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過ぎ去る妖精に生けた足を餞に  作者: はしかわ 月
6/19

6.完全となる葛藤




「私、あんたに言いたいことすべて伝えたから。西川大事にしてやんな」



 彼女はそう言って寝てしまった。

 僕は部屋の中でつい昨日のことを思い出す。

 東原は西川の全てを知っていた。それを僕に話してくれたのだ。やっぱりなと思ったのだ、やはり西川は本当に優しくて、強い人間なんだと思った。僕なんかでは到底釣り合わない。

 目を軽く閉じた。光をいく筋か通す瞼を介し   て、過去にあった一連の出来事を思い出す。

 ハワンの誕生、僕たちの始まりである。





「ねえねえ、これすごくいいと思わない」



 西川は切り取ったダンボールを差し出して、線をなぞりながら言った。



「綺麗に切れたな」



 西川はエクボを讃えながら、微笑を漏らした。



「当日までには間に合わせないとね」



文化祭は1週間後に開催される。僕たちのクラスは劇をやることにした。今は機材作りに励んでいる。



「間に合うさ。今は念入りに作業をしよう」



教室には誰もいない。机や椅子を後方に移動して、作業スペースを拵えていた。機材班は、皆用事があった。今日は僕たち2人だけで作業することになったのだ。



「西川さ、今日俺の家に来ない?」



西川は作業の手を静止させる。

僕の方を見た後、長い黒髪を後ろに追いやり耳にかけた。手をその位置で固定する。顔を斜めに向け、肘にもう片方の手をかけた後、腹に腕を押しやる。彼女が困った時の癖だ、髪をいじりながらもじもじするのだ。



「いいよ、暇だし。でも、そんなに何回もお邪魔して、両親何も言ってない?」

「大丈夫だよ。いつも楽しそうに君の話をするよ、彼らは」



西川はダンボールを抑える僕の手に優しい同部分を重ねる。



「ねえ、この間言っていたもう一人の家族の話なんだけど、弟さんそれとも妹さんだったの?」



僕は腹に立ち込める積乱雲を感じた。雨が降りそうだ、それも台風のような激しい雨が。



「いや、俺はよく知らないよ。そんな人がいたのは知っているけれど、詳しく覚えてない。

もう俺の中では、死んだ人だから」



 西川は全く手を止めて、僕の瞳に目線を合わせる。



「君の家族はみんなとてもいい人なんだけど、その子に対してはとても冷たいよね。私そこだけがとにかく寂しい。私の家族も小さな頃私を捨ててどこかに行ってしまったから。でも、その人たちのことを絶対忘れないようにしているの。かけがえのない人たちだから」



僕は憎悪の目を向けた。



「きずみは死んだんだよ。墓だってある。死んだ場所だって分かってるんだ。でももう俺には関係のないことなんだよ」



西川は窓際まで歩き、夕焼けの淡い雲の筋を覗いていた。



「私、追い抜きの人に関するデモに参加しているの。差別されているらしい。知り合いにも、一人いるんだ。大切な人たちを追い抜かして、過ぎ去った人物になってしまう。そんなことを言う人たちがいるの。でも、私はそう思わない。その考えが、差別を生み出すと思っているから」



西川は窓を開けた。焼き焦げた地面の香りが漂い、蝉の鳴き声が微かに聞こえた。



「それで、お前は何を言いたいんだ?」



僕の機嫌はすこぶる悪い。嫌なことを思い出してしまったからだ。



「死んでしまったら、その人はもう過ぎていった人になっちゃうの?人の心や魂の中に、留まっているものは本当にないの?覚えていたいことだとか、忘れちゃならないことだとかそんなものはないの?人は死んでしまったらもう心の中に滞在することはないってことなのかな」

「何が言いたい」

「あなたの家族は、思いやりの気持ちがないんじゃないかと思う。会うたびに思う、みんな仮面をかぶっているんじゃないかって。そうして何か、心の中にあるものを先へ先へ流そうとしているんじゃないかって。でも、私にはわかる。みんな過去と未来の境界を彷徨っているに過ぎないって。そこで、迷っているに過ぎないって。あなたの家族はそれをまるっきり自覚していない」



僕は激しく立ち上がり、西川のもとに詰め寄った。強く視線を合わし、怒号の混じった醜いものを喉の奥から押し出した。



「何が言いたいんだ。俺たちが冷たい奴らだとでも言いたいのか?所詮は他人のお前が、何がわかると言うんだ。たかが、少し苦労をしたくらいのお前が、優しさを人に押し付けて、自分の方が優位に立っていると思っている。

背伸びするのも大概にしたほうがいい。

俺たちの問題に首を挟むな」



西川の体温を感じる、彼女は何かにのぼせていた。



「罪悪感を感じていないのなら、熱くなる必要ないじゃない。痛いところをつかれて、ひもじい自分にイライラしている。あなたたちみんな子供なだけじゃない」



怒りは氷結され、冷たい劣情が胸の内から上ってきた。熱い感情の塊は脳の先端まで詰め寄り、理性をなくした。人間ですらなくなる瞬間だった。教室に乾いた音が鳴り響く。自分でない化け物が一連の事件を引き起こしたと思った。

西川は横に跳ね上がり、そのまま床に倒れ込んで肘をついた。

 僕は今、女の子を殴りつけたのだ。謝罪の念が沸き起こる。だが、表出しようとする罪悪感は、別の何かに押さえつけられる。そうだ、優越感だ……西川よりも優位な立場に立っている。彼女を殴りつけたのは、食事をして歯ブラシをするほど 当然の摂理。そんな子供じみた理屈が優越感という名を借りて僕の胸に居座っていたのだ。西川は倒れている、力なくだらりと腕を伸ばしている。そういえば、鈍い音が聞こえたな。僕は口もとをかすかに開けた。笑っているのか……人を殴って笑っているのか……喜んでいるのか。

 喉から乾いた空気が持ち上がる。気管から悲鳴が聞こえる。このくすぐったい感覚、そうだ、昨日テレビを見ていた時とおんなじだ。暴力とエンターテイメント、全くもって釣り合う2つ。だが、頭の中では冷静さが侵略を始めていた。神経の痺れが両手を伝い、空気に振動を与える。

 西川は起き上がらない。首を強く打ったんだ……。

 僕は跪き、誰かの声を聞いた。先生を呼んでいるんだ……。僕は両目を手で覆った。腹は確かに振動を続けていた。



「保健室へ。お前はこっちに来るんだ今すぐに」



担任の山岡先生の声。気が遠くなるのを感じた。気絶に近い、だが遥かに遠い何か。

手を引っ張られ、倉庫に入れられる。

頬を強く叩かれた拍子に尻餅をつく。

 そうだ、僕は人を深く傷つけたんだ、、、

 やっと得られた自覚は体育倉庫の隅に佇み、僕を心から軽蔑していた。





 冷静になるまでしばらくかかった。

山岡先生の言うことは耳にはいらない。

迫り上がるさまざまな思い、そのなかにすまなかったという言葉はなかった。

山岡先生は僕の頭を軽く叩いた。



「聞いているのか?」



僕は跳び箱の方に視線をやる。



「お前は、西川に暴力を振るったんだ。僕はこの目で見ていた。ちょうど教室に入りかけていた時だったんだ。先に入った山川が僕を呼んだ。現場はもうすでに見えていた」



 そのまま下に目線を移す。



「西川が俺のことを馬鹿にしたんだ」



山岡先生はどうやら僕に近づいたようだ。



「廊下に聞こえていたよ、お前たちの声が。

確かに西川は君に何か文句を言っていた」

「それなら俺がビンタした理由分かるでしょう?」

「理由なら明白だな。でも、理由がそんなに大切なのか?」

「動機ですよ。暴力を振るった動機。俺が責任を逃れるのに唯一使える言い訳ですよ」



声が萎れる。もうどうでもよくなった、どうなろうが、知ったことではない。



「君は、自分の何をかけた? なんの覚悟を決めて、こんな行為をしたんだ?」



 頬が疼くことから、山岡先生も暴力を振るったことは明白だ。



「先生、教師が生徒に暴力を振るっていいんですか? 問題になっても知りませんよ。教師続けていくの無理ですよ。あなたも同じ土俵に立ってしまったのだから」



僕は前を見た。先生は腕を組み、足下を眺めていた。



「先生も、君と同じ土俵に立った。でも、君とは大きく違う」

「世の中は結果が大切でしょう。土俵に立った、それだけが重要でしょう」



先生は携帯を取り出し、しばらくいじったものを僕に見せた。女の子の写真だ、それもまだ幼い。



「娘だよ。僕の大切な家族だよ」



 僕は携帯を払い除けた。



「だから何ですか」



先生は携帯をもとに戻した。



「結果が大切。確かに結果は大切さ。でも、結果は僕たちの手前を通り過ぎていく。そして、止まる。僕たちはまたその結果を追い抜かし、

次の結果を求める。そのために今までの過程を眺める。僕は君と同じ土俵に立ったことを思い出すが、後悔はしない。僕は次にその過程を活かせる自信があるから。君が土俵に立った覚悟と、僕が土俵に立った覚悟、君は、なんとなくで立ったんだ、でも僕は違う、命をかけて立ったのさ。だから次に後悔を残さない、例え同じ結果でもだ」



先生は静かな声を打ち破り、激しい何かを押し出していた。



「僕はね、この写真を思い浮かべながら君を殴った」



僕は壁に背中をつく、何かから逃げたい、そう思ったからだ。



「僕には大切な家族がいる。仕事を辞めさせられれば、家族は路頭に迷う。僕は命を賭して、家族を失う覚悟を、君のために振り絞ったんだよ。でも、君は一瞬の感情のために西川を殴った。結果は同じさ、でも君は必ず後悔する。後悔して次に進む覚悟を無くすんだ」



僕は冷たい涙を流した。悔しかった、情けなかった。まだ素直な気持ちが残っていた。今はなんとかそれに縋りつこうとした。僕は言葉を切らした。なかなか言いたいことが言えない。



「俺は家族のために西川を殴ったんじゃなかった。先の方で佇む自分を殺したかったから殴ったんだ」



僕は立つ気力を失い、座り込んだ。もう行くところまで行ってしまったのだ、恥ずかしくもない。先生は、僕の頭を撫でた。彼の手から体温を感じた、まさしく人間の体温を。



「文化祭は3日後だね。でも君は停学処分になるかもしれない。なんとか向こうの親御さんとは話をつけて、大事にならないようにする。後遺症なども残らないことを祈ろう。警察沙汰にもならないようにな」



僕はぽっかり空いた心の穴を眺めた。僕は人間じゃなかったのだ、怪物だったのだ。



「分かりました。すみませんでした」

「西川にも謝れよ」



心の中で何かが生まれる。決して埋まらない 相手との距離感。西川がいる。心の中の西川は 僕に手を伸ばす。でも、届かない。なぜだろう……手を伸ばそうとしても決して伸びない。



「君の家族は冷たいね……」



頭の中に先程の言葉がこだました。そうか、手を伸ばしたくないんだ……。僕はいじけていたるんだ、だから、寄り添ってくれる人間を見捨てるんだ。でも、彼女はいつまでも優しい。それが悔しく て悔しくてたまらないんだ。

僕は西川に背を向けた。途端、苦しい思いが込み上げてきた。




「ねえ、私に何か言った?」




誰かの声が響く。触れられぬ暖かな声。

僕は確信した。これが葛藤なんだ……。

もうすぐ生まれる葛藤、決して誰にも届かない形をなさない葛藤。

 生まれる、そして、小さく跳ね上がる。


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