#08 温度
初めて会った時から、違和感を感じなかったわけじゃない。
何時も笑顔を絶やさないくせに、
その瞳の中に脅えの色がかすかに滲んでいたことに。
人に馴れ馴れしく絡んでくるくせに、
どこかで線を引いて、そこから立ち入らないことに、
気づかなかったわけじゃない。
気付いていて、気付かないフリをしていた。
聞き出せば教えてはくれただろう。
けれど、無理に話す辛さを俺は知っている。
だから、俺は待とうと思ったんだ。
あいつが自分から話してくれるまで……――
まだ上手く立てない銀狼を支えて、リビングに戻った銀路は部屋に置かれた淡いベージュ色のソファーに銀狼を座らせる。自身はその対面にあるガラス張りの長方形のテーブルに腰掛けた。
普段ならここで銀狼から行儀が悪いと怒号が飛ぶところだが、今はそれ所ではない。優先すべきは話す態度ではなく、話の内容だと銀狼も判断したのだろう。
「えっと、何処から話そうかな……」
まっすぐ銀華を見つめる銀狼とは反対に、視線を落とし、開いた足の間に置かれ、ぎゅっと握り締められた両手を見つめながら言葉を発した銀華は、少し間を空けてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「そうだね。まず……俺が生まれた時からずっと独りで、パートナーになる様な存在がいなかったって話はしたよね?」
顔を上げながら紡がれた言葉に銀狼は黙ったまま頷き、肯定の意を表す。それを確認すると、銀華は無理に造った様な笑顔を貼り付けた。
「じゃあ、その続きから話すね」
前置きをしてから再び言葉を紡ぎ始める。
「俺が住んでいたところは、そう言うパートナー無しで生まれてきた存在は単身障害者って呼ばれてて、受け入れてくれる人はほとんど居なかった。障害者って言ってもパートナーが居なくて、力のコントロールが苦手なだけで他は健康そのものなんだよ? けど、やっぱりこう言う存在は異質みたいで、両親の記憶もまともにない頃から色々な所を盥回しにされてさ、傍に居てくれる人なんて誰も居なかった」
手元へと視線を戻し、ゆっくりと発される言葉は僅かに震えている。
いや、声だけではない。握り締められた手も、テーブルに腰を下ろした体も、よく見れば小刻みに震えていた。
こいつは、一体どれだけの孤独に耐えてきたのだろう。
人である自分たちにとって、パートナーの存在は必要不可欠だ。また、幼い頃から当たり前に居るもので、唯一の存在になることが当然のことだ。けれど、そんな当たり前のことを、銀華は与えられていなかった。きっと、自分には計り知れないほどの孤独を、彼は味わってきたのだろう。
「けど、ある日俺を引き取ってくれた人は、今まで俺を引き取ってくれた人とは全く違っていた。少し他の人と違うからって、気味悪がったりなんてその人はしなかった。むしろ、温かく俺を受け入れてくれたよ。今までは奇異の目で見られてばかりだったのに、その人は決してそんな目で俺を見なかった」
初めて出会った、温かみをくれる存在。
そんな存在に銀華は確かに救われたのだろう。
ゆっくりと銀華が顔を上げ、悲しみの混じった青紫色の瞳に銀狼を写し、相変わらずの笑顔を見せた。
「その人が、さっきの人だよ」
涙を堪える様に、互いを合わせて握られた拳を、さらにきつく握り締める。少し躊躇う様に口をつぐんでから、銀華は震えた言葉を吐き出した。
『さっきの人』
それは、先程銀狼を襲った彼女のことを指すのだろう。
「彼女は桜さんって言ってね」
「待て」
さらに続けて言葉を繋ごうとする銀華を、銀狼が一言で制する。その表情はあいも変わらず無表情のままだが、瞳には僅かに困惑の色が宿っていた。
銀華が彼女に救われたのはよくわかった。けど、だったら。だったら何故……――
「どうして、そいつは……お前を襲おうとしてるんだ……?」
押し倒された銀狼にはわかる。
彼女の悲しそうな瞳の奥に宿った殺気が。
彼が救われたといった彼女は、本気で彼を殺そうとしていたのだ。
けれど、銀華はそんな銀狼の問いかけに心を乱すことなく、むしろそれが当然のように、今までとは違う自嘲の笑みを銀狼へと向けた。
「うん。その事についてもちゃんと話す。聞いてくれるかな。こうなっちゃった原因を……」
最初は、初めて受け入れられたことが嬉しくて、あの家に来て早々、自分は涙を零した。
生まれて初めて、喜びから涙を流した。他の人とは違う自分を、優しく受け入れてくれた彼女が、どうしてあんな風になってしまったのか。
「馬鹿が。此処まで聞いておいて今更聞きたくなんて言う筈ないだろう。寧ろ、それがお前の言いたい本題じゃないのか?」
漸く普段のように動くようになった体を動かし、銀狼は足を組んでソファーに座り直してから言葉を紡ぐ。もちろん、その間も銀華から視線を逸らすことはない。まっすぐと、色の付いた瞳で、自分の瞳の色と同じその瞳を見つめた。瞬間、その瞳が僅かに揺れたことを銀狼は見逃さなかった。
「有難う。それじゃあ、話すね。あの日あったことを、あの日、俺が見てしまった真実を……――」
意を決したように、もう既に握りすぎて感覚がないのではないのではないかと思えるほど握り締められた拳を、最後に一度だけ強く握ってからやんわりと解いた。
はじまりはそう。
俺が彼女に引き取られて幾らか季節を越えた頃……―――