268話
「なんだか日常が戻ってきたって感じだねぇ」
そんな呑気なことを、店内を見回しながら呟いたのは、ベルリンはテンペルホーフ=シェーネベルク区にあるカフェ〈ヴァルト〉の調理担当であるビロル・ラウターバッハ。黒いコック服を纏ってはいるが、必要とあれば提供まですることもある。支払いも。つまりは全部。
森、を意味する穏やかなカフェ。その名の通り、若干薄暗い間接照明や観葉植物、BGMもなく壁には申し訳程度に木々の絵画を飾ってみたりと、どこか浮世離れしたような空間でもある。この中ではガヤガヤとした会話を楽しむよりも、自分自身と向き合うほうが合うのかもしれない。
イスではなく全席にソファー。ゆったりと時間を楽しむためには、包み込まれるような優しさが欲しい、ということで広い店内ではあるが、席数も多すぎるわけでもなく余裕のある動線。深い深い森の中。鳥の声も聞こえてきそうなほどに静謐な空間。
イメージとしては北欧。北欧において森というものは、非常に身近であり特別なものでもある。全ての源、といっても過言ではないほど密接に暮らしに根付いている。都市部にも木々や森林公園は多く、日光浴などで休日は静かに賑わう。
そんな〈ヴァルト〉の新人ウェイターでもあるウルスラ・アウアースバルトにとって、こういった穏やかな場所は精神的にも助かる。
「私もまだここに来て日は浅いですが、なんとなくわかります。アニーがいるのといないのでは、お客さんの反応が違う気がします」
だが、ほんの少しの賑やかさ。そんなところも嫌いじゃない。むしろ好き。以前は書店で働いていたこともあるギムナジウム、つまり大学進学のための準備学生。共通する部分もある。そして口にした名前。




