」
真朱は両手を腰に置くと、はぁ、と大袈裟に息を吐いた。
「それ、いつまで続けるわけ?」
「妖怪ネタは冗談だって彼女もわかってくれてるし」
「ほう、寛大な彼女だな。五十分毎に生存確認を要求する割に」
わかっている。すべてはそこに問題があった。俺の設定が不味かったのだ。
俺はヤケクソになって言い返す。
「そうだよ! ほら、もう五分も過ぎた。怒られるじゃねぇか。真朱のせいだぞ」
「俺の前でかければいいだろ? 聞いてやるよ」
「いやだ。恥ずかしい」
真朱は俺に詰め寄り、俺は逃げる。スマホに手を伸ばしてくる真朱を躱して駆け出した。
「逃げんな!」「しつこい」「かけろよ」「嫌だ」
やがて真朱は逃げ回る俺にしびれを切らし、だんっと足を踏み鳴らした。真朱の足元で古びたブロック煉瓦がガタガタと揺れる。俺はその剣幕に息を呑んだ。
「彼女なんていないくせに――!」
真朱の声が人気のない旧校舎に響き渡る。
俺はしばらく呆けていたが、否定しなければならないことを思い出し、おずおずと口を開いた。
「う、嘘じゃねえぞ、真朱」
「絶対嘘!」
「ちゃんといるし! なんで言い切れるんだよ!」
「いない!絶対いない!」
真朱は肩で息をし、血走った眼で俺を睨んでいる。
「つか、なんでそんなに怒ってんの?!」
真朱はゆっくりとこちらへ近づいてきた。俺は観念し、その場で待ち構える。
「この間、言ったことなら謝るよ。俺も真朱みたいに器用になりたいなって思っただけでさ、ちょっと言い方を間違えたなと後から反省したんだよ、これでも……」
「いいよ別に。当たってるから」
俺の前に立った真朱は、手を伸ばして俺のジャケットの裾を掴んだ。
「え、認めるんだ」
「特に好きでもない女子と付き合って、いつもあっちからフってもらう。その通りだよ」
「なんでわざわざそんなこと……」
真朱は斜め下に視線を向けて、消え入りそうな声で答えた。
「だって、俺の目的は付き合うことじゃねぇんだもん」
俺は真朱の言葉の意味を考え、その目的がなんであるかに思い至る。
「もしかして……身体目当てなのお前? 無害なキャラを作っておきながら最低だな」
「ちがう!そんなわけねぇだろ!」
真朱は両手で俺のジャケットの襟を掴んだ。ガクガクと揺らされ、ただでさえ混乱している思考がますますとっちらかっていく。
「やめろ真朱、酔う」
「ふざけんなよ、てめぇ! 俺は知ってんだかんな!」
「何をだよっ、言っておくけど彼女は実在するからな! 画像だって見せただろうが」
真朱は唇を噛むと、俺の胸に額を打ち付けた。
「わあっ、なにっ、どうした」
「俺は知ってるんだからな……」
「だから、なにをだよ。ちょっと落ち着けよ真朱」
俺は真朱を宥めようと、そっと肩に手を置いた。真朱は、それを引きはがそうとしていると勘違いしたのか、逃がさんとばかりに腰に手を回し結構な力で締め付けてきた。
「ぎょえ、どうしたんだよ。苦しい、苦しいって……」
「俺は、お前の夢に俺が出てくることを知っている」
俺は動きを止め、真下にある真朱の頭を凝視した。そうして改めて、真朱が言った言葉を反芻してみる。
俺の夢に真朱が出てくることを知っている……?
いやいや…それは確かに事実だが、真朱にわかるわけがない。だって、俺の夢だもん。俺しか見られないんだから。
「しかも、エッチなやつだ」
「わああああああ、なにを言ってる真朱、コラッ」
俺は真朱の腕を必死で引きはがしにかかる。そんなことはあり得ないと思っていても、ひた隠しにしていたことを言い当てられたのである。そりゃ、パニックにもなろうというものである。
「認めろよ雄星、彼女なんかいねぇんだろ。夢の中で俺を抱いているくせに、それだけ俺のことが好きなくせに、そんなお前が彼女なんか作れるはずがねぇんだよ!」
真朱の放った言葉は、旧校舎に跳ね返り長く余韻を残した。
さびれた中庭の広場で俺は、返す言葉も為す術も見失い、腰に真朱をぶら下げたまま立ち尽くした。