8.バトンを渡す度に
東原がホテルで言っていた内容、西川は僕に接近し、家族の仮面を剥がそうと試みていたらしい。両親が西川を嫌う前、外装のみを取り繕っていたのを知っていたのだろう。僕の家族は外に対する態度が極めてよいのだが、内に対する態度は冷え切っているのだ。
ここ1年くらい、さらにその冷淡さは加速している。
僕にも理由はわからない、年々、家族の仲が悪くなっていることしか。
東原の話を聞いても西川の企みは深く理解できない。彼女が僕を好きになり、面倒を見てやりたいと思ったからなのだろうか。自らの不幸を僕の全体的な幸福によって清めたいのだろうか。
東原と僕の接近、それを望んだのは西川らしい。これも東原から聞いた話だ、しかし、その真意はなんとなく理解できる。
西川は僕と近寄りすぎてはいけない存在なのかもしれない。
「母さん……」
リビングは薄暗い、カーテンが閉められている。電気がついているのはキッチンのみである、誰も光を灯したいとは思わない。
「何、話って」
母さんは向かいの席に座っている。両手をテーブルの上に乗せ、親指を弾いていた。
「実は、この間西川がうちに来たんだ」
母さんは上を向き神妙に目を閉じた。
「知ってる。彼女が家を出た時にばったり会ってね」
僕はキッチンの光を心の中に映し出す。
「まず、僕の話をする前に母さんに対して、いや、この家族に対して聞いておきたいことがある」
母さんは手を膝の上に戻し、体を丸めた。
僕は緊張のために生じた手にのぼる汗をズボンで拭き取る。
「何? 答えられることなら答えるから」
「どうして西川を嫌うようになったの?」
母さんは立ち上がり、キッチンの後ろに回った。やがて姿を表すと手に鳥籠を持って、こちらにやってきた。
僕は驚いてあたりを見渡す、間違いなくハワンの滞在する鳥籠だ。
「どうしてそれを?」
「私はあなたの母親なんだよ、知らないわけないでしょう」
僕は指を丸め、そのまま手のひらをほじくる。
「妖精生み出してしまったんでしょう?」
諦める他道はない……どうせ全て話すつもりだったのだから。
「そう、西川の間にね」
母親は席に座らず、立ち尽くしていた。
怒鳴られるかもしれない、泣かれるかもしれない、どちらにしても僕の立場は最悪だ。
「なんとなく察しはついていたの。でも、放っておくことしか出来なかった、無関心でいることしか出来なかった。あの時と同じように」
僕の口は塞がる、言葉が出てこない。
「西川さんは、お墓の場所を知っていたんでしょう。あの場所に花が生けられていた。それも毎週金曜日になると。もう、あの子しかいないと思った。半年ぐらい前からかな、お父さんがそのことに気がついてね、報告してきたの」
盛り上がった土、花の香り、約一年前ほどの出来事、ハワンの誕生を思い出す。
母さんはもう半年前から妖精の存在に勘付いていた。
「母さん……。お父さんは単身赴任先からいつ帰ってくるの?」
母さんは再び席についた。ため息をつく、しばらく呼吸を落ち着けて、言葉を選出していたようだ。
僕は母さんのこめかみを見つめる、もう悩みすぎておかしくなっていた。
「この事はあの人が帰ってくるまであなたに伝えるつもりはなかったの、でももう仕方がない、全て話す」
母さんは席を立ち、後ろの棚に近づいた。
そこから新聞を取り出すとテーブルに戻り、ある一つの記事を僕に見せた。
「今から半年前のデモにね、お父さん参加したの。その時、HCRの人を殴ってしまった。相手もかなり傷を負ったらしくてね。さらに事前に組織団体に脅迫文を送ったって疑いまでかかって、裁判が中々終わらないの。
お父さん逮捕されてしまったの」
電撃が脳の先から足の先へ走る、現実性の乖離、非日常的な話、信じられはずがなかった……。
「いつ帰ってくるのか、分からない」
頭が冷める。冷たくて凍りそうだ。
僕の頭は冷静であり続けた。情に任せるより分析的でいた方が効率が良い、いつしか西川が言ったセリフを思い出した。
「半年前っていったら母さんたちが西川を嫌うようになったちょうどその時だよね」
母さんは首を縦に振った。西川が関係している、もう考えるまでもなかった。
「私にとって西川さんは邪魔な存在だったの。でもお父さんの方はね、そう思わなかった」
僕は時計の音を静かに記憶の中に刻む。壁の上にある時計は、規則正しく時を刻み続ける。
「どうして、西川のことを嫌ったりしたの?」
母さんは何も答えない。
「どうして、父さんはデモなんかに行ったの?
西川との関連性はどこに?」
母さんは何も答えなかった。
「時期がきたら話す。今はまだはやい。妖精は今ここにいるんでしょう? 妖精を育てたいと思うなら、あなたが私に心を許してもらわないと、この目で確認出来ない」
「僕がいない時に勝手にどうこうすることも出来ない。妖精は西川と僕、2人にしか触れられないし物理的干渉を受けない。ハワンが受け付けたもの以外は、そうだよね?」
「その通り。昔大学生の時妖精についての研究もしたことあるから。それに講習だって受けたしね」
「それならもうハワンは母さんに見えるはず」
ハワンは籠の中にいた。いつもと変わらず、棒の上で毛繕いをしている。母さんは鳥籠を確認し、顔を曇らせた。
「綺麗な色なのね。ハワン……。あなたたちの考えていることって意外と単純なんだね」
僕は薄く笑ってみせた。母さんも心なしか穏やかな表情を見せた。
現在、夜中の4時をまわっている。母さんはもう寝なければならない、話し合いはここでお開きとなった。
今日のことでだいぶ進展したのではないかと思う。理解してくれたかどうか分からないが、穏便に済まされた。しかし聞かされた現実は残酷なものだった、父さんの逮捕、西川との関連性。気持ちは晴れ渡ることなく、くるべき時を待ち続けている、いつか必ず解放される時を願って。
「そうなんだ、親に話したんだ」
僕はまた西川と電話のやりとりをしていた。
「ああ、とりあえず西川との間に妖精を生み出してしまった事は」
僕は母さんに聞かされた真実をここで話そうか迷っていた。
「私はまだ親に言ってない。こっちはもう少し待ってほしい」
僕は神妙になったため、考えがまとまらない。
「その話をしたってことは、家族についての真実を聞かされたんじゃないの?」
こちらから話さなくとも、西川には全てお見通しのようだ。
「まあ、全てって感じではない」
「気にしないで、言われたこと全部話していいよ。全て知ってるから」
僕は受話器を少しだけ口もとから離した。
声が反響し、自分の耳に跳ね返るのを防ぐためだ。
「父さんが、半年前に逮捕されたそう。それに、西川が関係していることだとか、後半は僕の予想だけど。様子で分かるんだ」
西川は、「やっぱりね」と言った。
僕はそれ以上言葉にするものなどなかったので、あとは西川に任せることにしたのだ。
「私からも全てを話すことは出来ない。まだ時期が来ていないから。どうか、怒らないでね。悪い隠し事をしているわけじゃないの」
僕は押し黙る、口を出したりしない、それでも心はとても痛い。
「いつか必ず話をする時が来る。どうかそれまで待っていてほしいの。東原さんとの件もね」
早く電話を切ってほしい、いや、こちらから切りたい。
「だから、前より大人になったと思って、この通りだから。それに」
すでに受話器は電話機の上に置かれており、通信は遮断されていた、もう耐えられなかった。
部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
どうしてみんな隠し事をするのだろう。
周りの人全てが敵に見える、でも、本当のところは違うのかもしれない、僕が周りにとっての敵なのかもしれない。
ずっと無関心に生きてきた、疑問に思っても、自分に関係のないことだとして、調べようともしなかった。そのツケが今になってまわってきたのだ。誰にも信用されず、虐げられる存在になってしまった、これも全て自分のせいなのだ。
しかし、分かっていてもやっぱり悔しい。
本当に子供なのだと思った、自分のことがまた情けなくなった。
西川と話してから数日経ち、その間学校を休んだのだが考えはまとまらなかった。
いつものように、カバンの支度をして朝食をとりにリビングに行く。
今日はそこに母さんがいた、仕事に行ってなかった。
「今日は体調大丈夫なの?」
僕は用意された食事を摂る。
「お母さん、あなたにとやかく言える立場じゃないから。でも、色々なことに後悔しないでほしい。もう覚悟をしていたし、ハワンだって、どうにかなるから」
僕は食事の手を止めた。母さんのことを影だと思うしかなかった。
「僕はきっと、これからずっと静かに生きていくんだ。もう怒ったりしない。ハワンのことだって、謝るつもりはないから。謝ったら、存在を否定することになるし。みんなお互い様だから」
母さんは僕の対面に座る。顔色を伺っていた、まるで腫れ物扱いをするように。
もう腹も立たない、なぜなら満たされないからだ、あるのは失望感のみ。
「お母さん、今日お仕事休むことにしたから」
「いいから行きなよ。僕も学校行くんだし」
「いいえ、あなたは今日学校には行かない」
「もうそろそろ出席日数が危ない。踏み切らないといけないんだ」
「今はそんなこと考えなくていい。私、さっき電話しといたから」
全てが勝手だ。また、僕の邪魔をしようというのか、無関心でいることの邪魔を……。
「今日、この家に西川さんを呼んだから」
いい加減腹が立つ、あいつになんて会いたくない、正確に言えば誰にも会いたくない。
「彼女も今日学校休んでくるから」
僕は卵の黄身を眺めた。突き刺した穴から、とめどなく出てくる黄色い液体、今日は一段と気持ち悪い。
「いいよ、母さんがそういうならそうするよ」
むしゃくしゃする、頭にくる、それでも僕は大人になったんだ。
「みんなバトンを渡す時はこんな感じなんだと思う」
母さんは遠くを眺めている。立ち上る湯気を気にもとめない、お湯が沸いている、コーヒーは、注がれない。
「私もね、あなたにバトンを渡す時が来たんだと思う。もう無関心ではいられない。いよいよ大空に羽ばたく時が来たってこと」
受け継がれていく心、母さんは瞳に光を宿していた。覚悟のできた人間になった。
日記帳.4
バトンは渡された、後はそれを次世代に送るだけだ。 母さんの言っていたことは、冷静な頭を持ちあせた今なら理解できる。僕も同じことをしてみたいと思った。
思えば、家族にも多大な迷惑をかけてきたと思う。僕は、自分に向けられた関心の全てをイメージだけで跳ね除けていたのだろう。後悔していることもたくさんある。でも、もう遅いのだ。未来に繋げていくことしかできないのだから。
確かに骨はどこか暗い穴倉の中に押し込まれて、埋められてしまうかもしれない。それでも、思いを繋ぎ、忘れないことで少しでもその人は僕の中で生き続けるのだ。西川もそんな思いで「双方の葛藤」を生み出したのだ。
僕は大切な人を過ぎ去った人にしない。僕を愛してくれる人は確かにここにいるのだから。
引導を次につなげる。そのためにこれから努力していくのだ。
きっと届くだろう、足跡を残さない綺麗な白い鳥に、、、。