7.成立する葛藤
「余計なことをするもんじゃないよ」
僕は頭を強く叩かれた。山岡先生は彼らを止めていた。西川の里親を見たのは、初めてだった。
皆何かに取り憑かれているようだった。生気はなく、ただ生きたいから生きているだけ、そんなふうに感じられたのだ。
西川への心配は一切なく、自分達の障害を排除すればそれで良い、そんな一心で僕を叩いたに過ぎなかった。
無味無感、何も感じない、傷つきもしない、悲しみもしない。
僕は西川の入院する病院に行った。彼女の話によれば一週間ほどで退院らしい。その日はちょうど真ん中の日だった。
調子を聞いてみたところ初日だけ、手足の痺れと首の痒みが残ったらしい。だが、慢性的な後遺症は免れたそうだ。脊髄にあたらず、周りの組織を傷つけただけだった。運が良かった、いや悪かったのか。
最初西川は僕と話してくれなかった。当然だろう、怒っているに決まっている。
もう一生会わないと言われても致し方がないくらいだ。可愛い女の子に傷をつけた、許してもらえないのは当然だ。
部屋は沈黙を讃える、もうすぐ夕方だ。僕たちがこうして悩み合うのは、いつも夕方なのだ。
彼女は窓の外を覗いている。笑顔はない、死人のような顔をしていた。
僕は、ベッドの横で立ったまま下を向いていた。かける言葉など到底見つからない。地獄のような時間だった。でも全て僕のせいなのだ。
「君は、私の体を傷つけたこと反省してる?」
鋭い言葉が胸に突き刺さる。しかし、口のほうは全く動かない。
「私はね、全然怒っていないの。もとを辿れば、余計なことを言ってしまったのは私だし」
こちらを見た西川の目は充血していた。
「でもね、気づいてほしかった。幸せになってほしかった。それだけなの」
僕は、ベッドの端を見た。目線を合わせられない。
「みんなと繋がって生きてほしいな。寂しそうに一人でいないで。そうすれば、もっと明るく、いろんなものを見て生きていけるのに」
西川は布団を押し退け、足を出した。
そのまま上体を起こし、座る。
「お節介か……。そうだよね、お節介だよね。ごめんね」
彼女は微かに笑った。しかし、奥行きに存在する悲しみはいっそう広がるのみだった。
「私ね、さっき寝ていた時に心の底から声が聞こえてきたの。誰のかはわからない。でも、確かに聞こえたんだ。私、おかしなことを言ってるね、いいんだ、忘れて今の」
体育倉庫での一件を思い出す。僕もそこで、誰かの声を聞いた。
おそらく心の中に生じた矛盾の声だった、つまり葛藤の声だったんだ。
「俺も声が聞こえた。気のせいなんかじゃないよ。俺たちはきっとお互いのことが大好きだったんだ」
僕は西川に視線を注ぐ、今度は絶対に逃げない。
「それが葛藤なのかもしれない」
西川は髪を丸めて横に流す。
「私、ずっと言いたいことがあったの」
ベッドから立ち上がった彼女の足取りはふらふらしている。
「今しかもう言えない、本当に伝えたいと」
西川は転んだ。医療器具が弾き飛ばされ、遠くに散らばる。
僕の手を取り、強く握った。
「私、君のことが大好きなの。本当に心の底から。だから、あんなひどいこと言ってしまったの」
「俺が現実から逃げて君を殴ったんだ。ひどくなんかないさ」
「いいえ、ひどいことをした。でも、これからもっとひどいことをする」
「立場が逆転しているな」
「もっと逆転するの」
床に倒れ込む西川の体を支えた。
「あまり食べてなくて、栄養失調気味かな。こうなる前からよく病院にもきてたし、入院したことだってある」
ドアの先から足音が聞こえる。おそらく看護師だろうと思い、入り口を眺める。
扉は開閉された、やはりそうだった。
「大丈夫ですか?」
西川は静かにベッドへ戻る。
看護師は僕らに注意した。
「あまり刺激のないように」
それからさらに言葉を付け足す。
「ご両親が来られていますが」
僕は焦りを覚えた。今彼らと鉢合わせたら大変だ、急いで逃げなければ。
「じゃあ、俺行くから」
振り返って、ドアのもとに急ぐ。西川は止めなかった、しかし、最後に一言添えた。
「お墓のとこ、必ず行くから、もう明日から8月だしね」
耳の奥に虫の鳴き声が響き渡る。情景を全て思い出した。そうだ今は夏だ、僕の大切な何かが芽生えた時。
思い出は遠のき、視界が歪む。脳に違和感を覚える。
早々に足を動かし、病室を後にする。
受付口を通過する時には、また生気のないあの2人を目撃することになったのだ。
お墓のとこ、行くから……西川は最後にそう言った。多分、わざとあのタイミングで口に出したのだと思う。両親のくる手前、僕を話し相手に付き合わせたのだろう。鉢合わせをする直前で、聞き返すことができないように。
電話をしてきたのは、そのためだったのだ。
だから、会いたいなどと言ってきたのだ。
僕はベッドの上で頷いた。真っ暗な部屋、今日もここに居座ることを表明して。
明日もまた学校に行く必要などない、僕は停学中なのだから。行きたいという気持ちも起きないのだ、逆に都合が良い、人と繋がったって碌なことはないのだから。
電話が鳴った。親が不在のため、僕が受話器を取った。
山岡先生からだ。
「調子はどうだい?」
「まあまあですよ。一応勉強はやっています。
ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
「元気なら良かったよ。学校から通達はきているかい?」
「あ、はい、。再来週からまた登校しても良いと」
「そうそう。良かったね」
僕は電話越しに頷いた。
「そうだ、文化祭の話し誰かから聞いてる?」
山岡先生の声が濁ったため、神妙な話に移行することが予想できた。
僕が黙って時間を譲ったため、山岡先生は説明を始めた。
「僕たちのクラス出し物やらなかったんだ」
僕は驚いて、受話器に宿した握力を解いてしまう。受話器は指の間を落下したが、親指と中指で支えられた。
僕は慌てて体勢を立て直す。
「劇やることにしたじゃないか、それで問題が発生してね。リハーサルの時点でやめることにしたんだよ」
僕は電話機を顔に寄せ、番号を手でつついた。
「山岡先生、やっぱりあの問題大きくなってしまったんですね」
僕の手は汗で湿っていた。
「西洋の妖精に関する劇だったんだけど、本番に用意されていた台本を読んで、嫌な予感はしてたんだ。その後、具体的な配役を提示してもらった時、確信したよ」
「やっぱり、ネットツールで上がってた通りになったと」
「そう。西の妖精が東原になっていたんだ」
「陰謀論って怖いですね、本当にそうなってしまうなんて」
「いじめの一種、しかも東原が追い抜きの人だってこと、みんなにバレてるってことだしね。
計画的でもあった、直前のリハーサルでは、単純な劇だったものが、いつの間にか世の中に対するメッセージ的な抗議になっていた。みんな、神経質になっているんだよ。東原が傷ついてないといいが」
「そうですね……」
先生は一瞬言葉の連続性を絶った。
その後、何か決心したように整頓されたメッセージを伝える。
「早く学校に来いよ、待ってるから」
電話は突然にして切れた。山岡先生も複雑なのだろう、みんな心の中では他人と繋がりたくないと思っているに違いないのだから。
今日は深夜になるまでずっと課題をこなしていた。そろそろ大学受験も視野に入れなくてはならない、溜まった課題を消化せねばならないのだ。
ペンは左右に揺れる。眠気に襲われ、あくびをした。椅子を後ろに回し、立ち上がった時、階下で電話のなる音がした。僕は駆け足で受話器にコンタクトを取る。
電話の相手は西川だった。
「私、やっぱりお墓に行くことにしたの」
訳のわからないことを口走るので心配になった。
「お墓って、誰の?」
黒い予感が胸の内からのぼる。
「あなたの家族の」
僕は昼間見た西川の顔を思い出していた。
悲しみの奥に広がる疎外感、その背景には……突如、手と足に痺れが生じる、全てに合点がいった。
「君はまさか、あの場所を知っているのか?」
電話越しに聞こえる人の音……雑多の中に身を投じながら話しているようだ。
「知っている。前に聞いたことがあるから」
僕は勢いよく立ち上がった、電話機が床に落ちる。
「やめろ、行くんじゃない。行けばどうなるかってこと、君ならわかるだろう」
自分の声が壁にこだまする。閉塞感を感じた。
「西川、君がそこに行くってことは、俺たちの間に生じた葛藤を具現化することに繋がる」
西川は弾んだ息を電話越しに伝える、焦っているのだ。
「言ったじゃない、もっとひどいことをするって」
「どうしてそこまで。君には全く関係のないことだ」
「弟さん、それとも妹さんだったの?」
「君には関係ない」
「もう遅い。どっちだったのか答えて」
頭が痛い、どうしてこうなったのだろう。
「妹だよ、きずみという名前だった。だけど、もうみんな忘れたんだ。あいつのことはみんな忘れたんだ、ほっといてやってくれ。お前には関係のないことなんだから、頼むよ」
僕は受話器を投げ捨てた。膝をついて祈祷する、天に向かってお願いをした。どうか思いとどまってくれないかと。
出かける準備をしながら、僕は様々なものを下に落とした。近くのものをかいつまんで、ポケットに突っ込むと、すぐさま玄関をくぐり抜けた。
駅まで走った。まもなく終電だ、電車に乗らなければもう終わりだ。
駅には最後の電車が到着する。僕はそれに乗って、2つ先の駅まで向かった。
その後も終始走り続ける。コンビニを通過すると、路地裏前に駆け込む。路地を見渡しながら、壁に手をついて、足を動かす。
奥で声が聞こえた。
手をもって暗闇をかき分けた先には、地面に座り込む西川の姿があった。
「西川?」
彼女は振り向かない、塀の下に手を伸ばし、作業をしていた。
再び声をかけても返事はない、僕はさらに近づいて上から圧力をかける。
彼女はやっと振り向いた。
西川の顔はふやけきっていた、さんざん涙を流したのだろう。
「西川、ここにいたのか」
しらじらしい、全て分かっていたくせに。
「西川、病院に帰るんだ今すぐ」
彼女は体で何かを覆い隠している。
「西川?」
彼女は横に転がった、手足に力がはいらないようだ。
僕は彼女の下にあったものを目撃しようとする。
あらかた検討はついていた、それでも怖くて怖くて仕方なかった。理解した瞬間、日常が崩壊する感覚、身に覚えのない罪悪感が緊張の先に火をつける。
土が盛り上がっていた。僕は、西川の隣にしゃがみ込んだ。
「これ、あいつの好きだった花じゃないか……」
信じたくなかったのだ、それでも手のひらは自然と花を抱擁していた。
僕は顔を固定した。気持ちの全ては凍りついていた、もう何も思うまいとした。
手を閉じた、温もりを感じた、もやもやと何かが動いている。
顔を横に向ける、西川の涙は鼻の上を通り地面に流れていた。
もう一度手の力をいれる、体で覆い隠した。
真っ白だった。でも、全く冷淡ではない、不幸の印ではない、災難の始まりなんかでは到底ない。生き物は僕を見つめていた、小さな小さな目を懸命に振るっていた。
もう先程の罪悪感なども存在しない、ただ愛しさが全身を包みこむのみだった。
生まれたのだ、一つの生命が、一人の妖精が、僕たちの全てが、ここに初めて生命を宿したのだった。
全く儚い、儚くて遠くにいってしまう何者かが。
日記帳.3
あまり大きな声で言うことはできない、怒られてしまうから。だから、ここにこっそり記載しようと思うのだ。
ハワンの誕生は、ドラマチックなものだったと思う。もちろん後になって大変なことも色々あった。バレないようにしたり、面倒を見たり。
妖精は、愛されていないことを知ると、イバラの呪いをかけてくるのだ。実態はよく分かっていない。将来に大きく関わるということは、分かっているのだが。
僕も西川もハワンの存在を消そうと試みた時は何度もある。しかし、ハワンは様々な姿に変わり、僕たちの心を動かした。時には、ポケットの聖域から離れ、日常生活に干渉してくる時もあった。バレるのではないか、、、。ヒヤヒヤした回数は数え切れない。
大切なことを教えてもらった回数も数え切れない。どんな姿に変身しようが、愛しくてたまらなかった。
西川は、朗読によって妖精を消し去ろうとした時があった。直前まで、僕自身迷っていたのだ。でも、ハワンを成仏させることはできなかった。
今この話を周りの人間にすると、非常に怒られる。皆、神経質になっているのだ。
だから、この日記帳も見せることはないだろう。
遠くに旅をする、愛しい鳥以外には。