#05 罪
忘れないように。
自分を責めて欲しかった。
忘れないように。
この罪を刻み付けたかった。
忘れないように。
彼女に恨まれ続けたかった。
全て、自分で望んだこと。
窓を閉ざし、カーテンを閉め、薄暗くなった自室。
その中で結い上げていた髪を解き、ベッドに倒れこむように身を沈める。
あの日以来、彼女と会うのはこれで二回目だった。
あの日以前はほぼ毎日と言っていいほど共に居たと言うのに。
いや、これが当然のことなのだろう。
自分達を繋いでいたのは彼の存在だけだったのだから。
その絆を断ち切ったのは他ならぬ自分だ。
憎まれても仕方がない。
「いや、自分が憎まれることを望んでいるだけだな」
今日、彼女が家にやってきて、自分は救われたのかもしれない。
彼女が憎悪を含んだ瞳で自分を睨んでくれたおかげで、自分は自分の罪を再確認することができた。
「銀星……」
彼の名を呟き、右手で前髪をかきあげる。
彼がもし生きていたのなら、どんなに良かっただろう。
きっと、こんな苦しい思いも知らずに生きていけた。
きっと、彼と彼女と平凡な日常を過ごせた。
せめて、彼でなく、あの時、自分が死んでいればよかったのに……。
「……――っ」
そんなことを考え出した途端、呼吸が乱れ、ひゅうっと喉が鳴った。
落ち着いて呼吸をしようと思う心に反し、呼吸はどんどん乱れ、息を吐くことすら困難になる。
両腕を移動させ、ぎゅっとシーツを握り締め、顔をその手の間に押し付けた。
苦しい。
このまま自分は死んでしまうのだろうか。
それも良いかもしれない。
そうすればもう一度、彼に会うことができる。
もう脳まで酸素が回らず、おぼろげになった意識でそんなことを考える。いつの間にかシーツを握り締める手からは力が抜け、自由に動かすことすらままならない。ゆっくりと瞳を閉じれば、瞼の裏に映るのは、誰よりも、何よりも大切な彼の姿。
『……―――君は、生きて』
「銀狼っ」
彼の最期の言葉とかさなり、別の声が薄れた意識の中に届く。
ゆっくりと瞳を開けば、そこに居たのは、心配そうに自分を見つめる銀華の姿。
「―――…っゲホッゴホッゲホ……っヒュウ」
「銀狼っ! 落ちついて! ゆっくりで良い。しっかりと息を吐いて」
銀狼の身体を抱き起こし、銀狼の背を優しく撫でながら銀華は叫ぶように言葉を紡いだ。吸ってー吐いてーと、繰り返される言葉に合わせ、呼吸を繰り返せば、次第に呼吸は落ち着き平常どおりの呼吸が銀狼に戻ってくる。
銀華はそんな銀狼の様子を確認し、ほっと安堵の息を吐きいた。再び銀狼をベッドへと寝かせる。
「……どうして部屋に入った。一人にしろと言ったはずだ」
掠れた声で銀華と視線をあわせず問いかける。
一人にしてくれていればよかった。
助けて欲しくなんてなかった。
そのままにしておいてくれればよかった。
そうすれば、彼のもとに逝けたかもしれないのに。
「ごめん。どうしてももう一度君に謝りたくて……。でもよかった。そのおかげで銀狼を助けることができた」
「助けて欲しい。なんて、言った覚えはない」
ほっとした笑みを見せる銀華に対し、ケホッと乾いた咳をしてから銀狼が冷たく言い放つ。少し動くようになった身体をゆっくりと動かし、彼に背を向けた。
瞬間、バンッっと乾いた音が部屋に響く。
何事か、と銀狼が視線を彼へと戻せば、そこにあったのは酷く泣きそうな顔で銀狼を見つめ、右手に作った拳を壁に押し付けている銀華の姿。先ほどの音の原因であろうその拳は僅かながらに震えていた。
「どうして、そんなこと言うのっ?」
俺は銀狼に死んで欲しくないのに。
震える声で銀路はそんな言葉を紡ぐ。
どうして、こいつは出会ったばかりの自分にこんなことを言うのだろう。
ほんの少し共に過ごしただけなのに、どうしてこいつは、こんなにも自分の心をかき乱す。
「……桃。さっき家に来た奴は、俺と。俺のパートナー、だった……銀星の幼馴染だ」
「え?」
ゆっくりと身を起こし、ベッドの橋に腰掛ける。
思ってもいなかった言葉に驚いたのか、銀華の口からは間抜けな音が漏れた。
この時、どうして自分が彼らのことを銀路に話そうとしたのかわからない。ただ、自然と口が言葉を紡いでいた。
「あいつが『殺した』と俺に言ったのは間違いじゃない」
そこで一度言葉を切り、じっと、驚きで固まっている彼を見つめる。同じ様に自分を見つめる瞳は、僅かに困惑で揺れていた。
きっと、もう彼はわかっているのだろう。
自分が、誰を殺したのか。
太ももの上で両手を組み、ぎゅっとその手を握り締める。
「俺は、自分のパートナーだった銀星を、この手にかけた」
空気が、一瞬にして凍りついたような気がした。
自分の手に向けていた視線を、彼へと移動させれば、彼は信じられない。と言った風に目を見開いて固まっている。
幻滅、しただろうか。
それとも、恐れただろうか。
自分を拾ったものが人殺しだと知って。
彼もまた、自分から離れていくのだろうか。
どこか寂しいと思う気持ちを、これで良い。この方が誰も傷つけずにすむのだ。彼に近づきすぎたことが間違いだったのだ。と言う思いで押し殺す。
「う、そ……だ」
「嘘じゃないさ」
漸く呟かれた言葉は、銀狼の言葉を否定するもの。しかし、銀狼はその言葉をたった一言で一蹴した。
ベッドの横に置いている、小さな棚の引き出しから一つのイヤリングを取り出す。それを、これを見ろ。と言わんばかりに銀路の目前へと差し出した
――……こい、叢雨。
刀の名を呼ぶ。すると、そこから光が生まれ、その光が消えた頃、銀狼の手にはイヤリングのかわりに一本の長刀が握られていた。
「これは?」
綺麗に青白色に輝いた刀。そこに付いた赤黒い錆びだけがやけに目立って見えた。
まさか、自分がもう一度この刀に触れることになるなんて、思ってもなかった。
あの日、あの時…あの瞬間。負う事になった全ての罪の塊。
「これが、本来の俺の刀だ。これで、俺はあいつの……銀星の身体を貫いた」
今でもはっきりと覚えている。あの瞬間の気持ちも、彼の身体を貫いた感触も、冷えていく彼の体温も、何一つ、色あせることなく。この目に、この手に、この腕に、身体に心に刻まれている。
忘れたくない。
失くしたくない。
これは、自分が……自分自身が望んだ罪の償い方。
「俺が、殺したんだ」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。刀から銀華へと視線を戻せば、彼は顔を真っ青に染め、嘘だとでも言いたげに首をゆっくりと横に振った。
胸の前でいつの間にか握られた彼の両手は震えたままだ。
「け、けど君は俺を……」
「助けてくれた?」
震える声で紡がれた銀華の言葉を遮り、銀狼が言葉を紡ぐ。じっと冷めた瞳で見つめれば、びくり。と彼の肩が跳ねた。
「俺が、お前を助けたのは、お前が銀星に似ていたからだよ」
別に、お前を助けたくて助けたわけじゃない。
先刻から何一つ変わらない冷めた口調。しかし、その中に僅かに自分を嘲笑っているようにも感じるような声色で銀狼は言葉を紡いだ。
本当に救いたかったのは、自分自身の心だった。
銀星と似ているこいつを、見捨てることなんてできなかった。
それは、まるでもう一度彼を目の前で失うことのように思えたから。
優しかったわけじゃない。
ただ俺は、自分自身の為に行動しただけだ。ただの、エゴでしかない。
「わかっただろう。こういう奴なんだよ。俺は」
いつの間にかイヤリングの形に戻った刀を一度掌の上に握り締めて、まるで何かを祈るように握り締めた拳を口元に近づけ静かに瞳を閉じる。静まり返った部屋に響くのは、規則正しい銀狼の吐息の音。そして、何か言おうとして音にならない声を漏らしている銀華の声。
忘れるな。
自分の犯した罪を。
逃げるな。
目を叛けるな。
自分の犯したあやまちを。
忘れるな。
いつだって自分を守ってくれた彼を、裏切ったことを。
そう言い聞かせながら、ぎゅっとイヤリングを持っている手を強く握る。その手を膝の上におろせば、部屋の中にチャリッと小さな音が響いた。
あの日。雪から雨へと変わったあの場所で、耳に届いたその音に、また胸が苦しくなり息が詰まるのを感じる。それでも、言葉を紡ぐことは止めない。別に、言葉にして吐き出して楽になるためじゃない。己を己自身で非難するためだ。
「あいつが居なくなって、俺は泣くことも笑うことも怒ることも、表に出さなくなった。」
しなくなった。
できなくなった。
俺の心を支えていたのはたった一人。
あいつの存在だけだったのだから。
それは当然のことだった。
それでもよかった。
もともと彼の前でしか見せなかったのだから。
唯一つ、辛いと思ったのは、彼が、彼の冷たくなった体が埋まった墓石の前で、彼をどれだけ思っても、自分の頬は乾いたままだったこと。唯一の存在が亡くなったと言うのに、涙すら流せなかった自分が存在していたことだ。
心で悲しい。寂しい。苦しい。憎い。と感じることはある。けれど、それが顔に出ることはない。文字通り、表情が凍ってしまったのだ。
「銀星に似て、くるくる表情が変わるお前を見るのは、苦痛以外の何者でもなかったよ」
自嘲気味に吐き捨ててじっと彼を見据える。
もう視線は逸らしはしない。
苦痛から逃げたりはしない。
この罪と、痛みと、生きていくと決めたのだから。
例えそれが一人きりの道だとしても、それなら本望だ。
「俺が居たら、銀狼は迷惑?」
震える声で漸く紡がれた短な問い。
「あぁ、そうだな。お前は世話焼きで、お節介で」
彼と過ごしたこの数日間でわかったこと。
それを自分でも信じられないほど穏やか口調で語る。
「嫌になるほど銀星に似ていて、その癖どこか違っている」
だから、守りたいと思った。
亡くしたくないと思った。
誰よりも大切な彼に似ている銀華を。
けれど、それ以上に……。
「傍に居れば、昔のように笑える気がした。笑ってしまう気がした」
銀星が自分の隣に居た時のように。
「だから、迷惑なんだ」
けれど、それは銀狼の望んでいることじゃない。銀狼が望むのは、自分の罪を忘れず、あの日の痛みを悲しみを忘れず、自分達を殺し合うように仕向けたあの人への憎しみを忘れずに生きること。
「俺を生かしているのは、あの人への復讐心と銀星の最後の約束だけなんだよ」
自嘲じみた言葉に憂いがこもる。
復讐のためには銀華の存在が邪魔になる。巻き込みたくない。このままの生活を日常を生きていたい。とそんな風に思ってしまう自分が存在してしまいそうになるから。
そんなこと、望んでいないはずなのに……。
「……俺は、銀狼の傍にいたい」
小さな声で、銀華は言葉を紡ぐ。
「迷惑だって思われても」
その声は次第に大きく、力強くなる。
「ごめん。コレだけは譲りたくない」
譲らない。
意を決したようにそう言葉を発した銀華の瞳からはもう、迷いの色は見えなかった。先程まで戸惑っていたのが嘘のように、強く揺るがない瞳。
どうして、どうしてだ。
どうしてこいつはこんなにも自分のパートナーになりたがる。
自分と同じ様にパートナーを亡くしたものなど、探せば腐るほどいるだろう。なのに、どうして……――
「はじめて会ったときにも言ったよね。俺は銀狼の傍にいたい。いなきゃいけない気がする。銀狼に会うために独りでいたんだ。って」
まるで心のうちを読まれたかのように、銀華が言葉を紡ぐ。
『僕は君がいるから此処にいるんだよ。僕は君の隣にいなきゃいけないんじゃない。君の傍にいたいんだ』
いつの日か、銀星が言った言葉。
あれは、確かいつもの様に彼の絵のモデルをしていた時のこと。ふと、心の中にもらした不安を読み取ったかのように、きっぱりと言い放たれた言葉。
迷いのない瞳。
強く揺るがない瞳。
その全てが、今の彼の姿に重なる。
「銀狼の言ってたあの人って、この前買い物帰りに会った人だよね?」
そんな銀華の問いに、黙ったまま小さく頷く。銀狼の様子に、銀華は「そっか……」と微笑しながら呟き、さらに言葉を続けた。
「復讐を手伝う……とは言えないけど。せめて銀狼が苦しくならないように、さっきみたいに倒れそうになったときに支えられる存在になりたいな」
少し照れくさそうに紡がれた言葉。
まっすぐに自分に向けられた言葉。
――……なぁ、銀星。お前以外の存在を、パートナーにしたいと思う俺を……許して、くれるか?
届くはずのない問いかけ。
その瞬間。少し、開いていた窓から新鮮な空気が入り込みカーテンを揺らす。
入り込んだ太陽の光が、新鮮な空気が、まるで彼が『良いよ』と言ってくれている様だ。
「有難う。銀星」
ポツリと小さく呟き、服の中に隠していた一つのシルバーリングが通ったネックレスを取り出す。彼が死んでから、肌身離さず、どんな時も持っていたもの。自分と彼を繋いでいた。たった一つの証。
そこから、シルバーリングをチェーンから抜き取り、掌の上に転がす。チェーンだけになったそれをポケットに戻してから再び銀華へと視線を戻した。
頭上に疑問符が浮かんでいる彼の右手を取り、その中指に先ほど取り出したシルバーリングをはめる。
「我、汝を認め」
訳がわからない。と言った風に固まっている銀華をよそに銀狼は言葉を紡ぐ。
それは、契約の言葉。
遠い昔、薄れてしまった過去の中で彼と行った行為。
『早く続きを』と、その契約の言葉の先を銀華に促す。銀華は一瞬、はっとなりそれから微笑を浮かべた。
「我、汝と共に生きることを選ぶ」
優しく穏やかな口調で言葉を紡いだ。銀華が右手にはめているそれと銀狼が右手につけているそれが、共鳴するかのように光り、二人を包み込んで消える。
「―――……っっ」
光のまぶしさに目眩がする。
片手をベッドにつき、幾度か首を横に振った。
「銀狼」
同じ様に目眩がしたのか、ベッドの傍にある小さめのテーブルに手を着いて自身を支えている銀華が『コレで良かったの?』とでも言いたげな表情で銀狼の名を呼ぶ。そんな彼の表情を見て、銀狼は今まで一切動くことのなかった口角を僅かに上げた。
「いいんだ」
ぎゅっと指輪のついた方の手をもう片方の手で包み込み、強く握る。
そう。コレで良い。こうすれば、力を使っても倒れることはなくなるし、あの人への復讐もしやすくなる。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も言葉を繰り返した。
「そっか。それじゃ、改めてよろしく。相棒」
すっと銀狼の前に手が伸ばされる。そんな彼の手を、銀狼は何度か躊躇う様に空を彷徨ってから恐る恐る取った。
「こちらこそ」
あの日。君を失ったあのときから。
再び相方を作ることなど、ありえないと思っていた。
けれど、気味の仇を取るまでは、あの人に復讐するまでは、力が必要なんだ。
だから、どうか今は君意外を傍に置くことを、許して欲しい。
全ては君の為だから。
せめて、君の敵をとり、俺が君の傍に戻るまでは……――