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信長を拉致したのは加茂系の修験者か

 


                       六所神社


 平成21年5月下旬、内田不動産は常滑市内全域に新聞の折り込み広告を入れる。その結果、6月下旬に4軒の賃貸契約を結ぶ。仲介手数料は家賃の1ヵ月分しかもらえない。内田は新しく賃貸借契約を結ぶにあたって、家賃の1割を管理料として上乗せしている。1軒だけ見ると大した事はないが、軒数が重なってくるとその収入は馬鹿にならない。

 借家、アパートの賃貸借は貸し手に不利にできている。家賃不払いの借家人を強引に追い立てる事は出来ない。何カ月も居直る借家人もいる。それと昨今の不景気で借家への入居者が減っている。苦労が多いが、これを乗り越えた不動産屋が生き残る。

 貸すときには必ず保証人をとる。バー、居酒屋、パチンコ店で働く人は、保証人がいてもまずお断りする。大抵の人は2,3ヵ月も経たぬうちにやめてしまう。職歴が不安定なのだ。

 次に借家人の負担で火災保険を掛ける。アパートの火事は類焼のあそれがある。火の不始末が圧倒的に多い。

 管理費は借家人が確実に家賃を払うための保障費となる。家賃の不払いが生じた場合、内田不動産の責任で解決する事になる。

 広告を入れた日から、1週間ぐらいは猫の手を借りたいほど忙しくなる。間瀬澄子も事務所を出たり入ったりで、自宅に帰った時はぐったりする。机の前に座って調べ物をする気力もない。


 6月中旬、ようやく忙しさから解放される。

――六所神社――

インターネットで検索する。住所は岡崎市明大寺町。由緒書を見る。

――人皇37代斉明天皇の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勧請、神領を寄進のうえ設立。その後桓武天皇の代に田村磨将軍が東夷征伐のため下向する折りに祈願。天皇に奏聞、勅許のうえ再建、六所大明神の頼額を下賜される。

 時代が下り、松平氏が三河入国以来、代々崇拝が厚く、天文11年(1542)12月26日、岡崎城で竹千代(徳川家康)が誕生の折りに、産土神として拝礼している。

 慶長7年(1602)に家康より朱印状を下されて、石高62石7斗を贈られて、同9年(1604)社殿造営のうえ神器の品々を下される。

 3代将軍徳川家光は寛永11年(1634)上洛の折り、岡崎城から遥拝。名代として松平伊豆守を社参させ、百石を加増される。その朱印状には――六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、これを以って崇敬他と異なり――とある。

 同11年から13年(1634~36)にかけて将軍家光は、御普請奉行本田伊勢守と神主大竹大膳久次に命じて社殿および神供所を造営された。

 この時に本殿、幣殿、拝殿を連結して、華麗な色彩を施した権現造りの社殿が完成、貞享5年(1688)に桜門が建てられた。

 ・・・ずいぶん由緒ある神社ね・・・澄子の感想だ。

もっと詳しい記事はないか、他のブロックを検索してみる。

――松平初代親氏が六所大明神を当地に移した――

 澄子は胸の高鳴るのを覚える。徳阿弥こと松平親氏が六所大明神を勧請しているのだ。

・・・親氏とは関係が深い神社という事ね・・・

 澄子はもっと検索してみる。驚くような事実が判明する。

松平郷には松平氏の菩提寺の浄土宗高月院があるのに、親氏の代に、陸奥の国塩竃から、六所大明神を迎え入れている。

 徳川家は代々、六所神社の奉加帳に、松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり――として大事にしている。

 徳川松平氏の初代氏親は、どうして陸奥国塩竃から六所大明神を勧請したのだろうか。


                   塩竃神社


 陸奥国塩竃は古代から塩の産地として有名だ。陸奥の国府、多賀城の津として発展している。塩竃神社の建立も古い。

 塩竃神社の祭神は塩土老翁神、武甕槌神、経津主神の三神である。武甕槌神と経津主神は、武神として、鹿島、香取神社にも祀られている。鹿島、香取は古代出雲、石見と並ぶ産鉄の産地である。

 塩土老翁は、神武東征の時、当方に征服するのに最適な土地があると教えたとされる神である。また記紀神話に出てくる、海幸彦、山幸彦の話に登場する神でもある。

 山幸彦はなくした釣り針の代償として、鉄剣を使用して釣り針を作って、海幸彦に返そうとしたが、許されなかった。困り果てていた山彦幸に、海神の宮に行く事を教えたのが塩土翁という。

 ここで問題なのが、鉄剣を材料として釣り針を作ったと言う事だ。鹿島、香取は砂鉄の産地で、その鉄で鉄製の剣を作っていた。武甕槌神が武の神であるのはこのためだ。塩土老翁は釜や鍋などの鉄製品を製作していたので合祀されたと思われる。

 塩竃では古代から塩の生産が盛んだった。奈良時代から1個で1トンもある鋳鉄製の塩釜が製造されていた。鋳鉄製の大きな皿状の塩焼鍋(塩釜)を使って、製造していた。塩釜の地名の由来だ。

 正倉院文書、周防国正秋帳に、奈良時代、天平10年(738)に、鉄製の塩釜の記述がある。(窪田蔵部=鉄の民俗史より)

――筑前の観音寺資財帳に、和銅2年鉄製塩釜を所有していた事が記録されている。大きさは、径1・8メートル、厚さは10センチ程、重さ約1・5トン。この大きさは中世以降になると、径で1・2~1・4メートル程と小さくなり、肉厚も薄くなっていく。

 塩釜を製造するには大量の鉄と鋳鉄が必要となる。陸奥塩竃では、鹿島、香取の砂鉄が使われた。塩竃神社の御釜神社で、塩土老翁と並んで鹿島、香取の神が合祀されているのはこのためだと思われる。

 平安時代、塩の生産地としての陸奥塩竃は朝廷にも重要視されていた。塩竃神社が”奥州一宮”と言われる所以である。

 京都と塩竃の関係は深い。

 伊勢物語に、陸奥出羽按察使の河原左大臣源融の言として、京、加茂川のほとりに、六条あたりに家をいとおもしろくつくりて、わがみかど六十余国の中に塩竃というところに似たるところなかりけりとでている。

 京に住む人々にとって、加茂川のほとりに、製塩のための施設が立ち並んだ、陸奥塩釜に風景は珍しかった。加茂川のほとりに、大型鉄製の塩釜を設置したのは加茂氏である。加茂は鴨とも表記する。

 鴨氏は山城国葛野郡を本拠地とていた古代豪族である。鴨氏は鉱山開発と土木技術にすぐれた氏族だ。鴨氏がいた山背の岡田加茂郡は和同開珎を鋳造した鋳司(造幣所)があった所だ。

 下鴨神社はふいご祭のルーツとなっている。鞴は金属の精錬、加工のための送風器で、足で踏む大型のものはタタラと呼ばれる。

 塩竃と加茂は深い繋がりがある。六所大明神は塩竃神社をを通じて加茂氏と繋がっている。

 家康が葵の紋を徳川家の紋としたのも、加茂氏を意識していたのだ。

 ・・・でもこれだけでは、徳阿弥が松平郷までやってきた理由が判らない・・・

 澄子はもっと何かある筈だと、インターネットの検索をする。

 そして判った事は、加茂氏は移動集団である事だ。

山城国風土記逸文によると、最初は日向の高千穂に降臨して、日向から大和の葛城山へ、さらに山城国の岡田の加茂、さらに桂川にそって北上し、久我の地に移動して、そこに定着する。

 久我は、京都郊外西岡の東部に位置する地帯だ。桂川は久世橋の下流あたりから大きく東流して加茂川に合流するが、その合流点付近の東に突出した低湿地にある。定住地としては不向きな地域だ。

 鴨氏は塩釜などの鋳鉄製品をつくる技術集団だ。鴨氏が大和の葛城山に移動してきたのは、河内国狭山郡日置荘に住んでいた日置へき氏の要請と思われる。

 日置氏は神武東征の折り、剣や武器を供給していた。鉄の売買に従事すると共に、釜や鍋を鋳造していた。河内鍋の起源となっている。鍋だけでなく、河内鍬も特産品で、河内は鉄製品で有名だ。

 鴨氏の鉄の生産が日置氏を助けたと考えられる。


 大和を出た後、鴨氏は大きな川沿いに移動している。低湿地帯の久我に定着したように、絶えず川べりの低湿地帯を探しては、そこに住んでいる。

川沿いの低湿地帯に生えるアシやカヤ、ススキなどのイネ科やガマ科などを求めて移動している。

 高師小僧と呼ばれる褐鉄鉱は、イネやガマの植物の根に生成されて、スズと呼ばれている。これらは鉄石、鬼酒、土鉄と色々な名で呼ばれている。これらを原料にして野タタラで小規模な鉄製が行われていた。

 三河地方では、現在の豊橋市の梅田川の低湿地帯で採れた。


 梅田川だけではない。三河から伊勢湾にそそぐ天白川の湿地帯でも褐鉄鉱がとれた。家康が松平徳川氏の根拠とした岡崎を流れる矢作川左岸に天白神が祀られている。

 天白神は、風の神、旅の神とされている。吹子=タタラには風が不可欠だ。褐鉄鉱を原料にして鍛冶製鉄を行っていた技術集団が信仰していた神が”天白”である。

 金属の神とされる爍神しゃくじとする説もある。

 天白神が旅の神とされるのも、加茂氏が褐鉄鉱も求めて漂泊する一族であったためと思われる。

 加茂氏は矢作川をさかのぼり、支流の巴川中流の山道を登って松平郷に達している。矢作川沿いに定着しつつ勢力をのばしていく。

 三河国加茂郡松平郷の中心となったのは松平氏であるが、加茂郡一帯に勢力を伸ばした松平氏の中に、大給松平氏、滝脇松平氏と共に鴛鴨松平氏がいた。

 川沿いの湿地帯に定住する加茂氏、彼らは土着の土豪と交わる事はなかったが、勢力の拡大と共に、その地域の土豪の姓を取り入れていく。将来の勢力拡大の為に好都合だった。

 徳阿弥は鴨系の一族と見る。全国に根を張った加茂氏。徳阿弥父子のルーツは陸奥国塩竃神社に関係が深い。鉄を生産するタタラ集団で、塩竃神社から勧請して六所神社を創建する。神社創建は一族の絆の中心となる。

 徳阿弥は、最初に三河国幡豆郡の酒井家に身を置いている。吉良は矢作川デルタ地帯の南端郡に属している。海抜ゼロメートルの低湿地帯である。

 酒井家も鴨氏の一族である。酒井家に身を寄せた徳阿弥は同族の誼として、酒井家の娘と婚姻して、一子を得ている。この子は後年、徳川氏家臣団の筆頭家臣となる酒井広親である。

 徳阿弥はさらに矢作川をさかのぼり松平郷に達する。そこで勢力を伸ばす。徳阿弥はもともと政治手腕に恵まれていた。一代で郷民を手なずけ、自ら松平姓を名乗る。


                     徳川の謎


永禄9年(1566)松平元康は徳川家康と名を改めた。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれる。それを好機として今川軍が放棄した岡崎城に入る。祖父、清康の代で確立した三河国の支配権の回復を志す。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。

 永禄5年(1562)先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父、小野信元の仲介で、信長と同盟を結ぶ。

 西三河を平定中、三河一向一揆が勃発するが鎮圧。岡崎周辺の不安要素を取り払う。次は対今川氏の戦略を推し進める。東三河の戸田、西郷らの土豪を味方にして、なおも東へと進攻する。鵜殿氏のような敵対勢力を排除していく。

 三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げていく。結果、永禄9年(1566)までには東三河、奥三河(三河国北部)を平定して、三河国の統一を果たす。

 改姓はこの機に行われる。朝廷から従5位下、三河守の叙任を受ける。新田氏支流得川氏系統の清和源氏を朝廷に認めさせている。


 松平から徳川への改姓は、以上みたように三河統一を果たした時に始まっている。

 三河統一を果たした時、松平の姓は必要としなくなった。この徳川の改姓は何処からとったのだろうか。

 一説には、新田義軍の子に徳川義季がいる。その子に徳川(得川)頼有と世良田頼氏がいる。

吾妻鑑に新田三河前司頼氏の名前が見える。長楽寺文書に前三河守源朝臣頼氏であるのが世良田頼氏であるが、文永9年佐渡に島送りとなる。以後、惣領権は新田政義の孫、新田基氏となる。

 世良田氏は、一時新田氏の惣領を勤めた事もある新田氏の有力な一族であった。

 家康自身が新田源氏の徳川姓(得川)を名乗ったと言われる。だがこの徳川は早くから滅亡している。むしろ名乗るなら世良田にするべきと考えられる。

 それに、加茂氏の出とするならば加茂家康と名乗ってもおかしくない筈だ。


 澄子はここで大胆な推理を働かせる。

徳川家の初代は徳阿弥だった。徳阿弥の徳、それに褐鉄鉱の生産を川沿いで行っている。徳阿弥もそれに従事していた事は、家康も知っていたのではないか。

 川――先祖の生産手段のより所だ。特別な思いがあったのではないか。徳阿弥の徳と川を結び付けて徳川とする。

 ただし、こうすると、1つの謎が浮かび上がる。

徳阿弥とは姓ではない。名前である。阿弥とは遊行僧につける名前とする説がある。阿弥の上に名前を付ける事で時宗の遊行僧としての自己主張が出来る。

徳阿弥とすると、同業者であればどこの誰かが判る。

 江戸時代、農民は姓を持たなかった。何村の何々と言えばそれで通用した。明治になって姓を名乗ることが許された。

(作者話=亡父によると、堀本の姓は明治になって、庄屋につけてもらった。私の家の5百メートル程北西にある山の上に、昔常滑城があった。先祖はその堀の所に住んでいたので、堀本としろと言われた。常滑の古地図を見ると、常滑城付近には、堀井、堀内の地名や人名が残っている。これらの人名に遠慮して、堀本としたと言う。

 堀本家は私で5代目で、先祖は三河からやってきた水吞百姓という)


 「徳阿弥って、本当は姓がなかったのではないか」澄子は秀吉の事を思う。

 秀吉は織田家に仕えた頃、木下家のおねと結婚している。この結婚は信長の命令と言われる。あるいは木下家は蜂須賀小六や前野長康と関係があったのかもしれない。

 秀吉が木下家に入り婿として入籍して、木下藤吉郎と名乗ったのではないか。それ以前は日吉神社の猿回しから日吉の猿と呼ばれていたのではないか。

 秀吉の出生がよく判らないと言うのは、サンカとして育った秀吉は里に下りた時、出生を隠したと考えられる。

 徳阿弥も同じではなかったか。川沿いに住みつく。褐鉄鉱を取り尽くすと、川を遡っていくか、別の川に入って行く。

 三河は加茂神社の神領区域だ。加茂系の一族という事で川に入る事は許されていたのだろう。

 だが徳川家の家臣、本田忠勝の先祖は加茂神社の神官であった。本田家は三河国の神官として権威を有していた。一方の徳阿弥は鉄鉱の生産に従事する、タタラ=サンカであった。身分の差は天と地ほどあった。徳阿弥が加茂系の姓を名乗れる筈もなく、加茂氏の奴隷的存在として、川沿いで褐鉄鉱の生産に従事していた。

 だが、時代が徳阿弥に味方する。三河の奥地松平郷に、力のある豪族はいない。徳阿弥は松平郷を襲って、瞬く間に松平郷の有力な土豪に成り上がる。

 家康は徳阿弥の素性を知っていた。本来は松平でない事も・・・。家康が徳阿弥を尊敬していた。

 松平姓を捨てて、徳川を名乗ったのは、徳阿弥への思慕があったからではないか。


 六所神社は、大永7年(1527)12月、一度焼失している。その直後に、松平長親、信忠父子が松平一族に呼びかけている。その再建の奉加帳に――松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社なり。――と記されている。

その後松平氏は山を降りる。岡崎を拠点とする。六所神社も移す。松平一族の氏神として尊崇した。

 六所神社はもう一か所ある。現在の名古屋市東区矢田南を流れる谷田川近くの六所神社だ。古代、湿地地帯であったこの一帯にある鍋屋町は、江戸時代、水野太郎左衛門を中心とする鋳物師集団が住んでいた。ここに六所神社があるのは、徳阿弥の勧請によるものとみて間違いない。

 徳川家は、産鉄集団ではなかったのではという説は、古くからささやかれていた。彼らは鉄を産み出しては、川沿いを放浪していく一族だった。


                    本能寺の変後の家康


 間瀬澄子は一息ついてボールペンを置く。

徳川氏は産鉄集団。この説は一般には受け入れられないだろう。澄子の感想だ。

・・・でも・・・澄子は確信する。夫も同じ結論を得たと感じるのだ。

・・・夫婦だもの・・・澄子は徳川氏が葵の紋に固執した理由もわかる気がする。

 六所神社、その上にある塩竃神社、それを支配する加茂神社、三河には加茂神社の神領地が多かった。本田氏のような加茂神社の神官さえ存在した。

 加茂神社の支配地だからこそ、三河で産鉄の仕事をする事が出来た。14あると言われる松平の氏族の1つを乗っ取ることが出来た。

 徳川氏は自分の先祖が加茂氏につながる一族であると強調したかったのだろう。


 ・・・でも・・・、澄子は1つの不安に突き当たる。この事と本能寺の変との関係が見えてこない。

――信長が日本を支配した時、同盟者の家康といえど、取り潰されるか、朝鮮半島へ追いやられるかのどちらかになる。殺される前に殺す。生き抜くための鉄則だ。

 信長殺しが誰であろうと、夫が推理したように、徳川家康が絡んでいた事は間違いないと考える。問題なのは誰が実行犯なのか。明智光秀にしろ、細川忠興にしろ、信長の家臣である事だ。

 それと丹波亀山城の1万3千の兵を統率する数名の大将の大半は、後に山崎の戦いで秀吉に味方している事だ。この事実をどう考える。家康が細川忠興に3千両の軍資金を与えてとしても、隠しおおせるだろうか。

 丹波亀山城の兵力は明智光秀の家老斎藤内蔵助を中心にして連結し合っている。斎藤内蔵助は後日、秀吉の手で殺されている。

――家康は3千両を本当に細川忠興に渡したのだろうか。

 本能寺の変後、伊賀越えをして岡崎に帰った後の家康の行動を調べて見る。


 6月4日、家康、岡崎に到着。浜松城にはいかず、翌5日に出陣の命を下す。14日、兵を率いて尾張の鳴海まで出陣する。16日に先鋒の酒井忠次が津島に至る。

 19日、秀吉から光秀の滅亡を知らせる使いが来た。

 21日に家康は軍を返す。

 ここで問題が生ずる。

名古屋の鳴海から山崎まで、現在ならば車で4時間ぐらいの距離だ。

 家康は伊賀者、甲賀者を支配下に置いている。情報収集には抜かりはない筈なのに、12日と13日の山崎の合戦を、19日に秀吉から知らせを受けるまで知らなかったと言う。しかも通知をうけても、念のために21日まで留まって、ようやく引き上げた。

 一説には、明智と羽柴の両軍が疲れ切ったところを、一度に葬り去ろうとした。

 ・・・これは違うわ・・・澄子は直感する。

――家康は何かを待っていたのだ――

 本能寺で信長が殺されたのは事実であろう。信長を殺した犯人からの知らせを待っていたのではないか。21日に軍を返したのは、知らせがあったからではないか。

 本能寺で信長が殺された事で、旧武田の残党が不穏な動きを見せている。武田家が滅んだのは僅3ヵ月前の事だ。家康に忠誠を誓ったとは言え、いつ家康に反旗を翻すか判らない。ぐずぐずしていると、家康の領土となった駿河に侵入してくる可能性もある。

 そんな危険な状況にあって、家康は6月14日から21日まで鳴海に出兵している。余程の重大な要件があったからと見ても良い。

 21日に浜松に帰った家康は甲斐の鎮撫に動く。駿河から甲斐に軍を進める。武田家の旧臣たちの帰属を促す。武田家家臣団を徳川の戦力に組み入れたのだ。

 家康は、信長亡き後の織田家相続問題を話し合う”清州会議”に参加すらしなかった。秀吉が信長亡き後の実力者としてのし上がっていくのを横目で見るだけだった。

 家康自身は甲信経綸に努力していたのだ。

光秀討伐の軍を出すと見せかけながら、軍を甲斐に向ける。甲斐攻略を狙っていた北条氏直と対陣するが、氏直と講話して、家康の娘の督姫を氏直に嫁がせる。これで信濃の鎮撫に成功する。

 本能寺の変後、僅か5か月、家康は駿、遠、三の3国を加えて、甲斐、信濃の5ヵ国大名にのし上がる。

以上のような大業は、事前に綿密に計画されていたのではないのか。

 それともう1つ。小牧、長久手の戦い。

――本能寺の変後、光秀を討った秀吉が清須会議で台頭する。有力家臣の柴田勝家と敵対関係となる。

 天正11年(1583)、近江賤ヶ岳の戦いで、秀吉は信長の次男信雄を擁立して、信長の三男信孝を擁する柴田勝家に勝利する。

 天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられる。これにより、信雄と秀吉の関係は険悪となる。秀吉は信雄の家臣、津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老を懐柔して傘下に組み込もうと画策。信雄は天正12年(1584)3月6日に3家老を処刑して、徳川家康と同盟を結ぶ。信雄は家康と共に挙兵する。3月7日に家康が出陣した事から、小牧、長久手の戦いが始まる。

 問題なのは、秀吉、家康の戦いではない。雑賀衆、根来衆が大阪周辺を攻撃した為、秀吉の尾張国への出陣が遅れた事だ。

 雑賀衆、根来衆は紀州(和歌山県)に根を張る忍者集団と言われる。徳川吉宗が8代将軍に就任と同時に江戸にやってくる。吉宗の御庭番として活躍する事になる。だがこの頃はまだ家康の支配下には入っていない。

 服部半蔵を頂点とする伊賀忍者の説得で家康側についたとみる。

――家康は忍者集団と深い関係にある――

その理由が判れば、あるいは信長殺しの犯人と結びつくのではないか。


                   賀茂神社の謎


 平成21年5月下旬。朝9時、内田不動産の事務所。

間瀬澄子は今まで調べ上げた本能寺の変の資料を見せる。本来は仕事の話をするべきだが、話の内容はそれほどあるわけではない。勢い本能寺の変に関する報告が主となる。

――あれから、上賀茂神社の矢口からは何も言ってこない。余程忙しいのだろうか。しかし、澄子は調べ上げた資料をメールで送っている。

「兄さん、歴史って面白いわね」お茶を飲みながら、澄子は語る。

 本能寺の変前後の資料は沢山ある。にも拘らず、確信犯が不明なのだ。明智光秀が犯人ととするのが定説化している。だが、それもいくつも矛盾点がある。光秀を犯人と定説化したのは、林羅山の影響が大きいと言われている。

 春日局存命中は大きな声では言えなかった。彼女の死後光秀犯人説が定着している。

現在、光秀非犯人説が世に出ても、テレビのドラマで取り上げられるのは光秀犯人説だ。

――歴史とは不思議なものだ――澄子は感慨にふける。一旦定着した歴史観を覆すのは容易ではない。

 その点、数字は正直だ。澄子は小さい頃から理科と数学が得意だった。人見知りの性格であった事もあり、商業系の高校を卒業後、名古屋の会計事務所に勤務している。

 人の本性として、喜んで税金を納める人は少ない。その為に帳簿に色々と細工をする。不正経理・・・実際は儲かっていても、赤字に見せかけようとする。

 だが帳簿の数字に精通していると、嘘を見破る事が出来る。

――歴史は所詮、人間が造り出すもの。数字で規定する事は難しい。

それと、人間は他者と差別したがる生き物だ。一代で功を成し遂げた人は、系図を改竄してまでも、先祖を偉く見せようとする。

 織田信長の系図も改竄されている事は通説となっている。徳川家康も同じであったろう。


 毎年、5月から8月下旬まで、不動産業界は客足が鈍ると言われている。会社の人事異動も少ないし、暑くなるせいか、土地や建物を買い求める客も減る。内田不動産も例外ではない。客足が止まった時は、賃貸用の建物の情報の仕入れに奔走する。土地や建物の売買の仲介の情報の仕入れも怠らない。新聞の折り込み広告も月に一回は必ず入れる。

 不動産仲間には、3~4回広告を入れて、客の反応がないと嫌になって止めてしまう所がある。要は入れ続けられるかどうかだ。半年、1年と入れ続けていると、お客の方が名前を憶えてくれる。広告は投資なのだ。


 6月になる。ある日、朝のミーティングで、

「澄子、京都へ行って来いよ」暇だから休んでもいいよと兄が言う。矢口に会って来いと言うのだ。

 澄子はかぶりを振る。

矢口は今多忙なんだと思う。会いに行くのは迷惑になるだろう。メールを待つ事にする。

・・・兄も内心では気を病んでいるのだ・・・澄子は心の中で兄に両手を合わせる。


 それから3日後、矢口からメールが届く。澄子から沢山の情報を貰った事への謝意が述べられる。

――六所神社をどうして知っていたのか――以前澄子はこの疑問を送っている。

 六所神社は、岡崎付近に住んでいる人以外知られていない。神社の事に精通した人でも案外知らない。

 矢口から意外な返事が来る。

――あなたの御主人が、岡崎の神社を調べ尽くして見つけている。私は神社に勤めてはいるが、末端の神社の事までは判らない。本当なら、上賀茂神社にお見えになった時に話しておくべきだった。――

そして――賀茂神社、賀茂氏についての詳しい情報が送られてきた。


 山城国風土記――賀茂武角身命と伊可古夜日女の間に、玉依彦と玉依姫の2人の子供があった。ある日、玉依姫が石川の瀬見の小川で遊んでいると、上流から丹塗りの矢が流れてきた。姫はこれを家に持って帰り、床の辺にさして置いた。すると玉依姫は懐妊して男の子を産んだ。

 男の子が大きくなって、分別がつくようになると、祖父の賀茂建角身命は7月7日夜宴会を催す。孫に向かって、本当の父親に酒を飲ませよと言った。すると男の子は天井を突き抜けて、天に昇って行った。

 この事から、父親である丹塗り矢の正体は、乙訓郡に奉じられている火雷神であると判り、男の子は賀茂別雷神と名付けられた。一方、賀茂建角身命と伊可古夜日女と玉依姫の3人は蓼倉の里の三井神社に祀られている。

 丹塗り矢=火雷神は松尾大社の主祭神。子供の賀茂別雷命は賀茂別雷神社、すなわち上賀茂神社の主祭神。祖父の賀茂建身命と母の玉依姫は賀茂御祖神社、すなわち下鴨神社の主祭神。三人の神を祀った三井神社は下鴨神社のの摂社となっている。

 玉依姫とは神の御魂を宿す巫女である。しかし忘れてはならない人物がいる。それは初代、神武天皇の母。彼女の名を玉依姫という。

 賀茂別雷命の母=玉依姫=神武天皇の母。したがって、賀茂別雷命=神武天皇となる。

 明治初年まで下鴨神社は、”皇祖加茂大神の宮”と名乗っていた。賀茂神社主祭神が神武天皇だからこそ、歴代の天皇も勅使を遣わしていた。

 籠神社の秘伝によると、主祭神の天火明命と賀茂別雷命は同一神という。

 神武天皇=賀茂別雷命=天火明命=天照国照彦天火明命櫛甕玉饒速日命=天照大神。

 つまり現人神である天皇に宿る天照大神に御魂が、賀茂別雷命として祀られていたのだ。

 問題なのは、どうして、主祭神を天照大神や神武天皇の名前で祀らないのか。

賀茂神は京都に住んでいた歴代の天皇が崇敬している。神道界における地位は高い。

 神道の最高神、天照大神を祀る神社は伊勢神宮。その伊勢神宮とそっくり同じ構造を持っているのが賀茂神社だ。

 伊勢神宮は内宮と外宮からなる。その周りに数多くの別宮や摂社がある。

 斎宮制度――斎宮とは神に仕える巫女の事。皇室ゆかりの未婚の女性がなる。

 伊勢神宮は初めから伊勢にあった訳ではない。

天照大神の三珠は当初、皇居の中で祀られていた。神威が強すぎたため、皇女、豊鍬入姫命が御杖代となって御魂を宿し、各地を転々と移動。途中、皇女、倭姫命が代わり、最終的に現在の五十鈴川のほとりに落ち着いた。

 以後、天照大神の御魂にお仕えするのは、皇女と決められた。これが斎宮である。記録によると、第10代、崇神天皇の時代に始まった斎宮制度は鎌倉時代末期まで続いた。

 賀茂神社に斎宮が設置されたのは、平安遷都から16年ほどたった810年。第52代、嵯峨天皇の皇女、有智子内親王が初代斎宮に就任。以後35代、400年続く。斎宮制度があった神社は伊勢神宮と賀茂神社だけだ。賀茂神社は伊勢神宮と肩を並べる神社なのだ。

 伊勢神宮は全国の神社の頂点に君臨する。賀茂神社は神道界の総元締的な存在である。言葉を替えて言うなら、伊勢神宮は表の神道、賀茂神社は裏の神道的な役割を担う。

 天皇が天皇となる重要な儀式、大嘗祭を主催して、全てを取り仕切るのが賀茂神社だ。宮内庁でもなければ、伊勢神宮でもない。上下賀茂神社のうち、下鴨神社こそが、天皇の儀式の一切を執り行う神社なのだ。

 神道の頂点に君臨する天皇を、裏で支えている下鴨神社、どの神社も下鴨神社には正面から逆らう事は出来ない。絶対的な権威をもっている。

 賀茂神社は初めから全国の神社の頂点に君臨していた訳ではない。

――鴨が葱を背負ってきた――という諺がある。

鴨鍋をしようとしたら、鴨の方からやってきた。しかも葱まで背負ってきた。一般に自分から進んで罠に入る。しかもおまけまで持ってくるめでたい人間の比喩として使われる。

 この真の意味は、鴨氏(賀茂氏)が全国の神社に、賀茂氏の息のかかった禰宜を送り込むというものだ。

多くの場合、神社の娘と結婚させると言う婿入りの方法がとられた。いずれ婿が神社を仕切るようにさせる。これに従わなかった場合は、武力で神社を追い出して追放した例もあると言う。


                    賀茂氏の謎


 古事記に、賀茂=カモの名を持つ神として最初に登場するのは、大国主命の子”阿遅鋤高子根神”である。

この神様、迦毛カモ大御神という、天照大神級の仰々しい名前で紹介されている。奈良県御所市の”高鴨阿治須岐彦根命社”通称、高鴨神社の主祭神である。

 古事記では、大国主命を父とする兄弟に事代主命がいる。賀茂氏は賀茂大御神と称せられた阿遅鋤高日子根神よりも事代主命の方を重視している。

 高鴨神社の近くにある”鴨都味波八重事代主命神社”はその名の通り、賀茂氏が事代主命を祀っている。このような例は全国に数多くある。なかでも注目されるのは、摂津にある”三島鴨神社”主祭神は事代主命。

 以下古事記の説話。

――昔、三島涅咋みぞくいの娘、勢夜院多良比売が川で用を足していた。それを見ていた大物主神は、丹塗り矢に変身して川を下って行った。そして比売のホトを突いた。彼女はその矢を持ち帰り、床の間に置いた。矢はたちまち美しい男になり、彼女を娶った。そして女の子を産んだ。これが後の神武天皇の妃、比売多多良伊須気余理比売である――

 この説話は賀茂神社の丹塗り矢伝説そっくりだ。ここでは丹塗り矢の正体が事代主命で、それを持って帰ったのが玉依姫となっている。

 三島鴨神社の総本山は静岡県にある三島大社だ。

”延喜式”によると、伊豆国一之宮である三島社はもとは伊豆国加茂郡にあった。伊豆は古くから賀茂氏が支配していた場所だ。伊豆諸島の神社はことごとく事代主命を祀っている。

 だが三島大社は、もともと大山祇命を主祭としていた。三島大明神事によると、伊豆の三島明神は瀬戸内海の大三島にある大山祇神社からやってきたという。

 伊予風土記によると、摂津の御島=三島明神も、大山祇神社から勧請されたとしている。

 大山祇命は山の神と知られているが、伊予風土記では和多志大神、すなわち海神であると記す。しかも海の向こう、百済からやってきた神と言っている。

 ――三島明神を祀る一族――賀茂氏という事になる。賀茂氏は百済からやってきた渡来人なのだ。


 注目すべきお祭りがある。

旧暦の5月5日、大山祇神社で行われる御田植祭だ。この日のお祭りの日、境内の土俵で”一人角力”が行われる。普通、相撲は2人で行う格闘技だ。1人で行うと言うよりも、もう1人は神様だ。目に見えない神様と相撲を取る。

旧約聖書に神と相撲を取った人物が登場する。イスラエル人の祖ヤコブだ。彼は一晩中、神と格闘する。神に勝って、イスラエルという名前を貰う。

 1人相撲の神事のルーツと考えられる。この1人相撲の神事を持ち込んだのは、賀茂氏と同じ渡来人、湊氏である。

 賀茂氏は湊氏から出ている可能性が高い。


 下鴨神社の境内に、糺の森がある。この糺すの森、京都にもう1つある。右京区太秦にある元糺の森。元とあるように、こちらが本家だ。9世紀初頭、嵯峨天皇の頃、下鴨神社の境内に糺の森を移している。

 元糺の森も神社の境内になっている。

社名を”木嶋坐天照御魂神社”という。摂社の養蚕神社が呉服屋、三井家によって崇敬されている事から,蚕の社として知られている。この神社は湊氏によって創建され、三柱鳥居が立っている。社紋も下鴨神社と同じく二葉葵だ。

 糺の森が移されたのは、平安遷都から十数年語である。糺の森そのものが移植されたのではない。名前が移動したのだ。神社の事だから、当然、神様の御魂が勧請されたとみるべきだ。

 つまり、蚕の社=木嶋坐天照御魂神社は、元下鴨神社だったと言う事になる。社紋が同じである事が、この事を雄弁に物語っている。

 蚕の社の氏子の三井家の三井が下鴨神社の摂社、賀茂建身命と伊可古夜日女、玉依姫の3人を祀る三井神社の三井と同じなのは偶然ではない。


 葵祭は賀茂氏の祭りとされるが、もう1つ、葵祭に参加する神社がある。松尾大社である。

 丹塗り矢伝説で、賀茂氏の玉依姫を懐妊させたのが火雷神で、この神を祀っているのが松尾大社だ。現在、松尾大社の主祭神は”大山咋神”(山末之大主神)と称しているが、本来は火雷神と同一神だ。

 この大山咋神、日吉神社の総本山、日吉大社の主祭神でもある。日吉大社が葵祭りと同じ日に祭礼を行っている。

 大山咋神は山の神、三島神社の賀茂氏が祀る大山祇命と同じ山の神だ。本質は同一神なのだ。

 松尾大社を創建したのが秦都理、秦氏だ。秦氏が火雷神を祀っている事は、妻の実家、賀茂氏とは祭神では親戚関係となる。

 秦氏本系帳には丹塗り矢伝説と同じような話がある。

――昔、秦氏の娘が葛野川で洗濯をしていた。上流から1本の矢が流れてきた。娘はそれを持って帰り、戸上においた。やがて、娘はひとりでに懐妊、男の子を産んだ。

ある時、宴会を開き、秦氏の祖父母が男の子に向かって、父親に酒を飲ませよといった。男の子は戸上の矢を指し、これすなわち雷公といい、そのまま天井を突き抜けて、天に昇って行った。

 これにより、鴨上社は別雷神とし、鴨下社は御親神と称する。戸上の矢は松尾大明神である。以上、これら秦氏三所明神として奉祭する。しかして、鴨の氏人は秦氏の婿である。秦氏は婿のために、鴨祭り(葵祭)を譲与する。今日、鴨氏が禰宜として奉祭するのはこの縁のためである――

 賀茂氏の丹塗り矢伝説と決定的に違うのは、玉依姫が賀茂氏の娘ではなく、秦氏の娘という事だ。

 この二つの相違は、玉依姫から見ると容易に判る。

玉依姫=賀茂氏、玉依姫=秦氏、となれば賀茂氏=秦氏だ。

 伏見稲荷大社を創建したのは秦伊侶巨=秦鱗である。歴代の宮司の中には秦鮒という人もいる。秦伊侶巨の父親は秦鯨という。

 賀茂氏にも賀茂久治良という人物がいる。賀茂氏の伝承では両者は同一人物。秦伊侶巨も、もとは賀茂伊侶巨といった。その兄弟が賀茂都理で後に秦都理と名乗る。

 賀茂氏は秦氏の中の秦氏である。


                    葵の紋の謎


 葵祭は5月15日に行われる勅使の行列である。しかし葵祭より重大な儀式がある。5月12日に、上下賀茂神社で行われる秘祭がある。

 下鴨神社で行われる秘祭を”御蔭祭”という。

当日の昼、下鴨神社で儀式を行った宮司達は、近くの御蔭山に登る。そこに御蔭神社がある。境内で祝詞奏上を行う。”御生木(御阿礼木)”と呼ばれる榊を聖別して、下鴨神社の本殿に持ち帰る。

 一方の上賀茂神社での秘祭を”御阿礼神事”という。当日の夜、背後の丸山へ宮司が登る。そこに四方を常緑樹の枝で囲んだ”青柴垣”という神籬ひもろぎを設置する。中心に”阿礼木”という榊を立てる。そして神の御魂を阿礼木に降臨させる。

 この2つの秘祭、御蔭祭と御阿礼木神事は古神道儀式の形態を保っている。ここで重要なのは、御蔭祭の御蔭とは影や陰ではない。光を意味する古語なのだ。

 一方の御阿礼神事とは御生まれの事で、再生、復活を意味する。上下賀茂神社の一連の秘祭は光が復活する事を表している。

 太陽――太陽を連想する花はヒマワリ(向日葵)。ヒマワリがアオイの仲間という事ではない。

”葵”そのものが太陽に身を向ける花という意味がある。太陽に向かって傾くことを、古語で葵傾という。

 葵は太陽の花、神道では天照大神の花となる。

――御蔭祭り、御阿礼神事、葵祭――は一連の祭祀なのだ。御蔭、御阿礼、葵は光・復活・太陽に向く花の意で、天照大神の復活を祝福する神事なのだ。

――天岩戸開き神話で、隠れていた天照大神が復活し、この世に光が戻ってきた事を祝う祭りなのである。

 神道の最高神、天照大神の復活を秘祭として継承している神社、それが賀茂神社なのだ。葵祭は天皇が行う祭りである。天皇が行う天照大神の復活祭、それを取り仕切っているのが上下賀茂神社なのだ。

 葵にはもう1つ現実的な意味がある。

二葉葵は古くから雷は除けや魔除けの護符として珍重されてきた。祭において使用されるもう一つの理由は邪気を祓う草花なのだ。

 上下賀茂神社の葵の神紋は神道界では最高の権威を持っていた。

 問題なのは上下賀茂神社の紋が二葉葵に対して、徳川家の紋は三葉葵である。この理由はただ一つ、二葉葵の神紋を引き継ぐのは三葉葵という意志が込められている。

――太一(一)から陰陽(二)が生じ、陰陽から八卦(三)が生じる。八卦から万物が生じる。

 陰陽思想は道教から派生している。この思想は神道にも通じる。

 平安時代、陰陽道を取り仕切ったのは安倍氏と賀茂氏なのだ。徳川家康は葵の紋の謂れは知っていたであろうし、陰陽道も知悉していたと考える。

 だからこそ、天下を取ってから、徳川家以外の者が三葉葵を使用する事を禁じた。


                     秦氏


 矢口のメールはここで終わっれいる。澄子は息をつく。矢口に返信する。

――よくぞ、ここまで調べられました――

後日、矢口から意外な返信が来る。

――調べられたのは、あなたのご主人です。私はそれを整理しただけです――

 澄子は絶句する。同時に不信感を抱く。

――どうして、もっと早く教えてくれなかったのか――

 矢口の返事

――間瀬さんは殺されました。もし私があなたや、他の方々に話していたら、容疑者の1人として、私は警察の事情聴収を受けていたかもしれません――

 厄介事に巻き込まれたくないと言うのが矢口の理由だ。

――秦氏についてお伺いしたい――

 澄子はメールを送る。

――ご自分で調べてください。どうしても判らぬ点があったらお助けします――矢口の返信メールだ。


 平成21年6月中旬。

間瀬澄子は内田不動産の事務所で1人、事務机の上で頬杖を突いていた。来客無し、問い合わせの電話もない。

 午前10時、兄の内田は外に飛び出している。朝のミーティングで、矢口のメールの事は伝えてある。近頃の兄は「ほーっ」とか「へーっ」と驚きの声を上げるが、それ以上突っ込んで来ない。一歩間を置いたような態度を取っている。

 1つには仕事が忙しくなっている。賃貸の仲介は金額が小さい。数をこなす事になる。

 2つには出来るだけ澄子に任せて、自分は端で見守っていると言うふうに見える。


 ・・・秦氏か・・・澄子は嘆息する。

秦氏と言えば秦河勝が有名だ。学校の歴史教科書にも載っている。聖徳太子のブレーンだった事で有名だ。だがそれ以外の事ではあまり知られてはいない。

 ・・・インターネットで検索するか・・・


 午前11時、電話が鳴る。

「内田不動産でございます」澄子の気持ちが引きしまる。

「澄ちゃん?」若々しい女の声だ。

「あら、お啓?」澄子の声がくだけた調子になる。

 高校時代の友人、肥田啓子。結婚して榊原という姓に替わっている。常滑の隣町半田に住んでいる。

「旦那さんの事、大変だったわね」啓子の労りの声。

澄子が兄の下で働いている事を人伝えに聞いている。

「今、お店?ちょっと寄ってもいいかしら」

「是非、いらして」久し振りに合う友人だ。澄子の心は弾む。

「今ね、常滑市役所の駐車場にいるの」と啓子。

「何だ。近くじゃないの」

 5分後、水玉のワンピース姿の啓子が店に入ってくる。しばらく雑談の花が咲く。正午、駅前の寿司店から鮨をとる。

「澄ちゃん。1つ。お願いがあるの」啓子の表情が真剣になる。

「常滑にね、引っ越しして来たいの」

 榊原啓子はご主人と小学校2年の女の子と3人暮らし。彼女は半田市内の白山町に住んでいる。丘陵地帯で半田市内では1等地である。10年前に建売を購入している。スーパー、学校、図書館などが近くにあり、住むには便利だ。主人の職場も車で10分で行ける距離だ。

 ところが去年の暮れから、名古屋の本店に転勤となる。半田駅まで徒歩で30分かかる。朝晩の送り迎えは奥さんの車となる。

「すごく大変なのよ」

 主人と相談の上、今の住居を手放して、常滑駅近くに移り住みたいと言う。

「ご主人さんのお仕事って何?」澄子はさらりと訊く。

 兄の内田から営業の心得として言われている。相手の年齢や家族構成などをさりげなく聴く事。澄子は兄の言葉が身に滲みている。無意識の内に口にでる。

「パンの製造所に小麦粉を卸す会社に勤めているの」

「小麦粉を卸す?・・・」

 澄子の不審な表情に、榊原啓子は以下のように話す。

――パンの製造所と言えば大量生産の工場を思い起こすが、町工場のような製造所が沢山ある。食品は賞味期限が大切だ。豊明にある大手パン製造所で作られたパンを知多半島の先端の小売店に運ぶまで時間がかかる。その分パンがまずくなってしまう。半田に製造所があればできたてのパンを届ける事が出来る。

 それと、電気製品のパン焼き器の普及で、家庭でパンを焼く機会が増えている。それを見込んで10年前に半田に営業所を設けた。だが、スーパーで安価な小麦粉が出回ったために、半田営業所の存続が困難になってきた。今は電話番1人を残して、全員名古屋駅西にある本店に転属となった。――

「うちの人の仕事ね・・・」

 愛知県下に数百あるパン製造所をコンピュータで管理している。1ヵ月にどれだけの小麦粉を消費するのか、今までのデーターで割り出している。

――もうそろそろ、無くなりそうだと考えられる1週間ぐらい前に電話で注文取りをおこなう――

・・・こんな仕事もあるのか・・・澄子は感心して聞き耳を立てる。

「うちの社長ね・・・」榊原啓子は声を落とす。重大な事でも喋るように口に手を当てる。

「在日韓国人なの。。。」

幼い頃、両親と共に日本にやってきた。根っからの商売人で人の面倒見も良い。

 社長の口ぐせは、――自分は日本人だ、両親の生まれ故郷に行った事もない。行きたいとも思わない。ここで根をはって、商売人として生きていきたい。

 

 榊原啓子との積もる話が長くなる。後日、彼女一家は常滑駅まで徒歩7分、西小学校まで8分の所に中古住宅を購入する。仲良しの友達が近くに引っ越してきて、澄子も寂しさがまぎれる。


 夜は夫の書斎に閉じこもる。インターネットで秦氏を検索する。アマゾンジャパンで秦氏に関する本を捜し出しては購入する。

 そして――、判った事は、秦氏はとんでもない氏族である事だ。

明確に言える事は、朝鮮半島からの渡来人である事だ。これは矢口の賀茂氏の説明でも判っている。

――渡来人――澄子は榊原啓子の夫の会社の社長を思い起こす。普通、豪族と言えば、物部氏、蘇我氏、藤原氏などのように、権力志向が強い。一族の力を背景にして政治の表舞台に顔を出す。

 ところが秦氏は、養蚕技術、土木、製鉄技術など、当時のハイテク産業を一手に握り締めておきながら、名のある政治家は数えるほどしかいない。

 政治よりも経済、文化、芸術、宗教を重視した殖産豪族というのが歴史の評価なのだ。

 古代の豪族の出身を記した”新撰姓氏録”に秦氏のルーツが記されている。そこには、中国の秦帝国の秦とある。

 7世紀初頭、中国人”文林郎斐清”が来日。九州の東北部を通った時、そこの国を秦王国とよんだ。中国人そっくりであると随書倭国伝の中で述べている。

 ただ問題なのは、秦始皇帝が生きていたのは紀元前2世紀。記紀にある秦の記事から推測しても2世紀となる。現在の古代史の調査からみると、秦氏がやってきたのは4~5世紀だ。

 秦氏が秦始皇帝との関係を言い出すのは7世紀の奈良時代に入ってからだ。中国系渡来人説は否定されている。

 記紀では秦氏は朝鮮半島を経由して日本に渡来した事になっている。4~5世紀の朝鮮半島は、北に高句麗、東に新羅、西に百済、南の伽耶と分かれていた。

 秦氏が住んでいたのは百済だ。朝鮮半島情勢が混乱すると、秦氏は安住の地を求めて日本に行こうとする。半島を南下して伽耶まで来ると、新羅が行く手を妨害。困った秦氏の首長、弓月君(融通王ともいう)が先に日本に来て、助けを求める。これに応えて応神天皇は援軍を送る。無事秦氏は日本に渡来する。

 これだけ見ると秦氏は百済系渡来人という事になる。しかし秦氏の建てた建物の遺跡から出土する遺跡は皆新羅様式なのだ。

 百済は馬韓(辰韓)、新羅は秦韓(辰韓)、伽耶は弁韓から派生している。秦氏の秦が秦韓に由来している事は明白だ。今でも新羅があった朝鮮半島の東側には、秦氏と名乗る人々が多数住んでいる。

 古代史の俗説に――くだらない――がある。この語源は――百済ではない――からきている。百済の物は進んだ大陸ブランドでそれ以外のものは価値がないと言う意味だ。

 それに対して――しらじらしい――は――新羅新羅しらじらしい――にあるという。新羅の人間は見え透いた嘘を言って、とぼけてしまう事にある。

 秦氏は新羅系渡来人なのに、百済系と見え透いた嘘を言う。しらじらしいとは秦氏の事を言う。

 秦氏は自らの出自を隠しているフシがある。最近の学説では百済でも新羅でもない。渡来してくる際、最後まで留まっていた伽耶から来たと言うものもある。

 また秦氏の支族に”勝氏”がいる。播磨風土記では呉から来たと言っている。呉とは中国の呉ではない。高句麗の略称の句麗=クレ(呉)を指す。要は朝鮮半島にいたという事実だけで、どこの国に属していたのかは秦氏にとっては重要な事ではなかった。

 同じことは名前にも言える。秦=ハタと読むが、日本書記では語源をハダとしている。秦氏の支族はおびただしい数になる。

 ハタ、ハダから半田、肥田、本田、矢田、福田、新田など、これらはハダから推測できるが、平田、服部、賀茂、世良田など、ハタからは推測できないもの姓もある。丹念に捜せば一杯出てくるだろう。

 要は秦氏は出身地にこだわりがないと同様、姓にもこだわりがない。

 特徴と言えば職業は多岐にわたる事だろう。衣服では蚕から機織りに至る一貫生産。金属生産では金鉱探しから精錬、農機具の生産まで行っている。建築では山林からの木材の切り出し、運搬、加工、建て方にいてるまでの優秀な職人の確保。

 まさに古代、中世の日本の産業界全般を仕切った氏族、それが秦氏なのだ。

 秦氏の財力は他の氏族を圧倒している。桓武天皇が京都に都を遷すとき、当時山城と言われた京都の地と皇居、その他の施設の全てを提供している。

 そして、宗教――平安末期までに創建された神社、仏閣のほぼ9割方が秦氏の手によっている。


 澄子はここで一息つく。徳川家康は、武家の名門としての源氏よりも、秦氏を意識していた事は明白だ。

 澄子が秦氏に注目したのは宗教――陰陽道と修験道だ。


                     陰陽道と修験道


修験道には数多くの陰陽師がいる。圧倒的に多いのが秦氏だ。陰陽道は律令制度の中に組み込まれて、内裏の中に陰陽寮が設置されている。

 陰陽師の大家は秦氏の象徴、蘆屋道満がいる。蘆屋は兵庫県の蘆屋の事だ。ここを含む播磨一帯に陰陽師集団が存在していた。播磨には秦氏の首長、秦河勝の墓がある。秦氏の一大拠点である。蘆屋道満の本名は秦道満である。

 一方、秦氏と並んで陰陽道を牛耳っていたのが賀茂氏だ。

平安時代、賀茂忠行が陰陽師として頭角をあらわす。その息子賀茂保憲が陰陽頭に就任。朝廷の陰陽道は賀茂氏に支配される。天皇の行う祭祀や儀式はすべて陰陽寮の占いで決定される。

 阿倍清明――賀茂忠行によって、霊能力を見出され、彼の息子、賀茂保憲の下で陰陽道を修行する。

 安倍清明の実力を認めた賀茂保憲は、歴道と天文道を分離する。歴道を息子の賀茂光栄に、天文道を安倍清明に伝授。安倍清明の長男、安倍吉平は陰陽道で主計頭となる。次男の安倍吉昌は天文博士から陰陽頭まで出世する。以後安倍清明の子孫は”土御門氏”を名乗る。

 16世紀、陰陽道の宗家、賀茂氏が断絶。土御門氏から養子を迎えて再興を計る。

 陰陽道の宗家が賀茂氏から土御門氏に移ったというのは、実は表面的な事でしかない。秘密は安倍清明の母にある。浄瑠璃では、母は白狐とする。説話によると、父の安倍保名(本名安倍益杙)が信田の森に狐刈りに出かけて、衰弱した女狐を見つけるが、森に逃がしてやる。後日、彼の前に”葛葉姫”という美しい女人が現れて、2人は結婚する。女は安倍清明を産む。

 狐は昔からインド由来の茶枳尼天の眷属として知られている。これが密教の呪術と結びつく。ここから仏教系の稲荷が生まれる。

 お稲荷さんを祀る神社や寺院が白狐を祀るのはこの為だ。注目すべきは、稲荷大社だ。全国に無数にある稲荷神社の総本山は京都の伏見稲荷大社だ。稲荷大社を創建したのは秦伊侶具。賀茂氏の伝承によると、彼は元、賀茂伊侶具といった。

 安倍清明の母を祀るのが大阪の葛葉稲荷である。明らかに安倍清明の母は賀茂氏の出なのだ。賀茂保憲が先祖伝来の秘術を安倍清明に授けたのも、賀茂氏の血を引くからだ。


 戦国時代、陰陽道は形を変えて生き残る。その1つが忍者だ。服部半蔵、百地三太夫、藤林長門、石川五右衛門らは秦氏の出である。

 忍者の任務は諜報活動スパイにある。その為に、全国津々浦々にある神社を目印に、様々な裏道を使う。神社の形、鳥居の色なども、この土地に何があるのかという暗号になっていた。神社は仲間との情報交換の場でもあった。

 忍者は戦国大名との関係も深い。秦氏系の戦国大名も多い。薩摩の島津氏、対馬の宗氏、四国の長宗我部氏、越中の神保氏は秦氏の出だ。


 修験道――。

 修験道は陰陽道から派生している。山岳仏教と称せられる事もあるが、それは密教である。

修験道の開祖”泰澄”は秦泰澄という。加賀の白山、京都の愛宕山を開いている。修験道の賀茂氏は”役小角”が有名だ。本名賀茂役君小角といい、奈良の葛城山系の賀茂氏である。系譜ではこの賀茂氏は後に高賀茂氏と名乗って、陰陽師の宗家、賀茂へと続いている。

 修験道の特徴はその姿にある。いわゆる”山伏”。在家の僧侶姿ではない。神社の神官の恰好とも違う。山に住む事から”天狗”と結びつけられている。

 天狗の原義は、天駆ける狐の事、いわば妖怪だ。


 忍術を使いこなす忍者、陰陽師の呪術と山岳宗教としての修験道の流れを汲んでいる。山の中で暮らす事から、サンカ、タタラなどの金属精錬の技にも通じている。山中で寝起きする事から薬草などにも精通している。

 戦国時代になると、鉄の精錬から、いち早く鉄砲の生産にも乗り出している。


 澄子はここまで調べ上げる。彼女の頭の中には忍者としての服部半蔵が浮かび上がっている。はやる心を抑えて調べ上げた秦氏の事を、矢口に報告する。

 後日、矢口からのメールの返信には、秦氏が徳川家に関係した事実が述べられていた。

 以下矢口のメール。

 日光東照宮――日光山、日光男体山は平安時代に勝道上人が開山したという伝承を持つ。修験道を基とした山岳信仰の山である。勝道上人は秦氏の人間である。

 静岡県の久能山東照宮は、鉄舟寺の境内にある。これを開いたのが秦久能忠仁、秦河勝の息子だ。

 徳川家康は自らを秦氏の出自と信じていた。この地に埋葬するよう遺言していた。

 それにもう1つ、大阪の安倍王子神社の言い伝えによると、賀茂神社の伝承として、徳川家は松平家とは何の関係もなく、賀茂氏だったとしている。しかも家康が天下を取った時、徳川家の出自を知る賀茂神社の関係者を皆殺しにしたと言う。

――最後に―

 服部半蔵べる時に、多羅尾光俊についても調べてください。面白い事が判ります。

矢口のメールは以上である。

 間瀬澄子は矢口の文面を読んで釈然としないものを感じる。これを追及すると、間瀬耕一の説だと言う。それなら小出しにせず、全部吐き出せばよい。

・・・何か、私を導いているみたい・・・

 心中に不安が残るが、今は矢口の口車に乗る方が得策と考える。


                  服部半蔵


 服部正成(通称半蔵)は天文12年(1542)保長の長男として生まれる。父の跡を継いで徳川家康に仕え、慶長元年(1596)55歳で没。

 服部半蔵の先祖は伊賀国花垣村(現上野市)余野に居住。代々伊賀忍者の首領的な存在だった。父保長は、足利家に仕官していたが、、永禄年間(1558~1570)の初め頃、徳川家に再仕官。よって半蔵は徳川家譜代の家臣と言える。

 父の死後、家康に仕え故郷の伊賀者や甲賀者を動かして遠江掛川城攻め、姉川の合戦、三方原の戦いで戦功を立てる。

 天正10年(1582)本能寺の変の時、家康は数名の家臣を連れて泉州堺に来ていた。

 半蔵は甲賀、伊賀国境の多羅尾峠を越えて伊賀地に入り、忍者達の救援を得て岡崎に帰ると言う策を進言。家康の同意を得ると、甲賀の多羅尾四郎兵衛光弘を訪ね、家康一行の保護誘導を頼む。甲賀、伊賀の忍者3百名余を招集。半蔵自ら指揮して、鹿伏兎の難所を超えて北伊勢に入る。この沿岸から伊勢湾を渡り、岡崎城に辿り着く。

 以上は昭和36年発行の上野市史による。

 上野市史とは異なる伊賀超えの説がある。

 5月21日、信長の勧めで、家康は京都に入る。京都、奈良を見物、29日に堺に到着。30日、堺の町を見物。6月1日夜、堺の今井宗久、津田宗及、松井友閑らの招待で茶会と酒宴で1日を過ごす。2日の朝、京都の本能寺の信長に挨拶する為に堺を出発。家康一行が枚方に来た時、本能寺の変を京都の呉服商、茶屋四郎次郎によって知らされた。

 家康は行先を変更して宇治田原に向かう。そこから近江紫香楽をへて、そこの豪族、多羅尾光俊の家に一泊、翌朝多羅尾の案内で伊賀から加太に至る。伊賀越えである。

 伊賀越えを進言したのは服部半蔵である。彼は伊賀で圧倒的な勢力を持つ忍びの衆、服部家の宗家で、伊賀一之宮敢国神社の祭祀権を持つ家柄である。

家康と少し遅れて同じコースをたどった穴山梅雪が宇治田原に向かう途中、一揆に襲われる。

”老人雑話”には梅雪の挙動を警戒した家康が殺させたとある。

 1年前、信長による伊賀の乱が起こっている。この時家康が伊賀者を成敗しなかった。それどころか何かと援助の手を差し伸べている。その恩義に報いようと、生き残った一族が救援にやってきた。御斎峠までやてくると、柘植村の者、2,3百人と、甲賀衆百余名が道案内と警護のため待ち受けていた。これらの人々に守られて、家康一行は山賊がたむろする加太峠を無事超える事が出来た。

 家康一行は30数名という説もある。


 平成21年6月下旬、朝10時。

間瀬澄子は内田不動産の事務所で、兄の内田を相手に伊賀越えの講釈をしていた。

「家康は事前に本能寺の変を知っていたフシがあるの」

澄子は切り出す。内田茂は黙ってお茶を飲んでいる。

 ここ数日間、お客の出入りが止まっている。仕事の話はそっちのけだ。内田は妹の徳川家康主謀説をじっくり聞いている。よく調べ上げたと、内心感心している。

 澄子は家康が本能寺の変を前もって知っていたと言う。

「ほう・・・、それじゃ伊賀越えも予定の行動って訳だね」

 洲も子は頷く。その表情には、以前のような人見知りする暗さはない。活気にあふれ、執念のような気迫が迫っている。

――本能寺の変が起こった6月2日朝、家康は急に京都に行くと言い出す。表向きはの理由は、信長が泊まっている本能寺を訪ねると言う事だった。

 天正日記には「これは、信長ご生害を知りて、計略をいい上洛なり」と記している。

 ”武徳編年集成”を基にして、この日の家康の行動を追う。

家康は、信長が宿泊している本能寺に使いを出すと称して、本田忠勝を京都に向かわせる。忠勝はこの日の早暁に堺を出発、昼近くに枚方に到着。この時、本能寺の変を知らせる茶屋四郎次郎の早馬に会う。忠勝は急いで信長の凶変を家康に報告すべく堺に戻るが、守口付近で家康一行に遭遇する。すでに家康は堺を出発していたのだ。

 信長、死す。忠勝の報告に接しても、家康は顔色1つ変えなかった。服部半蔵に進言によって、伊賀越を敢行。

 家康の伊賀越えの目的は、甲斐の鎮撫にあった。甲斐の武田を滅ぼしたのは、僅か3ヵ月前の事だ。信長の死を知って、武田の残党が不穏な動きをするのは必定だ。もし家康に反旗を翻した場合、真っ先に家康の領土となった駿河に侵攻してくるに違いないのだ。

――伊賀越えは家康が岡崎に戻るための最短距離――なのだ。伊賀越えのための準備は前もって行われていたとみるべきだ。

 山崎の合戦の後、家康は甲斐の鎮撫に動く。駿河から甲斐に軍を勧め、武田の旧臣の帰服を促す。武田家旧家臣団を徳川戦力に組み入れる。

 伊賀越えの目的は甲斐の動向を懸念し、秀吉の中国大返しに負けない速さで岡崎に戻るための手段であった。伊賀越えで服部半蔵の果たした役割は大きい。

――そちたちの働き、家康は生涯忘れぬであろう。肝に銘じて、記憶にとどめておく。褒美に一千貫の禄を取らす。――

 岡崎に帰り着いたとき、家康は、服部半蔵や忍びの衆に礼を言っている。


                    多羅尾光俊


 澄子は矢口から言われた事を、内田にすべて報告する。

その中で多羅尾光俊の事を調べ上げるように言われている。

「兄さん、後で1つお願いがあるの」言いながら澄子はメモを見ながら以下のように述べる。

 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は11世紀初頭に藤原道長の荘園となる。その後近衛家に伝承される。13世紀末、近衛家基は信楽小川に隠居する。その子経平も信楽荘に住し、多羅尾の地侍の娘との間に男子を設ける。その子が多羅尾氏の祖、左近将監師俊である。

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていたのが鶴見氏だ。南北朝時代、鶴見氏は南朝方に属して活躍。暦応3年(1340)鶴見俊純は朝宮城を築いて、山城国和東の米山一族との戦いを展開すると、多羅尾播磨入道も鶴見氏を後援している。

 応仁元年(1467)応仁の乱の際、足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出する。多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届ける。甲賀のちは伊賀に通じて伊勢に行く道筋にあたっている。この為甲賀武士は中央貴族の往来の保護の任を担っていたのだ。

 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方した。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍する。

 応仁の乱により反幕府姿勢を明確にする六角高頼は幕府公家衆の領地を蚕食していく。六角高頼の進出に業を煮やした将軍義尚は、長亨元年(1487)六角高頼攻めの陣を起こす。この時多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の陣を夜襲するなどの活躍を見せる。

 一方の鶴見成俊は将軍方に味方した為、多羅尾氏は小川城を攻略する。敗れた鶴見氏は没落していく。

 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領の押領を繰り返す。明応10年(1501)、近衛氏は信楽郷の守護職を放棄する。ここに多羅尾氏は名実と共に信楽の領主となった。

 光吉の子が多羅尾氏中興の祖と言われる四郎兵衛光俊で、光吉より信楽の領地7千石を受け継ぎ、佐々木六角氏に属した。永禄11年(1566)、六角氏は信長の軍に敗れて没落する。以後信長に仕え、天正9年(1581)の伊賀攻めの陣に参加する。

 本能寺の変の時、家康主従は長谷川秀一を先導として伊賀越を敢行する。

 長谷川秀一は以前より交流のあった田原の住人山口藤佐衛門光広邸に家康一行を案内する。光広は多羅尾光俊の5男で、山口家を継いでいる。光広は父光俊に急報、光俊は改めて家康を信楽の多羅尾邸に招き入れる。光俊は従者50人、甲賀の士族150人をそえて家康を護衛、伊賀路を誘導して、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届ける。

 山崎の合戦後、秀吉は柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の滝川一益と岐阜の織田信孝を討つ事を計画。大軍を近江国草津に集める。一方浅井長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じる。

 この長政軍の前に立ちはだかったのが多羅尾光俊である。攻め寄せる長政軍を光俊は夜襲で撃退する。長政は光俊に和睦を申し入れる。ここに多羅尾光俊は秀吉に従う様になる。天正14年、信楽を本領として、近江、伊賀、山城、大和に8万石を領する大名となる。

 秀吉が天下人となり、秀次に近江43万石を与える。近江の太守となった秀次は領内を視察する。光俊は一族をあげて秀次を歓待。光太の娘万を差し出す。

 文禄4年(1595)、秀次は高野山に追放される。この秀次粛清事件により、多羅尾一族はことごとく改易となる。光俊は光太と共に信楽に蟄居を命じられる。

 慶長3年、秀吉死去。大阪城に入った家康は伊賀越えの時世話になった多羅尾光俊、光太を召し出し2百人扶持を与える。関ヶ原の戦い後、信楽7千石を与えられ、大坂両度の陣後、徳川幕府体制下での地位を確立する。

 寛永15年(1638)光太の子光好は代官に任命される。屋敷内に代官信楽御陣屋を設ける。御陣屋は近畿地方の天領を治める役所である。多羅尾代官所とか天領信楽御役所と呼ばれる。

 以来江戸時代を通じて多羅尾氏は信楽の他に近江甲賀、神崎、蒲生三郡、美濃、山城、河内の国々の天領代官を任じられ、全国代官所の首席となる。

 澄子の朗読は終わる。兄の反応を見る。内田は黙している。

「不思議に思わない?」

「えっ?、何が・・・」内田は上の空だ。

「私の言った事、聴いていなかったの?」

「いや、すまん、澄子の顔、見てた」

「私の顔に何かついているの?」

「随分変わったなあって・・・。俺の妹、こんな美人だったのかって、見惚れてた・・・」内田は苦笑する。

 澄子は頬をぷっと膨らます。口をとがらす。

「一生懸命喋ってるのよ。茶化さないで聴いててよ」

「すまん、すまん」内田は頭に手をやる。

 すぐに真顔になる。以下のように答える。

――まず、服部半蔵が多羅尾光俊に応援を頼んだというが、これは有り得ないと思う。多羅尾は信長の伊賀攻めに加わっていたから、伊賀の国人から憎まれていた筈だ。

 だから、後に出てくる長谷川秀一が多羅尾に応援を求めたと言うのが、通説としては筋が通っていると思う――

「問題なのは、どうして多羅尾光俊が家康の伊賀越えに手を貸したかだね・・・。これは謎だね」

 澄子は兄の答えに満足する。

「この2人についてもう少し詳しく調べたの」

 以下間瀬澄子の説明。

 天正7年(1579)、伊賀忍者の1人、下山甲斐は仲間を裏切って、伊賀の団結力が衰えだした事を織田信雄に報告。信雄は直ちに国境の丸山城生を修築、侵略の拠点とする。だが信雄の企みは伊賀衆の知るところとなる。忍者の奇襲によって信雄は大敗を喫す。これが第1次伊賀の乱だ。

 天正9年(1581)、信雄の大敗に激怒した信長は約4万の兵力で伊賀に攻め込む。これが第2次伊賀の乱だ。伊賀の国人は総力を挙げて信長と戦うが、かねて協力関係にあった甲賀忍者の多羅尾光俊の手引きで、伊賀忍者からさらに2人の離反者が出て、織田方の蒲生氏郷の道案内を行う。これにより伊賀の国人が立て籠もった城が陥落していく。最後の砦、柏原城が落ちた時を以って天正伊賀の乱は終焉する。

 柏原城開城に際して、織田軍と伊賀勢の間で和議が成立する。やがて本能寺の変で信長の死を知った伊賀忍者が各地で一斉蜂起する。(これを第3次天正伊賀の乱と呼ぶ)


 ――長谷川秀一――

 はじめ信長の小姓として仕える。以後信長の側近として代官職奉行職や御使役を命じられる。

 天正6年(1578)6月、羽柴秀吉の神吉城攻めの際、御検使の1人として活躍。

 天正7年(1579)浄土宗と法華宗とが宗論を展開する際には調停役、警固役を命じられる。

 本能寺の変の時、長谷川秀一は上洛した徳川家康の大阪堺見物の案内役として付けられていた。本能寺の変が起きると、長谷川秀一は家康の伊賀越えに同行する。

 本来ならば、秀一は安土城の留守を守るか、あるいは安土城から落ち延びた信長の妻妾を守るため日野城へ向かうか、堺に一番近くにいた北畠信雄、丹羽長秀の軍門に合流するなどの行動をとる事が出来た筈だ。

 家康と行動を共にする事で、家康の信長暗殺黒幕説、長谷川秀一内通説が囁かれている。その後、長谷川秀一は秀吉に仕える。小牧長久手の戦いで秀吉の配下となる。以後九州攻めに参加するなどの功をあげて従五位下侍従、越前東郷15万石の槇山城主となる。文禄の役で朝鮮にわたり同地で没する。

 話を戻して、長谷川秀一が伊賀越えで家康と同行したのは、多羅尾光俊説得のため、家康から懇願されたという説が有力である。

 長谷川秀一は後年、小牧長久手の戦いで家康と対峙する。この事からみても、家康と内通していたとは考えにくい。

――多羅尾光俊は長谷川秀一に説得されたとはいえ、どうして、家康の伊賀越えの任を負ったのか――

 伊賀の国人を裏切って、信長についた多羅尾光俊、伊賀越えで家康を警固するとは言え、伊賀忍者に命を狙われる可能性があって、自ら窮地に墜ちて破滅する。そんな行動をどうして引き受けたのか――。


 ここで間瀬澄子は言葉を切る。兄の顔を見る。

内田は妹の顔を見詰めている。何も言わない。言わないと言うより、何を言ってよいのか困惑の表情だ。

「兄さん、今の謎を解明してくれる人がいるの」

澄子の顔が紅潮している。唇がかすかに笑っている。澄子は以下のように話す。

 インターネットで多羅尾光俊を検索していた。

”多羅尾光俊は伊賀越えで、何故家康を助けたのか”それを知りたい人はメールを送れとあった。発信者は滋賀県甲賀市の信楽、多羅尾光俊の子孫とあった。

 澄子はメールでお伺いして、話を聴きたいと送信する。翌日、OKの返信が来る。住所と電話番号が添付してある。

「さっき、お願いがあると言ったでしょう」

 澄子は3日後の内田不動産の休日に信楽に行ってみたいと切り出す。

「何となく、先が見えてきた感じなの」澄子の眼が輝いている。内田は妹を1人で行かせる訳にはいかないと思った。

「俺も一諸に行くよ」内田は言った。


                     本能寺の変の真実


平成21年7月上旬、朝8時、内田の白のクラウンは常滑を出発する。車中、内田は矢口の事を話題に上げる。

「矢口さんは、耕一君が全部調べ上げたと言っているけど、それだけではないようような気がする」不信感を抱く。

 澄子も同意見だ。矢口とはもう一度会わねばならないと思っている。あののっぺりとした表情の裏側に何かあるのではないかと疑ってしまう。

 信楽まで新名神高速道路で行けば2時間ぐらいで到着するだろう。相手の多羅尾氏には昼の1時頃にお伺いすると言ってある。それに今日は内田不動産の休日だ。帰りは湯の山温泉で一泊の予定だ。急ぐ旅ではないので一般道路でゆっくりと行く。

 名四国道から四日市を抜ける。亀山を通って伊賀に入る。伊賀から信楽に行く。途中伊賀で組み紐を買ったり、上野城を見学したりする。

 午前8時半、名古屋の竜宮インターから国道23号線に乗る。このまま名四国道に入って行く。

 助手席の澄子が地図を拡げている。

「兄さん、甲賀と伊賀ってね、山一つ隔てただけの隣り合わせね」その途中に信楽があるのだ。

「この前ね、インターネットで面白い記事を見つけたわ」

――甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすに対して、伊賀忍者は雇い主との間では金銭以上の関係を持たなかったとされる。雇い主が敵同士であっても、依頼があれば双方に忍者を送り出す。その為仲間であろうとも即座に処断する心構えが求められた。お金のためなら身内も殺すのだ。

 戦国時代、伊賀忍者は裏切りや抜け忍は認められなかった。しかし江戸時代になると、忍者をやめて帰農する事が奨励された。

 鎌倉時代から室町時代、伊賀国は小領主が群雄割拠して争っていた。その為領民は自分を守るために戦いの技を磨いていった。これが伊賀忍者の起こりとされる。

 戦国時代、、伊賀は二木氏の支配下にあったが、伊賀惣国一揆と呼ばれる合議制の自治共同体を形成していた。しかし実体は上忍三家(服部、百地、藤林)の力が強かったので彼らの意見に従う事が多かった。

 一方甲賀は惣と呼ばれる自治共同体を形成していたので多数決の決議を重んじていた。

――伊賀と甲賀は気風や風土が違っていたという事ね――


 内田は澄子の説明を聴いている。これから行く多羅尾氏とはどういう人物なのだろうか。彼は多羅尾光俊の子孫という。江戸末期まで広大な陣屋を構えていた。

 明治時代になって、信楽焼の振興に力を注いでいる。今は隠居して、多羅尾家の歴史をまとめて、一冊の本にしようと余生を送っている。

・・・多羅尾光俊がどうして家康を助けたのか・・・その真意を知りたい。間瀬耕一殺しの犯人に繋がるかどうかは判らないが、今は1つ1つ調査を重ねるしかない。


 白のクラウンは四日市市に入る。常滑を出発して約1時間半。名四国道は大型車の通行が多い。日曜日なら1時間で行ける距離だ。名四国道(23号線)から国道1号線に入る。

 亀山から関町に入る。道が分かれる。右に行けば甲賀郡、内田は左折して伊賀方面に向かう。名阪国道で伊賀まで30分位だ。10時半までには伊賀の町中に到着する。

 上野城を見学したり、組み紐造りを見たりする。11時半、昼食。12時半に伊賀を出発する。

 予定の信楽には1時に到着する。

多羅尾の本家は信楽では名家という。今日会う多羅尾次郎氏は分家。信楽焼の販売を手掛けている。今は長男が跡を継いでいる。

 信楽は観光地だ。焼き物の看板が乱立する。信楽市内に入る。町の北側に大きな池がある。そこをぐるりと回って、坂を下る。周囲は田や畑に囲まれている。一軒の大きな民家が見える。多羅尾次郎氏の隠居所だ。奥さんと2人暮らし。

 家は入母屋で黒の瓦が載っている。約50坪の平屋。

正面に一間引きの玄関がある。庭にはトマトやキュウリなどの果実の栽培を行っている。広大な敷地の左手が駐車場となっている。軽四と普通車が駐車している。普通車のカローラは京都ナンバーだ。

・・・お客かな・・・内田は心の中で呟くながらカローラの横に並べる様にクラウンを置く。

 2人が車を出ようとした時、玄関の引き戸が開く。男女2人の老人が姿を現す。2人とも紺の半袖作務衣を着ている。内田と澄子は2人に頭を下げながら、お互いの姿を見比べる。

 内田は色柄の半袖シャツ。澄子は柄物のワンピース、気軽なスタイルだ。遊び半分で来ている。肩苦しい服装は必要ないと考えていた。案の定、多羅尾夫妻もラフなスタイルだ。

 インターネットのメールで、多羅尾次郎は80歳、奥さんは74歳と判明している。

「いらっしゃい」老夫婦はにこやかに出迎える。

 多羅尾氏は前頭部が禿げ上がっている。面長の柔和な表情だ。奥さんは銀髪の髪が肩まである。丸顔で夫から一歩控える様にして会釈する。目鼻立ちの整った顔をしている。

 内田と澄子は頭を下げながら自己紹介をする。2人は屋敷の中に通される。

玄関は畳3枚程の広さがある。東西に一間の広縁が伸びている。玄関から北奥に半間の廊下が通っている。

2人は玄関を上がった所の応接室に案内される。15帖あろうか、折り上げ天井からシャンデリアがぶら下がっている。昼間なのに外の光が射し込まない。シャンデリアの灯りがこうこうとしている。部屋の中は涼しい。外の暑さを忘れる

 2人はソファに腰を降ろすと、テーブル越しに座を占めた多羅尾氏に改めて挨拶する。名刺を差し出す。多羅尾次郎氏も名刺を差し出す。

「お住まい、新しいんですね」澄子が周囲を見回す。

「5年前に建てましてね」多羅尾は以下のように話す。

 父の代までは家族が1つ屋根の下に住んでいた。だが時代の流れというか、隠居した自分と店の経営を任された息子が1つ屋根に居るのは何かと不都合なのだ。客の中には多羅尾次郎を頼ってくる人もいる。それでは息子の為にはよくない。店と隠居を切り離した方がよいと考えた。

「今は、妻と2人暮らしでしてね・・・」

 奥さんが麦茶を運んでくる。主人の側に座る。多羅尾氏は口調を改める。

「常滑から、遠路はるばるご苦労様でした」深々と頭を下げる。そして自己紹介をする。

 多羅尾氏は若い頃から歴史に興味を待っていた。特に先祖について詳しく調べようと調査に精を出している。

「先祖の多羅尾光俊の事ですな」多羅尾氏はしばらく瞑目する。目を開けると間瀬澄子の顔を凝視する。

「奥さん、もう1年以上になりましょうか。あなたの亡きご主人さんも私の所に来ているんですよ」

 2人は驚愕の声を上げる。目を見開いたまま多羅尾次郎の落ちくぼんだ眼を見詰める。次の言葉を待つ。

「奥さん、ご主人さん、すごい人ですな」

多羅尾次郎は言葉を続ける。間瀬耕一は自分が納得いくまで調べ尽くしている。

――多羅尾光俊は信長の命令には逆らう事は出来ない。伊賀の攻略に先陣を命じられる。多羅尾光俊の選んだ苦渋の選択は、1人でも多くの伊賀の国人を裏切らせて信長の意に従わせる事だ――

「伊賀の乱で壊滅的な打撃を受けた伊賀の国ですが・・・」

 多羅尾の薄い唇が動く。各地に散った伊賀忍者が1つにまとまれば侮りがたい勢力になる。多羅尾光俊は承知していた。

「信長という人は、全てを天下取りの道具と見ていたんですな」

 信長の家臣しかり、足利将軍、朝廷でさえも道具だったんですな。ですから、用済みとなれば捨てられるだけ・・・。

 多羅尾光俊もそれは判っていた。信長の為に働く事はあっても、信長が伊賀忍者の脅威から、多羅尾を守ってくれる事などあり得ない。

 第2次天正伊賀の乱が終結したのは天正9年(1582)。

それから9ヵ月後に本能寺の変が起こる。信長の死と同時に全国各地に潜む伊賀忍者が蜂起する。必然の結果として多羅尾一族も伊賀忍者から報復を受けてもおかしくはない。だがその事実はない。

「あなたのご主人もこの謎をついて来ましてな・・・」

――伊賀の乱の後、信長は家康を助けて、武田勝頼を攻撃している。この戦いの最中に、多羅尾光俊は1人の伊賀忍者の訪問を受けていた。――

その男は服部半蔵の意を受けていると伝える。男は言う。

――甲斐の武田が滅びれば、信長の天下取りは時間の問題となる。備中高松城を攻め、毛利を制圧する。これと同時に四国を征伐。山陰の島根を手中に収め、九州の島津を討つ。残るは小田原の北条。

 天下平定が成った時、信長はどうするか。朝鮮半島を制圧して明国に討ち入る。有力大名はかの地に転戦させられる。信長麾下の大名、秀吉、光秀も明国へと送られる。

徳川家康も無事では済まない。領地を没収され、尻を叩かれた朝鮮半島に渡ることになろう。

 伊賀、甲賀を含め、武力となる兵士は皆同じ憂き目に会う。

 多羅尾光俊は男の言葉を聴いて深く頷く。

それは将来生じるだろう憂国の問題。今は伊賀忍者の報復をいかにして避けるか。

 男は多羅尾光俊の心の内を読んでいる。

「各地に散らばる我が同朋の報復を避けるにはただ1つ」

男の眼が光る。ここは多羅尾光俊と男のみ。余人は遠ざけている。男は多羅尾光俊にすり寄る。耳元で囁く。

・・・信長を弑逆・・・


 内田も澄子も驚きの余り声も出ない。多羅尾次郎は声を落とす。この話は先祖以来、口伝で語り伝えられてきた。

「今、あなたにお話しするのは理由があります」

「多羅尾さん、夫にも話されたのですか」澄子の切り裂くような声。多羅尾次郎は軽く頷く。


 多羅尾の話が続く。

――男の囁きを聴いて、多羅尾光俊の顔が強張る。

この話は徳川様の御意向か。多羅尾の吐く声が震える。

「否!」男はきっぱりと言う。我が主、服部半蔵、それに伊賀国人の総意と受け取ってほしい。それで遺恨は水に流す。

 男は続けて言う。

後日、信長は戦勝祝いに徳川様を安土に招かれるでしょう。この事は徳川家の近臣から聴いている。

 今後、我らと連絡を密にして、対策を練ってほしい――

 多羅尾次郎はここで言葉を切る。2人を見ながら呼吸を整える。

――武田家滅亡後、戦勝御礼として、家康は安土城に行く。伴をする者は約百名。本来ならば1万以上の軍隊を率いて上洛すべきところだ。だがそのような行動をとると、信長は疑心の念を抱くだろう。

 安土城での戦勝祝いの後、信長は高松城攻めで苦戦している秀吉の援軍に赴く。慌ただしい中の安土城訪問だ。

 当時織田軍の武将達の一番の関心事は信長が自分をどう思っているか、何を考えているかであった。信長の機嫌を損ねると大変な事になる。だから武将たちは信長の近習たちに金品を送って、信長に関する情報を集めていた。家康もしかりだった。

 そして、2百名余の近臣を伴って本能寺に宿泊する事を知る。

 家康が浜松城を出発する。それと前後して、服部半蔵と連絡を取り合っていた多羅尾光俊が動く。彼は信長に直談判する。

「本能寺の警固を甲賀者にお任せいただきたい」伊賀忍者の不穏な動きがある事をにおわせる。

 伊賀の乱で伊賀国を壊滅させた後、信長は伊賀を訪れている。一の宮敢国神社で休憩中、信長は城戸弥左衛門らに森の中から狙撃されるという事件が起こっている。

 信長は危うく一命をとりとめている。信長にとって生々しい記憶であったろう。即座に警固を命じている。

 信長時代の本能寺は、東西140メートル、南北270メートル、四方に塀をめぐらし、堀にも満々たる水が張られている。出入り口を設け、仏殿の他に、客殿や厩舎がある。客殿と仏間の間に、膨大な火薬や鉄砲を収めた武器庫がある。信長在住の折りには厳重な警固がつく。本能寺は小さな城郭で、僧侶は不在である。本能寺は鉄砲、弾薬、火薬の搬入ルートとして中心的な役割を果たしていた。

 信長が本能寺に宿泊する時は、戦の前夜となる。


 ――信長が家康を討つという噂は数日前から流れていました。――多羅尾次郎の眼は大きく見開いている。

 その事実を多羅尾光俊も服部半蔵も掴んでいた。

――御小姓衆を、30人召し連れられ、5月29日ご上洛、直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、罷り経つべきの旨、御触れにて、今度は、お伴これなし、・・・――(信長公記)

 信長は何かを一掃する目的で上洛した事とある。

 本能寺宿泊の時、信長は各大名に――洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと――所司代役の村井長門守から」通達が出ていたのだ。

 本能寺周辺には各大名の屋敷があった。6月2日早朝に信長が本能寺を出立する事は知っていた。そのために、本能寺で騒動が発生しても誰も屋敷から出ようとはしなかった。

 二条の妙覚寺には信忠がいた。信忠の直属の寄騎、城持ちの大名の63人衆、それに中国攻めの信長の旗本衆、数万が本能寺の異変と同時に駆けつけていれば、信長は死なずに済んだのだ。

 本能寺が炎上して初めて村井長門守が屋敷から飛び出してきた。それまでは本能寺周辺の武家屋敷はひっそりと静まり返っていた。

 信長の目的は丹波亀山城の1万3千の兵力で堺にいた家康を一掃する事だった。

 6月1日、明智光秀は亀山城に寄って斎藤内蔵助と打ち合わせをしてから坂本城にいっている。その足で愛宕山に登っている。この時刻、雨の中を大勢の公家衆が本能寺に押し寄せている。後世の歴史家は公家衆を呼んで茶会を開いたとする。

 だがこれは事実とは思えない。

1つには5月29日夜、家康は堺の松井友閑邸に泊まる。翌6月1日、堺衆の茶席に招かれる。

 当時の信長の茶頭は堺衆の津田宗友だ。本能寺の茶会説を取ると、堺と本能寺で同時に茶会が開かれた事になる。信長の茶頭役が信長の名物披露を放りっぱなしにして、堺で家康接待の茶会を催した事になる。こんな事は有り得ないのだ。当時一流の茶匠は堺衆が多かった。

 公家衆は豪雨もものとせず本能寺に押しかけている。1人や2人ではない。内裏がもぬけの殻になるほど大挙している。信長とて公家達を無碍に追い返す訳にはいかない。茶でももてなしたのであろう。

 彼らの目的は保身の弁明のためである。豪雨の中をわざわざ出かけるという事は予約なしの訪問だったと考えられる。それ程までして信長に会う。将来、信長は朝廷に大ナタをふるう筈だ。その時の身分の保証を求めての訪問だ。

 もう1つには、本能寺は戦のための宿泊施設だ。茶会を開くために宿泊するのではない。

――午前4時頃、斎藤内蔵助、その他の武将に引き連れられた丹波兵1万3千は、本能寺に到着する。そのまま信長からの命令があるまで動かない。――

 本能寺の警固にあたっていた甲賀忍者は武器庫の火薬に火をつけた。火薬庫の爆発と共に本能寺が吹き飛ぶ。驚いた丹波兵が堀を泳ぎ塀を登って本能寺に入る。鎮火の為に侵入したのだ。


                     意外な結末


 多羅尾次郎は口を閉ざしている。内田と澄子の顔色を伺っている。

「信長の死体が見つからなかったのは、火薬の爆発で粉々に吹き飛んだって事ですね」内田の納得したような顔。

「いえ、この時、信長は本能寺にいなかったのです」

多羅尾の声はあくまでも冷静だ。

「えっ?どういう事ですか」澄子の動揺した声。

「でも、昨夜はお公卿さんと会ってたんですよね」

これは疑いのない史実なのだ。多羅尾次郎も頷く。

「これについては、私よりも詳しい人がいます」内田も澄子もよく知っている人だという。今隣室に控えている。

 多羅尾次郎の奥さんがつっと立ち上がる。部屋から出ていく。と思う間もなく、一人の男が腰を低くして入ってくる。

「矢口さん、どうしてここに・・・」内田の声。

「私、パソコンがやれませんので」多羅尾次郎が口を切る。

「では、多羅尾さんのメールアドレスは・・・」と澄子。

「私の個人用の出して・・・」矢口が後を継ぐ。

 澄子とやり取りしているメールアドレスは上賀茂神社用なのだ。多羅尾氏の名前を借りてメールを流す。内田や澄子がこのメールに気付かなかったら多羅尾次郎に縁がなかったという事。

「私達をここへ誘導するために・・・」内田の詰問に、矢口は大げさに手を振る。

「とんでもありません。間瀬耕一さんがここに辿り着いたように、いつかここにお見えになると確信していました。」

 矢口の声は女の声のように軽い。以下のように話す。

間瀬耕一は徳川家に関する寺院や仏閣、それも岡崎に縁のあるものを、1つ1つしらみつぶしに調べ上げている。六所神社を見つけたのは、彼の執念というべきか。

「多羅尾光俊について、ここまでたどり着いてほしくて・・・」

矢口は間瀬澄子を誘導してきた。

「奥さん、いずれご主人を殺した犯人に突き当たるでしょう」矢口は真顔になる。

「矢口さん、あなたは間瀬耕一殺しの犯人を、存じているんですか」内田の声は荒い。

「いえ、そればかりは知りません」矢口は言下に否定する。当然の帰結として辿り着くというのだ。

「さっき、多羅尾さんが言った事、矢口さん、何か知っているんですか」

「本能寺の変当日、信長がいなかった事ですね」

 矢口は静かな口調で述べる。


――本能寺の変の二日前、多羅尾光俊の屋敷に1人の訪問者が現れる。上賀茂神社の神官だ。彼は伊賀忍者から、信長暗殺計画を聴かされている。彼はある修験者からの事付けと断って、以下のように話す。

 深更、修験者らが、本能寺からある”物”を運び出す。火薬に火をつけるのは、それを確認してからにしてほしい。言葉は柔らかいが有無を言わさない強さがある。

 賀茂神社、修験者、伊賀忍者、彼らは秦氏という1つの根に繋がっているのだ。

 ”物”と聴いて、多羅尾光俊は、はっとする。神社関係者は怨霊を恐れる。天皇や貴族など高貴な身分の者が不慮の死を遂げると、その祟りを恐れる。手厚く葬る必要がある。

・・・織田信長・・・名実ともに天下人だ。自らを神、六天大魔王と称して憚らない。信長が不慮の死を遂げたら、朝廷に祟る。神官達は本気で信じているのだ。

――信長を拉致し、どこかへ監禁する――

 多羅尾光俊は大いに頷く。「他言無用」神官の重々しい声に、多羅尾光俊は平伏する。

 本能寺は、公卿達が帰った後夜食を取る。吸い物の中に眠り薬が仕込んである。

 内田と澄子は眼を見開いて矢口の口元を見詰めている。驚く事が次々に出てくる。意外な結末に開いた口がふさがらない。

「では信長はどこへ監禁されたのですか」澄子はせっつく。

 矢口はかぶりを振る。答えは自分で見つけ出せと言わんばかりの表情になる。

「この事件の原点に戻ってください」これだけ言うと、矢口の表情も柔らかくなる。

・・・原点・・・澄子は何度も頷く。


                       疑惑

 

 平成21年8月中旬。

お盆休みで、内田不動産は3日間の休日となる。

――原点――矢口の言った言葉が頭から離れられない。

 お盆中、間瀬家は親類縁者が集まってくる。

 8月14日午前10時、壇寺の和尚がやってくる。仏壇の前に十数人が勢揃いする。和尚の読経が流れる。約15分。その後、一同揃って多賀神社にお参りする。常滑、樽水地区は昔から還暦を迎えると滋賀県の多賀大社にお参りする。この風習がいつから始まったかは不明。

 多賀神社は樽水部落の東の外れにある。こんもりとした山の上にある。この日、神主役の男が神社内の社庫の整理をしていた。多賀神社には常駐の役員はいない。年始年末、お盆などの祝い事がある日に、数人の役員が集まる。

 神社の本殿に入る。白装束の神主からお祓いを受ける。間瀬家の毎年の恒例行事だ。神主役の男は樽水で洋服店を営んでいる。社庫の整理は1人では大変だから、手伝ってくれないかというのだ。数名の男が社庫に入る。好奇心も手伝って澄子も入る。社庫は8帖は程の広さだ。下から上まで4段の棚が設けてある。古文書や祭礼用の衣装が入った箱がぎっしりと並んでいる。

 その中に1つ、桐の箱が目に付く。開けてみると、平成2年度発行の神社年鑑の本が入っている。辞書並みの厚さである。澄子が手に取ってみていると、「それ、もういらないから、よろしければ持って行ってください」神主役の男が言う。

 澄子は大切そうに両手で抱えて社庫を出る。

 社庫の整理は30分で終了。その後料亭に直行。料理に舌づつみを打ってお開きとなる。

 15日と16日、、澄子は神社年鑑に魅入られる様にして時間を潰す。平成天皇即位を記念にして発行されている。全国に数万社ある神社の成立や神主、宮司、役員の氏名が記されている。大きな神社は写真入りで、神主や役員の顔写真がずらりと並ぶ。その一方で地方の名もなき神社は、神主、役員の名前だけを記してあるのみ。神社の成り立ちも簡単である。

 澄子は何気なく京都の項を開いてみる。上賀茂神社、下鴨神社は神主や多くの役員の名前が並ぶ。その中に富島潤一の名前も見える。平成2年と言えば富島は30歳だ。若くして名士になっている。京都の神社では名の知れた実力者であった事が知れる。

 何気なくページをペラペラとめくっていく。

――牛尾観音――が出てくる。神主や役員の名前が載っている。管理責任者、望月源之助とある。

 牛尾観音?澄子は呟く。小さな文字で書かれた住所を見る。京都市山科区、行者ヶ森とある。

「あっ!」澄子は思わず声を上げる。

”行者ヶ森”夫が殺された場所ではないか。澄子の心の内に疑惑の黒い霧が拡がっていく。

――原点――矢口春雄の言葉が生々しく蘇生する。

・・・夫がどうして行者ヶ森に行ったのか・・・その理由を追及してこなかった。

”望月源之助”もしかして彼が犯人・・・。

だが彼には間瀬耕一を殺す動機がない。

――あるいは――澄子はパソコンに向かう。行者を検索する。

――行者の項目の後に、行者山、行者岳、行者森が出てくる――その意味するところは、修験僧(行者)が修行した場所とある。その地には必ず仏や神を祀っている。修験僧にとっては聖なる場所で、一般人やたとえ貴族であっても入山は許されなかった。行者ヶ森から音羽山の中腹にある牛尾観音一帯は修験道の聖地だったとみても間違いはない。

 牛尾観音――正式には牛尾山法厳寺という。社伝には垂仁天皇の代に音羽権現社が祀られたとある。その後宝亀9年(778)に法厳寺が建立される。平安時代に清水寺が建立されると、その奥の院に位置づけられる。本堂右奥に清水が湧いている。山岳修行道場として栄え、弘法大師や著名な聖人たちも修行した場として有名だ。

・・・信長は本能寺から拉致され、この地に監禁されたのではないか、だとすると、耕一さんはこの事実をどうやって知り得たのか・・・

 間瀬澄子は、はっとする。・・・まさか、多羅尾・・・。

澄子は多羅尾次郎に電話を入れる。お盆休みで留守ではないかと不安だった。

「もしもし・・・」多羅尾次郎の声だ。澄子はホッとする。

 澄子は先日お伺いした事への謝辞をする。その上でズバリ

「夫がお伺いしました事をお聞きしました。その時・・・」

澄子は単刀直入に切り出す。

「音羽山の牛尾観音、管理責任者は望月源之助さんですね」

 電話口の向こうで、多羅尾次郎の驚いた雰囲気が伝わってくる。無言のままだ。澄子は構わずに続ける。

「うちの人、牛尾観音の管理者が誰か、多羅尾さんにお尋ねしたのではありませんか」

 澄子はなおも言葉を続ける。

――原点にかえれ――矢口の言葉から、間瀬耕一が殺された行者ヶ森、音羽山の牛尾観音に、信長は監禁されたと推測した。神社年鑑から牛尾観音の管理責任者が望月源之助と知った。だが夫はどうやってこの事実を知ったのか・・・。

「奥さん・・・」多羅尾のかすれた声が聞こえる。

「誰にも話さないと約束していただけますか」

澄子は多羅尾次郎の名前は出さないと約束する。

あの日、澄子は多羅尾家に行った時の事を思い浮かべる。突然矢口が現れた。多羅尾の表情が厳しくなった。・・・多羅尾次郎は怯えていた・・・

「あなたのご主人に尋ねられました。それで私・・・」

 間瀬耕一が語ったという。本能寺の変で信長の死体が見つからない。という事はこの時信長は本能寺に居なかった。何者かに拉致されたと見るべきだ。多羅尾光俊はそれを知っていた。あなたも知っている筈だと迫られた。

 多羅尾次郎は性格上強く迫られると嫌とは言えない。それに多羅尾家の口伝を世に出そうという気持ちを持っている。多羅尾家の口伝をありのまま話したのだ。そして、牛尾観音の管理責任者が望月源之助である事も。

 後日、間瀬耕一が殺される。多羅尾次郎は、ある人物から信長監禁の口伝を話した事を叱責される。

その人物から、やがて間瀬耕一の細君が多羅尾家に辿り着く事も示唆されている。

澄子は電話を切る。

・・・夫を殺したのは望月源之助か・・・


 8月17日、朝9時、間瀬澄子は内田不動産に向かう。兄と共に常滑西小学校東にある法宝樹院に行く。内田家先祖の位牌が祀られている。墓もある。和尚に読経をお願いする。兄弟2人で墓参りする。

 その後料亭で昼食を摂る。その席上、澄子は今日までの間瀬耕一殺しの顛末を話す。

犯人は望月源之助と思われるが、動機が定かではない。

「これからは警察に任せよう」内田茂は妹を制する。これ以上首を突っ込むと、間瀬耕一の二の舞いになるかもしれないと危惧したのだ。

 澄子は頷く。

「この資料を京都警察の宅名刑事に送るわ」


                    牛尾観音


 平成21年8月25日。

宅名刑事より訃報が届く。

――望月源之助、自宅で服毒自殺を図る。遺書に間瀬耕一殺しを自白している――

「こちらにお越し願えませんか。新事実をお話しします」

 8月26日。

間瀬澄子は宅名刑事に電話を入れる。兄の内田と共に翌27日の午前中に伺う旨を伝える。

 朝7時に常滑を出る。名神高速を走る。9時には京都府警察署に到着する。宅名刑事とは約1年ぶりの再会だ。ダンディな姿は健在だ。2人は2階の個室に案内される。

 宅名刑事は以下のように話す。

 間瀬澄子から資料を貰って、望月源之助の任意の出頭を要請する。澄子の資料を見せる。

――間瀬耕一殺しはあなたなのか――こういう場合は断定的に切り出す方が効果的だ。

 望月は表情1つ変えない。宅名刑事を凝視しながら黙秘を続ける。澄子の資料だけでは容疑者と断定する事は出来ない。事情聴収のみで終わる。後日来てもらう事もあるからと申し述べて釈放する。

 22日、午前10時、望月印章堂に1人の客が訪問。注文してあった実印を取りに来たのだ。店が閉まっていた。電話を掛けるが不通。今日の朝10時というのは望月との約束だ。不審に思った客は裏手に回る。駐車場に望月の車がある。裏木戸から中に入る。裏口には物置と手洗場がある。勝手口のガラス障子の中から鍵がかかっている。

 ガラス障子超しから中を見る。 長いコンクリート打ちの土間がある。右手は風呂や台所、左手が部屋となっている。勝手口に近い部屋の板障子が開け放しになっている。その敷居から両足が出ている。客はガラス戸をガンガン叩くが動く気配がない。不安になった客が警察に電話を入れる。

 検死の結果、青酸カリによる服毒自殺と断定される。部屋は整理されている。荒らされた跡はない。客が注文した実印も机の上に置いてあった。その横に遺書があった。


 「奥さん、ご主人を殺したのは望月源之助に間違いないと思います」

「動機は何でしょう」澄子は冷静に受け答えしている。

「我々にはちょっと理解しがたいんですけど・・・」宅名刑事は以下のように言う。

 本能寺から拉致された信長は音羽山の牛尾観音の地下洞に監禁された。。この事実は間瀬耕一が多羅尾次郎から聴いている。そして――、牛尾観音の管理責任者が望月源之助である事も。

 間瀬耕一は以上の事実を望月に突き付けた。信長の遺体は牛尾観音の、どこか地下洞にある筈。それが今でもあるならば見せてほしいと迫った。

 望月はそんな事実はないと断った。

「あなたがそこまで言うならば、この事実を世間に公表して、牛尾観音の地下洞を調べるしかない」

 間瀬耕一は勝ち誇ったように言い放つ。

――信長の遺骸が発見されれば本能寺の変の真相が覆される。世紀の大発見となる。――

 望月の先祖は信長を拉致した修験僧の一人だ。先祖代々この秘密を守り抜くように言い渡されている。トップシークレットなのだ。それを世間にさらされてしまっては立つ瀬がない。秘密を守るために間瀬耕一を殺したと告白している。

 澄子は複雑な気持ちだった。夫は執念を燃やしてこの問題に取り組んだのだ。信長の遺体があれば見たいと思うのが人情だ。

・・・殺す事はなかったではないか・・・

 望月が生きていれば無念の思いを吐き出したかった。

 宅名刑事は言葉を続ける。

望月の遺書だけでは納得できないでしょう。今から一緒に牛尾観音に行ってもらえないかと言う。そこである人と会ってほしい。あなた方の疑問にすべて答えてくれる筈です。

 宅名刑事は自分が一緒だから身の安全は保障するという。内田と澄子は顔を見合わせる。

間瀬耕一殺しの真相が判るならば・・・、2人は大きく頷く。

 車で30分。宅名刑事を乗せて出発する。牛尾観音に到着したのは午前10時半過ぎ。ここは音羽山の中腹にある。車で行ける場所なのでハイキングコースとして親しまれている。

 戦国時代はうっそうたる森の中で、一般人が気軽に入山出来る場所ではなかった。たとえ入山するにしても修験僧の許しが必要だった。

 音羽山は名神高速道路、京都東インターチェンジから5キロ程南南東に行ったところにある。その奥に行者ヶ森がある。今は道路事情も良くなって誰でも気軽に行くことが出来る。

 車中、宅名刑事は「織田信長は本能寺で死んだんじゃないですか?」不思議そうな顔をする。ハンドルを握る内田と助手席の澄子は顔を見合わせる。

「さぁ、どうでしょうかねえ」頼りない返事をする。

「まぁ、別にどこで死のうが、興味ないですがね」宅名刑事は車外の景色を眺めている。

 山科区東野から名神高速道路のガードをくぐる。道は山科区音羽川に沿って登る。いくつもの滝や奇岩を眺める事が出来る。桜の馬場を通る。音羽山への登山ルートだ。音羽山は古来より多くの歌人に読まれた山だ。だが車で登っていくと特別な山という感じがしない。

 牛尾観音は音羽山の中腹にある。本堂はどこの町にもあるお寺と言った雰囲気だ。境内地に車を駐車する。

 境内地の本堂の背後に天狗杉がある。京都市の名木に指定された巨木だ。お寺は無人で普段住職は不在だ。境内奥に滝の行場がある。滝行をする時だけ水を流す様になっている。本堂の横手に護摩堂がある。時々修行僧が来て、法螺貝の吹き方を教えている。

 平日はひっそりとして、ハイキングやお詣りに訪れる人もいない。売店がないので、京都市内のコンビニで購入したお茶やお菓子、弁当を用意している。

 ここに誰が来るのか、宅名刑事は打ち明けない。

内田と澄子は周囲を散策する。奇岩や洞窟がある。大木が生い茂っていて、行者の修行の場に相応しい雰囲気を醸し出している。

「こんな所、夜なら怖くて来れないわ」澄子は兄に語りかける。行者ヶ森はこの奥になるようだ。

20分ばかり散策する。

「見えましたよ」宅名刑事が呼びに来る。

2人は緊張した面持ちで牛尾観音の駐車場に急ぐ。


 本堂の前に2人の影がある。2人は内田と澄子を見ると深々と頭を下げる。冨島潤一と矢口春雄だ。内田と澄子は顔を見合わす。

・・・あるいは・・・という思いがあった。顔を見た時、やっぱり・・・という思いに変わる。

「間瀬さん、それに内田さん、お久しぶりですな」

冨島は面長の穏やかな表情で言う。矢口は無言で頭を下げている。

盛夏だ。内田と澄子は身軽な服装だ。冨島と矢口も半袖のカラーシャツを着ている。山中なのでひんやりとして心地よい。急に蝉が鳴く。

「私、向こうに行ってます。内田さん、お弁当とお茶、頂いてもよろしいかな」宅名刑事は駐車場の方へ歩いていく。

「本堂に入りませんか」冨島は声を掛ける。

本堂の中は広々としている。伽藍堂の中は薄暗い。千畳敷の畳の上に座布団を敷く。入り口は開放したままだ。

「望月がなくなった夜に手紙が届きました」

冨島は穏やかな表情を崩さない。手に持った角封筒から2通の手紙を取り出す。

「こっちは、宅名刑事から頂いた望月の遺書。こちらは私宛に郵送された手紙です」冨島はどうぞご覧下さいとばかりに、内田と澄子の前に広げる。2人はそれぞれを手に取ってみる。警察に押収された遺書は見せてもらっていない。宅名刑事からは概要だけを聴かされている。2通の手紙はどちらもワープロで打ったものだ。

 遺書の方は間瀬耕一を殺したのは自分である事。

間瀬耕一から、信長は本能寺から拉致されて、音羽山の牛尾観音か行者ヶ森あたりに監禁されたはず。あなたはこの事実を知っている。これは歴史の通説を覆す大発見だ。監禁した場所を教えろと責められた。やむなく間瀬が調べ尽くしたすべての資料を渡してもらう事で、場所を教える事にした。

 とは言っても本当の場所を教えるつもりはなかった。行者ヶ森の一角にある洞窟に案内するつもりだった。牛尾観音の駐車場で待ち合わせて、資料を手渡してもらう。その上で行者ヶ森に行く。闇夜だから人の気配はない。

 行者ヶ森に着くと、間瀬は「ここの何処にあるというのか」と怒り出した。「本当は牛尾観音付近ではないですか」と詰問してきた。私はそれに答えず、もし場所が判ったら、約束通りすべてを忘れてくれますかと念を押した。

 間瀬は世紀の大発見を公表しない手はないと言い出す。

牛尾観音は修験僧にとっては、今でも聖地だ。それを土足で踏みにじられては立つ瀬がない。自分はもはやこれまでと、案内するふりをして後ろから、側にあった石で間瀬の後頭部を殴った。

 次に冨島に宛てた手紙

――間瀬耕一を殺したのは自分である事。その動機は遺書の通りである。

 8月23日、警察から呼び出しがあった。宅名刑事から事情聴取された。目の前に置いてあるのは、間瀬耕一の奥さんが調べ上げた資料の山。牛尾観音については多羅尾次郎が喋ったのは明白である。間瀬の奥さんと内田が多羅尾家に行った事は矢口から聴いている。

 牛尾観音堂の地下深くに眠る織田信長、彼は本能寺の変以降、牛尾観音の守り神として修験僧に祀られてきた。それを暴く事など許される事ではない。自分の先祖達が命を賭して信長を拉致して以来、この秘密は多羅尾家と望月家の共有の秘密となった。秀吉も家康も、信長は本能寺で死んだと信じている。望月家と多羅尾家にとってはトップシークレットだ。一子相伝として語り伝えてきた。

 なのに多羅尾次郎はこの秘密を本にして世に出すと言い出した。自分は激しく抗議した。それなのに間瀬という赤の他人に軽々と喋っている。

・・・多羅尾の奴、どうしてくれようか・・・と考えている矢先に警察の事情聴取を受けた。

 自分の心の中には先祖の遺訓が生きている。我々はこの世に人間として生を享けている。この世は神、仏に成長するための場である。身を慎み、人には慈悲の心で接する事。家訓ともいうべき先祖の言葉を、自分は人を殺める事で破ってしまった。たとえどんな事情があろうとも、人を殺める事など許されるわけがない。

 自分は死んで先祖にお詫びするしかないと考えた。

冨島さんには大変お世話になった。お礼をする機会もなく死んでいく自分を許してほしい。


                    下天は夢


 望月の手紙を読み終わった2人は、冨島を見詰める。

「これから申し上げる事を、”我々”のお願いとして聴いていただきたい」冨島の顔が厳しくなっている。

「間瀬耕一さんを死に至らしめた事はお詫びします」

冨島が深々と頭を下げる。後ろに控える矢口も黙礼する。

「あなたは夫が殺されたのを知ってたんですか」

澄子の鋭い詰問に、冨島は否定も肯定もしない。冨島は澄子の気持ちが収まるのを待つかのように沈黙している。

 しばらくして「望月の手紙を見るまでは知りませんでした」穏やかだがきっぱりとした口調で言った。

「お願いというのは・・・」冨島は2人の顔を直視する。

「織田信長がこの本堂の地下10メートル下の洞窟の中で眠っている事は公表しないでいただきたい」

「それはどうして・・・」

内田が問う。多羅尾次郎が公表すると聞いている。

「それはありえません」冨島は断言する。

「信長はこの地で死んで神になりました」冨島は続ける。

 牛尾観音は清水寺の奥の院として大切にされてきた。修験僧は今でも存在する。望月家、多羅尾家もこの地を聖地として崇敬している。信長は無念の思いで死んだかも知れない。しかし信長を神として祀る事でその霊を慰める。

 もし好事家などがこの地を荒らして、信長の遺骨を暴いたらどうなるか。信長の怨霊がこの地を徘徊する事になるだろう。

「そんなの迷信でしょう」澄子は反発する。

 冨島の眼がギラリと光る。

「あなたは・・・」澄子を指さす。

ご主人の遺体をどうした。常滑まで持ち帰って、霊安かれと荼毘に付したではないか。お寺にお願いして供養の経を上げたではないか。それは世間体があるので、仕方なくやった事か。迷信と信じるならば、遺体などゴミ場へでも捨てておけばよいではないか。

 あなたの部落に多賀神社があると聞く。あなたは神殿に向かって尿水を掛けられるか、唾を吐きかけられるか。国情の異なる外国人ならいざ知らず、生粋の日本人なら迷信などと言えるはずがない。

 冨島は鬼のような形相で澄子を諭す。その上で、もしあなた達が公表したら、牛尾観音に縁のある者達は黙ってはいない。罪を犯してでも、望月源之助と同じ事をするだろう。

 澄子と内田は冨島の剣幕にたじたじとなる。目を見開いたまま冨島を見詰めるばかり。声も出ないのだ。

「ご無礼を申し上げました。お許しください」澄子は頭を下げる。内田も「ご無礼しました」深々と詫びを入れる。

「思わず、カッとなりました。こちらこそお詫びします」冨島は穏やかな表情に戻る。

「1つお尋ねします」澄子の眼は冨島の後ろに控える矢口に向けられる。

「矢口さんがいなかったら、私達はここまで辿り着けませんでした」どうして自分達をここまで導いたのかと問う。

「それは私がお答えしましょう」と冨島。

 たとえ矢口がいなくても、いずれここまで辿りつくと思っていた。黙っていて、ここまで辿り着かれて公表されるよりは、1つ1つ先導してここまで辿り着く、その上で公表しないようにお願いするしかないと考えた。

「それに、これは私の気持ちというより、亡きご主人の霊の導きと考えました」矢口はつるりとした顔を撫ぜる。


 4人は本堂を出る。裏手に回る。

本堂の裏は緩やかな斜面となっている。本堂の裏手約3メートル程北に、土饅頭の形をした白い石がある。よく見ると、”夢の跡”という文字が彫られている。一輪の花が置かれている。

「あのずっと下の崖の方に洞窟への入り口がありました」

本能寺から拉致された信長は洞窟の奥に運ばれた。その10メートル程天井に牛尾観音がある。洞窟は10坪ほどの平屋が建物が入るぐらいの広さがある。清水が湧いて入口へ流れ出ている。信長を拉致した後、洞窟はすぐに大きな岩でふさがれた。この土饅頭の白い石の下にフットボールが入るくらいの穴が洞窟の天井まで開いていた。1日に2回、この穴から食べ物を釣り卸す。

 ――口伝によると信長は5年ばかり洞窟の中で生き抜いたという。本能寺で寝て、暗い洞窟で眼が覚める。天井にぽっかりと明り取りの穴が見える。

 環境の激変に信長は気が狂わんばかりに驚いた。並の神経の持ち主なら気が狂っていただろう。大声で喚いても穴の上まで声が届かない。自分の声だけが洞窟内に反響するのみ。信長は49歳にしては強靭な肉体をしていた。生きようとする意志力も並ではない。

 5年経たある日、穴から紐で縛った食料を吊り下げる。夕方紐を引き上げる。2度目の食料を送るためだ。紐の先には薄汚れた布端が縛ってあった。拡げてみると――下天は夢――血文字が書いてあった。指を噛み切って書いたものだろう。食料を降ろす。朝いつものように食料を降ろそうと紐を引き上げる。昨日の食料が紐に巻き付いたままだ。

 食料係は目上と相談する。後4,5日続けようという事になった。紐で縛った縛った食料が食された跡がない。

――信長は死んだ――穴を塞いで白い石を載せる。一輪の花を添える。

 この日の深夜、多羅尾家、望月家の主だった者とこの地を支配する修験僧が本堂に集まる。信長の霊安かれと供養祭が行われる。このお祭りは以後毎年絶えることなく行われてきた。

――人生50年、下天の内にくらぶれば夢幻の如くなり――

世阿弥の能、敦盛を信長は好んで謡っている。


 4人は本堂の前まで戻る。冨島が駐車場の車の中の宅名刑事に手を振る。宅名刑事はコンビニで買った弁当とお茶を持って、こちらに歩いてくる。

「話は済みましたかな」宅名刑事は屈託がない。先に弁当を済まそうと思ったが、自分だけ頂戴しては悪いと思って我慢した。腕時計を見ると昼の1時だ。

 一同は本堂の中で弁当を摂る事にした。

宅名刑事は話の内容を尋ねようともしない。これで一件落着と思っているだろうか。澄子は腑に落ちないものを感じているが、何も言う事がない。黙って弁当を食べる。

「1つお尋ねしたいが・・・」内田が冨島に声を掛ける。

「信長が拉致された時、1万3千の兵はどうしてたんでしょうか」

 冨島は弁当を食べ終わり、お茶に手を付ける所だった。私の考えでよければと断って、以下のように述べる。

 信長が本能寺に宿泊する時は京都市中は厳重な防備網が敷かれていた。織田信忠を中心として京都市中には信長に従う武将が屋敷を構えて待機していた。数万の兵士も6月3日出陣の為に待機していた。

 後世の歴史家が言うような本能寺の変の前夜、京都市内は真空状態にあったなどは有り得ない。信長は猜疑心が強く、用心深い性格だった。無防備な所へ宿泊する事は考えられない。明智光秀に1万3千の丹波兵を預けたのは、光秀を信じていたからだ。光秀は律儀な男で決して信長を裏切らなかった。6月1日に坂本城へ帰る途中、光秀は亀山城へ寄っている。斎藤内蔵助に信長の命令を伝えた筈だ。

 問題なのは1万3千の丹波兵だ。

この時代、武士道など存在しない。利害関係の比重で敵になったり味方になったりする。敵地を征服しても兵士達への待遇が悪いと離反してしまう。征服地を経営するのは苦労がいったはずだ。租税が重過ぎると農民は逃散していく。織田軍は兵農分離だから、農業の他に商業取引も活発にしていく必要がある。戦で手柄を立てた兵士には過分の賞を与えないと戦ってくれなくなる。悪くすると敵側に寝返る事もある。

 丹波兵にはもう1つ厄介な問題があった。

丹波の国は主として木材の産地だ。蜂須賀党と同様、川辺衆、川並衆と言われるマタギの勢力で成り立っている。彼らが信奉するのは日吉神社だ。

 修験者、山の民、マタギ、サンカ、忍者衆は日吉神社を中心として結束している。

丹波の国は特に秀吉との縁が深い。秀吉の身辺にはサンカがいる。彼らは秀吉の命令一下、短期間の内に移動する。指示された仕事を実行していく。

 鳴島守が取り上げた本能寺の変の異説の中に、

――丹波兵1万3千名の総大将を明智光秀とすると、丹後衆を細川藤孝、同忠興が率いる。大和衆は筒井順慶、摂津衆を高山重友(右近)中川清秀、兵庫衆を池田恒興、同元助が率いる。

 丹波衆を率いたこれらの大将の内、細川氏をはぶいては、すべて秀吉の味方として参陣している。――

 鳴島守はこの事実を奇怪と表現している。だがこれら大将らの自前の兵力は千人から5百名程度と言われている。細川氏に至っては自力の兵力は5百人足らずなのだ。

 信長が死んだと判った時、丹波兵はこれらの大将の命令は聞かない。各自故郷に帰る者。秀吉の元に馳せ参じる者が続出する。丹波衆は甲賀、伊賀、川辺衆らと交流がある。本能寺を警固する甲賀衆の動きは、丹波衆を通じて秀吉や服部半蔵らに知らされていた。

 丹波兵1万3千を率いた大将ら(細川氏をはぶく)は丹波兵から見放される。丹波兵を指揮するためには秀吉の軍門に下らざるを得ないのだ。奇怪でも何でもない。当然の成り行きなのだ。

 もし信長が丹波兵を用いずに自軍で本能寺を固めていれば甲賀者の不審な動きを見破った筈だ。

――もはや、この日本には自分に逆らう者はいない――

信長の自信であったろう。だが日本民族の底流には時の権力者さへも抹殺する巨大な勢力がある。

 冨島は穏やかな表情で話し終わる。


 「内田さん、これから京都見学でもされますか、それとも・・・」矢口が口を添える。

「明日仕事ですので、私達はここで失礼します」内田は澄子に目配せする。

「それじゃ、刑事さんは私達の車へ・・・」矢口が言う。


 内田と澄子は牛尾観音で3人と別れる事になる。

「京都へ寄られたら、声を掛けてください」冨島の親切な声に2人は深々と頭を下げる。

 内田のクラウンは音羽山を下る。名神高速道路京都東インターチェンジに入る。一路常滑に向かう。

「兄さん、耕一さんを殺したのは、本当に望月さんかしら」

澄子は2通の望月の田神がワープロで打ってある事、名前もワープロの文字だ。

「俺も手紙を見せられた時、そう感じた」それに、冨島は京都では大物だが得体のしれないところがあるとつけ加える。

・・・犯人は別にいる。望月源之助は人身御供に仕立てられた。丁度信長殺しの犯人として明智光秀が人身御供になったと同じだ。

「これで一件落着ね」澄子の声に力がない。虚しい思いが胸の内に拡がっていく。

 内田は何も言わない。思いは澄子と同じだろう。

・・・仕方がないか、これで事件は幕か・・・

                        ――完――


 参考資料

 逆説の日本史、9、戦国野望編、井沢元彦著、小学館

 逆説の日本史、10、戦国覇王編、井沢元彦著、小学館

 逆説の日本史、11、戦国乱世、井沢元彦著、小学館

 逆説の日本史、12、近世暁光編、井沢元彦著、小学館

 信長殺しは秀吉か、矢切止夫著、作品社

 信長殺しは光秀ではない、矢切止夫著、作品社

 謀殺、続信長殺しは光秀ではない、矢切止夫著、作品社

 天下統一の闇史、小林久三著、青春出版社

 秦氏の謎、飛鳥昭雄、三神たける著、学研

 八咫烏の謎、飛鳥昭雄、三神たける著、学研

 陰陽道の本、学研

 野史事典、矢切止夫著、作品社

 小説、信長の棺、加藤廣著、日本経済新聞社

 小説、秀吉の枷上、加藤廣著、日本経済新聞社

 小説、秀吉の枷下、加藤廣著、日本経済新聞社

 織豊興亡史、早瀬晴夫著、京の話題社

 本能寺の変、本当の謎、円堂晃著、並木書房

 徳川家の謎、小泉俊一郎著、中経の文庫

 その他の資料はインターネットの検索による


 お願い

 この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。

 なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景では有りません。


 



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