ねぇ お願い
車のエンジンを切り、ドアを開けると静寂の中に微かに虫の声が聞こえた。鈴虫だろうか、声の元があまりに遠すぎて特定はできない。車を降りて鍵をかける。革靴がアスファルトを踏んでジャリっと大きな音を立てた。目を凝らして辺りを見渡すが、深夜0時に人の姿はあるはずもなく、薄暗い路肩には彼と彼の愛車だけが存在していた。
軽く伸びをして澄んだ空気を大きく吸い込む。初冬の冷たい空気は心地よく肺にしみわたり、吐き出した息が白い煙となって、ふわりと舞った。
首元を過ぎる風に彼は小さく身震いしてコートを羽織りなおした。手をポケットに突っ込んで、歩き出すと緩やかな斜面をゆっくりと登っていく。
一歩一歩確かめるように足を踏み出しながら、ここに来るのは何年振りだろうとぼんやり考える。あれは確か十四歳か、十五歳の頃か、まだやんちゃをしていた彼は、友達と盗んだバイクで一度だけここに来た事があった。あの頃はただバイクのスピードが楽しくて、何の目的もなくこの場所にたどり着いたが、その時に見た満天の星空は彼の心に強く残っていた。
少しのぼったところに見覚えのある朽ちかけたベンチを見つけて彼は腰を下ろした。長年風雨にさらされた座面がミシリと軋んだが、どうやらまだ人の体重を支えるだけの余力はあるらしい。
目の前には薄暗い林をなめるように細い車道が緩やかな勾配を作っている。背後を見れば木々の間から遠くの街の明かりを眼下に眺める事が出来た。背もたれに寄りかかるようにして上空を見上げれば、あの時と変わらない満天の星空が彼の頭上全てを覆っている。
ほぉ、と思わず感心のため息が漏れた。
白い息が一瞬視界を遮り、溶けるように消えるとあの頃の記憶が鮮明に蘇る。
『あ、流れ星。見た?』
エンジンを切ったバイクの熱を投げ出した足に感じながらベンチに座り、二人で星空を見ていると、友達が声を弾ませて空を指差した。
『え?見てなかったよ』
広い空一面に広がる幾億の星達の中でたった一つの流れ星を見つけるのは奇跡に近いと彼は思った。
『よくさ、流れ星に願い事を3回言うと願いがかなうって言うじゃん』
今しがた過ぎ去った流れ星の行く先を追うように夜空を眺めながら、友達が呟く。
『あれって、ぜったい無理だと思わない?流れ星なんて一瞬で消えちゃうのにさ、3回も願い事なんて言えないよ』
『そんなの迷信だ』
彼が冷めた口調で答えたにも関わらず、友達は小気味よく笑った。そんなの知ってるよ、と。
『でもね、あたしはこう思うの。別に流れ星が見えてる間じゃなくても、願い事を言うことに意味があるんじゃないかって。だってさ、流れ星なんて滅多に見られないでしょ?きっと世界中に同じ流れ星を見れた人って何人もいないと思うの。だったらその流れ星を見れた幸運な人に神様が奇跡をプレゼントしてくれてもいいと思わない?』
友達のその考えは彼にとっても新鮮で、夢があるなと感心した。はたして人様のバイクを盗んで夜中に走り回っている悪ガキにも神様が奇跡をプレゼントしてくれるのかどうかは、別として。
『そうだったらいいね。じゃあ何か願い事しないと』
彼がそう言うと、友達は目を細めて『もう、したよ』と言った。
「そう言えば、あいつの願い事は叶ったのかな」
降り注ぐような星空を首が痛くなるほど見上げながら、彼は卒業以後会うことも無くなってしまった友達をぼんやりと思った。あれほど仲の良かった友達はあの後なぜか彼を避けるようになった。その理由を彼はとうとう知ることなく卒業という別れを迎えてしまったのだ。
「こうして星を眺める事の良さを教えてくれたのは、あいつだったんだよな」
あの夜、友達とここの星空を眺めて以来、彼は何か落ち込む事があるとよく星を眺めた。
友達と喧嘩をした時
初めて付き合った彼女と別れた時
仕事で悩んだ時。
どんな時でも星達は変わらず夜空に浮かんで思い思いに瞬いていて、彼の心を和ませてくれた。星を眺めると心がほんの少し軽くなるような気がした。
「この星空を、彼女も見ていてくれればいいのにな」
誰もいない真っ暗なベンチに自分の独り言が響いて、その子供っぽさに彼は自嘲した。
『あんまり会えないから、今は同じ星を見ることで我慢してるの』
いつだったか彼女が言った言葉を思い出して、今まさに自分がその通りだと思った。
会うことができないのなら、せめて同じ星空を眺めることで繋がる事も出来るんじゃないか。
そう思ったからこそ、深夜にも関わらずメールを送った後、彼はあの日以降来ることもなかったこの場所へ、星空を眺めるきっかけとなったこの場所へと車を走らせた。
安っぽいセンチメンタルだと自分を揶揄しなかったわけじゃない。気がつくとメールを送信した携帯を左手に持ったまま、車の鍵を持って部屋を出ていた。ここへ来ることに明確な意味を持っていたわけでもない。アクセルを踏み込んだ瞬間にこの場所が頭に浮かんだ。
彼の今までの長い人生において、彼女との時間はほんのわずかでしかない。天秤にかけたとしても片側にはその時間の何十倍もの時間が乗っているはずなのに、傾くのは彼女との時間の方だった。それほどまでにこの一年は彼の中で大きな比重を占めていた。
「バカだよなぁ・・・」ため息交じりに呟いた独り言は、白く残って、まるで彼の心情をそのまま表しているようだった。いつもは心を軽くしてくれるはずの光の粒も、今はあまり効果が無いように思えた。
同じ体勢でいることに疲れを感じ、首を元に戻そうとした時、煌めく星達の隙間を一筋の流れ星が横切った。
白く長い尾をまとった星屑はその一瞬の為に命を燃やし、鮮やかに消えて行く。その潔さを彼は見送ることしかできなかった。
何事もなかったように表情を変えない夜空を呆然と眺めながら、彼は無意識に笑いが込み上げた。なぜ自分が笑っているのか、彼自身にも解らなかったが、頭の中に友達の言葉が浮かんでいた。
「確かに、3回も言えないよな。でも、言うことに意味があるんだろ?だったら―」
彼は流れ星の消えた方向を向いて、指を組み、祈りのポーズをとる。こんな所誰にも見せられないな、ともう一度辺りを見渡す。幸い誰もくる気配はない。
すっと目を閉じ、声には出さず、心の中で願い事を呟いた。
ゆっくりと目を開けると、彼は心なしか気分が軽くなった気がしていた。
「大の大人が、何をしてるんだか」と自分を嘲笑いながらも、ここに来て良かった、と彼は思った。きっと誰かが俺をここへ呼んだのかもしれない、と。
勢いよく立ちあがり、見上げ過ぎて痛くなった首に手を当てて2回、3回と回すと、彼はポケットに手を突っ込んで、来た道を戻り始めた。
少し歩いた所で、振り返ると、朽ちかけたベンチの向こうには、やはり満天の星空が広がっている。
「あの流れ星。あなたも見れたかな?」
もし見ていたのなら、あいつの言うとおり奇跡も起きるかもしれない。同じ時間に、別の場所で、同じ流れ星を見る、なんてあり得ない事がもしあるのなら、奇跡だってホントに起きてもいい。この世界をそんな夢のある世界だと、今この一瞬くらいは信じてみよう。そんな事を思いながら彼は坂の向こうで待つ愛車の元へと軽やかに下る。彼の心を映す様にやや上がった目線には薄暗い車道もほんの少し明るく見えた。
帰りの車内、ルームミラーには晴れやかな彼の顔が映し出されていた。
『もしもこの願いが届くなら、俺の願いはただひとつ―』