9.断定されし葛藤
西川がこの後に来る、母さんも同席するらしい。一体どんな話し合いになるのか、気になってしょうがない。西川はもうこちらに向かっている。
僕たちはリビングで待つだけだった。
しばらくしてインターホンが鳴る、どうやら彼女が来たようだ。
彼女を僕たち親子の対面に座らせた。
「それじゃあ、始めようか」
西川は言った。母親は首を下げている。
「この家にもう二度と来ないんじゃなかったんだ」
場を和ませる必要がある。
「お母さんにはそう言われたけれど、事情が変わったの。現にあなたのお母さんは、否定していないでしょう」
僕は横を眺めた。母さんは無関心を装う。
「私、君と完全に決着をつけに来たんだよ。
終わりに近づくために。だから今日ここに来たの」
西川は何かはりきっている。
僕は何も質問しなかった。
「今日を記念すべき日にするために」
ハワンの鳥籠は、テーブルの横に置かれている。落ち着かない目をあちらこちらに向け、心情を読まれないようにしているようだ。
「西川たちが何をしたいのか僕には全く分からない」
「もう少し待ってね」
母さんは立ち上がり、カーテンを開けた。
眩しい太陽が斜めに差し込み、陽光の尖った 先端が僕の後ろを掠め、左右に動いた。
穏やかな朝に違いなかったのだ。
「僕たちはいよいよ目を向ける時を迎えたってことだ」
西川はきずみの写真を取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「お母さんには聞いたと思うけど、私は毎週ここにお花を置きに行っているの。死んだ人の餞として。でも、本当に生けるべきなのは花じゃないってことも理解している。でも、そのことを君が知るのはもう少し先になるだろうけれど」
きずみは笑っていた、まだ小学生くらいの時だ。ここまで成長した姿のきずみを見たのは初めてだった。
この時点で僕の記憶と食い違っているのは、明らかだった。
「西川は、僕たち家族とハワンのことをどう結びつけている?」
彼女は耳にかかる髪を退けて、そのまま手を硬直させた。もじもじしていた、だが、迷っているという感じではなかった。
「この言い方が正しいのかどうかわからないけど、復讐なのかもしれない」
彼女は困った笑顔を差し込んだ。断定するにはあまりに人が良すぎる、僕に何かを質問しているように思えた。
「僕たちを恨んでいるってこと?」
西川は肩を震わし、丸くまとまった後、手を膝の上に置いた。
「いや、そんなんじゃない。なんて表現したらいいのか、分からなくて」
西川のことが可哀想になってきた。
「はっきり言っていいんだ。僕たちもそれを望んでいる」
西川はハワンを眺めた。
「今日、私たちが抱いた葛藤に決着をつけに来たの。お母さんに用意してもらったものもあるし。準備はもう整ってる」
西川は席を立ち、リビングの外に出た。やがて大きな揺籠を持って帰ってきた。
それを鳥籠の横に配置し、席に戻った。
「私がきずみちゃんのお墓に花を植えたことによって、あなたとの決定的な価値観の違いを生み出した。君は、きずみちゃん含め追い抜きの人に対する関心を全力で沈めてきた。そのために人とのつながりを絶ち、部屋に引きこもるようにした。そうじゃないのかな?」
ハワンとの距離は縮まるのみ、さすがは運命共同体だ。
「そうだよ。あたりだよ。いつか誰かになんとかしてもらおうと思っていた。逃げ続けてきた。僕は怠惰だった」
西川は首を振った。彼女は全力で僕の存在意義を主張しようとしていた。
「そんなことはない。本当は心からお礼を言いたいぐらいなの。君は逃げようとしたんじゃない。ましてや怠け者なんかではない」
僕は小さく縮まるしかなかった。
「みんなを恨む時はなかった。私は幸せだった」
西川に幸せなんて言葉は似合わない。
「自分に納得する方法なんてなかった。だから、君に近づいたの。こうなることを予想して。そして、ひどいことをしにきた」
湿度が上がる、部屋の中は蒸し暑い、密閉された空間に腐った果実がなる。
「酷いことって?」
「君は、ハワンをこのまま置いておくわけにはいかないと言った。私もそう思う」
僕は鳥籠を見つめた。
「だから、この葛藤を確実なものにしに来た」
母さんを眺めると、ハンカチで口を覆っていた。
目が充血している、とてつもない苦痛に耐えていた。
「名前は、文月にしようね」
西川もすでに泣いていたようだ、言葉に軋みが生じている。
「でもどうやって?」
僕は西川に尋ねた。
「君はきっと許してくれるはず。だって私を助けてくれたから。あの時、もう一度ここに引き戻してくれたから。ずっと気にかけてくれていたから。どうしても、生まれてきて欲しかった、私の大切な小さな足を」
赤ん坊を抱き抱える、小さな僕がいた。
僕はまだまだ幼かった。
「私のこと、覚えてる?」
目の前にいたのは確かに西川だった。
でも、初対面の人物でもあった、彼女は、誰なんだろう……。
溢れてくる思い出、吹き出る涙。
記憶の境に残る、小さな生命。
現れた小さな妖精は、その温かな記憶の中にいた。囲まれたハワンは、確かな産声をあげ僕の心の中にいた。
西川は鳥籠の外に出た妖精を抱き抱えていた。
僕にはもうなす術がなかった。
ゆりかごに小さな生命が落ちる。
温かな声と共に、確かな希望を乗せて……。
文月と言っただろうか……。
僕はゆりかごを上から眺めた。小さな赤ん坊は僕のことを確かな目線で覗いていた。
成就した葛藤、願い……。
誕生した新たなる追い抜きの人。
僕たちの最初の子供となる文月がそこにいたのだ。
「やっぱり、きずみって妹は西川さんだったんだ」
「経緯は分からないけど、そうらしい。でも薄々気がついてはいた」
「私にはそこまで教えてくれなかったから」
丸い広場の噴水は射出口から重力に逆らい、水の傘を作っていた。
「僕はこれからどうしていけばいいか分からないんだ。赤ちゃんができた、しかも追い抜きの人の。まさかこんなことになるだなんて、いや、最初から気がついていたのかもしれない」
東原は缶詰を自分の傍に置いていた。
公園の境目は茶色く変わる葉っぱの線だ。
「西川さんは、きっといろいろなことで悩んでいたんだと思う。けど決心した。あんたのためにね」
僕は落ちてくる薄茶色の葉を手で掬う。
「そうなんだろうね」
東原はベンチに置いた左手を包んでくれた。
冷え冷えとした日が続いている。暑い日の隙間に儚い瞬間を挟む自然を恨まずにはいられなかった。
今日はやけにセンチメンタルだ、向かうべき行先が全く見えない。
「西川は高校卒業して働くんだって」
「もう十月だもんね」
東原は羊雲を睨んでいた。
文月が生まれてから、この数日間様々な手続きを踏んだ。慣れないことを繰り返すのは骨が折れる作業である。僕も西川も母さんも皆、疲弊している。それでも活動する力を与えてくれるのは、文月の他なにもない。
「あんたの将来はどうするの?」
東原はゴムを使って、後ろの髪を縛った。
風で靡いた髪は単純な作業をも拒絶するようだ、うまく結べていない。
「誠に身勝手だけど、大学に進学させてもらう。僕は働くって言ったんだ。でも母さんも西川も反対している。僕には安定した仕事についてほしいそうだ」
僕は東原の横顔を眺める。髪が右に煽られた。 先程のゴムが飛び、艶やかな髪の毛が反対の方向に弾かれた。
「まあ、それが無難な選択じゃないの?私も大学進むことにしたから。お父さんもお母さんもそれで賛成してくれてる」
僕は東原の首筋を慎重に眺めた。
「君の両親はとても優しいの? いつも一緒にいる?」
東原は僕の視線を奪いにきた。輝いた瞳で、僕の関心をその中に誘ったのだ。
「もっとも私のお母さんは血繋がってないんだけど。昔、死んじゃったから」
東原の目は澄み切っていた。心の中まで見通せるほどに、どこまでも清く輝いていた。
だが、一瞬揺れた雫がうごめいた。
眼球を滑り目の端に行き着くと、綺麗な粒となって落ちた。
「なんか、埃入ったみたい」
彼女は前を向き、目をこする。
「僕は西川との距離をもっと考えてみることにするよ。やれることはすべてやる。色々戦ってみるよ」
東原は両腕を天に上げ、体を伸ばした。
今日は全身で空気を感じるのにちょうど良い気候だ。
「まあ、頑張んなよ。私も自分のやれること全部やるから。そうだ、大学どこ目指すの?」
「地元の大学だよ」
「てことは、なんだかんだ言って勉強やってきたんだ」
東原が僕の左肩を突いたので、指の感触が残る一点を手で払い除けた。
「触られて嫌なわけ? なんか感じ悪い」
風が吹き、東原の顔は赤く染まった。
「全然そんなことはないよ。ただなんとなく気持ちが悪くて。もちろん自分にね」
東原は缶詰を両手で持ち、鼻を表面にあてていた。
「私もその大学目指してんだよね。また一緒になれるといいね」
缶の蓋を開け、ようじをポッケから取り出して突いて食べる。
「それじゃあきっと一緒になるね。楽しみだ」
僕は噴水を眺めた。水の向きが変わり、飛沫が頬に散る。
東原が食べる缶の中身からみかんの香りがした。
「バイトも結構頑張んないと、全部家族に任せっきりってわけにもいかないし、本当は僕たちでなんかしないといけない問題だから」
東原の頬が膨らんだ、どうやら具材をかき回しているようだ。
「お互い頑張ろうな」
顔の形が自然と変わる。西川の前でこんなに表情を露わにしたことはない、東原の前でなら正直でいられるのだ。
東原は缶詰を置いて僕を見た後、口を抑えた。
「それじゃあね、また今度会おう」
「じゃあ、また今度」
彼女はベンチから離れ、公園から立ち退いた。
僕はしばらく噴水を眺めていた。
ついでに周りの様子も確認する。
いろいろな人がいた。
皆それぞれ自分の主体性を持って生きている。
チラチラと僕の目と合う視線、しかし今は全く気にならない。東原と話をして、心の中にある黒い塊が溶解したからだろう。
東原の温かい溶液が、冷たい水溶液に溜まる沈澱を溶かしたのだろう。
腕を軽く触った、甘い感触がまだ残っている。
頬を赤く染めた東原が僕の何かを指でついて、密かに笑った。僕は幸福な思い出し笑いをそっと手のひらで包み込んだ。
日記帳.5
葛藤は確かなものになった。西川のおかげだ。
本当に正しい選択だったのか、悩んだこともある。しかし、これでよかったのだ。だから、彼女と出会うことが出来た。
東原のことを好いていた。色々な悩みを相談し、スッキリすることが出来たから。でも、そこ止まりなのは確かだ。
好きという感情は誠にいいものである。僕は最初、好むという感情に対して敵対心を抱いていた。しかし、人の成就すべきものはこの好きという感情だと悟った時、受け入れる覚悟をした。
永遠に忘れない、必ず追って辿り着く、白い鳥のもとに……。