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退廃都市

作者: 夢間倉 鳥江



今にも泣き出しそうな空が広がっている。

そんな空の下を僕は歩く。肌を刺すような寒さを貧相な外套で耐え、かじかむ手をポケットに突っ込み、荒廃した街をただただ歩く。

此処はかつて東京と呼ばれた街、今となってはすっかり廃れ、明日へと進むことを止めたがらんどうの街。何十年も前、僕が生まれるよりも前に終末戦争と呼ばれる戦争が起こった。どこの国が発端なのか今となってはわからない、世界中で戦争が始まり、世界中への核攻撃で戦争も世界も終わってしまった。かつて栄華を極めただろう先人たちが残したものはほとんど残っていない、だが滅んだ過去にすがっていても仕方がない、僕らは今をしっかり生きている。

不意に足を止め、僕は上を見上げた。

降ってきた。戦争の影響で僕らの世界は放射能で汚染された雪が降る常冬の世界になってしまった。雪はどんどんて降っていくが、僕らの元へとは達しない。

どんよりとした空の下、僕らの街を覆う大きな薄汚れた透明な天井、先人たちがわずかに残した遺物、僕らドームと呼ぶ天井のおかげで汚染物質の灰はここまで降ってこないようになっている。天井のおかげで、雪は防がれ、いずれはドームの機能で溶けてなくなる。ドームによって僕らは延命されている、たがそんなことを気にする余裕は僕らにはない。僕はマーケットへて歩みを進めた。

 マーケットは小さな屋台がひしめき合っていて、商売人や食べ物やさまざまな物を買いにきた人で活気に満ち溢れている。 マーケットの中をどんどん進んでいき、得意先の店へと向かう。マーケットの通りの真ん中辺り、鈴原商会と書かれたボロボロの看板が目印の目的の店が見えてきた。店に着くなり店主が声をかけてきた。

「やぁ龍之介、早速だ」

「今日は何をすればいいんです?」

僕は便利屋みたいなことをして暮らしている、色々な人から依頼を受け、それを解決し報酬を得る。そのような仕事を生業にしている僕らを人々は探検蒐集屋と呼んでいる。

別段儲かるわけではないが生活に困ることはない、それに他に仕事がないのだ。戦争から何年も経ち、ドームの外周にいくつかの食物プラントができ、汚染を免れた穀物や家畜などを育てることが徐々に進んできたが、配給をするほど優しい世界ではない、働かざるものは食べられないのだ、だから誰もがどんなことでもいいので職を見つけ働いている。

僕らの仕事は、未だ、生産が困難な嗜好品や過去の技術て作られたものを探し出して、依頼主に届けることが主だっている。

僕はドーム内での探索を主にしているが、なかには外を探索する強者がいる。彼らの多くが外で活動できる装備を持っていて、汚染から身を守りつつ、多くのものを持ち込んでくる。彼らは僕以上に稼いでいる、いずれは僕も外に行きたいが、今以上に危険が多く外で命を落とし、帰ってこない探検蒐集屋も多い。

それでも行く価値のある場所なのだ。

「今日は缶詰を持ってきて欲しいんだ。ちょうどなくなっちまってな」

「もちろん、すぐに持ってきますよ」

「ありがとよ!じゃあ早速行ってきてくれ」

「よお、今からか」

声のする方を見ると、気さくな笑みを浮かべ近づいてくる男がいた。同業者で友人の紅林優斗だ。背中には依頼品が入っているだろう大きなリュックを背負っている。

「ああ、そっちはもう終わりか?」

「そうだぜ、難しいいらいじゃなかったしな、ほらよ」

 優斗は店のカウンターに依頼品を出していく。どうやら店主の依頼だったようだ。

「確かに受け取ったよ、ほれ報酬」

「ありがとよ、そうだ、お前にいいことを教えてやる」

 優斗はニヤニヤと笑みを浮かべた。こいつがこういう顔をしているときは大抵ろくな事にならない。

「どうせ、ろくでもないことだろ?」

「今回は違うぜ?どうやら、あの『青いばら』の女の子がいなくなったんだってよ」

「本当かよ」

「あぁ、その話か、マーケットでもみんな話してたぞ。どうやらここで目撃されたみたいだそうだ」

店主も知っているなら信憑性も高い

「でも、なんでこんなところに?」

「さあな?買い物か何かだろ?まあ見つけたら青いばらに連れてってやるといいさ。何か貰えるかもな」

「いや、関わらない」

「薄情な奴だなぁ」

「じゃあお前はどうなんだよ」

「決まっているだろ?関わらない、報酬があるなら別」

「お前も人のことを言えないな」

「まぁな、情に流されていたらこの街では生きていけないからな」

 優斗の言ったとおりである。この街では自分自身が生きるのが精一杯だ、情に流され行動していたら、すぐに死ぬだろう。

「そろそろ出発するよ」

「おう、気をつけろよ」

「頼んだぞ!」

僕は二人に見送られ、その場を後にした。依頼の品があるのはマーケットから離れた場所にある。あまり治安のいい場所ではないので用心しなければならない。文明が崩壊してからも、マーケットの人々のように秩序正しく生きる人もいれば、無軌道にただ退廃した生き方をする人々もいるのが現状だ。そんな連中はたいてい に集まっている。不用意に足を踏み入れたら最後、生きては帰れないだろう。

マーケットを出て、あいつの言ったことを思い出す。『青いばら』といえば有名なキャバレーだ。ここらで知らない人などいないくらいだ。だが、実際に行った人ほとんどいないだろう。キャバレーやバーなど酒が飲める場所は色々とあるが『青いばら』は高級店で、おいそれと行ける場所ではないのだ。また、黒い噂も後を絶たない。店自体が娼館だとか、人身売買が行われているなど様々である。僕自身、『青いばら』には入ったことはないが、店の前で女の子を見かけたり、店に入っていく様子を見かけたことならある、どうやらみんな店に住み込みらしい。そこの女の子がいなくなるなどかなりの事件だ、いや、もしかするとただの噂かもしれない。

マーケットを出て目的地へと向かう。マーケットの辺りは買い物に来た人やマーケットの周りで暮らす人たちで賑わいをみせている。日々を懸命に生きる明るい表情、全てを諦め、惰性に生きる荒んだ表情、様々な表情、だだ一つ通じる物があるとしたら、明日への希望を感じられないということだ。明日、自分がどうなっているか誰もわからない、理不尽に死んでいるかもしれない、そんな世界で僕らは今の事を考え生きているのだ。

マーケットから少し離れると人も疎らになる。瓦礫が積まれた空き地、崩れた建物、役目を終え、朽ち果てた車や兵器の数々が寂しく鎮座している。ドームの外にはねじ曲がった塔や大きなビル群が見える、雪が積もり、すっかり白くなっている、それはかつての輝かしき時代の墓標のように無言で僕らを見下ろしている。

歩く先、ビルとビルの間に目が止まる。屈強な男二人が誰かを囲んでいる。男たちの服装を見る限り、荒くれ者だろう、追い剥ぎか、身体が目的か、ただの殺しか、どれであろうと、絡まれてしまった哀れな人物は無事ではすまされない。僕の他にも気づいた通行人はいた。だが、誰もかも見て見ぬ振りだ。情に流されていてはこの街で生きては行けない、関わったら自分も巻き込まれて同じ結末をたどるだけ、だから誰も助けには行かない。

僕もそんな一人だ、見て見ぬ振りで歩き去る。だが、どうしてだろう、僕は立ち止まり、騒動を見る、今にも身ぐるみを剥がされそうなその人を僕は助けたいと感じた。なぜだか解らない、情に流されていてはいけないことも解っている、この世界の理に刃向かってみたかった、いや、ただの気まぐれか。僕はビルの間に近づく。まだ、気づかれていないようだ。改めて、男たちを見る、通りに近い男はスキンヘッド、その隣にはロングヘア、いかにも柄が悪そうな見た目で、腰のベルトにはナイフが下げてある。話し合いが通じるような相手ではなさそうだ。話が通じるならこんな風にはなってないだろう。捕まった相手は、ロングコートとキャスケットを目深に被っているという出で立ちで、体つきから見るに女性だろう。表情までは伺えないが、自分が置かれた状況がよくわかっていないのか、辺りを見回している。

 さらに距離を詰める、ビルの壁まで近づき、様子をうかがう。すると、ロングヘアの男が女性を壁に押さえつける。

これ以上はまずいと判断した僕は、足下に落ちていた空き瓶を拾い駆け出す。男たちとの距離を詰め切った頃になって、スキンヘッドの男が僕に気がついた。もう遅い、空き瓶でスキンヘッドの頭をぶん殴る。瓶は砕け、男はその場に倒れ込む。ロングヘアは呆気にとられた表情で女性を放したが、すぐに僕に敵意を向ける。怒号とともに僕につかみかかる、僕は咄嗟にしゃがむと、足下の砂を掴むと、顔にめがけて投げる。目潰しが決まり、相手がひるむ。今しかない

「走るよ!」

「えっ……きゃっ!」

僕は女性の手を取ると通りへと走り出す、女性は一瞬バランスを崩したが、そのまま走り出す。通りにでて、僕はそのまま、目的地の  へと走った。

必死に走っている間に へと、たどり着いた。僕も女の子も息が上がっていた。

「ごめん……大丈夫?」

「はい……何とか……助かりました。いきなりあの方々に路地に引き込まれて」

「追い剥ぎか何かだろ、あのままだったらどうなっていたかわからないよ」

「そうだったのですね」

まるで追い剥ぎや無法者の事を知らないような口振りだ。ここらに住んでいる者なら常識のようなものなんだが。この女の子はどこから来たんだ。

「えっと……なんで君はあんなところにいたの?」

「申し遅れました。わたくしは姫草小夜と申します。早速失礼かと思いますがあなたさまは何というのですか?」

「遠野龍之介だよ」

「遠野龍之介さま……ですね。龍之介さま、改めてお礼申し上げます」

彼女はそう言うと帽子を脱ぎ、お辞儀をした。僕は彼女に目を奪われた。

 歳は二十歳位だろうか、どこか幼さが残る、まるで人形のような可愛らしい顔つき 長い青みがかった黒髪に、どこか異国の血が混じっっているかのような、灰色の瞳に透き通るように白い肌、まるで絵画から飛び出してきたような彼女に一目で心惹かれた。

「どうしたのですか?わたくしの顔に何か付いていますか?」どうやら彼女の顔を凝視していたらしい。

「いや、何も」僕は急いで顔を背けた

「?おかしな人。ふふっ」彼女は無邪気そうな笑みを見せた。

「話を戻すけど、なぜ君はあんなことにいたんだ?」僕は改めて彼女に聞いた。

「龍之介さま。わたくしは勤め先の諸用でお使いを頼まれマーケットに行こうとしていたところ、迷子になってしまいまして」

「そう……だったんだ。ともかくマーケットから離れると危ない。」

「いたぞ!」

声のした方を見ると、遠くから走ってくる見覚えのある男たち、血だらけのスキンヘッド、ロン毛、そして初見の角刈り。先ほどの男たちが仲間を増やして追ってきたようだ。ここままだとまずい。

「また走るよ」

「はい!」

僕はまた彼女の手を取り、 の中へと走った。

竹屋は戦前にショッピングモールとして機能していた建物で、僕が仕事で必要となるものは、ほとんどここから手に入れている。まだ資源はあるが、いずれは尽きてしまうだろう。また、同業者だけでなく、追い剥ぎや犯罪者などの無法者が身を潜めていたりするので、探索は毎回危険と隣り合わせだ。 僕は地下に降りることにした。地下は無法者達も簡単には足を踏み入れない。崩れた箇所や浸水した場所があり、構造を把握していればすぐに死ぬことになるだろう。あいつらも簡単には降りてこないだろう。あと、地下には僕が倉庫としてつかっている部屋がある。依頼品を取り、そこでほとぼりを冷まそう。

僕は懐中電灯を取り出し、闇に覆われた階段を下っていく。湿気とかび臭さが混ざった淀んだ空気が僕らにまとわりつく。水滴の落ちる音以外聞こえなかった階段に、僕と彼女の足音が響き、闇へと溶けていく。

逃げている緊迫感からか、地下の独特の居心地の悪さのせいか、彼女は強く手を握っている、彼女の温もりや、鼓動が伝わるほど強く。

「痛くないでしょうか?」

何かを察したのか彼女が不安げに聞いてくる。

「大丈夫だよ、そっちこそ痛くない?」

「いえ、むしろ安心します」

「そう…… 」

内心、僕はとても緊張していた。 今まで女の子の手を握る経験なんてなかったから、どう扱えばいいのか解らない。さっきは咄嗟の出来事だったけど、今は変に意識してしまっている。すべすべして柔らかく温かい彼女の手。その手に、僕の緊張が伝わってないかと心配しつつ、僕らは階段を下りきった。

僕は階段の上の方を気にしたが、男たちがまだ降りてくる気配はない。他の階を探しているのか、諦めたのか、どっちにしろ、まだ戻れないだろう。僕は足下を照らしながら慎重に進んだ。

僕の倉庫は、かつて倉庫であっただろう部屋の奥にある。注意していないと気づかないだろう。部屋自体も荒れているので、別のストーカーも入ってくることはない。

倉庫へ向かう長い長い廊下が続く、持っている懐中電灯では奥まで照らせない。

「大丈夫でしょうか……?」

 が不安げに聞いてくる。

「大丈夫、離れないでね」

僕は闇へと進んだ。僕の手を握る彼女はさっきよりも強く僕の手を握った。


「ここだよ」

いつもよりも慎重に歩き、僕たちは目的の部屋についた。

「すごい……まるでお店ですね」

彼女は部屋を見渡し、気になったものをまじまじと見始めた。

「僕の商売道具。見たり、手に取ったりするのはかまわないけど。落としたりしないでね」

「でしたら、見ているだけにしますね」

彼女は微笑みを浮かべて、そう言った。

僕は彼女が商品を見ている間、店主に頼まれたものを探してリュックに積めることにした。棚においてある缶詰はそろそろ無くなりそうだ。まだどこかにあるだろうか。いつの間にか彼女が戻ってきて、僕の作業に興味があるのかじーっと見つめている。僕は視線が気になったがそのまま作業を続けた。コンビーフ、鯖、パンやご飯、果物の缶詰をリュックに詰める。その缶詰をまじまじと見つめる彼女。食べたいのだろうか。

僕は棚の奥にあったケーキの缶詰を二つ取り出す。この缶詰は の店に持って行ってもいい反応がない。不良在庫として棚でほこりを被っている。おいしいのだが……。

「食べる?」

「いえいえ!大切な商品なのですよね?いただけません」

「持って行っても売れ残るし、ここに残ってても仕方ないからさ、食べてよ」

「本当にいいのですか?」

「あぁ」

「では、お言葉に甘えて」

「好きな方を選んでね」

彼女は二つの缶を見て悩んでいたが、チョコレートケーキを選んだ。缶詰を空けたことがないのか、彼女は蓋に書いてある開け方をしっかり読むと、ぎこちなく缶を開けた。周りに甘い香りが漂う。

「おいしそう……」彼女は中に入っているケーキを見て目を輝かせた。

「では、いただきます」

彼女がゆっくりとケーキを口に運び、咀嚼する。やがて、幸せそうに口元を綻ばせる。

「おいしいです!」

「よかった、口にあって」

「こんなに美味しいものは初めてです。 さま、ありがとうございます」

「どういたしまして、喜んでくれたなら出した甲斐があったよ」

それから彼女は幸せそうにケーキ缶を完食した。最後の一口は名残惜しそうだった。僕も食べ終え空き缶を片づけた。さて、どうするか。

「えっと姫草さん?」

「小夜」

「えっ?」

「小夜でいいですわ、龍之介さま。小夜と呼び捨てで構いませんわ」

僕は急なことに面食らってしまった。初対面の女の子にいきなり名前、しかも呼び捨てで呼べるだろうか?

「姫草さんじゃ駄目?」

「小夜。もしくは、小夜ちゃんでもいいです」

彼女は大真面目に言った。ちゃん付けはさすがに無理だ。僕は諦めて腹をくくった。

「……小夜」

「はい龍之介さま、何でしょうか?」

「……その様付けは何とかならないの?」

「すいません、癖のようなものです。お気になさらずように」

「………………」

納得いかないが、話を進めよう。

「そろそろあいつらも諦めたと思うから僕らも動こうと思うんだ。小夜はどこに行きたい?」

勝手に助けて、放っておくなどさすがにできない。僕は彼女が望むところまで連れて行きたかった。

「よろしいのですか?」

「よろしいもなにも僕がここまで連れてきたんだし、ちゃんと送り届けたい」

「ありがとうございます。でしたら、マーケットまでお願いします」

「マーケットだね」

僕らの目的地は同じだった。さほど問題ないだろう、あいつらさえいなければ。

「じゃあ、行こうか。離れないでね」

「はい!」

僕は入り口のノブに手をかけた。たが、ノブを回すことはなかった。

「龍之介さま?どうかされ……」

「静かに」

僕は小声で彼女の言葉を遮った。扉の向こうから足音が聞こえる。しかも、複数。状況を考え、あの三人である可能性が高い。足音はどんどん近づいてくる。微かだが話し声も聞こえる。

「小夜、こっちは駄目だ。さっきの奴らが気たかも知れない」

「そんな……どうしましょうか……」

奴らだろうと誰であろうと、ここが見つかるのは僕としてはよろしくない。どこかに行くまでここに隠れていると言うこともできるが、いつまでかかるか解らないし、少しでも音を立ててしまっては終わりだ。

「あの、龍之介さま?少々いいですか?」

「何かあったの?」

「あちらの壁の方から風が」

「風……?」

彼女が示した方に向かうと、そこにはただの壁があった。懐中電灯で照らし、目を凝らしてよく見てみると、扉の跡のようなものがある。近づいて手を当ててみると風が手に触れた。

「もしかすると……」

僕は覚悟を決め、その跡を蹴る、派手な音をあげ、壁が扉の形に抜ける。

「ありがとう小夜。これで出られる」

「いえ、大したことでは」

僕らの安堵もつかの間、入り口の方から走る音が聞こえた。音に気づいたようだ。

「急いでここから出よう」

僕らは壁を抜けた、細い道が続いている。片方は行き止まり、進む方向は決まっている。

真っ暗闇を懐中電灯で照らしながら進む。時より後ろを振り向くが、僕の後ろをぴったりと歩く 以外いない。どうやらあの部屋には気づいていないようだ。歩みを進めていくと、真っ暗闇の中から扉が現れた。進むしかない。僕はノブに手をかける。錆びた扉が耳障りな音を立てて開いた。

「ここは……」

扉の先には広い空間と、入場ゲートのようなようなもの、何かの機械が並んでいる。戦前の本か何かで見たことがある。ここは駅だ。どうやらこの建物に直結して駅があったのだ。懐中電灯で辺りを見てみると、ぼろぼろの看板があり、名前は掠れて読めなくなっているが、駅と書かれていた。

「龍之介さま?ここは何なのでしょうか?」

「駅……だと思う。電車って乗り物があったんだけど、それに乗るための場所だよ」

「そうなのですね。 お詳しいのですね、 さま」

「僕も本で読んだ程度だよ」

僕自身、駅をみたのは初めてだった。長い間誰も訪れていないのか、人が来た痕跡がいっさいない。僕は改めて懐中電灯を照らし、辺りを見渡す。誰も来られないはずだ。駅への入り口はシャッターが降りており、僕たちが入ってきた入り口以外から入れないようだ。駅の中へと進まないと行けないようだ。

「行こうか」

「あ、あの、龍之介さま?」

「どうかしたの?」

「手を……」

「て?」

「よろしければ手を握ってはいただけませんでしょうか?」

「え?」

「い、いえ、先ほど握っていただいたときにとても安心しましたので……嫌でしょうか?」

不安げに上目遣いでこんなことを言われて断れる男がいるのだろうか。

「……はい」

僕は彼女に手を差し出す。恥ずかしさに真っ赤になった顔を見られないようにそっぽを向いたまま。

「ありがとうございます!……嬉しい」

彼女の柔らかく暖かい手が僕の手を包む。

「じゃあ、行こう」

彼女の手を握り直し、僕たちは駅の中へと進み、目の前の階段を下った。階段を下りきるとそこは、長い延びる空間が広がり、横は透明な壁で覆われていて、壁の横は等間隔で扉がついている。どうやらホームについたようだ。写真で見たような光景が広がっている。昔は誰かが住んでいたのだろう。ぼろぼろになったテントに、薪の跡が残っている。

ここからどうやって先に進もう。

とりあえず、ホームを歩いてみる。

ホームの端まで来ると、扉が一つ開けられていた。扉の先を照らすと、線路だろうか、鉄の線と切れた縄ばしご、 ここから出入りしていたのであろう、だが、降りるための縄ばしごは切れてしまっている。線路までの高さも人一人分はありそうだ。

「ちょっと待ってて」

僕はそういうと先に線路に飛び降りた。あまり高くはないが、 はどうだろう。

「ちょっと高い……」

言い切る前に彼女も飛び降りてきた、しかし着地のとき、バランスを崩して尻餅をついている。

「大丈夫?」

「少しお尻が痛いですけど、大丈夫ですわ」

「あまり無茶したら駄目だよ?」

「はい……」

「ほら」

僕は彼女に手を差し出す。

「はい!」

彼女は嬉しそうに手を握る。

そして僕等はまた歩き出す。闇の中を一つの明かりを頼りに。ただ不思議と怖さは無かった。たぶん彼女の温もりがあったからだと思う。線路がどこへ続いているかは解らない。ただあそこにいても何も解決しない。だから先に進むしかない。僕らの足音が響き、先の見えないトンネルへと溶け込んでいく。

「あの、龍之介さま?」

不意に彼女が声を掛けてくる。

「どうかした?」

「どうして龍之介さまは、わたくしを助けていただいたのですか?」

「どうしてって……?」

「他の方々は見向きもしていませんでした。 さまだけがわたくしを助けてくれました。助けていただいた理由が知りたいのです」

「理由ねぇ……」

もちろん、そんなものはない。僕の気まぐれのようなものだ。

「なんとなく、かな?ただあの時は助けないとって気持ちだった。それだけ」

「そうですか……」

その時、彼女がどんな顔をしていたのか解らないただ

「なんとなくでも嬉しいですわ。本当にありがとうございます。龍之介さま」

その時の彼女の声色はとても嬉しそうだった。

それからは特に会話はなく僕らは線路を進み続けた。

この闇の中をどれほど歩いただろうか。僕の中で出られるかどうかと言う不安が生まれていた。だが、僕が取り乱してしまえば、彼女が不安がってしまう。彼女に気取られないようにしなければ。

「龍之介さま」

「ど、どうかした?」気取られてしまったか?

「あれはなんでしょうか?」

「あれ?」

彼女が指さす先、線路の上に止まり、その役目を終えた朽ちた電車が見える。

「あれは電車……だと思う。昔の乗り物だよ」

「電車、ですか。初めて見ました」

「僕も実物を見るのは初めてだよ」

僕らは電車に近づき、その長い車体をまじまじと見る。電車の扉は高い位置にあったが、梯子が下ろされているから、上れそうだ。

「どうせなら乗ってみようか」

「勝手にいいのでしょうか?」

「いいもなにも誰の持ち物じゃないよ、ただのゴミ」

「そうなのですね、でしたら」

彼女が梯子を上るのを確認し、僕も電車に乗る。大して何かがあるわけでもなく、席がずらっと並んでいるだけだ。

「随分と席が多いですね」

「人をたくさん運ぶ乗り物だったみたいだしね」

「次の電車もそうなのでしょうか?」

「行ってみようか」

「はい」

彼女とまた手をつなぎ、先に進む。次の車両も殺風景で、目立つものはない。

「何もないですね」

「放置されてだいぶ経っているみたいだしね」

どこを見渡しても埃だらけだ。そのまま進んでいき、後ろの車両へと向かう。ついには最後尾まで来てしまった。

「ここで終わりみたいですね……あれ?」

「何かあった?」

「ここ、どこかに通じているみたいです」

電車のドアが開いていている。その先は駅のホーム。どうやら次の駅までこられたようだ。

「次の駅まで来たみたいだね。ここから外に出られるかも」

「本当ですか」

「ああ、先に進もう」

僕たちは駅におり、近くの階段を上っていくさっきの駅より簡素な作りの改札を抜け、地上へ上がれそうな場所を探す。それはすぐに見つかった。階段を表した絵文字の看板の先、後付けされたような鉄の扉がある。僕たちはゆっくりと階段を上っていく。だんだんと気温が下がっていくのを感じた。あと少しで僕たちは外にたどり着くだろう。階段を上りきった先に見えたのは、今にも泣き出しそうな空の下、この街を覆う大きなドーム。少しの明るさに目が眩みながらも、周りを見渡すと、そこには見慣れた風景、どうやらマーケットのそばまでたどり着くことが出来たようだ。

「あそこがマーケットだよ」

「ありがとうございます。龍之介さまがいなければ今頃私は……」

「気にしなくて大丈夫だよ。それよりお使いは平気なの?」

「買うものとお店は聞いたのですが、場所の地図をどこかに落としてしまいまして……」

「……じゃあ、案内しようか?」また、迷子になってしまっては元も子もない。

「いいのですか?」

「あぁ、僕もここに用があるし」

「ありがとうございます!」 は嬉しそうに微笑んだ。その笑みに僕もつられて顔をほこらばせる。

「まずはどこから行こうか?」

「そうですね……」

それから僕は のお使いを手伝った。必要なものはすぐにそろったが、僕らはマーケットの中では常に注目されていた。それもそのはずだ。 が目立っていたからだ。彼女の服装もそうだが、彼女のような美人はそうそういるものでもないからだ。あと、マーケットでも手を握ってくれとせがまれたので、さすがに気恥ずかしくて断ったら、しぶしぶ僕の服の裾を摘まんで付いてきたところも注目の原因だろう。

途中、僕の依頼も終わらせておこうと思い、鈴原商会まで行ったら、店主が見たことのないアホ面で出迎えてくれたのは傑作だった。店主と目が合い、彼女に笑顔で会釈されたときなんか鼻の下をのばしっぱなしだった。店を離れる際に に捕まり「おい、どこでこんな別嬪捕まえてきたんだよ、今度俺にも紹介しろよ」と耳打ちまでされた。僕はただ苦笑いを浮かべてその場をやり過ごした。

「ありがとうございます。おかげで、無事必要なものがそろいました」

「構わないよ」

小夜のお使いが終わり僕らはマーケットの前まで戻ってきた。

「ここからなら、道はわかるかい?」

「はい、一本道ですので」

「じゃあ、僕の案内はここまでかな」

最後まで送っていってもよかったが、僕には別件の仕事があるし、道がわかるなら迷子になることはないだろう。少し薄情な気もするが僕はここで別れることにした。

「もしよろしければ、お店まで付いてきては貰えませんか?何かお礼を」

「いや、気にしなくてもいいよ」

「いえ、是非ともお礼させてくださいな、そうしないとわたくしの気が収まりません」

「いや、大したことじゃないし」

「いえいえ……」

僕と小夜の堂々巡りが始まる、僕と彼女どっちが先に折れるだろうか。

「わからない方ですね!こうなれば無理にでも連れて行きます!」そう言うと、彼女は僕の手を取った。

「どうしてそうなるんだ!」

「こうでもしないと さまは着いてきてくれませんよね?でしたら無理にでも付いてきてもらいます!」

「わかったから、手を離してくれ。恥ずかしい」

「嫌ですわ。離したらどこかに行ってしまうのでしょ?」

いきなりのことで僕は完全に慌てていた。まさか先ほどまで、手を引いていた女の子が逆に僕の手を引くとは思ってもいなかった。小夜は僕の手を取りそのまま歩みを進めていく。先ほどとは立場が逆じゃないか。に手を引かれ、彼女の店がある方へと連れて行かれる。またもや僕らは注目の的だ。しかも、さっきより恥ずかしい。僕らを見ている人たちの中には優斗の姿もあった。僕と目が合うと、面白そうにニタニタと笑みを浮かべていた。今度会ったら何を言われるか分かったものではないな。そういった思考をよそに、ただただ、僕の手を取り歩いている彼女のぬくもりが僕の手に伝わっていく。


そうして僕は、注目を集めたまま、小夜に連れて行かれ青いばらへと行くことになった。


青いばらに着く頃には辺りが薄暗くなっていた。ボロボロになったビル、そこにある階段を下りれば青いばらがある。壊れかけたネオン看板が目印で、階段の前にはいつも警備員だろう男が立っている。

青いばら、この当たりでは有名で、唯一のキャバレーと言われている飲食店。お金に余裕がある人たちのみが入ることを許されているとの話しだ。これも様々な噂の一つ、噂を信じて実際に足を運ぶ者が少なくなる、だから青いばらは神秘のベールに覆われた店へとなっていく。僕もその噂を信じている一人だ。 のお礼を断ったのもこの噂の件が少なからずある。

「少し待っていてくださいね。あ、逃げたりしないでくださいね?」

「………逃げないよ」

 あんな恥ずかしい思いはもうしたくはない。は 僕の答えに満足したのは笑みを浮かべ、走って警備員の方へと向かった。相手も小夜に気づいたようで走り寄ってきた。それから何か話し始めた。ときより、僕の方を見るが、何を話しているかは分からない。話しが終わったのか、男は階段を下りていった。そして、小夜が僕の方へ駆け寄ってきた。

「お待たせいたしました。警備員さんがオーナーを連れてきてくれるようです」

「オーナー?」

「はい、状況の確認などをするようです」

「小夜!」

声のする方を見ると、先ほどの警備員とくたびれたタキシードにシルクハットの小男が立っている。

「オーナー。ご心配をおかけしました」

 小夜が丁寧に頭を下げた。どうやらあとの小男がオーナーのようだ。

「本当に心配させよって……まぁいい無事に帰ってきたんだ。よしとしよう……さて」

見た目に似合わず低い嗄れ声のオーナーは 一通り の状態を確認するとこちらに目を合わせてきた。

「旦那、この度はうちのが世話になったようで、ありがとうございます。大した礼はできないですが、ささ店に……」

「いや、僕は……」

「遠慮せずにさあさあ……」

オーナーに背中を押される感じで僕は店へと入っていった。その時のオーナーはどこか下卑た笑みを浮かべていた。


そこはまるで別世界だ。少し汚れているが煌びやかな店内には年季が入ったテーブルやソファが並んでおり、そこには楽しそうに客と店員が話している。店の奥にはステージがあり、そこではバンドによる生演奏も行われており、店の煌びやかさを引き立たせていた。ステージからは花道が延びていて、その上に輝くシャンデリアはまだ誰もいない花道を彩っている。今までにこんな光景を見たことがあるだろうか。

「さぁさぁ旦那、こちらへ」

オーナーに案内され連れてこられたのは、二階席であった。二階席と言っても中二階と言った感じであった。周りからは席の様子が分からないように囲いがしてあり、席からはステージが一望できるようになっている。この位置からだとちょうど花道の真ん前だ。

隣の席も似たようになっているが、カーテンが閉まっており、中の様子は分からない。かすかに嬌声が聞こえるのみだ。

「この席はいわゆる特別席というやつでして、ここだけの話、ああ言ったサービスもやっておりまして……まぁ気になさらずに、ささこちらに」

噂は本当だったようだ。僕は案内されるがまま席に着いた。僕が座ったのを見て、オーナーも向かいの席に座った。

「いやいや、旦那にはなんとお礼を言ったらいいか……」

「別にそこまでのことをしたわけじゃないんだけど」

「そんなご謙遜を、うちの看板娘を無事連れてきてくれたんですから」

「お待たせいたしました。」

振り返ると先ほどとは違い、ドレスアップした が立っていた。長い黒髪は毛先の方をカールさせ、花をあしらったヘッドドレスをつけている。服はというと、胸元が開いた黒紫色のスパンコールがちりばめられたドレスで足下の方はシースルーになっている。メイクのせいか、店だからか、彼女の表情は大人びていて、声も出会ったときの落ち着いたトーンをしていた。

「じゃあ、あとは頼んだよ」

そういうとオーナーは席を立ち、入れ替わるように が僕のすぐ横に座った。肌と肌が触れそうな距離だ。あまり不躾に見ていても仕方がない。

「似合っているよ」

僕はそのままの気持ちを伝えた。

「ありがとうございます!このドレス、気に入っているんです。オーナーの話しによりますと、戦火を逃れたこのお店にこの綺麗な状態で残っていたそうです。」

「戦前からここはあるのか」

「はい、とは言っても廃墟同然で、無事だったのは衣装や小道具の保管部屋だったそうです。それを最初のオーナーが改修をし、何とか営業できるようにし、数々のオーナーが引き継ぎ、今にいたると言うわけです」

「思ったより歴史ある店なんだね」

「私も詳しくは分からないですが、そのようです」

彼女と話している間に飲み物が運ばれてきた。

「オーナーからです」

とウエイターの黒服が告げ、飲み物が入った瓶とグラス二つをテーブルに置き、一礼し、立ち去った。

剥がれかけたぼろぼろのラベルから察するに、戦前のウイスキーだろう、高級品だ。

「さあ、飲みましょう」

彼女はウイスキーをグラスに注いでくれた。

「では、乾杯です」

彼女はグラスを持ち、僕に向けた。僕もグラスを持ち、ぎこちなく彼女と乾杯した。彼女と二人っきりになり、こういう経験がない僕はどうしていいのか分からなくなっていた。とりあえず、グラスに口を付け、ウイスキーを飲む、甘さや煙の匂いなど複雑に混ざった琥珀色の液体が僕の喉を焼く、たまに飲む安酒とは違う、それだけは分かるが今はそれを気にする余裕などほとんどない。バンドの演奏と他のテーブルの談笑が僕らを包む。それ以外の音は聞こえない。彼女は僕に微笑みを向けたまま待っている。何か話をしないと。

「いい曲だね」

「はい、とても。毎日演奏する曲が変わるんですよ」

「そうなんだ……」

また沈黙が訪れる。

曲が終わり、バンドが次の演奏の準備をする。すると僕らの席に黒服がやってきた。

「小夜さん、そろそろご準備を」

「わかりました。すぐに行きますわ。 さま、しばし中座しますね、またあとで戻ります」

「あ、あぁ」

彼女は僕に微笑みを残し、黒服について行った。何があるのだろうか。一人残された僕はぼーっと手に取ったグラスを眺めながら考えていた。

すると突然拍手が聞こえた。ステージの方を見るとオーナーが立っていた。

「本日お越しの皆々様。お待たせしました。当店の看板娘で歌姫小夜の可憐な歌声をお楽しみください。登場の際には盛大な拍手を!」

そう言い残しオーナーは舞台裏へと戻っていった。そして割れんばかりの拍手とともに が袖から出てきた。

ステージの中央へと立ち、拍手が収まるのを待つ。徐々に店内が静かになっていく。そして、バンドのアコーディオンを伴奏とともに彼女は歌い出す。透明感がある彼女の歌声が僕の耳に飛び込んでくる。僕はその声に耳を奪われた。彼女が歌った歌は恋の曲だった。何があっても恋人と二人で生きていきたいと言った内容の歌詞だ。僕は彼女のから目を離せなくなっていた。彼女は声だけではなく、表情や仕草でも歌詞の内容を投げ掛けてくる。そして、曲がサビへと入る直前、彼女と目が合う。彼女は僕にウインクをしてくれた。僕の鼓動は一気に高まる。サビに入った曲は一気に盛り上がり、静かに曲が終わっていく。そして盛大な拍手が店内を埋め尽くす。僕の拍手もその一つに混じる。いつまでもいつまでも鳴り止まぬ拍手の波に。それは が舞台袖に消えるまで続いた。

小夜の歌が終わっても、僕はまだ彼女の歌の余韻に浸っていた。ここまで心引かれる歌声に出会ったことはあっただろうか。町中で流れる歌とは比較にならない。僕は初めて音楽で感動していた。

小夜がいないステージを名残惜しそうに眺めていると

「お待たせしました。龍之介さま」

小夜が戻ってきていた。

「いかがでしたか?私の歌は?おかしくなかったでしょうか?」

彼女は先ほどと同じように僕の横に座り、少し不安げな表情で訪ねてきた。

「えっと……その……凄かった、感動したよ、何というかその……ごめん……うまく伝えられない……でも、凄く美しかったよ」

語彙力の無い自分が恨めしい。彼女は黙ってそんな僕の感想を聞いてくれていた。

「龍之介さま、大丈夫です。ちゃんと想いは伝わっています。それに美しいなんて言っていただけたのは さまが初めてなんですよ。ありがとうございます」

彼女は満面の笑みで僕の想いに答えてくれた。

「小夜、一つ聞いていいかい?」

「何ですの?」

「どうしてここで働いているんだい?」

僕は気かずにはいられなかった。

「どうして?」

彼女はきょとんとした表情をしていた。

「うん、どうしてここなんだい?」

こんな猥雑とした場所ではなくとも彼女は働いていけるはずだ。しかし、彼女はここにいる。僕はその理由が知りたかった。

「そうですね……他に道がなかったと言いましょうか、小さな頃にここに連れてこられ、その時からわたくしはここで働いております」

「他の事をしてみたいとは思わないのか?」

「確かにここに来た頃はそう思っていました。辛かったことやとても嫌なこともありました。でも、わたくしはここでの生き方しか知らないのです」

「…………」

「でも、大変なことばかりではないのですよ?わたくしを楽しみにしてきてくれる方がいる、わたくしの歌で感動してくれる方がいる、そのような些細な幸せがあるのです。わたくしはそれを明日の希望に日々を過ごしているのです。ですから、わたくしはこの生き方に不満はないのです」 の言葉には嘘はなかった。その証拠に彼女は曇ない笑顔を僕に見せた。

僕は気が付いた。

この世界一美しい人は、この世界一汚れた世界にいるということを。

その後、僕らの間で会話はなかった。ただ、それは嫌な沈黙ではなく落ち着いた時間であった。

「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ」

グラスが空になった頃合いで、僕は帰ることにした。

「もう少し、ゆっくりしていってもいいのですよ?」

「ありがとう、でも今日は帰るよ」

「そうですか……では外まで送りますね」

彼女は少し寂しそうな表情を見せた。


外はすっかり暗くなっており、ネオン看板や、店の光が辺りを照らしている。それ以外の灯りは、遠くに見えるマーケットの灯りだけである。


「また、会いに来てくれますか?」

「ああ、必ず」

前の僕ならどう答えただろうか。少なくとも会いに来ようとは思わなかったと思う

「本当ですか?」

「本当だよ」

「嬉しい……あ、あの、厚かましいとは思いますが、指切りしていただけますか?」

まるで親に置いていかれそうな子供の顔をした はおずおずと小指を出した。

「勿論だよ」僕も小指を出して千夜と指切りをした。

「では、龍之介さま。ごきげんよう」

「小夜も達者で」

挨拶を終えると、は僕に顔を近づけるとそっとささやいた

「また外で会いましたら、助けてくださいね」そしてそのまま僕の頬に口づけをした。すぐに離れる の顔、はっとして を見ると、その表情は ではなくの表情でほほえんでいた。

 この出会いをきっかけの僕の人生は少しずつ動き始めていく。僕は に何か特別な感情を抱いた。その感情が僕の人生を大きく変えていくとも知らずに……。

されど、ここは退廃都市。今日もゆっくりとこの世界は退廃していく。




俺は相当焦っていた。

今日は最愛の彼女、浅月すみれと会う約束をしていた。そんな大事な予定があるのに俺は寝坊をかましてしまった。最高な日に最悪なタイミングで寝坊をした自分が腹立たしい。

急いで待ち合わせ場所まで走る。もう彼女は待っているはずだ。


マーケットの入り口近くに小さな広場がある、そこが待ち合わせ場所だ。彼女はいつも俺より遅く来るから、今日は得意げな顔をして、俺に文句を言うだろう。

「まだ来てないのか」

走ってきて損をしてしまった。

どうやら、すみれもまだ来てなかったようだ。俺は広場の入り口で待つことにした。今回もいつも通り、俺がすみれに待たされる。

広場の時計を見つめる。待ち合わせの時間から十五分位経っていた。今日は少し遅いな。

三十分経った。さすがにおかしい、いくら何でも三十分も待たされたことなんて無い。

俺はすみれの家に向かった。

マーケットを抜け、廃れた飲み屋通りの方へと向かう、一見治安が悪いように見えるが、マーケットの目と鼻の先であることや、自警団のおかげで、廃墟街方面より危険ではない。何より、今の時間はほとんどの店はまだやっていないから、トラブルに巻き込まれることはないだろう。シャッター街を足早に進む。すみれの家は近くに目立つ目印がある。

すみれの家の近くにはあの有名な青いばらがある。色々噂があるが、ただの女の子が接客している飲み屋だ。一度入ったことがあるが他の店より、美人揃いであることと、ものが高いこと以外は他とさほど変わらない。

夜は華やかだが、今は他の店と変わらず廃墟のようだ。そんな青いばらからビルを二つほど挟んだ先、すみれが住んでいる集合住宅がある。外観は廃墟のようにボロボロだが、中はまだ人が住める。このような集合住宅がこの街中に沢山あり、大抵の人は集合住宅に住んでいる。店をやってる人や浮浪者は別だが。

すみれの部屋までたどり着き、ノックをしてみたが、反応がない、寝ているのだろうか、何回かノックをするが、部屋から が出てくるような様子はない。すみれはどこに行ったのだろう。

仕方なく引き返すことにした。青いばらの前にさしかかったとき、店の中から誰かが出てきた。

「あら、敬之さま。ご無沙汰ですね」

声をかけてくれた女性には悪いが、名前が出てこない、青いばらの看板娘だったような、一回しか行ってないからうろ覚えだ。

「えぇ……まぁ……」

「すみれちゃんは元気ですか?」

「はい……いつも元気ですよ」

すみれは青いばらの人たちとはほとんど顔見知りだ。それには訳があるんだが……。

「それは何よりです。……そう言えば、すみれちゃんはご一緒ではないのですか?先ほどお会いしましたが、敬之さまとお出かけすると喜しそうにお話ししていましたが」

「すみれに会ったんですか!」

「えぇ、三十分ほど前でしょうか、丁度お店の前を通っていきましたよ」

「どっちに向かったか見てましたか!?」

「はい、マーケットの方でしたよ、待ち合わせの前にどこかに寄るようなことを言っていましたよ」

「ありがとうございます!」

俺はお礼を言い残し、マーケットの方へと走った。すみれが待ち合わせ前に行くとした……仕事先の喫茶店だろう。俺は喫茶店へて不安を抱いたまま向かった。

すみれは普段、牧村珈琲亭という喫茶店で働いてる、喫茶店と言っても、こんな世界だから大して物があるわけでもないが、それなりに繁殖しているようだ。名物はタンポポコーヒー。

牧村珈琲亭の前にたどり着き、一息つく間もなく店の扉を開いた。

「いらっしゃい……あぁ、蘆屋くんか、どうしたんだい?」

初老のマスターが迎えてくれた。

「すみれが来てませんか?」

「今日はデートじゃなかったのかい?今日は見ていないな」

「そう……ですか……。ありがとうございます」

すみれがいないことを確かめると僕は店を出ようとした。

「一度休んだらどうだい?だいぶ息が上がっているようだ」

そう言い、マスターは水を差しだしてくれた。

「ありがとうございます、でもすみれを探さないと。もしかしたら待ち合わせ場所にいるかもしれない」

俺は水を一気に飲み干しマスターに頭を下げ、店を後にした。一度待ち合わせ場所に戻ろう。

待ち合わせ場所に戻ったが、すみれはいなかった。探す当てもなく、俺はここで待つことにした。もしかするとすみれが来るかもしれない。俺は適当なところに座った。




どれほど待っただろうか。 はまだ現れない。青いばらの看板娘が男と通ったのを見た以外大した物も見ていない。もう辺りはうっすらと暗くなっていた。

「まだ待っていたのか」

声がする方に視線を向ける。そこには、どこかあきれたような顔をしたマスターが立っていた。

「はい……もしかすると、すみれが来るんじゃないかと」

「来たか?」

「いえ……」

「もうじき夜になる、今日はやめて、明日また探せばいいさ」

「いえ、もしかしたら……」

もしかしたら、 が来るかもしれない、そう言おうとしたが、これだけ待っても来ないんだ。心の中で最悪の事態を考え、すぐに否定する。すみれは何かあって来れなかっただけだ。事件に巻き込まれめなんて無い。

「明るくなったら、また探せばいいさ、そうだろ?」

マスターは笑みを浮かべてそう諭してくれた。

「そうですね……そうします」

「よし、じゃあ店まで来てくれ、朝から何も食べてないだろ?適当何か作ってあげよう」

「ありがとう。マスター」

俺はマスターについて行き、飯を食べた。何を食べたのかも、どんな味だったのかも憶えていない。マスターはすみれが戻ってこなかったら店を回すのが大変になるなと、苦笑いをしていた。いつ来てもあまり忙しそうな店じゃないが、 の存在は大切だったようだ。すみれ、どこにいるんだ?待っている人がいるんだぞ?

「じゃあ、気をつけて帰るんだぞ」

「ありがとう、マスター。マスターも明日からしばらく頑張ってくれ」

「あんまり忙しくはないから、私と新人で何とかなるさ。・・・見つけてくるんだぞ」

「はい」

俺は店を後にし、自宅へと戻った。その夜は眠れなかった。

俺の心は不安で押しつぶされそうになっていた。早く を見つけよう。そして少し文句を言って、できなかったデートをしよう。そんなことを考え、俺はただ朝が来るのを待った。



朝になると俺は直ぐにすみれを探しにでた。

当てなんて無い、あいつが行きそうな場所を虱潰しに探せば何かは見つかるだろう。

すみれに会いたい。その一心を動力に俺は当てのない人探しにでた。

マーケット、家の近く、治安のいいところは全部回った。

それでも、すみれは見つからない。あとは廃墟街の方だ。もうすぐ日が暮れる。灰色の町並みが黒に変わっていく。

今日はここまでだ。

明日も、明後日も、すみれが見つかるまで俺は街を彷徨うのだろう。そうしたら、この灰色の町並みも以前のしめやかな煌びやかさを取り戻すだろう。

絶望で心が折れぬよう、俺はただただ彼女のことを考えながら帰路に就いた。




 小夜と出会ってからどれくらい経っただろうか。僕はいつの間にか青いばらに通うようになっていた。どうしても彼女と会いたかったからだ。最初は小夜にすら会えなかったが、足を運ぶごとに彼女に会う機会を得た。やがて、彼女の固定客となり来店すればすぐに彼女と一緒になれた。かなりの出費だったが、仕事での蓄えはあったから多少は問題なかった。彼女との時間は特別なものだ。お互いの他愛のない話をしたり、ただ酒を飲みながらまどろんだり、彼女の歌を聴いたり。大したことなんて無いが、大切な時間だ。

そして、今日も僕は青いばらに足を運んでいた。小夜に会うために。

夕闇が迫る町並みをそそくさと歩き青いばらにたどり着く。店の前にはいつもの警備員。

最初の頃は怪訝そうな顔をで僕を見ていた警備員も今では顔を合わせると、明るい表情を見せてくれるようになった。

階段を上り、扉を開ける。バンドの演奏と、明るい照明が僕を迎える。

「あ、龍之介さん。今日もいらしたんですね」

入り口の近くにいた女の子が声をかけてきた。

「あぁ、今日も来たよ」

「ってことは、すみれちゃんですね、すぐ呼びます。……たまには私を指名してくれてもいいんですよ」

「また今度ね」

「………いけず」

「え?」

「いいえ、何でもないでーす。ちょっと待っててください」

そういって女の子は奥に行った。あの子もそれなりに人気のある子で、僕自身何回か一緒に呑んだ。元気で明るく、人懐っこい子といった印象だ。

「龍之介さま、今日もいらしてくださったんですね」奥の方から、さよがやってきた。今日は紺色のロングドレスという出で立ちだ。

「じゃあ、あたしはここで。龍之介さん?次はちゃんと指名してね」

僕に手を振り、元気な女の子はその場を後にした。

「響ちゃん、元気で可愛いですよね」

「え?」

「さっきの女の子です、美澄響ちゃん。お客様にも人気なんですよ」

「そうなんだ」

そういえば、そんな名前だったような。彼女には申し訳ないが忘れていた。

「龍之介さま、二階席が空いておりますので、そちらに行きましょう」

「あぁ、行こうか」

僕は、小夜と並んで席へと向かった。通されたのはいつもの席だった。

それから僕らは他愛のない話に花を咲かせた。彼女は店での出来事、僕は街での出来事。大して話題になるような出来事なんて無いが、心温まる時が流れる。これが幸せというものなのだろうか。彼女と出会ったことによってモノクロだった日々が鮮やかに色づいたようにも感じる。少なくとも僕の人生に彼女が必要なのは確かだ。

楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去っていく。今日も彼女とのお別れの時が来てしまった。寂しくもあるが、また彼女に会うために明日に向かって生きていこうとも思える。

「ねぇ、龍之介さま?」

「どうかした?」

帰り際、小夜が何か言いたげな表情で僕を見ていた。

「もしよろしければ、わたくしと出掛けていただけませんか?」




それから三日後

僕はマーケット入り口にある広場で一人緊張しながら を待っていた。

 は買い物と外見物をかねて出掛けたかったようだ。前みたいにならないように面倒に巻き込まれないように僕と一緒にだ。

僕は当然二つ返事で彼女に応えこうして出掛けることになった。

しかし、その時は勢いもあったが一人冷静になれば、これは端から見ればデートではないだろうか?それに店にはなんと言ってきているのだろう。店の外でこうして客と会っていいのだろうか。

色々思考を巡らせつつ、時計を見たり、服装が乱れていないか確認したり忙しなくいろんなところに目をやり僕は彼女を待っていた。

また広場の時計を見てみる。待ち合わせの時間まであと十五分はある。辺りを見回してみる。マーケットへ続く道はいつも通りのにぎやかさを見ている。たが誰もが疲れ切ったような表情だ。明るい表情の人なんてほとんどいない。僕もあんな表情で過ごしていたのだろうか。広場の方にいるのは僕と男が一人、ベンチに座って動こうとはしない、広場の入り口をただじっと見ている。その表情はまるで死人のようだ。

「龍之介さま。お待たせしました」

声をかけられ振り返る。そこには臙脂色の女性物のコートに白のつば広帽といった姿の が立っていた。

「待たせてしまって申し訳ございません……龍之介さま?」

「え、あぁ全然待ってないよ」

「そうなのですか?」

「うん、だから気にしなくて平気だよ」

僕はまた彼女に見とれていた。

彼女の私服姿をちゃんと見たのは今回が初めてだ。いつもは仕事できているドレスだし、最初にあったときはロングコートだったはず。

「可愛い服だね」

「ケープコート?と言うみたいなのですが、可愛らしくてお気に入りなんです」

「凄く似合ってるよ」

「……ありがとうございます!」

彼女は満面の笑みを浮かべた。

彼女と出会ってから、彼女の様々な表情を見てきた。仕事の時に浮かべている微笑、たまに見せる拗ねたときの顔、別れ際に見せる寂しそうな笑顔。どんな表情も自然と彼女に合っていた。たが、やはり彼女に一番合うのは笑顔だ。日の光のような笑み、この世界で僕が本物の太陽よりも太陽のように思えるもの。大袈裟かもしれないが、僕の中では彼女はそんな存在だ。

「そろそろ出掛けようか。どこに行きたい?」

「そうですね……まずはマーケットに行きたいです。この前はちゃんと見られませんでしたし」

「じゃあ行こうか」

「はい!」


マーケットに入ると、初めて彼女とここに来たときのように、すぐに僕らに視線が集まった。

「何故、皆様はこちらを見ているのでしょう?」

当然だ。まず服装が目立つ。彼女が来ているような服はここらでは珍しい、そもそも手に入るか怪しいくらいだ。色も派手な部類に入る。

でも、一番の理由は彼女の容姿だろう。

「なんでだろうね」

はぐらかしながら、視線を気にせずに先を進んだ。

彼女が最初に足を止めたところは食べ物を扱ってい店だった。店にはあまり種類は多くないが、野菜や果物が並んでいる。

「すごいです……こんないっぱいの野菜は初めて見ました」

「そうなの?」

「はい!……感動ものです」

「そんなにか」

彼女は目を輝かせながら、商品を眺めている。僕からすれば日常的な光景も彼女からすると、いつもと違う光景のようだ。

「あの、龍之介さま?あれは何というものですか?」

そういって彼女が指さす先には、黄緑色の檸檬が積まれていた。檸檬はこの街で栽培している数少ない果物だ、酸っぱいが貴重な食べ物であるので、それなりに人気はある。僕も仕事中に疲れたときに食べることがある。かなり酸っぱい。

「檸檬だよ、果物だね」

「れもん……ですか」

「うん、もしかして、見たこと無い?」

「はい、お店の方にも入ってきたことはないです」

彼女は興味津々に黄緑色の紡錘形の果物を眺めている、そんな彼女を見ているとどこかほほえましく思える。ふと、彼女から視線をはずすと、店主が無言でこっちを見ているのに気がついた、どこかむっとした表情を見る限り、買うか、さっさと店を離れた方がいいようだ。

「檸檬を一つ」

「……まいど」

僕は表示されていた分のお金を店主に渡す。

店主は適当に一つ選ぶと、そのまま僕に渡した。その様子を彼女はぼんやりと眺めている。そんな彼女に僕は買ったばかりの檸檬を差し出した。

「はい、そんなに気になっているならどうぞ」

「えっ?……い、いえ、そんな、悪いです」

「僕が好きにやった事だからさ、受け取ってよ」

「……いいのですか?」

「うん」

「……では、お言葉に甘えて……ありがとうございます」

彼女に檸檬を渡しまたマーケットを回る。彼女は歩きながら、受け取った檸檬をまた真剣に観察する。そんなに珍しかったのだろうか、感触を確かめたり、香りを嗅いだりしている。

「いい香りですね」

「食べてみないの?」

「どう食べればいいのでしょう?」

「ちょっと貸して」

 人通りが少ないところで足を止め、彼女から檸檬を受け取る。いつも常備している小さなナイフを取り出し、檸檬を二つに切る。そうして彼女にまた渡す。

「このまま囓るだけだよ」

「わかりました」

 彼女は恐る恐る檸檬を口元へと運ぶ。そして、覚悟を決めたのか檸檬を少し囓った。

「おいし……」

 美味しいと言いかけたのだろうが、その言葉が彼女から出る前にみるみる彼女の顔が顰め面になる。こんな表情にもなるんだなと僕はしみじみ思いながら彼女の表情を眺めている。顰め面でも美人は損なわれていない事が大発見だ。

「すっぱいです……」

「すごくすっぱいです……」涙目になりながら彼女が僕に訴えてくる。

「そういう食べ物だから」

「そうなのですか……」

彼女は何度か自分に言い聞かせるように小さくうなずくと、また檸檬を食べ始めた。檸檬の酸味に顔をしかめつつ何とか彼女は半分食べ終えた。

「あと半分……」

だんだん見ていてこっちが辛くなる。

「あのさ、もしよかったら残りの半分もらっていい?」

「え?」

「いやさ、食べているところ見ていたら食べたくなってさ、よかったら貰えない?」

「……いいのですか?」

「うん」

「では、どうぞ」

「ありがとう」

僕は自分が持っていた檸檬を食べた。

皮の苦みと爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。うん、すっぱい。あと水が欲しい。

「すっぱ……」思わず、顔をしかめてしまう。その様子を目を丸くして見ていた彼女と顔が合う。少しの間が空き、思わず二人で笑いあう。大して面白いことがあったわけでもない、ただ檸檬を食べて二人でしかめ面になっただけだ。だけど僕にとっては心の奥から暖かくなるような気分になった。

僕らはそれからマーケットを見て回った。大した店はないが、彼女は目を輝かせて見ていた。僕らは一息つくため、入り口の広場まで戻った。

「マーケット、奥深いところです……」

「楽しかった?」

「はい!とても楽しかったです。よい経験が出来ました」

彼女はまだ目を輝かしていた。余程の経験だったのだろう。

「外に出掛けことってあるの?」

「そうですね……お店の前の掃除の時とお店の裏の空き地でのんびりするときだけでしょうか?それ以外はお店で用意していただいたの中で他の皆さんと過ごしています」

「たったそれだけにしか出ないの?」

「はい、お使いに行く人は決まっていますし、特に私は外に出ないように言われております。前のお使いは代行で、今日は特別です」

「それは……」

あんまりじゃないか、そう僕は言い掛けた。まるで籠の鳥だ。

「気になさらないで下さい。もう慣れてしまいましたから」

そう答える彼女の笑顔はどこか寂しさがあった。

「……次はどこに行こうか」

僕はこの話題を無理矢理終わらせた。今日一日、目一杯彼女に楽しんでもらうために。早く輝かしい彼女の笑顔を見るために。

「そうですね…… さまのおすすめなどありますか?」

「おすすめねぇ……」

この街は思ったよりも狭い。マーケット、移住地、青いばらのある飲み屋通り、廃墟街、それくらいしかない。

その中で彼女が喜びそうな場所……思いつかない。

「そうだねぇ……」

どこがいいのだろう、答えに困り、周りを見渡す、すると思いも寄らないものが視線に入る。

「ちょっと場所を変えよう」

「えっ?……きゃっ!」

僕は彼女の手を取り、広場を足早に去ろうとした、僕の視線に入ったもの、それは彼女と出会ったときに彼女を襲っていた男たちだった。

「龍之介さま?」

「急いで」

 男達も気が付いたのか、偶然か、こちらの方に近づいてくるようだ。

 僕はなるべく目立たないように、かつ急いで広場を後にした。だが、後ろの方から誰かが付いてきているようだ。

「走るよ!」

「はい!」

 まるで最初に出会ったときのようだ。僕らは廃墟街へと駆けだした。

 どれほど走っただろうか。僕らは廃墟街の奥の方まで来ていた。

「もう……大丈夫かな……」

僕も彼女も息が上がってしまって、これ以上は走れない。

「………まるで出会ったときのようですね……」

言われてみればそうだ、あの時も彼女と懸命に走っていた。

「なんだか懐かしいね」

「はい……ところでここは?」

「廃墟街だよ、最初に出会った場所の奥の方」

「そうなのですね……どこか寂しいところですね」

「ほとんど人は寄りつかないし、住んでもいないしね」

ここにあるのは朽ちてゆく建物と荒らされ尽くした建物しかない、ここに住む物好きなどそうそういないし、いても危険な輩であろう。

背の高い建物に、細い道、まるで迷路のように張り巡らされている。音もなく、薄暗く鬱蒼として、まるでこの世界に僕らだけしかいないような感覚になる。

「これからどうしましょうか?」

「そろそろマーケットの方に戻っても平気だと思う」

奴らはまけだろうし、帰りが遅くなっては彼女に悪い。僕はマーケットに戻ることにした。

「あ、あの、龍之介さま?あの建物は?」

「どれ?」

彼女が指さす先を見る。そこには大きな扉に朽ちた派手な看板。汚れたショウウィンドウにはボロボロのポスター。

「劇場……かな?もしくは映画館?」

本に載っていた写真に似たような建物をみた覚えがある。実際に見たことはなかったが。

「どのような建物なのですか?」

「昔の娯楽施設だよ。今じゃないけど」

「そうなのですね………あの……」

「入ってみる?」

「……はい!」

彼女の職業によるものか、はたまた好奇心か、どうやら彼女はここに惹かれたようだ。僕も少し興味があったので入ってみることにした。

劇場らしき建物に入ると、埃を被り、ボロボロになった赤い絨毯がひかれており、赤い天鵞絨できたで同じようにボロボロのソファが寂しそうに鎮座している。ここはエントランスだろうか?その先には大きな両開きの扉がある。

僕らはゆっくりと扉の方へと進む。

扉は長年放置されていたせいか立て付けが悪く思い切り押さないと開かなかった。その扉の向こう、劇場内へと僕らは足を踏み入れた。

エントランス同じ赤色の天鵞絨仕立ての座席が並び、その先にはこじんまりとしたステージ、本来舞台装置があったであろう天井は抜け落ちてしまっており、ステージやその前の座席に散らばっている。ステージは今、曇り空のどんよりとした光が射し込んでいる。

「すごいですね……お店より広い」

彼女はまじまじと劇場を見渡している。

「思ったよりちゃんと残っているね」

「そうですね、あそこがステージですよね?」

「たぶん……あ、気を付けて」

彼女はステージへと向かう。僕は彼女が残骸に足をつまずかないか心配だった。

「大丈夫ですよ。ほら」彼女は無事にステージへと登った。

「すごい眺め……」

彼女はステージから席を見渡す。その表情はとても楽しそうだ。

僕はその様子に安心して、改めて劇場内を見渡した。天井が落ちていたり、壁が傷んでいたりと、風化による傷は多いものの、荒らされた様子はない。天鵞絨の椅子も埃を被っているだけで、まだまだ現役だ。席の足下にはここで上演していたであろう劇のちらしが落ちている。どうやら誰も興味を持たなかったのか、誰も気がつかなかったのであろう。彼女が見つけなければ次は誰が見つけたのだろうか、このどこか寂しさと温かさのある劇場を。

それは突然のことだった。懐旧的な気分になっている僕の耳に歌が聞こえてきた。それはステージに立っていた の歌声。店とは違い彼女の歌声以外何も聞こえない。僕は舞台近くの席へと座り、彼女の歌声に耳を傾ける。歌は彼女がよく歌うあの愛がテーマの歌。僕だけの彼女によるステージ、それはとても満たされた時間だ。

彼女が歌い終わり、特別公演は終わりとなった。僕は彼女の歌に拍手で応えた。

「ふと、ここで歌いたいと思いまして……急に歌い出して驚かせてしまったでしょうか?」

「驚きはしたけど、とてもよかったよ。店の時よりすごかったよ」

「ありがとうございます。造り、でしょうか?とてもよく響きました。」

彼女は満足げにしながら辺りを見渡した。

「そうだろうね。それに音を遮り物もないからさ」

「なるほどです」

「そろそろ時間だし、戻ろうか」

「はい」

僕と彼女は自然と手をつなぎ、マーケットまで戻ることにした。

マーケットまでは特に会話がなかった。僕は心の中で一つ決心をした。彼女に告白をする。前々から彼女に惹かれていた。だが、この気持ちは恋なのか、出会ったときの緊張感や高揚を恋と間違えていたのか、はっきりしていなかった。だが、今日彼女と過ごして確信した。僕は彼女に惚れている。好きで仕方がないのだ。彼女はどう思っているのだろうか。どんな返事をしてくれるのかは分からない、だがここで決心しなければなはない。

そして気づけばマーケットの前の広場まで来ていた。

「本日はありがとうございました。とても楽しい一日でした」

「僕もだよ」

「では、この辺で……」

「あ、あの、小夜。君にどうしても伝えたいことがあるんだ」

「はい、何でしょうか?」

「………きだ」

「え?」

「僕は君が好きだ!」

「………わたくしも龍之介さまのこと好きですよ?お店にも来て頂いて、今日みたいに無理言ったわたくしと出かけて頂けましたし」

 どうやら彼女はわかっていないようだ。僕が言っている『好き』と彼女が思っている『好き』が違うことに。

「そういう好きじゃなくて、一人の女性として君が好きなんだ、僕は君と付き合いたいんだ」

「え………」

「僕と、付き合って下さい」

僕は思いをすべて彼女に伝えた。彼女は?

彼女を見ると、彼女は狼狽えあたふたして、しまいにはうつむいてしまっている。

「………………ごめんなさい」そう言い残し彼女は走り去った。

僕の中で何かが壊れる音がした。





人間というのは身体よりも先に感情が先に朽ちていく生き物ようだ。

 すみれがいなくなってからどれくらい経っただろうか。

俺はすみれを探して歩き回った。だが未だに は見つからない。そのたび何かがすり減っていく。最悪の結果が脳裏によぎるもそれでも俺は探して回る。 が見つかるまで探して回る。

それを繰り返すうち、俺から何かが抜け落ち、ただただすみれを探す機械になった。

いや、機械というよりかは歩く死体のようか。

どちらにせよ、俺はすみれを探すのみだ。

何の理由、何が目的だったかはもはや覚えていないが。

今日もマーケット前の広場ですみれを探してみる。だが無駄足だろう。こうやって何日も同じことをしたのだから。

広場には俺以外に男が一人、さっきから忙しない様子で立っている。

やがて、連れであろう女がやってきた。どこかであったことがある顔だが思い出せない。合流した二人はマーケットの方へと消えていった。

俺もああやって過ごせたはずなんだろうか。過去の自分と重ねてみようとする、だが今の自分にはできない。荒んで、擦り切れた感情はどう訴えても反応はない。

ここにいても仕方がない。俺はすみれを探しに歩き出す。今日は廃墟街に行ってみよう。

マーケット、飲み屋街などすみれが行きそうなところはすでに回り尽くした。あとは廃墟街と外になる。外は最終手段だ。まずは廃墟街を探す。

廃墟街はまるで迷路だ。同じような建物が並び、方向感覚がわからなくなってくる。奥に行けば行くほどそうなっている。そこを無法者共が根城にし、一般人を襲いに出てくる。世ほどのことがない限りあそこには立ち寄らないだろう。

気がつくともう廃墟街の入り口に立っていた。すみれが廃墟街に用があるとも思えないが、何かに巻き込まれたら話は別だろう。半ば捨て鉢になっていた俺は臆することもなく先に進んだ。

建物の陰で暗くなっている、いつどうなるかわからない、だがどうとでもなれだ。どんどん先に進む。聞こえるのは自分の足音だけだ。まるで世界に自分一人しかいないような錯覚にとらわれる。そんな下らないことはすぐに消え去り、俺はすみれを探し先に進む。

今廃墟街のどの辺にいるのかわからないが少なくとも奥に来たのは確かだ。

何やら目立つ建物があるが、俺は無視して先に進む。

また細い道に入ってしまった。ここでも収穫はないかもしれない。そう思いつつも俺は先に進もうとする。すると、自分の後ろの方で何やら音が聞こえた。

それは一瞬の出来事だった。

気がついたら俺は地面に倒れていた。頭には鈍い痛みとなま暖かさ。ぼやける視界に写るのは誰かの足、数からすると三人のようだ。どうやら俺は追い剥ぎに襲われたらしい。

「なんだ男か」

そんな言葉が聞こえる。

意識は遠のいていき、身体には力が入らない。

「まぁ、身ぐるみ剥いで放っておけばいいさ」

「さっきの女は?」

「知るか」

どうやら俺はここで終わるらしい。 を見つけられずに。呆気ないな。

男の一人が髪を引っ張り、無理矢理頭を上げる。

ぼやける視線に男の顔と見慣れたものが目に入る。

それはすみれが愛用しているマフラー。

それを見た瞬間頭に血が上った。身体に力が入る。

そして。




「本当に知らないんだな?」

「は、はい。拾っただけです」

「どこで拾った?」

「ここの先を曲がった先に目立たない道の入り口があるんですが、その入り口の看板に・・・」

「信じていいのか?」

「そりゃもちろん……だから命だけは……」

俺は襲ってきたロン毛の髪をつかみ、マフラーの経緯を聞き出していた。

残りの男はというと、スキンヘッドのやつは血だらけで変な呼吸をしながら仰向けに倒れている。もう一人の角刈りは呻き声をあげながらうずくまっている。今、質問している男も顔は腫れていて、鼻からは血が流れ、前歯の何本かが折れている。俺がやったことは確かだが、あまり覚えていない。マフラーを取り返し、ロン毛に質問をし始めたところから鮮明に覚えている。

こいつからはもう聞くことはなさそうだ。俺はロン毛を引き倒し、顔面に蹴りをいれた。

ロン毛も仲間と同じように再起不能になった。

俺はその場を離れ、男が言った方に歩き出す。

あいつ等がどうなろうと俺の知るところではない。そのままの野垂れ死ぬか、運よければ助かるかだ。

俺は改めてマフラーを見る。汚れているがすみれのマフラーで間違えない。すみれがここに来たのは間違えない。死んでいた心に少しばかり希望の光が射した。

男に言われたとおりに進むと確かに看板があり、道……正確に言えば階段があった。看板は文字が掠れてもう読むことはできない。階段の先は暗くてよくわからない。

俺は何の迷いもなく階段を降りた。

暗く長い階段を壁伝いに降りていく。まるで永遠に続いていくような感覚にとらわれる。どこへ続くのだろうか。

やがて階段は終わり、大きく、分厚そうな扉へとたどり着いた。

扉に手をかけ、押してみると力が必要だが扉は開いた。中は弱々しい光で照らされている。珍しいことに電気が通っているようだ。俺は扉の奥へと進む。また長い道が続いている。少し進んだ先に何かが落ちている。拾ってみるとそれは手袋だった。これも見覚えがある、すみれの手袋だ。すみれはここにいる。

道を進むと、明かりが漏れている部屋を見つけた。

部屋に入ってみると、今にも切れそうな照明と非常灯が付いており、その光に照らされた。扇状に広がって配置された机と椅に黒い画面の物体。扇状の中心の壁にも大きな黒い板が付いている。机にあるのは文献で見たことがある。パソコンだ。壁のは……モニターだろうか。どうやらここは戦前に何かパソコンを使うところだったのだろう。だが、パソコンは沈黙している。長年の歳月からか壊れてしまったのだろうか。しかし、よく見てみるとまだモニターが生きているパソコンを見つけた。モニターには何か文章が表示されていて、その前にはボロボロの紙に書かれた手紙のようなものとすみれの手袋の片方。俺は手紙の方を手に取った。



敬之へ

もし、蘆屋敬之じゃなければ飲み屋街の喫茶店のマスターに蘆屋敬之宛と伝え渡してもらえると助かります。


もし、あなたがこの手紙を読んでいるのなら、あたしの身に何かが起こっている時だと思う。

もしかしたら、もう会えないかもしれない。

先に謝っておきます。ごめん。

お願いがあります、廃墟街の奥、地下に施設があります。そこに行って、パソコン?の画面に書いてあることをやってください。

これはあたしが始めたことの後始末です。

道しるべに従えば迷えず着くはずです。


今まで楽しかったです。

会えるのならまた逢いましょう。

話したいことが沢山あるのです。


 より

「なんだよこれ……」

まるで遺書じゃないか。そこまでしてすみれは何をやろうとしていたのだろうか。俺はパソコンの画面に目をやった。



これを読んでいる人へ

貴方達が生きているその時代、その時に

もし、外の汚染が消えているのなら、この街のドームを開けてほしい。

方法は簡単だ。この画面に映っている数字が百になったなら、エンターキーを押してほしい、赤い印を付けておいた。

ただ、それだけだ。

これを読んでいて疑問に思うだろう、何故ドームを開けなければいけないのかと。

私が生きていた時代はドームのもと、みんな復興という明日へと向かった進んでいた。

みんなそれは必死に努力してきた。

やがて、マーケットやドーム側面のプラントが完成した。

だが、それからというと、人々は進むのをやめ、ドームというゆりかごの中で安寧の日々を過ごし始めた。そして、最後には退廃していった。

この退廃を脱するにはこのゆりかごから人々が出て、新たに生まれ変わらなければならないと私はそう思った。ドームと共に生きてきたものとしてね。

そして私は、この場所でドームを操作できると知り、安定しないが電力源を見つけ、ゆっくりであるがドーム一回開ける電力を貯め始めるように操作した。

完全に貯まるまで何年、何十年かかるかわからない、だがきっとこれがこの街の人のためになると信じている。

私は夢想する。退廃した街から飛び出し、汚染が消えた世界で自由に生きる人々を


言葉が出なかった。

 すみれはこんなことの為に身を危険にさらしたのか。

こんなものの為にいなくなってしまったのか。

パソコンに表示された数字は九十五パーセントあと少しで電力が貯まる。

いいだろう、俺が引き継ごう。

そして、彼女がいないこの無意味な世界を終わらせよう。俺はこの場をあとにした。

帰りに見た空の色は絶望にあふれていた。




小夜とあんな別れ方をしてから何日か経った。

僕は心にぽっかりと穴があいたような気分になっていた。

仕事も禄に手を着けられず休業状態。部屋に籠もっているか、街で幽鬼のようにぶらついているか。ただ無駄に時を過ごしている。

彼女は僕に何の感情も抱いてなかったのだろうか、仕事だから優しく接してくれたのだろうか。今となっては何もわからない。

無音の部屋に腹の虫が鳴く、何もしていなくても腹は減る。

ここで考えていても仕方がない。僕は外出することにした。

マーケットはいつものように沢山の人がいて賑やだ。僕は何か食べ物の屋台が出てないか見て回る。ふと、目に入ったのは果物屋の檸檬。あの日のことが脳裏に写る。楽しい時間だった、満たされた時間だった、だが今は…………

僕は果物屋の前を足早に通り過ぎた。

適当に食事をすまし、今日の予定を考える。

蓄えも少し減りすぎたので仕事を再開する頃合いかもしれない。そうなれば の店に顔を出さないといけない。僕は の店に行こうとし、意外な人と再会した。

「あら?久しぶりじゃない」

「あ、龍之介さん?」

「最近店に来てくれなかったからどうかしちゃったかと思ったわよ」

それは青いばらの従業員、確か……美澄響という名前の女の子だった。青いばらでも何回か一緒に飲んだ。

「まぁ、色々あって」

「そう……龍之介さんがこないから、沙耶ちゃんも元気ないわよ?」

「え?」

小夜が元気ない?どういうことなのか。

「龍之介さんと出掛けて帰ってからずっと心此処に非ずって感じ?仕事はこなせているけど、何時もと違うし……龍之介さん、小夜ちゃんと喧嘩でもした?」

「え、いや……」

喧嘩ではないが……

「龍之介ちゃんは最近店の後ろの庭で物思いに耽ってたりするから、よかったら顔を見せてあげたら?別にお店であたしに会いに来てもいいけどさ。じゃあね」

意地悪そうな笑みを浮かべて美澄さんはどこかへと歩いていった。

僕は……歩き始めた、青いばらへと。最初はゆっくりと、マーケットを抜ける頃には走り出していた。もういてもたってもいられなかった。もう一度、彼女に会って話したかった。



龍之介さまからの告白、ほんとうはとても嬉しかったのです。真剣に告白をしてくださったお方は龍之介さまが初めてでしたから。

告白されたときは嬉しさのあまり泣き崩れてしまうかと思いました。

しかし、そのようなことは決してありませんでした。

わたくしはその場から逃げてしまいましたから。わたくしは怖くなってしまったのです。

わたくしと さまはいきる世界が違うのです。

さまはきっとわたくしの表面の姿だけをみて告白してくれたに違いません。

わたくしは汚れた人間です。生きていくために色々なことをしました。沢山の男性と寝たりだってしました。そうして、わたくしは今へとたどり着きました。

どんなに外面を良くしても、どんなに着飾ってもわたくしの汚れた姿を隠すことなんてできないのです。

わたくしは幸せを手にすることはないと思ってました。だからあの時、あの幸せが怖くなってしまったのです。

ですが、これでよかったのです。

わたくしが龍之介さまと釣り合う関係になるとは思えないのです。龍之介さまにはもっと素敵な方に逢えるに違いありません。

これでよかったのです…………

……しかし、何なのでしょう、この心にぽっかりと穴が開いたような感覚は?

心此処に非ずと最近言われてしまいます。

何なのでしょう?ごの感情は?

こうして、庭のベンチに座っているだけなのに涙があふれてくるこの気持ちは何なのでしょう?

「小夜!」

懐かしい声。これは幻聴なのでしょうか

声のする方に振り返ると、嗚呼そこには……



美澄さんの言ったとおり、小夜は庭のベンチに佇んでいた。僕をみてかなり驚いているようだ。

「……龍之介さま、どうしてここに?」

「美澄さんに教えてもらったんだ」

「そうだったのですね…………」

それっきし、会話が途切れる。

気まずくなり、僕から声をかける。

「あ、あの……」

「この間はすいませんでした」

「え?」

「突然のことで驚いてしまって、逃げてしまって……」

「こっちこそ急にあんな事言ってごめん。でも、あれは僕の本気の想いなんだ」

「ありがとうございます。でも、付き合うことはできません」

僕の心はまたも打ちのめされた。だが、此処まで来て簡単に引き下がるわけには行かない。

「……理由を教えてくれないか?」

「理由、ですか」

「うん、納得したいからさ」

彼女は俯いて何かを考えているようだった。しばらくして

「……龍之介さまにはわたくしがどう映っております?」

「優しくて、愛嬌があって、暖かみがある」

「それはわたくしの表向きでしかないのです。それを見て龍之介さまはわたくしを好きと言っているのです」

「えっ……」

「ほんとうのわたくしは汚れた女なのです。龍之介さまが想っていてくれるわたくしはほんの一部でしかないのです。ほんとうのわたくしを さまに見られ軽蔑されるくらいでしたら、わたくしは断った方がいいと思ったのです。龍之介さまの想ってくれていたわたくしが綺麗なわたくしのまま」

僕は言葉が出なかった。そして、彼女が抱えているものをここで初めて知ったのだった。僕はなんて脳天気だったのだろう。

「だから、龍之介さま、今日でお別れしましょう。もう、ここには来ては行けません。龍之介さまにはもっと素敵な方に出会えると思います。ですから、わたくしのような商売女なんか忘れて下さい」

「そんな事……できないよ……君は僕が初めて恋を……」

「それ以上先は言わないで!わたくしだって龍之介さまが好きです!愛しているのです!でも……でも、出会うのが遅すぎたのです……わたくしは龍之介さまに出会うまでに数々の殿方と寝ました。様々な行いもしました。わたくしは汚れすぎたのです。だから、もうやめましょう さま。最後は笑顔でお別れです」

彼女は涙を流しながら、笑顔を作っていた。それはとても悲しさにあふれた笑顔だった。

僕はどうすればいいのだろうか、慰めの甘い言葉をかけながら抱き締めればいいのだろうか、卑下する彼女を叱咤すればいいのだろうか。

僕は…………

「それでも、僕は小夜が好きなんだ……好きで好きでたまらないんだ。本当の小夜とか偽りの小夜とか全てひっくるめて君が好きなんだ!小夜が歌っていたあの歌の歌詞のように君を愛しているんだ!」

僕は想いをぶつけることしかできなかった。何も思いつかなかった自分が情けない。

「……龍之介さま…………龍之介さま!」

彼女が駆けより僕に抱きつき、子供のように泣きじゃくった。僕はただただ、彼女を抱きしめていた。



段々とあたりが暗くなってくる。

僕らは寄り添いあうようにベンチに座っていた。

「龍之介さま」

「何?小夜」

「これからどういたしましょうか」

僕らは付き合うことになった。だが、龍之介は青いばらの看板娘、あのオーナーが易々と手放すことはないだろう。ばれてしまえば最悪僕は殺されるだろう。

「……この街を出ないか?」

無謀なことだとはわかっているし、自殺行為であることは間違えない。だが、もし、この街以外に街があれば、僕らを知らない街があれば、そこから新しくやり直せる。

「はい」

彼女は何も問わずに笑顔で了承してくれた。

「本当にいいんだね?君は今の生活を……」

彼女は人差し指を僕の唇に当て、その先を言わせないようにした。

「もう……龍之介さま?わたくしは龍之介さまと生きていくと決めたのです。ですのでもういいのですよ」

「ごめん……二人で生きていこう。あの歌詞のように」

「………『愛の賛歌』、ですわ」

「え?」

「あの曲は『愛の賛歌』と言うのですよ」

「「あいのさんか」…………とてもいい響きだね」

「はい」

僕らは微笑みあい、見つめ合う。そして、僕らは口付けをした。とても、満たされたときが過ぎていく、この先僕らがどうなるかは解らない、だがどんなことがあっても僕はこの幸せを手放さないと決めた。何があっても。






薄暗い部屋の中で、俺はモニターを眺めている。モニターに表示されている数字は九十九パーセントもうすぐドームを開くことができる電力が貯まる。

俺はふと、すみれとの出会いを思い出した。



出会ったとき、すみれは青いばらで働いていた。

すみれは青いばらの中では新人で、まだ固定の客はいなかった。俺は彼女に惹かれ行く度に彼女を指名していた。すみれも楽しそうにしていたのを覚えている。やがて俺はすみれに恋をして彼女と付き合いたいと考え始めた。だが、すみれは店の決まりで付き合えない。考えに考えた末、俺はある決断をした。

彼女を買ったのだ。

最初に提案してきたのはオーナーの方であった。俺くらいしか固定客がいない彼女を厄介払いしてついでに儲けようという腹積もりだったのだろう、安くもなく、手が出せないわけでもない値段を提示してきた。

俺はすみれと暮らせるならと金を払った。

そしてすみれは店から出て、俺と暮らすことになった。俺が彼女を買ったことは彼女は知らない。オーナーの厚意ということになっている。

それから、すみれとの穏やかで満たされた日々が続いた。あの日までは。

すみれが何時、どうしてこの施設を発見して、指示を引き継いでいたのかは解らない。普段の様子も変わった様子はなかった。

そして、すみれはあの日、あのデートの時に突然消えてしまった。謎を残したまま。

だが、もうそんな事はどうでもいい。俺はすみれからこれを引き続き、ドームを開く。 がいない世界なんてもうどうでもいい。天井を開けて全てを終わらせる。それが俺が今望むものだ。

モニターを見る。電力は貯まった。決行は明日。この街を終わらせる。





辺りはすでに暗くなっている。庭には明かりはない。これなら彼女は気づかれずに寮を出られるだろう。

僕は今、彼女を連れ出そうとしている。

彼女が仕事から戻ってきたら、窓が開く、それが合図だ。




今日のお仕事が終わり、わたくしは寮へと足早に向かっていました。わたくしはここを出て、龍之介さまと二人で暮らすのです。これが噂に聞くところの駆け落ちというのでしょう。この先どうなるかは解りません。でも、きっと幸せな明日が待っているのだと思います。

廊下には誰もいません、今しかありません。

「どこに行くの?」

はっとして、わたくしは声のした方に視線を向けました。

「響ちゃん」

それはわたくしを睨みつけるように見ている響ちゃんが立っておりました。

「小夜ちゃん、どこに行くの?」

嘘をついても彼女を見れば通じないことは一目瞭然です。

わたくしは本当のことを告げました。

「わたくしは、ここを出て行きます。ここを出て、龍之介さまと添い遂げます」

「何で?」

「え?」

「何でここを捨てるの?何で今の立場を捨てるの?ねえ?何で?添い遂げる?笑わせないでよ。そんなことのために全てを投げ捨てるの?」

「そんなこと、ではないです。わたくしは龍之介さまに救われました。あの方はわたくしの全てを愛してくれました。だからわたくしも龍之介さまに尽くしたいのです。そのためなら全てを捨てるのも辞さないのです」

「じゃあ残された人はどうなるの?青いばらのみんな、お客さん、あなたを目標にしてたあたし…………全部捨てていなくなるの?自分勝手過ぎない?」

「たしかにわたくしは自分勝手でしょう。でも、わたくしは龍之介さまとの愛のために生きたいのです。全てを捨てても、後ろ指を指されても、笑われても……愛さえあればいいのです」

わたくしは思いの丈を響ちゃんにぶつけました。響ちゃんは黙ってわたくしを見ていました。響ちゃんは目線はそらし、ため息をつきました。

「底抜けの莫迦かもしれないかもね、あんた。もういいわ、さっさと行っちゃいなさい。愛とやらの為に生きるんでしょ」

響ちゃんは呆れたように笑みを浮かべていました。

「ありがとうございます ちゃん」

「礼なんていらないわ。それと一つ嘘をついていたわ。あんたを目標にしてたって言うのは嘘。あたし、あんたがだいっきらい。あたしがどんなに努力しても、目立とうとしても全部あんたに持って行かれる、ずっと二番。あんたがいなくなって清々するわ。さぁ、さっさと行きなさい。あたしは何も見なかったことにするわ」

満面の笑みで響ちゃんはそう言い。わたくしの横を通り過ぎました。過ぎ際に響ちゃんは小さく呟きました。

「幸せにならなかったら許さないから」

振り返った頃には響ちゃんはもう離れていってしまいました。わたくしは響ちゃんに頭を下げ、先に進みました。

部屋に戻り、急いで着替えます。仕事の服ですと目立ってしまいますし、動きづらいですし。そして、お気に入りの外套を羽織り、あらかじめ用意していた荷物を手に取りました。元々、自分の持ち物は少なかったので小さな鞄一つで十分でした。残された仕事着や貰い物は誰かが使ってくれるでしょう。何年も使ってきた部屋に一礼し、わたくしは庭の見る窓へと急ぎました。そこには さまが待っています。




もう何時間も待っているような気がする。実際にはそんなに時間は経っていないだろう。彼女に何かあったのではと不安でたまらなかった。

やがて、窓が開き、彼女が現れた。

「小夜、大丈夫だった?」

「はい、問題ございません」

僕は安堵し、彼女に手を差し出した。

「じゃあ、行こうか」

彼女は微笑みを浮かべ手を取る。

「はい、どこまででも」

僕は彼女の手を握り、夜の闇へと走り出した。

この逃走劇の段取りはこうだ。僕の家で一晩過ごし、朝になったら僕が優斗から彼女用の外用の装備を買う、金は足りないかもしれないが、竹屋にある僕の倉庫の場所を教えれば問題ないだろう。そして、また暗くなってきた頃合いでプラント連絡口から外に出て行く。さすがに相手は外まで追ってこないだろう。僕らにとっても外は未知の世界だ。どうなるかは解らない。だが、一握りの希望を抱き行くしかない。

きっと成功するはずだ。



空が段々と明るくなってきた。今日も今にも手泣き出しそうな空が広がっている。

僕は彼女を家に残し、 の家まで向かっていた。

念のため、人通りが多いマーケットを避けて向かったが、今日はマーケット近くでもざわめきたっている。何かあったのだろうか。

 優斗の家は集合住宅の廃墟を改装したものだ、比較的荒れていない部屋が住める家となっている。住人は を含めて三、四人ほどだ。優斗はこの時間なら家にいるだろう。

ノックをすると の声が内から聞こえた。

「こんな朝早くから誰だ?」

「僕だ、入れてくれ」

「龍之介か!ちょっと待ってろ!」

バタバタと言う音が部屋の中から聞こえ、慌ただしく扉が開いた。

「おい、聞いたか!青いばらの看板娘がいなくなったようだぞ!噂によると駆け落ちだ、夜中に男と一緒に走っていく姿があったらしい」

開口一番そんな話をしてきた。僕はあまりのことに面食らってしまった。まさかこんなにも早くバレるとは思ってもいなかった。もはや苦笑いしかでてこない。

「おい、どうしたんだ?」

「家の中で話す」

僕は優斗に全て話すことにした。駆け落ちの相手は自分なのだと。優斗は黙って僕の話を聞いてくれていた。僕が事の顛末を話し終えると、頭を抱え大きなため息をついた。

「お前何やってるの?」

もっともである。

「彼女が好きだからつい」

「つい、じゃねーよ。相手を考えろよ、あの青いばらのオーナーだぞ。捕まったら確実に殺されるぞ」

「だから、この街を出るんじゃないか。ここじゃないどこかに」

「それも自殺行為だがな」

「わかってる、だけど、ここにいるよりはましさ。だから、頼む、外用の装備を売ってくれないか?金はちゃんと話すし、僕の隠し倉庫も教える」僕は に頭を下げた。

「……知っているか? 看板娘を連れ戻したものには賞金が出るそうだ。連れ出した相手も連れていくと追加報酬も出る。いい話だと思わないか?」

「まさか、僕らを売るのか?」

 僕は立ち上がり、いつでも逃げられるような体勢をとった。僕らはしばらくにらみ合っていたが、やがて優斗が破顔した。

「まさか、俺とお前の仲さ、売るわけ無いだろ、装備はその隠し倉庫で手を打ってやる」

「優斗……」

僕は一瞬でも優斗を疑った自分を恥じた。そして改めて彼に感謝した。優斗は装備を取りに行くといって家の外に出て行った。

しばらくして、古ぼけたリュック一つ持って優斗が帰ってきた。

「これ一式で大丈夫だろう」

「ありがとう。これが倉庫までの地図、受け取ってくれ」

「あぁ、それとちょっとマーケットまで行ってきた。マーケット中駆け落ち探しの話で盛り上がってる。マーケット周辺には近づかない方がいいだろう。すぐにバレるぞ」

「わかった。ありがとう、元気でな」

「お前こそ、ちゃんと幸せになれよ」

僕らは堅く手を握り、今生の別れの挨拶をした。僕は優斗の家をあとにして自宅へと戻った。

帰り道、僕は妙な胸騒ぎをしていた。マーケットには近づかなかったし、あまり人通りの多い場所は避けて通った。

だけど、家の周りは普段より人が多い。僕の住んでいる辺りは寂れてはいないが賑わってもいないといったところで、人が歩いても二、三人といった場所なんだが、今日は十人はいる。それも辺りを見回している人ばかりだ。

まさかバレてしまったのではないか。僕は人目に触れないように慎重に家に入った。

「おかえりなさいませ。龍之介さま」

「ただいま」

僕はすぐに窓に向かった。外は相変わらず、人が多い。それに動きも慌ただしくなってきている。さっき見つかったのかもしれない。このままだとバレてしまうのも時間の問題かもしれない。

「小夜、もうここを離れよう」

「何かあったのですか?」

「ここにいるのがバレてしまったかもしれない。今僕達は街中お尋ね者だ」

「まぁ……それなら急ぎましょう」

彼女は事の重大さがすぐに解ったようですぐに支度を始めた。僕も準備を始めた。それから五分くらいで支度をすませた。

「小夜、こっちの外套を羽織ってくれないか?」

「どうしてです?」

「さすがにそれは目立ってしまう」

彼女はデートの時に着ていた赤い外套を羽織っといた。こんな上等なものは街中では滅多にみないからすぐに見つかってしまうだろう。

「わかりましたわ」

彼女はすぐに僕が用意した年季の入ったフード付きの外套を羽織った。これならすぐには解らないだろう。

「じゃあ行こう」

「はい!」

そして僕らの逃避行が始まる。





 青空を見てみたい。

 すみれがそう言ったときがあった。

あの分厚い雲の先に青く輝く空が広がっているらしい。俺は俄に信じていなかったが、いつか見に行こうと言った。だが、それももうかなわない。

ドームを開けて見えるかどうか解らないがせめてもの餞だ。

さぁ、青空を見に行こう。



誰もが怪しく見えた。

全員僕らを探している、そんな風に疑心暗鬼になった。僕らは人通りの少ない裏道を通ったり、必要であれば大通りを外套のフードを被って顔が見られないようにして、唯一の外への連絡口に向かった。目的地に着く頃には人は少なくなっていき、僕は一安心していた。

だが、それもつかの間だった。

連絡口には青いばらの者だろう男達が居座っていて、通る人を調べていた。まさかここまで手が回っているとは思わなかった。

「ここは駄目だ、戻ろう」

僕は彼女の手を取り引き返そうとした。

「待って下さい、フードに何かが……あっ」

最悪なことになった。彼女のフードが脱げてしまい、素顔が露わになった。僕が急いでフードをなおしてもすでに遅かった。連絡口のところにいた男達がこちらに走ってきた。

「急ごう!」

僕らは来た道を急いで走り出した。

入り組んだ道に入ったり、隠れてやり過ごしたり、また追われたり、僕らはマーケットの方まで戻ってきてしまった。このままではいずれ捕まってしまう。彼女も走るのも限界に近かった。どこか安全な場所はないか、僕は自分の記憶をたどり、今まで行ったことのある場所を思い出していた。

「あっ……」

「龍之介さま?どうなされました?」

「小夜、まだ走れる?いい場所を思い出した」

「はい……もう少しなら……」

「あと少し頑張ってくれ」

僕は彼女の手を取りまた走り出す。すぐに見つかりまた追われる。

「ごめん!」

角を曲がり、人にぶつかりそうになるのを何とか避け、丁字路を左に曲がる。目的地までもう少しだ。





「おい、あんた。さっき二人組が走ってきただろ?どっちに曲がった?」

「あっちだ」

俺は右を指さした。

「ありがとよ」

男達は二人組と逆方向に走り出す。

あの二人は何で追われてるのだろうか。そして、俺は何で嘘を教えたのだろうか。二人にかつての俺らを重ね合わせたのだろうか。

いや、もうどうでもいい。今日で全て終わるのだから。空を見上げるとドームに覆われた空の向こうに灰色の空、雪はすでに降り始めている。

さぁ、ドームを開けて、青空を見に行こう。





「これでよし……」

僕は扉が開かないように瓦礫を沢山置いていた。ここは僕らが最初に出会って、地下から脱出した出口だ。さすがに追っ手もここをすぐは見つけられないだろう。途中で何故か追っ手が来ることはなかった。

 しかし、ここはマーケットの近く、すぐに追っ手がここを見つけるかもしれない、さっきマーケットの様子を遠目からうかがってみたが、どいつもこいつも僕らを探しているようだ。鈴原商会の店主までもが僕らを探している状態だった。

僕はここをあとにして、彼女が待っている廃電車に向かった。

「どう?落ち着いた?」

「はい、だいぶ良くなりました」

走りすぎたせいか、息を上げていた彼女だったが、ここで休んで少し良くなったようだ。

「もう少しここに隠れてよう」

僕は彼女の横に座った。彼女は僕の肩により掛かった。僕はどぎまぎしながら不慣れに彼女似方に腕をまわした。

「はい……」

僕と彼女、ここにいるのは二人だけ。ランタンの心細いがどこか暖かみのある光に照らされ、僕らはつかの間の休息をとった。静寂、ここを表すのに一番の言葉だ。どうやってここから外の世界に出ようか。僕は必死に考えていた。頬に当たる冷たい風が心地よい刺激を与えてくれる。

…………風?

閉鎖されていると思われた地下に外気のような冷たい風が吹いているのである。もしかしたらここから出られるかもしれない。

「龍之介さま、何か思いついたのですか?」

「あぁ、もしかするとこの地下はどこか外につながっているのかもしれない」

「でしたら外の世界にいけるのですね」

「多分……地下で迷うかもしれないし、出られてもドームの中かもしれない」

「それでも行きましょう、 さまとならどこへでも行けます」

「小夜……よし、じゃあ行こう」

「はい!」

僕は彼女の手を強く握った。その温もりを彼女の存在を強く、強く確かめるように。

彼女とならどこへ行こうが怖くはない。これが僕が選んだ道だ。

僕らはランタンの明かりを頼りに、風の吹く方へ歩き出した。





すみれとの思い出がまるで走馬燈のように浮かび上がる。彼女と最初に出会ったあの夜。毎日のように他愛のない話で盛り上がった日々。すみれを買い、同棲を始めてからの日常。全てが輝かしい思い出である。すみれがいてくれれば。今の俺にとってそれは残酷な思い出であり、モノクロで掠れて再生される苦痛である。

どうして、すみれじゃなければならなかったのだろうか。たまたますみれが彼処を見つけて、たまたま引き継いで、そして何かに巻き込まれ……。すみれじゃなくても良かったはずだ。何故すみれなんだ……。

その苦悶の日々もこれで終わる。この壮大な自殺の末、俺は人生を終えるのである。すみれのいないこの世界。すみれとの思い出の詰まったこの街と心中するのだ。

もし、もしもすみれが何処かにいて、今の俺を眺めているとしたら。どう思ったのだろうか。悲しんだだろうか。軽蔑しただろうか。

 …………いやすみれのことだ、困ったような笑みを浮かべて、仕方ない奴だと抱擁でもしたかもしれない。

ついにパソコンの前までたどり着いた。あとはエンターキーを押せば完了だ。

俺は何の躊躇いもなくエンターキーを押した。

押す瞬間、まるですみれが寄り添って一緒に押してくれたように感じた。

 すみれ、今会いに行く。





トンネルの温度が低くなっていくのを感じる。僕らは外の世界に近づいているようだ。

「龍之介さま、あれを」

彼女が指さす先に明かりが見える。無事に外にたどり着くことができるようだ。汚染度計の反応はない、外は汚染されていないのかもしれない。

「行こう。小夜」

僕らは光の先へと向かった。





サイレンの音が街に鳴り響く。

街を覆っている天蓋はゆっくりと開いていく。冷たい外気と雪がドーム内へと入ってくる。

誰もが開いていくドームを呆然と見ていた。やがて、何事もなかったように日々の生活に戻っていく。

ここは退廃都市、明日のことを気にしては生きていけない、時の止まった街。だがそれもこれで終わりだ。

この街は終わりによって時が動き出す。





何度か血を吐いた。

どうやらこの部屋は安全ではないようだ。俺がドームを開いてから何時間かは経ったようだ。すぐには死ねず、ゆっくりと死に瀕している。

最後にこの結末を見届けないと。俺は最後の力を振り絞り、この建物の屋上を目指す。外に出ると雪が舞っている。空を見上げると相変わらずの曇空。屋上への階段を一歩一歩踏みしめるように登っていく。汚染の影響か寒さが原因か力が入らない。体にむち打って何とか屋上へとたどり着いたが、もう体に力が入らない。俺は大の字になって屋上に寝ころんだ。

これで俺も死ぬのだろう。最後に目にはいるのはあの曇空だろう。目を開くと……

「…………ははっ……あはははは!」

笑いが止まらなかった。可笑しいからか、嬉しいからか涙が止まらない。

「すみれ……見えたよ、あおぞら…………」

涙で霞む視界の向こう、雲の切れ間、青く輝く空が広がっている。


俺はその景色を焼き付け、そっと目を閉じた。





荒れ果てた世界を僕らは歩く。ここは汚染されていないようだが、僕ら以外に人はいない。

外の世界に僕らが求める場所はあったのだろうか。もしかしたら僕の儚い希望だったのかもしれない。

それでも……それでも僕らは先に進む、その先に幾ばくかの希望があると信じて。僕らは手を堅く握り、一歩一歩先に進む。お互いの存在を確かめるように強く、強く握りながら。

不意に彼女が足を止める。振り返ると彼女は空を眺めていた。僕もつられて空を見上げる。今にも泣き出しそうな雲の隙間から光が延び、その先に青く輝く空が見える。


その空はどこか希望に満ちあふれていた。


 完


まずはこの拙い出来の小説を一読していただきありがとうございます。

この小説はとある小説大賞に応募して見事落選した小説です。

放っておくのもあれなので掲載しました。

気が向いたらまた上げます。


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