240話
フランスでは六月に行われるバカロレアの試験において、文系理系問わず必ず『哲学』が試験科目になる。平和は正義なのか。芸術というものは我々になにを伝えているのか、など。そのため日々の授業では議論など、そういったことを考えるような内容が多い。
今、ここはフランスのパリ。それを踏まえているのか、シシーはその流儀に倣うように言葉を選ぶ。
「まぁ、人それぞれであるんだろうけど、だいたいはそんな感じなんだろう。だけどね、俺は少し違うんだ。一番しっくりとくる表現はそうだね……パウロ・コエーリョという哲学者を知っているかい?」
もちろんアニーの答えは決まっている。
「いや、知らないっス」
哲学者、と最初に言われていなければサッカー選手か、それともここの場所からして音楽家か。そう答えていただろう。直感は大事。
一点の曇りもない否定。だがシシーにはそれが美しく聞こえる。
「彼の言葉に『愛とは未開の力。コントロールなどできない。破壊されるだけ。愛が我々を奴隷にする』というものがあってね」
「破壊?」
なにやら怖いワードが。紅茶を飲んでいたいだけの人生を送るアニーには、一生縁が無さそうな。最近破壊したもの。未遂だが、留学前に〈ヴァルト〉でテーブルウェアを割りそうになってオリバーに叱責されたような。と余計なことを思い出す。
そしてその名言を、シシーはしっかりと自分なりに消化できる大きさに咀嚼した。
「そう。愛の前では我々など、ただその大きな水の流れの中に落ちた枯葉のような存在でしかないんだ。抵抗しよう、なんて考えないほうがいいんだ。素敵だよね」
そう宣言すると、ピアノを奏で始める。優しく、だがそれでいて情熱的でもあるような曲。感情の昂り。ロマンティック。そんな印象を与えるような。
温かい光の中を揺蕩う。ゆったりと。それでいて切なく。緩急のついた音の粒子。紡ぎ出す指はしなやかで。その音色は二人以外いないホールで反響する。




