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週休五日のロボット『ハハ』

作者: ヤブ

 私が台所へ向かったとき、二階にいるであろう母が、

「お茶を持ってきて」

と叫んだ。偶然か、それとも足音で立ち上がったのだと気付いたのか。今リビングにいるのは私だけで、父は散髪に、弟は部活で不在なので私と母以外いない。母が私に向かって言ったことは確かである。

 別に私はお茶を飲むために台所へ向かったのではないが、ついでに私の分も汲んだ。その後に、自分には昨日買ったペットボトルのお茶があることに気付き、無駄にコップを使ってしまったと後悔する。また母に、コップはできるだけ使わないようにしろ、と言われてしまうだろう。軽くすすいで水滴が残らないように隅まで拭き、元の位置に戻す。きっとばれやしない。

 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取りだし、母のために汲んだお茶を持って、足を進める。付けっぱなしのテレビの電源を落とし、机上に放置していたスマホをポケットに入れる。その時、もちろんコップを置いて片手を空けて作業していたが、その少しの間に、()だる暑さのせいでコップの外側にはうっすらと水滴が浮かび上がっていた。これがついていると、いくら暑いとはいえ持つのが億劫になってしまう。指先という小さな範囲だけ濡れては、どうも中途半端だと感じる。どうせなら、全身濡れてしまいたい、という気分になる。その方が、よっぽと清々しい。

 階段を上がる足音で気付いたのか、母は寝室に設置されている窓から見下ろしていた。階段の真上にあり、両開きの窓で、普段は滅多に開かないが、掃除をするときは母が良く開ける。そうすると、風が良く通るのだそう。

「ありがとう」

 手に渡すと、じっとりとした母の手に触れ、母の働きを感ぜられる。顔を見ると、反射して少し光っていた。セミロングで茶色の髪を、今日は一つに纏め、喉をならしてお茶を飲み干す。顎で纏められたマスクが上下に動く。酒を飲んだあとのような声を出し、

「やっぱり、お茶が一番美味しいよ。身に染み渡るって感覚があるから」

と、空いたコップを近くの机に置いた。

「頑張ってるね、掃除」

 並べられた寝室のベッドには、私と弟の布団が無造作に置かれている。後はカバーをつけるだけのようだ。

「私がやらないと、誰もやらないからなぁ」

 そう言われても、私には掃除をする気力など湧いてこない。素なのか嫌味なのか分からない言葉に、私は、

「そうだね」

と、軽く吹き出すように笑うことしかできない。

 こういうとき、どういうような反応をするのが正しいのだろうか。じゃあ手伝うよと言って手伝うのか、しょうがないなぁと微笑みながら手伝うのか、頑張れとだけ言って手伝わないのか。だけどきっと私には、掃除を手伝うことなんてできないだろう。母と狭い空間に二人きりで無言で作業することなど、拷問のようなものだ。

 父の再婚で今の母がやってきて五年。母の素行には性情を疑いたくなるようなことばかりだ。朝はまともに起きず、面倒だと言って弁当を作らない日もある。学校から帰ってきて、「洗濯物干しておいて」と言う日が度々ある。弟にだけ少し厳しい口調で言うくせに、他の誰かに少し言い返されただけで涙を流す。五年も経てば慣れてくるが、そのことを今でも父が知らないというのだから、器用なものである。父が仕事に帰ってくる頃になると、一日中寝転がっている体を起こし、父のために夕食をよそう。言うまでもないだろうが、大抵は私が作った物だ。それを、

「とても美味しい。さすが蘭子(らんこ)

と、親指を立てて微笑む父を見ると、見る目のない父に呆れてしまう。お前が選んだ女は、自分で料理なんてまともにしない。土日しか立ち歩かないと言っても過言でないほどだ。その内の半分は私に手伝わせる。それが上手いもので、いつもとは似ても似つかないような口調で、柚雨(ゆう)ちゃんこれこれ手伝ってくれる? と言うものだから、断れないのだ。

 そうして、この五年間で母は見事、週休五日のロボットのように活動しているのだ。私は母がやって来た時分から、どこかで母の恐ろしさを感じとり、そのことを誰かに言うことなどしなかった。元々人見知りで、よく口を開くような子ではなかったので、それも要因だろう。

 そんな中、高校生になった私は、笑顔を振り撒くことを覚えた。とりあえず笑っていれば、話についていける。人見知りのお陰で口下手の私でも、特に問題なく会話に入れるようになった。学校で使っているうちに、それが家でも出るようになり、母とは本当の親子のように話すことができるまで成長した。それから、徐々に口下手は治り、今ではすっかり口下手の面影などない。

 母はため息をつくと、布団のカバーつける作業にとりかかった。今から、手伝うよ、と言ったのでは遅い。逆に、母の機嫌を損ねてしまうだけだ。

「じゃあ、がんばってね」

 また笑いながら言う。とりあえず笑っておけばなんとかなるだろう、ということを無意識に考えてしまう。笑顔は時に、人を不愉快だと思わせることを知っているのに、どうしても笑わずにはいられない。笑う以外の表情で、どうやってこの場を離れればよいのか分からないのである。

 持っているペットボトルからは、水滴が落ちている。掃除したばかりであろう床に落ちた水滴を、私は、足で軽く拭き取った。

 部屋に戻り、ペットボトルは机に置いた。一人になった途端、襲われたのは空虚感。何も失っていないのに、何かが無くなってしまったような感覚。ただ、呆然としていたくなるこの感覚に襲われるのは、初めてではない。笑顔になる度に(から)になる。この穴は埋められずに、掘られていくばかり。きっと私も、いつか、何の感情も持たない、ロボットのようになってしまうのだろう。

 そんな思いを抱いたまま、ペットボトルのお茶を飲んだ。口の中に広がったのは、追い討ちをかけるような苦味。ふと、お茶を氷らせてそれだけをコップに入れ、溶けるのを待ちながらゆっくり飲むと、苦味が落ちて甘味が広がるということを、テレビでやっていたのを思い出した。

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