5月27日、雨のち星
恋人と過ごす誕生日は、何度迎えてもいいものだ。
5月27日、今日で彼女は25歳になる。9月生まれのぼくより、4ヶ月だけ年上になる。
それにしても……。
「おそ……」
しかし、いくつになっても、彼女は彼女のままで、ぼくも彼女の前ではずっと出会った頃のぼくのままだった。
待ち合わせ時間を間違えただろうか? もう20分過ぎている。5分前行動ならぬ、『5分後行動』の彼女だけど、ちょっと遅すぎる……。
例年より早い梅雨入り。おかげでポケットからスマホを取り出しにくい。傘を顎の下に挟み、メッセージアプリを開いた。
『じゃあ当日、18時にそっちの駅まで迎えに行くよ』
1週間前のやりとりだが、この時すぐに既読になっていた。了解! という笑顔のスタンプも返ってきている。18時を20時と勘違いしたのだろうか? そそっかしい彼女のことだから有り得なくはない……。
それにしても……。
「遅すぎ……」
ぼくはひとつため息をついた。そのそそっかしいところも、気が強いところも、わがままなところも、甘え下手なところも、不器用なところも、ひっくるめて好きなわけだけど……。
だから、周囲に「お気の毒様」と言われる意味がよく分かってはいる。それでもぼくには彼女が必要だし、彼女もぼくを必要としてくれているんだからいいじゃないか、とも思っている。
それにしても……。
「ったく、なにしてんだよ……」
こんなことなら車の中で待っていれば良かった。しびれを切らしたぼくは、彼女に電話をした。傘に跳ね返る雨粒が大きくなってきた気がする。呼び出し音と雨音が不規則にハモる。
「何よ」
長いこと鳴らした。何度目かのコールで、やっと彼女の声がした。だがそれは電話口からではなく、背を向けていた改札口からだった。
落ち合えた安堵か、ふてぶてしい彼女の態度にか、今日ふたつ目のため息が出た。
「なによじゃないだろ。ぼくは18時前からここにいるんだから、もう30分以上待ったんだぞ?」
ぼくがスマホを戻しながら言うと、彼女は「ふーん」と興味なさげに言った。
「あたし、もういいって言わなかった?」
「もういいって……言った」
「せっかくの誕生日に、なんでムカつくやつと一緒にいなきゃいけないわけ?」
ふてぶてしい態度の理由。それは2日前のケンカの続きだったらしい……。
あの時の『もういい』を、ぼくは『謝ってくれたからもういいよ』と解釈していた。
だが今の彼女の言い方からすると、『もう知らない』の方だったようだ……。
またやらかしてしまった……。
「そんなこと言わないでさ、せっかくの誕生日なんだから仲良くしよ? 謝ったんだから機嫌直そ?」
「そういうとこ」
「……へ?」
「あんたのそういうとこ、ムカつくの。謝れば済むと思ってるし、何度怒っても昔っから直さないじゃない。同じことで何度怒らせたら気が済むわけ?」
……そっちだって、ぼくの性格分かってて見逃すつもりないくせに……とは言わないでおく。今日は誕生日だから。
傘を持ち替えた彼女は大きな紙袋をぶら下げていた。きっと重いのだろう。ぼくはにこにこ顔を作って片手を差し出した。
「あっ、誰かにプレゼント貰ったの? 重そうだから持ってあげようか」
「いい」
「手ぇ赤くなってんじゃん。いいから貸しなって」
彼女は少し考えた後、無言で紙袋を差し出してきた。予想以上に重たい。高級感漂うデザインだ。黒地にシルバーで崩されたアルファベットが並んでいる。
ご機嫌斜めの姫さんは、そのまま無言で歩き出した。持たせてくれたということは、ひとまず一緒にいることを許されたのだろう。コンパスの長いぼくがすぐ追いつくと、ピンクのビニール傘越しにチラリとこちらを見た。
「誰にもらったの?」
ぼくが紙袋を少し持ち上げると、彼女はプイッと正面を向き、「お姉ちゃん」と早口で言った。
「へー、相変わらず仲いいなぁ。中身何だった?」
「……」
そこは無視かいっ!
「バイト疲れただろ? あとでマッサージしてあげようか?」
「……うん」
あ、そこは返すんだ?
どうやらご機嫌斜めだけじゃなく、疲労もあるらしい。店に出てる時の彼女は生き生きしていて眩しいくらいだけど、バイトが終わるとスイッチが切れたようにいつもの姫様に戻る。
高校卒業後、彼女はエステティシャンになるための専門学校へ進学した。高い学費を自分で稼ぐために、早朝はパン屋さんで、放課後は居酒屋で掛け持ちのバイトをしていた。
専門学校卒業後は学校の斡旋もあり、大手のエステ会社に入社し、3年とちょっと勤務した。
退職の理由は残酷だった。手が命の職業にも関わらず、彼女は酷使により親指を痛めてしまったのだ。
初めは腱鞘炎と診断されたので、少し休職すれば復帰できるだろうと言っていた。だが状態はほとんど改善せず、むしろ日常生活のちょっとした動きでも痛がるようになった。
やむを得ず退職してからは、3ヶ月ほどブランクを置いて、コスメメーカーで販売員のバイトを始めた。金銭面で親に頼れない彼女は、長期間の休職ができなかったのだ。
少し休んだら? ぼくがそう口にする度に彼女は言った、『あんたはいいわよね』と……。
「どうぞ?」
後部座席に紙袋を置き、愛車の助手席の扉を開けた。彼女は傘の水滴をパタパタとお年、やはり無言でシートに収まる。運転席側に回り、ぼくはエンジンをかけた。
「予約のイタリアンは間に合わないや。どうする? 予約取り直せたら予定通りイタリアン行く? それとも、違う気分になったんなら何でもいいよ?」
天気予報を見て準備しておいたタオルを彼女に差し出す。「ありがと」と小声で受け取った彼女。生まれつきの赤毛と肩先、それとストッキングの上から膝下を丁寧に拭いている。きちんと折りたたんで、そのまま膝に置いた。
「選択枝は?」
彼女がやっと自発的にしゃべった。
「ぼくは何でもいいよ。それこそ予約の店でも別の店でも。主薬が食べたいものを食べたい」
「何でもってのが1番困る」
「うーん、じゃあ……」
ぼくはひとまず予約の店方面を目指し、頭の中で彼女の好きな食べ物を思い起こす。視線で試されているのが分かる。
「中華は? それか、とんかつとか好きでしょ?」
「……悪くない」
明らかにトゲが丸くなっていくのを感じた。彼女の好物を覚えていたので、地雷はひとつ回避できたと思われる。ふたつ目の地雷を回避するとなると、最近一緒に食べてないものを選ばなければならない……。
「ふわとろオムライスの店は先月行ったし……焼き肉も焼き鳥も最近行ってはいないけど、誕生日にって感じじゃないしなぁ……」
「そっちは?」
「そっち?」
「そっちは何が食べたいわけ?」
ケンカ中特有の『そっち』という名詞。まだわだかまりが消えていない証拠である……。
「ぼくは……お寿司、だけど……」
赤信号の合間に、チラリと助手席に向く。目が合った。彼女は否定も肯定もしない。お寿司が好きじゃないことはわかっているので、それ以上は言わなかったつもりだけど……。
「じゃあお寿司でいい。その代わり、持って帰ってあたしんちで食べる」
「えっ? いいけど……それじゃ誕生日のお祝いっぽくないじゃん」
彼女はプイッと前に向き直り、「青」と一言。慌ててぼくはアクセルを踏む。屋根を叩く雨音が小さくなってきた。
要望通り、大手寿司チェーン店に車を止めた。冬に「カニフェアやってるー」と立ち寄った店。天候のせいか、今日はさほど込んでいない。彼女はじっくりメニューを眺めていた。
ぼくが自分の分を選ぶ前に、彼女がぼくの好物をかたっぱしから注文した。そりゃ全部好きだけど、さすがに一晩で食べきれる量なのかプレッシャーがかかる……。車に戻った頃には、彼女のご機嫌はほぼ戻っていた。
「あたしんちビール切らしてるけど缶チューハイならある。それとも何か買ってく?」
「んー、お寿司にはビール飲みたかったけど……ぼくはチューハイでいいや」
「言い方ナマイキ」
「えー? なんでだよー」
一緒に笑えてホッとした。今日もアイラインがキツめだけど、彼女の笑顔は今も昔も本当に可愛い。アパートに着いた頃には雨も止んでいた。
「荷物、持ってくれる?」
彼女はお寿司を、ぼくは大きな紙袋を持って階段を上がる。正直、3階まで持って上がるにはかなりしんどかった。彼女は涼しい顔で鍵を開けた。
「あたしね、バイト辞めようと思うの」
彼女は洗面所で手を洗いながら、唐突に言った。ぼくは驚いて、ハンガーにカーディガンをかける手を止めた。
「何で急に? 何かあった?」
「ううん。仕事は楽しいし他の社員さんもみんないい人なんだけど、やっぱこのままバイトじゃなーって思って」
振り返った彼女は苦笑いをしていた。アパレル業界でデザイナー兼、販売員をしているぼくと比べているのだろう。もどかしさについ語気が強まる。
「バイトでもいいじゃんか。汐音が店に出てる時、めちゃめちゃ楽しそうだなって思うけど? 社員じゃなきゃダメなわけ?」
「ダメじゃないけど、楽しいからこそ歯がゆいのよ。一生バイトってわけにいかないでしょ? もう25なのよ、あたし」
言わなくても分かっている。真面目でプライドの高い彼女は、一度大手会社に就職したからこそ、今の『バイト』という立場が歯がゆいのだ。自分を甘やかしているような錯覚をしているのだろう。
「じゃあバイト辞めたところでどうするわけ? 転職活動するなら、決まってからバイト辞めなよ」
「それがね……」
彼女はテキパキと食事の支度を始めた。話の続きを促すぼくに「グラス持ってきて」「こっちは冷蔵庫しまっといて」と指示をする。
やっと「座って」と言われたのは、お互いの好きなお寿司が奇麗に盛り付けられた皿がテーブルに置かれてからだった。土産包みのままでもよかったのだが、それこそ今日は特別。
ムードも色気もない缶チューハイで乾杯した。彼女がご満悦だからこれでいい。やっぱり笑顔が可愛い。
「プレゼントは?」
「……あーとーで」
「ふーん、まぁいいや」
何かを察しているのだろう。あっけなく諦めた。彼女はお寿司の中では好物のサラダ巻きを一口で頬張り「んまー」とほっぺたをふくらませている。リスみたいでまた可愛い。
「あたしね、LGBTの人のためのメイクサロンを開こうと思ってるの」
「は? メイクサロン?」
ぼくがホタテに箸を付けたところで唐突に切り出してきた。彼女は肯定と咀嚼とで同時に頷いた。
「茉莉花も分かるでしょ? 性に悩む人の気持ち」
「そりゃ分かるけど……いきなり開業するってこと?」
「うん。必要だと思うの、今の世の中に。メイクをしてみたいけど買う勇気がないとか、恥ずかしくて誰にも聞けないとか、試しに一度だけメイクしてみたいとか、そんな人いっぱいいると思うのよね。メイク学ぶなら動画サイトでいっぱいアップロードされてるけど、いざ揃えるのも大変だから、それなら一度ここで試してみようかな、ってサロンを開きたいの」
「なるほどねぇ……」
リンとした真剣な眼差しで熱弁され圧倒する。ぼくの言葉に続きがなかったからか、一度「どうしたの?」と尋ねてきた。
「いや、びっくりしただけだよ。汐音がまさか、お店を持ちたいなんて言い出すと思わなかったからさ」
「お店って言っても、デカデカと看板出すつもりはないの。目立つとそれこそ来にくいでしょ? 例えば、マンションの1室を借りてアングラでやるとかね」
「すごいなぁ、そこまで考えてるんだ……」
キラキラしている。彼女が好きなことを語っている時の顔だ。あっけにとられていると少し気恥ずかしくなったのか、またひとつサラダ巻きを頬張った。気の強い彼女が照れた時もまたたまらなく可愛い。
「だけどね」
彼女が続ける。
「もちろん初期投資がかかることだし、軌道に乗るまで……ううん、それどころか生活が成り立つほどの収益が得られるかどうかも分からない。だから、しばらくお姉ちゃんのとこに住ませてもらおうと思って」
「えっ? お姉ちゃんのとこって、ここから結構遠いじゃん!」
「だから言いたくなかったのよ!」
テーブルがガシャンと音を鳴らす。彼女の置いたグラスが皿をかすめた音だった。黄色い液体が溢れそうに揺れている。
「あんたはいつもそうやって、自分だけ順調だから気が付かないの! あたしがどれだけ悩んだか……。いつもそう、あんたは才能にも金銭的にも恵まれている。何でも手に入るから、あたしのことだってずっとそばにいてもらえると思ってるのよ!」
何も言い返せなかった。沈黙が続いた。気まずそうにグラスに視線を落とす彼女。言い出しにくかったのだろう。
別れ話なら何度も経験している。でも、今回のそれは今までとは違う空気だった。
ぼくはちょっと考えた。彼女も必死で怒りを堪えている。今度の爆発はきっと取り返しの付かないものになるだろう。言葉を慎重に選ぶ。
「ごめん。ずっと今までみたいにこうやって汐音と一緒にいられるのが当たり前だと思ってたのは本音だよ。でも、汐音なりに将来を考えての引っ越しなら、ぼくに止める権利はない。でもさ……」
「……何?」
「一緒に、じゃダメかな?」
彼女がどんぐりのような目を見開く。今度はぼくが視線をそらす。
「ぼくならオーダーメイドで理想の服を作れる。ユニセックスでもマニッシュでもフェミニンでも。だから汐音はメイクとコスメプランを、ぼくはデザインと炮製を担当して、一緒にLGBTの人たちにファッションを楽しんでもらえるサロンを作れるよ! 2DKとか借りて、1部屋はサロンに、1部屋はぼくたちの部屋にして……」
「……一緒に住むってこと?」
「ダメ、かな?」
恐る恐る表情を伺う。彼女は浅い瞬きを2回した後、首を大きく横に振った。
「ダメなわけないじゃない! 嬉しいに決まってるじゃない! でも、会社はどうするの? せっかく腕を買われているのに……」
「やりたいことなんて、自分さえ変われればどこでもできるよ。ぼくは汐音と一緒に住めたら嬉しいし、汐音が生き生きしてる仕事姿を近くで見れるのも嬉しい」
「……バカ。照れるじゃない」
5月27日、今日で彼女は25歳になる。恋人と過ごす誕生日は、何度迎えてもいいものだ……。
お読みいただきありがとうございました。
この作品は自作「百合色横恋慕」の主人公と、そのヒロインの9年後という設定です。
もし2人の仲が気になってくださったら、ぜひ本編もよろしくお願い致します。
2022/5/27 芝井流歌