①
9話構成の短編となっております。
お楽しみいただければ幸いです。
怖い夢を見た時は、この歌を唱えるのだと教えてくれたのは祖母だった。
しかし、その和歌は、チビの俺が暗記するには長く難解で。
祖母は「むりだ」と泣く俺を宥め抱きしめた。
今では、その優しい手の感触だけが、記憶に残っている。
*****
高校受験の日、俺の体調は最悪だった。
頭がぼぅとし、手すりに掴まりながら何とか駅の階段を上りきったが、太ももに力が入らなくなり、縋り付くようにベンチに腰を下ろした。
幸いにも電車が来るまでまだ時間がある。二本やり過ごしても受験会場に間に合うほどの余裕があった。
俺は肩に掛けたリュックを降ろし膝に乗せる。単語帳を取り出して目を落とすが、アルファベットがただの記号に見えて何ひとつ頭に入ってこない。
俺は絶望し、リュックに顔を埋めた。
こんな調子ではとても問題を解くことなんて出来やしない。いや、まず、会場まで辿り着けるかさえ怪しい。
これまで頑張ってきたものがすべて無に帰す未来を憂い、俺は重い瞼を擦った。
懸命にパチパチと瞬きを繰り返すが、疲労が背中にのしかかる。飛んでしまいそうになる意識と必死に戦った。
――眠っては駄目だ。
眠ったら、あれを観てしまう。
こめかみに掌を当ててバシバシと叩くが、睡眠を求める身体は、容赦なく身体の自由を奪っていく。
そして俺は、いつもの如くそれに屈した。
ポンッと肩を叩かれ、俺は目を開けた。
「電車が来たぞ」
快活な声に、空気が抜けたような音が重なる。丁度ホームに電車が到着したところだった。
「青葉高受験するんだよな。俺も一緒」
腕を掴まれ、ベンチから引き起こされる。
「これに乗れなかったら遅刻するぜ」
どうやら、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
けれど、いつもの嫌な余韻はなく、鼓動も正常で冷や汗もかいていない。
驚くほど身体が軽かった。
俺は、腕を引いて電車に誘導する人物を見る。
紺色のブレーザーは隣町の中学の制服だ。首には赤いタータンチェックのマフラーを巻いている。
彼は、華奢な身体に似合わぬ力強さで俺を電車に押し込むと、自分も乗り込む。
いまだにひと言も発せない俺を振り向き、無邪気な笑顔を向けた。
「じゃ、お互い頑張ろうな」
彼は、ポケットに手を入れると、前の車両に向けて歩き出す。少し明るい髪をふわふわと浮かせながら去っていった。
俺はといえば、礼を言うこともせずその場に立ち尽くすばかり。
情けないが、自分の身に起こった変化に対応しきれていなかったのだ。
なにはともあれ、その日を境にあの夢を観ることはなくなった。
何年も悩まされた俺の不眠は、呆気なく解消したのだ。
*****
「おーい、雄星、体操着取ってくれ」
机の上に無造作に置かれた巾着袋を掴み振りかぶると、声の主へと投げる。
それは真っ直ぐと飛んで行き、薄い胸にぶち当たった。
「おわっ、本気で投げんな」
「さすが元野球少年。ジャストミート」
「俺はミットみてぇに丈夫じゃねぇぞ」
「真朱はよく食うのに太らねぇよなぁ」
「ほっとけ」
真朱はシャツを脱ぎ捨てる。細い腕を顕にしたままベルトを外し始めた。
「雄星なんか帰宅部のクセにムキムキだぞ。見習って筋トレすれば? モテるぞ」
「うっせぇな。俺はこれでいーの!」
俺はさりげなく目を背け、ブレーザーを脱ぐ。黙々とシャツのボタンを外したところ、いつの間にか近くに来ていた真朱にペタペタと胸を触られた。
「おい、止めろ」
「ほんとお前の筋肉すげぇな。何したらこうなんの?」
「たいしたことはしてねぇよ」
「筋トレが趣味とか健全すぎんだろ」
「老後に備えてるんだよ」
「今からぁ~?」
真朱は首にかけていた体操服に腕を通す。アンダーシャツが捲れて、白い腹が見えた。窪んだ臍が艶めかしくて目を逸らす。
「おいゴリラ、勝負だ。短距離走で俺が勝ったら、たまごサンドな」
「勝手に決めんな」
「知ってるか?筋肉ってのは脂肪より重いんだぜ。身軽な俺の方が断然速い」
ドヤ顔をする真朱を腕を組んで見下ろし、俺は挑発する。
「知ってるか?筋肉がないと太腿が上がらねぇんだよ。それに、俺の方が、足が長い」
「けっ、ムカつく!その無駄に高ぇ鼻をへし折ってやるぜ!」
「真朱止めとけぇ。また雄星のファンが増えるだけだぞ」
「クッソ、このモテゴリラ」
俺は手早く体操着に着替えると、顎に手を当てポーズをとる。
「嫉妬は見苦しいぞ、君たち」
悪態と共に飛んでくる巾着やらブレーザーを華麗に避けながら、俺は教室の引き戸を開ける。
「合コン設定しろ」
「女の子紹介して」
「プロテイン奢って」
口々に強請る友人たちから逃げるように廊下を走った。
追ってくる一団の先頭にいるのは、真朱だ。
柔らかな髪が光を反射して金色に光る。
血色のいい赤い唇から発せられるのは、唯一無二の音楽。
細くて長い手足は軽やかに風を切る。
俺はその姿を目に焼き付けて前を向く。
あの日俺を助けた恩人“倉持真朱”と高校で再会した俺は、さり気なく距離を詰め、友人となることに成功した。
そして今では、友情では収まりきらない想いを抱いている。
そう、俺は真朱に恋をしていた。もう何年も、叶わぬ恋に胸を焦がしているのである。
今まで一番笑った家族の寝言は「次、きのこ入れて!」です。
お鍋をつついている夢を見ていたそうです。