③
真朱の元カノに呼び出されたのは、それから数か月後の高三の秋のことだった。
嫌な予感はしたが、もしかしたら真朱に関することで相談という可能性も捨てきれない。迷った挙句、俺は指定された場所へと向かった。
調理実習室横の銀杏の前、はらはらと舞い落ちてくる銀杏の葉を手で優雅に払いながら彼女は待っていた。背中の中ほどまである長い髪と細いわりに大きな胸が男子生徒に人気がある女子だ。
「志望校が同じだって倉持くんから聞いたから、一緒に勉強しないかなって」
耳に髪を掛けながら上目遣いで話す女子を、無表情に見下ろす。
はっきりと“付き合ってほしい”と言われたわけじゃないが、そういう意図を含んでいることは疑いようがない。
真朱が彼女と付き合っていた期間は短かったが、それでも別れてから半年も経っていないはずだ。何より、元カレが始終つるんでいる友達に、堂々と接近しようとする図々しさが好ましくない。そして、そんな元カノに俺の情報を売った真朱にも腹が立つ。
「……悪いけど、友達の元カノと親しくするつもりはないから」
俺は冷たく言い放つと、さっさと踵を返す。
そして、怒りのまま階段を駆け上がり教室に戻ると、真朱に詰め寄った。
「お前、坂下さんを唆したのか」
真朱は左右に座る榊原と吉川と目を合わせた後、すんなりと認めた。
「相談されたんだよ、坂下ちゃんが雄星のことが知りたいって言うから」
「お前の元カノと俺がどうにかなるわけねぇだろ」
俺の剣幕に、榊原が気まずげに頭を掻く。
「ほら、だから言ったろ。雄星が付き合うわけないって」
「俺のことなら気にすんなよ。とっくに別れてるし、坂下ちゃんとは普通に友達だから」
あっけらかんと告げる真朱に、怒りがこみ上げ拳を握った。
「そういう問題じゃねぇよ」
「坂下ちゃん、いい子だぞ。ああ見えて意外と堅実で面倒見がいいし。雄星とは気が合うと思ったんだけどなぁ」
「勝手に決めんなよ」
溢れ出る感情を抑えきれない。
人の気持ちを察するのが上手いはずの真朱なのに、なぜ俺の心がわからないのだろう。あんな真似をされて俺がどう思うか、容易に想像できただろうに……
――いや、何を考えてるんだ俺は。駄目だろ。想像なんてされたら困る。悟られたら終わる。
俺は、混乱した頭を整理するために、ここから離れようと足を引く。
「えっと、わりい。雄星。そんなに怒ると思わなかった」
真朱が宥めようと伸ばした手を、俺は咄嗟に振り払った。思いのほか大きな音が鳴り、教室内に響き渡る。
真朱が目を見開く。
友人二人も言葉を失くして俺を見上げている。
俺はなんとか声を絞り出した。
「とにかく、もうするな、あんなこと」
そして、俺は教室を飛び出した。つまり、逃げたのである。
いつもは四人でだべりながら歩く坂道を、ひとりで歩く。
昼過ぎに降った通り雨の名残が、道の片側から伸び上がった木々の葉をキラキラと光らせていた。不意に吹いた風に煽られ、枝から雫が飛ぶ。俺はため息とともに濡れたジャケットの肩を払った。
鞄を脇に抱え、坂の下に広がる景色に目をやる。
卒業まであと半年。この景色ももうすぐ見納めになる。それなのに、仲間と気まずくなってしまった事態に心が沈んだ。
一方で、そろそろ潮時だったのかもしれないとも思う。真朱への気持ちは日に日に膨れ上がるばかりで、ついには先日、妄想で抜くことまでしてしまった。
一度許してしまえば簡単なもので、俺は毎日のように真朱の痴態を想像し自慰に耽っている。
夢の中でも同様だ。真朱を追いかけ回し組み敷いて「もっと」と強請らせる。そんな都合の良い夢を何度観たことだろう。
こんな一方的で穢れた気持ちは、真朱には決して知られたくない。嗅ぎつけられる前に離れた方がいいのだ。
――もしかしたら、真朱はもう気づいていたのかも。
だから、自分の元カノを斡旋するような真似をしたんじゃないか?
その解釈は、的を得ているように感じた。真朱が俺を遠ざけようとしてやった事だと考えれば腑に落ちる。
血の気が引いた。
俺は坂道を駆け下りた。全身から汗が噴き出し、動悸が激しくなる。
やはり、極力真朱には近づかないようにするしかない。
気持ちがバレたばかりか、変な気を回させるなど我慢ならない。榊原と吉川まで巻き込むのは心苦しいが、あの三人はセットなのだ。差別はできない。
いや、そうじゃなくて、もっともな理由を考えるのだ。
俺が奴らから距離をとることになった、順当な理由を。
あとから考えれば、そんな偽装をするより他にできることがあったような気もするが、仕方ない。俺は思った以上に馬鹿だったのだ。己の能力を完全に見誤っていたのである。