#01 出会い
「――……ろ、う……」
誰か、懐かしい存在に名前を呼ばれた気がして、青年はゆっくりと瞼を持ち上げた。
そこは、全てが黒に塗り潰された世界。漆黒のように艶はない。ただ、奈落の底のように暗い闇に閉ざされた世界。 けれど、自分の腕や足はしっかりと目視できる不思議な世界。
ただ、そこにいるだけで、全てが黒く塗り潰されていくような不安感に侵されていく。
「――……銀、狼……」
今度ははっきりと自分の名を呼んで鼓膜を震わせる声を聞いて銀狼は辺りを見渡した。
「――っ! 銀星っ」
暗い。何も見えない闇の中。ふっと小さな光が燈る。ゆらゆらと漂うそれが、姿形は記憶しているモノと全く違っているのに懐かしくて、銀狼は声の主の名を呼びながら手を伸ばした。
届け。届け。『あの日』届かなかった手を伸ばす。
自分の名を呼ぶのがその光であることを確信しているかのように、何一つ迷うことなく。ただ、まっすぐと光に手を伸ばした。
「―――っ」
伸ばした手が光に届き、あぁ、届いたと安心したのもつかの間。指先の触れた光は強い光を放ってぱんっと音もなくはじける。眩しさに瞳を強く閉じた。
――銀星……大切な、大切な、なにものにも変えられない。俺の……――
「銀星っ!」
叫び声と共に目を覚ます。再び瞼を開けた先には見慣れた色のある天井があった。天井に向けて伸ばされていた手をぎゅっと握って空を掴む。握り拳をそのまま額に持ってくる。
今度は自分の意志でぎゅっと瞳を閉じ、心の中で彼の名を二度呼ぶ。冷や汗が頬を伝い、銀色の髪を流れ、枕に染みをじんわりと広げていった。
深く息を吸って、吐き出す。その動作を幾度か繰り返し、荒くなった息を整えた。
漸く整った息で最後に一度だけ深く息を吸い込む。ため息に似た息を吐き出した。
「そろそろ、起きるか」
誰に言うでもなく自分に言い聞かせるように言って体を起こす。表の通りに面した窓の傍に置かれたベッドから降りる。乱れた腰まである長髪を手櫛で整えて慣れた手つきで一つにまとめる。寝具の横に備え付けていた小さな棚の上から水晶のイヤリング一つを手に取り左耳につける。
もう一度、気を引き締めるように両の頬を両手で軽く叩いてキッチンへと向かった。
世界には、中心となる二つの存在がある。
「人」なるものと、「人間」なるもの。
「人」はその漢字のごとく、寄り添って生きるもの。
一人では生きられないもの。
二人で生きることが運命られているものを意味し、生まれたときからその相手が決まっている存在のことを指す。
「人間」とは、「人」と違い、一人で生きていける存在。
「人」のように運命に決められた相手はいない存在のことを指す。
人間と人を見極めるのは至極簡単なことだ。人間は大方黒か茶色の髪をしていて、名が一字になるように名づけられる。いっぽう人は銀や赤、緑や黄色とさまざまな色をしていて、それぞれパートナーと呼ばれる相方と同じ髪の色を持っている。また、名はその髪の色に合わせて付けられ、パートナーと一字を分かち合うことになる。
人間には見られない銀髪とその髪を意図する銀の名を持つ銀狼こと青柳銀狼は後者の人と呼ばれる存在だった。
螺旋状の階段を降りリビングに立つ。隣接されたキッチンの奥にある冷蔵庫を開けた。
何か入っているだろう。そう甘く考えていた自分が悪かった。冷蔵庫の中は見事にからっぽで食料らしい食料は入っていない。当然、朝食になるようなものなど、影すらなかった。
「……」
パタン。静かに冷蔵庫の扉を閉め、立ち上がる。何も食べないという選択肢はあるが、この状態だと結局は何かを買いに行かなければならない。
きちんと冷蔵庫の中を把握していなかった自分にため息をつく。キッチンから出て、イスにかけていた白いロングコートを羽織る。机の上に置いていた財布を片手に、まだそう日は高くない外へと歩みを進めた。
外に出れば、身を刺すような冷気が体を包む。はぁ。と息を吐けば、白い煙が空気中に散った。
石畳の道をコツコツとブーツを鳴らして歩く。立ち止まらずに空を見上げれば曇天からちらほらと雪花が舞っていた。
――ああ、あの日もこんな風に雪が降っていたな。
掌を広げれば、微かな冷たさを持った白がひらひらと掌に宿る。
――自分は、あの日のことを忘れてはいけないのだ。傷にしなければいけない。
その白をぎゅっと拳を作って包み込んだ。ふと、何かに誘われるように顔を上げる。
「……霧?」
いつの間にか、周囲は白い霧で包まれていて一寸先も見えない。
自然現象ではないだろう。微かに、殺気を感じる。しかし、この妙な感覚は何だ。
殺気は確かに感じるが、刺すような、殺気ではない。むしろ……――
「――っ」
「!?」
身構え、イヤリングに手をあてていると、突然目の前に人影が現れる。その影は、銀狼に気付いていないのか、まっすぐとぶつかってきた。
あまりに突然のことで対処が遅れた銀狼は、その人影にぶつかり、倒れてしまう。
「……な、なんだ。おい、お前」
「……」
返事はない。
いつの間にか、霧は晴れ、ちらちらと降る雪が視界に確認できる。
「おい」
銀狼は自分の上に覆いかぶさって倒れている人影を押し、身を起こして問いかける。しかし、どうやら気を失っているらしい。聞こえてくるのは、少し荒い息遣いだけだ。
完全に霧が晴れ、鮮明になった視界で自身の腿の上に横たわる人物に視線を落とす。少し顔色の悪いその人物は、綺麗な青の混じった銀髪を持った、とても髪の長い青年だった。歳は多分、自分と同じくらいだろう。
「銀髪に、長髪……それに、この姿」
あいつを思い出す。
「……」
はぁ。と一度深いため息を漏らす。
銀狼は自分の手の内で気を失っている少年を抱き上げた。
――どうやら、買い物はしばらく後になりそうだ。