STAGE1『白砂の塔』
「要するに僕が言いたかったことというのは──」
言いかけたところで、自分がオフィスで仕事をしているわけではないことに気付いた。
まるで、睡魔に襲われてこっくりやっている時に感じる、一瞬時間が超越してしまったようなわずかな隙に突然ここに連れて来られたような、奇妙な感覚だった。
僕は寝そべっていた。
薄暗い水色の空は、明るいのか暗いのかよくわからなかったが、一点の曇りもなかったのでやたらと透き通って見えた。
風も強かった。強い風が通り過ぎる度に、目の前に白い靄が掛かって空が濁って見えた。風に色彩がある筈ないのに、何故風が白いんだろうと不思議に思ったが、直ぐに理由が分かった。
僕が寝そべっていた場所には見渡す限り一面の白砂が広がっていて、それが風に乗って舞っていたのだ。
砂を手のひらで掬ってみると、とても粒が細かくて乾いていたので、さらさらと指の間からするり抜け落ちた。
「ええと──」
僕は混乱していた。
何故僕は一面広大な白砂の平原の真ん中で寝そべっているんだろうか。さっきまで僕は仕事をしていると思っていたのに──。
僕はその時何を言い掛けていたんだっけ。
砂を手で弄びながら、僕はどこに居て何をしていたんだろうと思いだそうとしたが、分からない。
いや、さっきまでは分かっていたのに。正確には分かっていたような気がしていたのに。思い出せない。
夢の中にいるような不安定な気持ちだった。一秒前に自分が考えていたこともはっきりと覚えておけないような気がした。
「ええと──」
あれ?僕の名前。
「ええと──」
僕の年齢。
「ええと──」
僕の職業。
「ええと──」
僕の性別。あれ?
目の前に広がる乾いた白砂を見ていると何も思い出せなくなっていく。
さっきまで覚えていたのに。
あれ?本当にさっきまでは僕は僕の名前や年齢や職業や性別をきちんと覚えていたんだろうか?
それさえ思い出せない。
白く強い風が吹き続けていた。
僕は砂を見ていた。
ここはどこだろう。
薄暗い水色の空を見ていると、とても不安定な気持ちになった。
朝なのかな。昼なのかな。明け方のような気もする。
そのどれでもない気もした。
なんだか時間が止まっているみたいだった。
延々に広がる白砂の向こう側に黒い点を見つけた。
とても見通しが良い平たい場所なのでかなり遠くだと思われるが、目を凝らして見てみると、それは人であるようだった。
更に別の場所にも人らしき黒い点をいくつか見つけた。
誰かがいるんだ。
しかしそのいくつかの人影の点を見ても、ほっとした気持ちにはなれそうもなかった。本当に人なのかな。
人形だったりして。しばらく観察していたが動く気配はなかった。
僕は立ち上がった。方角の手がかりも何もないのでその人影、最初に見つけた点に向かって歩き出した。
砂が柔らかいので歩きにくい。
歩き始めて気付いたが、僕は裸足だった。
慎重に歩かないと砂に足が取られて転びそうだったのでゆっくり歩いた。
でもあまりにゆっくり歩くと足が砂の中に埋まっていきそうで、立ち止まるのが怖くなって、ある程度の速度を保ったまま歩き続けた。
きゅっきゅと一定のリズムで砂が鳴るのを聞きながら、歩きながら、僕はこれは夢なんじゃないかと思い始める。
「これは夢なんじゃないか──」
僕の呟きは強く白い風に覆われて、どこにも届かない程小さな音になった。
誰も居ないんだから呟いたって意味がないじゃないか。
「これは夢なんじゃないか!!!」
僕は出来る限りの大きな声で叫んだ。
僕の声は風に、砂に、砂に、一面
の砂に、薄暗い空に吸収されてしまい、2メートル先にも届いていないんじゃないかという気がした。
僕の鼓膜だけにその声は残響した。
これは夢なんじゃないだろうか。この記憶の不明瞭さも、この世界の不自然さも、気持ちの不安定さも、足取りの重さも、全て夢を見ている時のそれにとても似ていた。
ただ、夢を見ている時とただ一つ違っていたのは、空を見る時の視覚だったり、肌に感じる風だったり、足の指の間に挟まってる砂の居心地の悪さだったり、その全てが本当の現実としか思えないようにはっきりとしていることだった。
明晰夢というのを聞いたことがある。
夢の中で夢を見ていると自覚することで、まるで現実のようにはっきりとした夢を見ることが出来る、と。
それなのかもしれない。
それなのかもしれないならこの不自然な状況も楽しむことが出来るかもしれない。
けれど記憶の不明瞭さや足取りの重さはまるで夢を見ているみたいだ。
そういう明晰夢もあるんだろうか。
僕は歩きながら考えた。
これが夢であると確かめる方法はあるのだろうかと。
頬をつねってみようか。
けれど明晰夢を見たことがない僕は、明晰夢の中で頬をつねってみた時に痛いと感じるのか感じないのか分からなかったので判断出来ないと思った。
目の前に鉈がある。
これで自分の左腕を跳ねてみようか。
そうすれば仮に痛かったとしてもその痛みの強さで目が醒めるんじゃないだろうか。
僕は鉈を拾った。
でも、これがもしも現実の世界の出来事だったとしたら。
僕は左腕を失ってしまうのは嫌だった。
人影の点と距離が縮まっていない気がした。
ゆっくりとだけれど、一歩一歩確実に歩いているのに、点が大きくなっていかない。
何でだろう。考える為に立ち止まりたかったけれど、足から埋まってしまってそのまま身体まで沈んでいってしまいそうなのでそれが出来ない。
歩きながら注意深く見てみると、黒い点である向こうの人影も、歩いていることが分かった。
進行方向が僕と同じであるが故に、その距離が縮まらなかったのだ。
もしかして僕が近づいていることを悟って逃げているんだろうか。
僕は他の人影も見てみた。
僕の右手側にあった人影の点。
僕の左手側にあった人影の点。
僕の後方にあった人影の点。そのどれもがやはり僕と同じ進行方向に歩いているようだった。
まるで僕との距離を一定に保つかのように。
ゆっくりとゆっくりと。
僕と同じ速度で。
ゆっくりとゆっくりと。
この広大な白砂の大地を。
きっと裸足で、ゆっくりとゆっくりと。
どれくらい歩いただろうか。
永遠に続くと思われた平地の先綺麗に延びた地平線、僕の歩く方向の先からひょっこりと突起が現れた。
それは山の頂だった。地平線を境に遙か高く広がるくすんだ青空を、近づく度にほんの少しずつ少しずつその頂が浸食していく。
地面と同じ白砂の山なので、山と地面の境が分からない。ここから見ると地平線が不自然に空に向かって歪んでいるように見える、非常に奇妙な光景だった。
僕の一歩一歩の歩みに呼応するように地平の歪みも徐々に広がっていく。
あの山はどれくらい遠くにあるどれくらいの高さの山なのだろうか、ここからじゃ見当もつかなかった。
山の全貌が明らかになった頃には、前方の空は完全に山に遮られて見えなくなった。僕の想像より遙かに高い山だった。
このまま歩いていくと、あの山に登ることになりそうだな。
僕はかぶりを振るような仕草で左右を見回してみた。
僕と同じように歩いていた左右の人影の点が大きくなっていた。
僕との距離が縮まっていたということだ。
僕はてっきり僕に対して平行に歩いていたとばかり思っていたのだけれど、そういうわけではなかったらしい。
それで分かった。彼らは山目指して歩いていたのだ。
後ろを振り返る。やっぱりいる。前にも歩く人影が。
そして僕も。
いつの間にかあの山が、僕の目的地になっていた。