#04 噂
朝がきて。
夜がきて。
また、朝が来る。
そんな日々をずっと繰り返してきた。
そんな日々がずっと繰り返されるものだと思った。
朝がきて。
目が覚めて起きる。
変わらない日常を過ごして。
夜がきたら寝る。
決まって見るのは、あの日の夢。
傷を忘れない様に、己の侵した罪を忘れてしまわないように、夢を見る。
彼を失ったあの日、あの時から、ずっと繰り返してきた日常。
そしてまた、今日がやってくる。
*********
ゆっくりと瞼を開ける。
いつものように目覚めた時に感じる、何ともいえない不快感はない。
夢を、見なかったからだろうか。
あいつが……銀星がいなくなってから、毎日のように見ていたあの夢。自分自身で望んでみていた夢。自分を……自分の侵してしまった罪を忘れないようにする為の戒めにしていた夢。
その夢を今日だけではない。ここ数日見ていないのだ。丁度、銀華と出逢った次の日からずっと……。
「銀星、夢を見せてくれ」
お前の顔を忘れそうになるんだ。忘れたくなんてないのに。
ポツリと小さく呟いて、銀狼は再び強く瞼を閉じた。
瞼の裏に描くのは大切な大切なパートナーの顔。最初ははっきりと見えていた彼の顔が、だんだんとぼやけ次第に見えなくなる。
「―――ッッ」
銀星の顔を忘れると言う恐怖感から逃げ出したくて、銀狼は閉じたその瞳をすぐに開けた。
ゆっくりと身を起こし壁に背を付けてベッドの上に座る。
「銀星……」
呟いて自身の膝に額をつけ顔を埋める。
同時にどたどた騒がしくと廊下を走る音が聞こえたかと思うと銀狼のいる部屋の扉が乱暴に開かれた。
朝食のおいしそうな匂いが香ってくる。香に誘われ顔をあげれば、視界には扉を開けた張本人。同居人の銀華が映った。
「銀狼っ! ご飯できたよ」
ニコリと笑顔を銀狼に見せ銀華が言う。その言葉に「あぁ、すぐ行く」と応え、銀狼はベッドから降りた。
ベッドの近くに置いている小さめのテーブルの上から、いつも付けている結晶をモチーフにした飾りがついているネックレスを手に取り身に付ける。
「今日の朝食は結構上手くできたよっ」
楽しそうに言う銀華。その後について行くように銀狼は自室を後にした。
銀華と同居を始めて早数日。銀狼の生活リズムは確実に変わりつつあった。
最初の頃は、食事全般は銀狼が、洗濯は銀華と決めていたが、今では、朝に弱い銀狼の為に銀路が朝食を作っている。
それから、今までほとんどの日々を、朝食昼食を同じにし、一日二食で過ごしていた銀狼の生活がガラリと変わった。
朝食は毎朝銀華が早くに起きてつくってくれ、それが出来上がれば銀狼を起こしにきてくれる。
もともと、銀狼が朝食をあまり食べないのは、夢見が悪く気分が悪くなるからなのだが、最近はその原因である夢も見なくなった。加えて銀華が食べろと強く何度も言うので、少量ずつでも朝食をとるようになったのだ。
リビングに入れば中央にある机には、目玉焼きとソーセージ、トーストの乗った皿とレタスとコーンが入ったボール状の皿。それとうっすら湯気の立っているコンソメスープが入ったカップが綺麗に並べられていた。
向かいあって存在する二つの椅子にそれぞれ腰を下ろす。フォークとナイフを使い目玉焼きを一口食べる。
瞬間、銀狼の動きが止まった
――……目玉焼きが、甘い。
いや、甘い目玉焼きはあるが、コレは、多分わざとそういう風につくった目玉焼きじゃない。コショウがかかっているにも関わらず、甘いのだ。その為、口の中でコショウ辛さと砂糖の甘さが戦い何度も言いがたい味になっている。
もしかして……最悪の事態を想定し、コンソメスープの入ったカップに口をつけ一口飲む。案の定、そのスープは甘かった。
「銀華……また砂糖と塩、間違えている」
コトン、とスープカップを机の上に置きながらトーストにバターを塗っている最中の銀華に言えば、ピタリと動きを止める。
「うそっ」
焦ったように言って、銀華はすぐにトーストを皿に戻した。先ほどの銀狼と同じ様にスープを一口飲む。口に含んだ瞬間、顔色が絶望的な色に染まる。
そう『また』なのだ。
銀華が朝食を作るようになって今日で八日目。砂糖と塩を間違えた回数。今日を入れれば七回。
最初の銀狼が教えながらつくった時以外全て、塩と砂糖を間違えていれ調理している。どうしてこうも間違えるのかと、内心呆れながら、それでも銀狼は食べることをやめなかった。
「え、ちょ……銀狼これ、食べるの?」
「別に、食えないことはないからな。それに、食べなかったら食材がもったいない」
また一口。甘い目玉焼きを口へと運ぶ。甘いような、コショウ辛いような何ともいえない味。あたふたしている銀華を無視して、銀狼はそんな味のするものを黙々と食べ続けた。
やがて、銀華も諦めたのか大人しく席に着き同じ様に甘く辛い目玉焼きを食べ始めた。
「昨日も、遅くまで小説書いてたの?」
「あぁ」
目玉焼きと一緒に食パンをかじりながら銀華が問いかける。銀狼が飲み終わったスープカップを机の上に置きながら頷いた。そんな銀狼の反応に、銀華は不服そうに顔をしかめる。
銀狼の仕事は小説家だ。
だから、締め切り間近で夜遅くまで原稿に追われることは別におかしいことではない。
しかし、銀狼はそうではないのだ。原稿をギリギリであげたことなどないし、まして、締め切りを過ぎてしまったことなど一度もない。いつだって余裕で原稿を仕上げ、編集者へと送る。
それなのに何故、夜遅くまで原稿を書いているのかというと、ただ単に夜にしか小説を書かないからだ。
「もーそれなら昼間に書いて夜はしっかり寝ればいでしょ」
拗ねたように頬を膨らませソーセージをフォークとナイフを使ってきりながら銀華が不服をたれる。銀狼がそんな風に小説を書いていることを知ってから、銀華は毎朝毎朝小言のようにこの言葉を口にする。
「夜の方が、筆が進むんだ。それに、夜遅くまで起きて短時間でぐっすり寝た方がいい」
「だーかーらーっそれが身体に悪いって言ってるの!」
「別に問題ない」
冷たく銀狼がそう言い放てば、銀華はむすっと頬を膨らませ、もういいよ。体調を崩しても知らないからね。とそっぽを向いてしまった。そんな彼を横目に銀狼は黙々と自分の食べた朝食の乗っていた皿やカップなどをまとめ、流し台へと持っていく。
もともと、彼の言うことを聞く気など、銀狼にはさらさらないのだ。
夜の方が筆が進むのは嘘ではない。しかし、昼間でも書けない事はない。
それなのに、あえて夜に書くのは、『彼』を思い出し、『彼』の夢を見るためだ。
悪夢に近いその夢は、すぐに覚めてしまう。
だから、長時間に睡眠は必要ない。
彼にとって睡眠は、ただ自分の罪を忘れないようにする為だけの時なのだ。
だから、誰になんと言われようと、どれだけ注意されようと、それを覆す気などさらさらない。
それなのに銀華と暮らすようになってから、夢を見なくなった。
このままでは『彼』を忘れてしまうのではないか。
『彼』がいたという記憶さえなくしてしまうのではないか。
その不安だけが募り、心を侵して行く。
「ねぇ、銀狼……ごめん。俺ちょっとしつこかったよね……」
朝食を食べ終えた銀華が、銀狼と同じ様に食器をまとめ流し台へと持ってくる。
しゅん、と犬耳や猫耳がついていたならば、その耳が垂れてしまいそうな様子で銀華は小さな声でポツリと謝罪の言葉を紡いだ。その言葉に「気にしていない」と流し台に入れられた食器を泡のついたスポンジで洗いながら銀狼が応える。ぱぁっと、銀華の表情が明るくなり、着ている服の袖を捲って、鼻歌を歌いながら銀狼がスポンジで洗っていった食器を受け取る。そこについた泡を蛇口から出る水で流していった。
――……くるくると、よく表情が回る奴だな。
銀狼がそんなことを心の中で呟いたその時。
ガチャン! バン!
大きな音をたて、玄関の扉が乱暴に開かれる音が二人の耳に届いた。瞬間、ビクリと横にいる銀華の肩が跳ねる。
その表情は、まるで初めて彼と顔を合わせた時の、あの酷く怯えた様な表情。そんな彼とは反対に、銀狼の表情は酷く冷め切っていた。
駆ける足音は次第に近づき、リビングの扉が玄関のそれと同じ様に乱暴に開かれる。見えた薄茶色の髪から銀狼は目を逸らす。泡の付いた手を蛇口から流れる水で流し、流し台の横に備え付けてあったタオルでその手を拭う。
「銀狼。貴方……何を考えているのっ?」
対面式のキッチンから離れ、リビングに置かれているテーブルの傍まで出てきた銀狼に、薄茶色の髪を持つ女性は詰め寄り、今にも彼に掴みかかりそうな勢いで言葉を紡ぐ。
キッと彼を見つめる金色の瞳は、わずかながら困惑に揺れていた。
「―――何の話だ。人の家に無断でおしかけて訳の分からないことをい……っ」
銀狼の言葉が途切れる。バシンっと乾いた音が部屋に響いた。
「ふざけないでっ」
銀狼の頬を叩いた自身の手をぎゅっと握り締め、今にも泣き出してしまいそうな声色で彼女が叫ぶ。
彼女が怒っている理由を、銀狼が解らない訳がない。自分は誰よりも彼女と、そして彼の近くに生きていたのだから。叩かれた頬に触れることなく、銀狼は静かに瞳を閉じ、次に紡がれる彼女の言葉に耳を済ませた。
「貴方、どうして銀星以外の奴と一緒に居るのっ? 銀星のこと、忘れたとは言わせないわよっ貴方が……――」
次に紡がれるだろう言葉に覚悟を決め、銀狼はうっすらと瞳を開ける。
忘れられるわけ、ないだろうに。
誰よりも彼の傍に居て、誰よりも彼を大切に思っていた自分が。
その彼をこの手で……――
「殺したくせに」
……――殺した、ことを……
「あいつのことは忘れていない。銀華はただ行く宛がないから泊めてやってるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
瞳をうっすらと開けたまま、彼女と目を合わす。表情が一切無い為か、その瞳は酷く冷め切っているように思えた。びくり、と彼女の肩が跳ねたのが見えたが、銀狼は構わず言葉を続けた。
「話はそれだけか? ならば早く帰ってくれ。俺はお前と違って忙しい」
冷たい声色で言葉を紡げば、彼女は握っていた拳を高く振り上げ、それをそのまま銀狼へと振り下ろした。
すぐに訪れるだろう痛みに、覚悟を決め再び目を瞑る。
そうだ、それでいい。殴られて当然のことを自分は彼女にしてきた。自分が彼女にしたことに比べたら、殴られることなど苦ではない。
ところが、待っていた痛みはいつまで待ってもやってこない。
不思議に思いゆっくりと瞳を開ければ、そこには、いつの間にかこちらまで出てきた銀華の姿があった。振り上げた彼女の手首を掴み、動きを止めている。
「だめ……だよ。人を傷つけたら」
いつになく真面目な顔で言葉を紡ぐ。
彼女の腕から力が抜けたことを確認してから、ぱっと手を離した。彼女から少し距離をとり、銀狼の横に並ぶ。
「貴方、いったい銀狼の何なの?」
「銀狼のところで居候させてもらうことになった銀華だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
銀華をにらみながら問いかけられた問いに、銀華は少し困ったように笑って答える。
その返答に納得したのか、それとも納得はしていないが、これ以上何を言っても無駄だと諦めたのか。小さくため息を吐きだして、踵を返し部屋を出て行ってしまう。
「忘れないでちょうだい。あの人が貴方を許したとしても、私は絶対に許さないから」
最後にそんな言葉を吐き捨てた。パタンと、遠くで扉が閉まる音が静かな部屋に響く。
しばらくの沈黙が部屋を包み込んだ。最初にその沈黙を破ったのは他でもない、銀狼だった。
「部屋に戻る」
今にも消えてしまいそうな、風に負けてしまいそうな小さな音。そんな弱々しい声色で言葉を紡いだかと思うと、重い足をゆっくりと動かし、部屋の外へと歩みを進めた。
「ま、待って……ねぇ、銀狼。殺した。って…どういうこと? もしかして、君の元パートナーが……」
「人の事情に勝手に踏み込むのは感心しないな」
冷め切った瞳で彼を見つめ、彼の言葉を遮る。ビクリと彼の肩が跳ね、ごめん。と小さな謝罪の言葉か紡がれる。その言葉に「悪い、しばらく一人にしてくれ」と返答にならない返答を返し、部屋を後にした。