#07 心
銀星を貫いた時のあの時の感覚が、今もこの手に残っている。
ゆっくりと冷えていく、暖かかった体。
そこから流れ出すものは、白く染まった地面を見る見る朱色に変えていく。
僅かに震えていたあの手も。
泣きそうに、けれどどこか満足気に微笑んでいた彼の最期の表情も。
その全てが今も、自分の胸に深く刻まれている。
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「そうして、俺はあいつの望み通り、あいつをこの手にかけた」
そう吐き捨てるように発せられた言葉は、自分でも驚くほど冷めきっていた。目前にいる銀華へと視線を移せば、彼の瞳は困惑の色に揺れている。
あの日。
あの時。
あの瞬間の感覚は、今もこの手の中に残っている。何一つ色褪せることなく。
「そして、桃は銀星を殺した俺を憎んでいる」
殺してしまいそうなほどに。
ふぅーと息を吐き、ベッドから立ち上がる。
チラリと部屋にあるアンティーク調の時計に目をやれば、その針は十二のところで重なっている。
昔話をしているうちに、どうやらかなり時間が経ってしまったらしい。歩みを進め、固まっている銀華の肩に手を置く。
「昼にするか。ほかに聞きたいことがあるならその時に聞こう」
触れていた手を離し、出入り口である扉へと向かう。ドアノブに手を掛けた。
「銀狼」
漸く口を開いた銀華が、銀狼の名を呼び呼び止める。振り返れば、銀華は安心したように顔を綻ばせた。
「有難う。話してくれて」
優しい声色で言葉を紡いだ。
「で、一つ聞きたいんだけど」
リビングに降り、二人で昼食を作り終えた後。普段通りにテーブルを挟んで向かいに座り、食事に手を付けようと、銀狼がフォークに手を伸ばした時、銀華が口を開いた。
「あぁ、なんだ?」
一度手に取ったフォークを再び卓上へと戻し、逆に問いかける。じっと銀華を見つめれば、彼は何度か躊躇うように口を音も出さず開け閉めし、やがて意を決した様子でぐっと手を握り締め、銀狼と視線をあわせた、
「どうして、桃……さん。だっけ? に、本当のことを言わないの?」
当然の疑問だ。もし銀狼が彼と同じ立場なら、同じ様に問いかけているだろう。
どうして、自ら進んで、憎まれ悪を買って出ているのか。
銀星を殺したあの日。
銀星の亡骸を抱えたまま丘から動かなかった銀狼の前に現れたのは、酷く困惑した表情の桃だった。目の前の景色をすぐに受け入れられないのか、俺の腕に抱かれた銀星の真っ赤に染まった身体を、自身の手が同じ様に真っ赤に染まっていくことも気にせず、何度も何度も繰り返し、彼の名を呼び、その身体を揺らす。
二度と返事を返すことのない彼を。
『俺が、殺し。たんだ……俺の刃が、銀星を貫いた』
どうして、どうして。と堰を切ったように涙を流し続ける彼女に伝えたあまりにも残酷な言葉。
哀から怒へと移り変わった彼女の瞳の色。
『許さない』
吐き出された言葉。
その全てを見て、銀狼は誓った。
誰になんと言われても、彼女に真実は話さない。
「真実を話してしまえば、あいつの憎しみは俺ではなくあの人へと向けられる。お前も見ただろう。今のあいつは銀星の敵を取れるなら、自分の体がどうなろうと気にしない。そんなあいつがその憎しみの対象を俺からあの人へと移したなら……」
見えるのは彼女の死だけだ。
どう高く見積もっても、勝てる見込みがない。
「その点、あいつの憎しみが俺へと向いている限り、あいつに危害が及ぶことはない。それにあいつが俺を憎む度、俺は自分の犯した罪も、あの人への憎しみも、思い出すことができるからな」
そう言って、自嘲するかのような笑みを銀華へと向ける。
決めたこと。
望んだこと。
この道を選んだことに一切後悔はない。
「そっか……うん。話してくれて有難う」
銀華が返したのは、一辺の曇りもない笑みだった。
今まで胸にのしかかっていた錘が少しだけとれ、ほんの少し軽くなっていくのを感じる。
口にして、話して、楽になるつもりなんて一生無い。
楽になってはいけない。
楽になる資格なんて無い。
銀星を失ってから、銀狼はずっとそう自分に言い聞かせてきた。
幸せを望んではいけない。
恨まれ続けなければならない。と。
そうしなければ、自分で自分を保てなかった。
彼を忘れてしまう気がした。
そんなこと、一番望まないことなのに。
けれど今、銀華に話し、受け止めてもらえた時、どこか安堵を感じている自分がここに存在している。
そのことを嫌だと思っていない自分も。
「質問はそこで終わりか?」
そんな自分の存在に気付かないフリをしたまま、銀華へと問う。
「なら、そろそろ昼食をとるか」
彼が頷いたことを確認し、さらに言葉を続ける。
「そうだね」と銀華が言葉を返してから、テーブルの上に置いたままだったフォークを手に取り、目前に並ぶ食事に手をつけていった。銀狼も同じ様にフォークを手に二人でつくった料理を口にする。
今日のメニューはタリアテッレで作ったチーズの香るカルボナーラ。トマトなどの具が大量に入った野菜スープのミネストローネ。デザートには昨夜作っておいたワイングラスに入った。一見すればワインのように見える。上のほうが泡になっているブドウのホイップゼリーの三品。
味の方は、銀狼と一緒に作ったおかげか、珍妙な味にはなっていない。
「おいしいね」
「そうだな、お前が一人でこれくらい作っているようになってくれれば楽なんだがな」
砂糖と塩を、間違えずに。と。ありったけの皮肉を込めて言葉を紡げば、銀華は「うっ…」と言葉を詰まらた。やがて小さくなって「善処します」と銀狼に聞こえるか聞こえないかくらい小さな声で決意表明の言葉を発した。そんな彼の様子を見て、銀狼は僅かに口元を緩める。
穏やかな食卓。
穏やかな昼の空気。
そこでふと、思い出す。
初めて彼に出逢った日のことを…――
「そういえば、銀華に一つ聞きたい事が……――」
ある。
そう紡がれる予定だった言葉は、突然リビングに響いた音によって掻き消された。乱暴に玄関のドアを叩く音がここまで響いてくる。
――……なんだ。桃が戻ってきたのか?
不思議に思い、持っていたフォークを置き立ち上がる。
「少し見てくる」
言い残して玄関へと向かう。
鳴り止まない音。
その音はどこか悲しく、助けを求めているようだ。
玄関ホールに辿り着き、ドアノブに手を掛けた時。今まで悲痛なほど鳴り響いていた音がやむ。
一瞬の沈黙の後、外側からドアノブが回され、強く引かれる。
反射的にノブから手を離したおかげで、ドアと共に外に引っ張り出されずにすんだ。しかし、開かれたドアの外から侵入してきた人物により、床へと押し倒される。ふわり、と視界に広がる薄茶色の髪。僅かに髪の隙間から見えた瞳は泣いている様にも見えた。
一瞬だけ会った瞳は、まるで彼を失った直後の自分のようだ。自分の居場所を失い、拠り所を亡くし、自分の生きる場所を必死に探し続けていたあの頃の自分だ。
飛び込んできた瞬間。耳に届いた聞き覚えのある名前。
「いっ――」
「銀華。くん?」
上に乗りかかっている女性が、自分も良く知る名を呼びながら身体を起こす。
しっかりと合わさった瞳は、すぐさま色を変えた。絶望と怒りと悲しみと、様々な感情のこもった瞳の中に銀狼の姿を映す。
――…違う。彼じゃない。
語らずとも、瞳が全て物語っていた。
「銀華君はどこ? 此処に居る筈なの」
先程、彼の名を呼んだ時の、優しく悲しそうな声とは違う。冷たく有無も言わせぬ声色で、言葉を紡いだかと思うと、彼女は床についていた手を、銀狼の喉もとへとその掌を移し、力を込める。反射的に銀狼は彼女を押しのけようとしたが、最初に押し倒された時に打ち付けた背中の打ち所が悪かったのか、思うように腕が動かない。目前にいる一見大人しそうな女性によって気管を締め付けられる。
まさか、一日に二度も呼吸ができなくなるとは、考えもしなかった。
「――……っぁ、は。な……っせ」
痛む腕を、ゆっくりと動かし、自身の気管を占めている彼女の手を掴む。酸素が脳まで回らないためか、ぼやける視界で彼女を睨みながら、言葉を吐き出した。しかし、彼女の耳にそんな言葉は届かない。
「はやく、銀華君を出して」
どこか泣きそうな、悲痛な叫びを続けている。
――……やばい、そろそろ意識が……
「銀狼っっっ」
遠くから、彼女の呼び続けていたなの主が、彼女の名ではなく、彼女に押し倒されている、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
『馬鹿か、来るな』
こいつの狙いはお前だ。
そう、伝えようと唇を動かしたが、その口から漏れるのは、振動を持たない空気だけだった。
「待って! 銀華君待って!」
そんな声が聞こえたかと思うと、今まで首を押さえつけていた手が離る。同時に体に圧し掛かっていた重みからも解放された。
「――ふっ。ひゅっ……っげほっ、ゴホッ……?」
塞き止められていた器官に突然入り込んできた新鮮な空気。咳き込みながら視線を彼女が動いたほうへと動かすと、いつからだったのだろう。彼と出逢った時のような真っ白い霧が部屋の中だと言うのにいつの間にかたちこめている。
――……なんだ。これは……。
「銀。華……?」
その霧の中にぼんやりとした彼の後姿を見つけた。影は自分から遠ざかり、家を出て行く。
その背を追うように先ほどまで自分の上に圧し掛かっていた女性も家を出て行くのが見えた。
――……馬鹿が。出て行くなら出て行くで一言俺に言っていけ。そもそも、お前に聞きたいことが山ほどあるんだ。突然俺の前に現れて、人の心を乱しておいて、人の心に勝手に入ってきておいて……――
「勝手に……い、なく……なる、な」
小さく呟いて腕に力を入れて上半身を起こす。今度は上手く起き上がることができたが、無意識にその事に安堵して気が抜けてしまったのだろう。不意に体から力が抜けてバランスを崩してしまった。
――……しまった。
そう思った頃にはすでに遅く、バランスを崩した体は重力に逆らわず床へと向かう。すぐに訪れるだろう痛みに体をこわばらせ、硬く目を瞑った。
しかし、痛みはいつまでも訪れず、代わりに訪れたのは誰かに抱きとめられる感覚。そして……――
「ふー危なかった」
耳に届いたよく知った声。ゆっくりと瞼を開ければ、視界に映ったのは先ほど家を出て行ったはずの人物。
「銀華。どうして……――」
「ごめんね。銀狼……ちゃんと、説明するよ」
此処に居る。と、尋ねようとした言葉は吟じの言葉によって遮られる。抱きとめられたその手は重さからか、それとの別の意味でか震えていた。