戦前風の漢文調の文章が書きたくて書きました。口語文法と文語文法が混ざっているのは仕様です。
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これは私自身に向けて書かれた、思考を潤滑たらしめる方法に関する文章であり、然も読者諸君にも捧げられた文章である。
然れどもこれを読む前に少し許り認識しておいて頂きたいことがある。この文章には確固たる科学的根拠が存在せず、極論せば個人の経験に基づく、N=1の主張だということである。で、あるからして、若し、何かにつけて論拠に裏付けられたる研究結果を求めねば安心できないとか、証拠なくして実行なしとかいう方々が今この文章を読んでいるならば、以後この内容に期待するのは誤りであると言わざるを得ない。
逆に、単なる一人間の意見を参照したいという方々にとっては、この文章は非常に適したるものであろう。
では、本論に移ろう。
夫れ理性人間として人生を送る為には思考という作業が必要不可欠である。苟も思考せずに生きんとすれば、生物たるホモ・サピエンスとしての生活は可能なろうとも、高度なる知能を最大限活用して理性人間として生きるは殆んど不可能となって了う。これは極めて勿体ないことであり、殊に情報社会化が進み、人工知能の著しい発達により人類独自の創造性を求められる現代社会に於いては尚更である。
これにより思考とは人生に於いて食事に等しく重要なる地位を占めるのであって、故に高等なる思考は人生の質をよく上げてくれる立役者と成り得る。
然しそうは言っても人間とは抑、怠惰の性質を持つ生物であって、娯楽が氾濫する現代に於いては更にその性質増長し、時間と精神力とを費やす思考という難事業には中々集中し難いものである。人類には思考を潤滑たらしめる手段が必要である。
世間に流布せられたる色々の術を試すもよし。自己流の方法を駆使するもよし。然れど現在の思考法のみでは不足ということも在るやも知れぬ。或いは如何んしてや発達したる思考は可能なるか未だ迷って居る方も在るやも知れぬ。
そこで読者諸君には、私が実践する思考方法を以下に示す文章を材料に充分吟味して、それが貴方々に適したものかを自己の責任を以て判断し、若し適合するならば大いに活用して頂きたく思う。
それが「歩行式思考法」である。厳密には歩行式思考補助法とでも呼称すべきであろうが、兎も角これはやろうと思えば現在からでもできる単純明快なる手法である。一応、故スティーヴ・ジョブズ氏も実行していた方法だというから、全く効果がない者は少ないと存ずる。
一文で述べるならば、歩行式思考法とは思考過程に支障が出ぬほどの軽い散策をして思考の質及び量を向上せしめることである。
何か熟考せねばならぬ事柄が眼前に立ちはだかるとしよう。これを解決せんと四六時中椅子に座って机上にて事を紙に書き連ねていくのは決して悪手ではないけれども、それのみでは唯だ機械的に文字を書くとなって集中力も落ち、事態の解決が遠のきかねない。ここで歩行式思考法が登場する。
その事柄を頭に浮かべ乍ら席を立ち、何分か頭が解れるまで歩き回ってみるのである。歩くのでは満足ならないなら走るもよろしい。人にも依るだろうが、五分くらい散歩すれば充分である。これにより迅速な事態の解決を見込むことが可能となる。
但し歩行を目的にしてはいけない点には注意せねばならない。歩行式思考法を飛ばし、思考を二の次にして歩くのに集中してしまうことは最も回避すべき、それでいて悪辣にも嵌まり易く設計された落し穴である。
飽く迄も歩行式思考法の核は、考えることであるからこれを常々第一に掲げて決して路肩に落とさぬよう気を配らねばならない。他の行動にも通ずる原則であるが、目的と手段を履き違えてはならないのである。
ここまで散々数行に渡って偉そうに書いてきて何なのであるが、実は歩行式思考法は漠然たる思考との相性が最もよい。正直言って数学や理学といった難解な思考や演算を求められる分野については、てんで話にならない。
逆に哲学とか新たなアイディアの発明など、一意に定まる解答が存在しない分野、創造性が必要な分野には向こう。忽ち良き発案が浮かんでくること受合いである。
最後に、歩行式思考法のある程度の科学的推論を残して拙文を終わりとしよう。
歩行により何が活潑に成るかといえば即ち心拍である。歩行によって、身体が必要とする酸素量を満足するに充分な、より多くの血液を全身に送り届けねばならなくなるからである。然し乍らその血液は筋肉組織にのみ届けられるのではない。一部は脳にも到達し、愚かにも葡萄糖しか栄養として利用できない我らの脳の細胞を満足せしめるのである。
我々人類の思考は脳にて行われ、脳細胞は酸素を用いてエネルギーを入手するのだから、歩行(何らかの運動)によって脳細胞に届けられる酸素量が増加するのは道理であろう。してみれば歩行により思考が明晰となるとは理に適って居るはずである。
以上に述べた理由により、歩行式思考法は思考力を増強せしめると言えよう。
本文は以上である。この文章により読者諸君の思考がより明晰となったならば、それは僥倖である。