第六話 外の世界は行ってはいけない
家の裏手には、小高い丘がある。
最初にそこへ行ったのは、起きてから数日後のことだった。
朝の鍛錬がひと段落し、昼まで少し時間が空いたとき、ジャックが「たまには景色でも見ろ」と言い出したのだ。
どういう風の吹き回しかと思ったが、本人いわく「ずっと家の中ばかり見てると視野が狭くなる」らしい。
脳筋の口から“視野”なんて言葉が出たのがまず意外だった。
「父さん、たまに賢そうなこと言うよね」
「たまにじゃない。いつもだ」
「その自己評価の高さは見習いたくないな……」
そんなやり取りをしながら、俺はジャックの後ろをついて丘を登った。
道らしい道はない。
けれど、何度も通った者の足跡がうっすらと残っている。
踏みしめられた草。露出した土。斜面に生えた低木を避けるように続く細い流れ。
結界の内側とはいえ、森の空気は濃い。
湿った土の匂い。葉擦れの音。遠くで鳴く鳥とも獣ともつかない声。
走らされたときはそれどころではなかったが、こうしてゆっくり歩くと、この森がただの背景ではなく、ひとつの生き物みたいに呼吸しているのが分かる。
「そこ、足元」
「うわっ」
言われた瞬間、木の根につま先を引っかけそうになった。
慌てて体勢を立て直すと、ジャックが肩越しに笑う。
「まだ上見る余裕は早いな」
「景色見ろって言ったの父さんだろ」
「景色を見るためにまず足元を覚えろ」
「言ってることは正しいんだけど、何か悔しいな……」
丘の上は、それほど高い場所ではなかった。
それでも、家の周りの森を見渡すには十分だった。
木々の梢が波みたいに連なっている。
緑の濃淡が幾重にも重なり、その向こうには、薄く霞んだ山並みが見えた。
空は高く、雲の影が森の上をゆっくりと滑っていく。
「……すごい」
思わず息が漏れた。
綺麗だった。
前世で見たどんな風景より、というのはさすがに言いすぎかもしれない。
だが少なくとも、俺の心がこんなふうに素直に動く景色を、前の人生でどれだけちゃんと見ていただろうと思う。
綺麗だと感じる余裕すら、昔の俺には少なかった気がした。
丘のてっぺんには大きな岩があって、ジャックはそこへ腰を下ろした。
俺も少し離れた場所へ座る。
風が吹く。
草が揺れる。
森の向こう側は、静かなのに、どこか“知らないもの”の気配を隠しているように見えた。
「外には、何があるの?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、その瞬間。
空気が、少しだけ変わった。
ほんのわずかな変化だ。
風が止んだわけでも、音が消えたわけでもない。
それでも、さっきまでののんびりした時間が、どこか引き締まったのが分かった。
ジャックはすぐには答えなかった。
代わりに、丘の向こうを見つめたまま、少しだけ目を細める。
「……人間の街がある」
意外にも、先に口を開いたのはシリフだった。
振り返ると、彼女はいつの間にか少し下の斜面に立っていた。
足音なんてまったくしなかった。ほんと、この人の気配の消し方はどうなっているんだ。
「母さんも来てたの?」
「途中からね」
「気づかなかった……」
「そういうものよ」
この家の大人たちは、説明の最後をだいたいその言葉で閉じようとする。
便利すぎるだろ、その締め方。
シリフは俺の隣まで来ると、同じように森の向こうを見た。
「畑があって、道があって、石や木で出来た家が並んでいて。人が大勢暮らしている場所」
「街か……」
その響きだけで、胸の奥が少しだけざわついた。
人間の街。
俺は人間だ。
今はドラゴンの家にいるけれど、姿形だけならそっち側に属している。
前世でも、当たり前みたいに“街”で暮らしていた。
それなのに、今の俺にはその言葉が妙に遠く聞こえた。
「にぎやかな場所よ」
シリフが続ける。
「朝になれば市場が開いて、人が行き交って、物が売られて、噂が流れて、夜になれば灯りがともる。ここよりずっと騒がしいわ」
「へえ……」
想像する。
見たことのない異世界の街。
石畳の道。行き交う人々。見知らぬ食べ物。知らない言葉。
たぶん、前世でゲームの画面越しに何度も見た“ファンタジーの街”に近いものなのだろう。
そう思うだけで、少しだけ胸が高鳴る。
だが、その高鳴りを断ち切るように、ジャックが低く言った。
「でも、お前は行くな」
声が、硬かった。
いつもの豪快さや、雑な軽さが一切ない。
底の方に、刃みたいな緊張が潜んでいる声だった。
俺は思わず、そちらを見る。
「どうして?」
問い返すと、ジャックはすぐには答えない。
代わりに、片腕を膝に乗せたまま遠くの山を見つめている。
「俺たちは、見つかっちゃいけない」
短い言葉だった。
でも、その言葉には今まで聞いたどんな説明よりも強い重みがあった。
「……ドラゴンだから?」
「そうだ」
即答だった。
シリフは何も言わない。
だが、彼女の横顔は静かすぎるほど静かで、それが逆にこの話題の重さを示していた。
「見つかったら、どうなるの」
聞いてはいけないことのような気もした。
でも、聞かずにいることも出来なかった。
ジャックが答える前に、シリフが自分の胸元へそっと手を当てた。
衣服がわずかにずれて、鎖骨の下に走る古い傷痕が見える。
鋭い。
深い。
ただの怪我ではないことが、素人目にもはっきり分かった。
皮膚の色が変わり、そこだけ時間の流れから取り残されたみたいに傷が残っている。
俺は息を呑んだ。
「昔、人間とドラゴンは、もっと近かった」
シリフの声は静かだった。
「互いに距離があっても、完全な敵同士ではなかったわ。交易をした土地もある。言葉を交わした時代もあった」
「じゃあ、今は違うの?」
「違う」
今度はジャックが答えた。
「恐れられ、狩られ、利用される。見つかれば、たいていろくなことにならない」
言葉の一つ一つが重かった。
恐れられる。
狩られる。
利用される。
どれも、ただ嫌われるという次元ではない。
力を持った存在が、価値ある“何か”として扱われる響きがある。
「ドラゴンって、そんなに……」
すごい存在なのか、と言いかけてやめた。
聞くまでもない。目の前の二人を見ていれば分かる。
人の姿になっていても、ジャックの体格や気配は明らかに“普通”からは外れている。
シリフの魔法も、生活のためのものに見えて、その実とんでもなく精密で強い。
元の姿を思い出せばなおさらだ。
巨大な翼、鱗、圧倒的な存在感。
人間がそれを恐れるのは、ある意味当然かもしれない。
けれど、恐れた先に“狩る”が来るのは、あまりに物騒だった。
「だから覚えろ、ルシアス」
ジャックの声が低く響く。
「外の世界は綺麗なだけじゃない」
「……うん」
答えるしかなかった。
俺だって、前世で“人間は優しいだけの生き物じゃない”ことくらい知っている。
けれど、ここで言われるその言葉は、もっと現実的で、もっと血の匂いに近い響きを持っていた。
「怖がれ、って意味じゃないわ」
シリフが続ける。
「知らずに近づくな、ということよ」
その言い方に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
禁止されているのは、好奇心そのものではない。
無知なまま飛び込むことだ。
それなら、少しだけ分かる気がした。
俺はもう、一度“知らないまま異世界に落とされて死ぬ”を経験している。
あれは、本当に何も分からなかった。
武器の持ち方も、敵の危険度も、逃げる判断も、全部。
知らないことは、怖い。
そして、怖いものほど、知らないまま近づくとすぐ死ぬ。
「母さんたちは……人間が嫌い?」
聞きながら、自分でも少し意地悪な問いだと思った。
でも、知りたかった。
俺自身が人間だからだ。
もし二人が人間そのものを憎んでいるのなら、俺はここでどういう位置にいるのだろう。
少なくとも、その疑問は見ないふりを出来るほど小さくなかった。
シリフはすぐには答えなかった。
風が、丘の上を吹き抜ける。
長い白銀の髪がわずかに揺れる。
「嫌い、とは違うわ」
やがて彼女は言った。
「警戒しているの。忘れないようにしている、と言ってもいい」
「忘れない?」
「ええ」
そこで彼女は、自分の傷へもう一度指を触れた。
「信じたからといって、必ず報われるわけではない。近づいたからといって、分かり合えるとも限らない」
その声は感情を抑えていた。
だが、抑えているからこそ、奥の痛みが見える気がした。
ジャックが横から低く言う。
「俺は嫌いだぞ。少なくとも、油断していい相手だとは思ってない」
「父さん」
「でもな」
ジャックはそこで少しだけ言葉を切った。
「全部が全部、同じとも思ってない」
意外だった。
もっとはっきり「嫌いだ、終わり」みたいに言うと思っていた。
でもジャックはそうしなかった。
「昔、助けられたこともある。逆に、殺されかけたこともある。だから一括りには出来ん。……面倒な連中だよ、人間は」
「それ、ドラゴン側も同じこと思われてるんじゃない?」
「だろうな」
ジャックはあっさり頷いた。
「だから、簡単には近づけん」
その答えが、この人らしいと思った。
単純に見えて、実は白黒だけで世界を見ているわけではない。
雑に見えて、だからこそ“生き残るための線引き”だけは厳密なのだ。
◇
丘からの帰り道、俺は何度も結界の境目を振り返った。
見えない壁の向こうに、俺の知らない世界がある。
人間の街。
市場。
道。
たくさんの人。
騒がしい場所。
そして、ドラゴンに敵意を向けるかもしれない世界。
行ってはいけない。
そう言われた。
でも、知りたいと思ってしまった。
俺の中にその欲求があるのは、おそらく前世のせいでもある。
知らない場所、見たことのない風景、ゲームでしか触れられなかった“異世界らしさ”への憧れ。
それがまったく消えているわけじゃない。
けれど今は、それだけじゃなかった。
(もし外の世界が本当に危ないなら)
この家は、ずっとそこから隠れているのだろうか。
ジャックとシリフは、これから先もずっと、結界の中だけで生きていくのだろうか。
そんな疑問が、形になる前のもやもやとして胸の奥に残った。
まだ答えはない。
今の俺には、そもそも考える材料が足りない。
でも、“知らないままでいたくない”という感覚だけは、確かにそこに生まれていた。
◇
その日の夕方、俺は食堂の窓際で一人、外を見ていた。
結界の向こうで木々が揺れている。
見えているのに、届かない。
近いのに、遠い。
そんな不思議な感覚だった。
「何を見ているの?」
振り返ると、シリフが立っていた。
「外」
「そう」
彼女は俺の隣へ来る。
しばらく二人で黙って窓の外を見た。
「気になる?」
「……なる」
嘘はつかなかった。
「行きたい?」
その問いに、少しだけ言葉が詰まる。
行きたい。
けれど、そのまま頷くのは何か違う気がした。
「分からない」
結局、そう答える。
「見てみたいとは思う。でも、怖い感じもする」
「そう」
シリフはそれを否定しなかった。
「それでいいのよ」
「いいの?」
「ええ」
彼女は窓ガラス――いや、ガラスではなく、薄く磨かれた透明な石の板かもしれない――に指先で軽く触れる。
「好奇心だけで進むのは危ないわ。でも、恐怖だけで目を閉じるのも違う」
その言い方は、まるで自分自身に言い聞かせているみたいだった。
「大切なのは、知ろうとすることと、知ったうえで選ぶこと」
選ぶ。
その言葉に、胸の奥がひっそりとざわついた。
花畑で聞いた言葉。
“あれ”が何度も口にした言葉。
選べ。
選ぶ。
たったそれだけなのに、妙に重く響く。
「……母さんは、外へ出たいと思ったことある?」
何となく聞いてしまった。
シリフは少しだけ目を伏せる。
「あるわ」
意外なほど、あっさりした答えだった。
「でも、出るたびに思い知るの。この世界は、昔のままじゃないって」
「それでも?」
「それでも、見ないままでいいとは思わない」
シリフはそこで俺を見る。
「だからこそ、あなたには焦ってほしくないのよ」
その視線は静かだった。
だけど、その静けさの下に、確かな願いがあるのが分かった。
外を知ること。
けれど、無知のまま踏み込まないこと。
たぶんそれは、ただの過保護じゃない。
失わせたくないものがある者の言い方だった。
「……うん」
俺は頷く。
その返事がどこまで本当に理解したものなのか、自分でも分からない。
でも少なくとも、軽く扱っていい話ではないことだけは分かっていた。
◇
夜、暖炉の前でジャックが肉を切っているとき、俺は何気なく訊いた。
「父さん」
「何だ」
「もし俺が、外に出たいって言ったらどうする?」
包丁の音が、一瞬だけ止まった。
ほんの短い沈黙。
それからジャックは、切りかけの肉を皿へ置いた。
「今のままなら止める」
「やっぱりか」
「当然だろ」
ジャックは振り向く。
その目は真面目だった。
「今のお前は、外の危険を知らん。自分の強さも分かってない。怖さも半分しか分かってない。そんな状態で出すわけがない」
「……じゃあ、知ったら?」
「そのとき考える」
「またそれだ」
「それで十分だ」
不思議と、その答えは嫌じゃなかった。
最初から永遠に駄目だと言われるより、ずっと誠実に感じたからだ。
今は駄目。
でも、未来のことまで閉ざしているわけじゃない。
その線引きが、ジャックなりの優しさなのだろう。
「覚えろ、ルシアス」
彼は包丁を置き、低く言った。
「外の世界は、綺麗だ。面白いものもある。知らないことも山ほどある。……だが、それと同じだけ、牙もある」
「うん」
「だから、行くなら“行きたいから”だけじゃ足りん」
その言葉は、俺の中に重く残った。
きっとこの話は、今日聞いただけでは終わらない。
これから先、何度も思い返すことになる。
“行ってはいけない”というのは、ただ閉じ込めるための言葉じゃない。
世界の重さを知らない者に向けた、ぎりぎりの警告なのだ。
◇
寝る前、俺は自分の部屋の窓からもう一度外を見た。
夜の森は昼とは違う顔をしていた。
黒々とした木々。
月の光。
風に揺れる影。
その向こうに、街がある。
人が生きている場所。
俺と同じ姿をした者たちが暮らしている場所。
でも、ジャックとシリフが隠れなければならない場所でもある。
不思議だった。
俺は人間で、ドラゴンの家にいる。
人間の街は遠く、ドラゴンの家のほうが近い。
どちらが“自分の場所”なのか、まだ答えは出ない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
外の世界は、もう俺にとって“ただの背景”ではなくなった。
それは知らないからこそ怖く、怖いからこそ気になるものになった。
(知らないことは、怖い)
でも。
(知らないままでいるのも、たぶん怖い)
まだ、その考えを口には出来ない。
出来るほど、俺は強くない。
それでも胸のどこかで、小さな火種みたいにその思いが灯っている。
外の世界は行ってはいけない。
その言葉は、禁止であると同時に、未来への伏線みたいでもあった。
俺は窓を閉め、布団へ入る。
今日知ったのは、世界のほんの端っこだ。
それでも、その端っこだけで十分すぎるほど広かった。
この家は安全だ。
でも、その安全は当たり前じゃない。
そんな当たり前のことを、俺は少しずつ学び始めていた。




