恋するソーイング・針と糸
「恋するソーイング・針と糸」
鈴=れもんTEA
***幸福の予感***
三田 聡馬十五歳。
彼は、人口過疎化が進行する岐阜県山間部の、とある田舎びた町のひとつしかない高等学校の一年生である。
一学年全体で五十人しかいないのでA組とB組しか存在せず、A組に在籍する聡馬は同クラスの学級委員長、小日向 梨理に熱愛を捧げているが、思いを伝えた事は無いし、伝えたところで自分はしょせんブサメンなので、と告白を諦めている。
しかし聡馬は彼女と話す機会には恵まれている、といえる。
部活も同じ手芸部であるからだ。
当然教室でも、手芸部でも、傍目には仲良く話をしている様に誰の目にも映るのだけれども、それ以上に男女の仲が進展しないだろう事は、聡馬自身が一番よくわかっていた。
彼が料理とか裁縫が達者なのは、母親をはやくに亡くした事に起因する。
必要が高じて好きになってしまったのだ。
それで高校入部とともに手芸部を選んだのだが、当然部員に男性は聡馬一人。
当初、女性徒達は彼が女目当てで入部したのではないかと敬遠していたが、聡馬にまるでその気が薄いと知るや、彼女達の方から近寄ってくるようになった。
そして彼は部の誰よりも手先が器用で製作がはやい。
来るべき文化祭に向けてバザーで販売する小物を彼は任されているが、部員達が、これ可愛いとか言って勝手に持っていってしまい、彼の穏やかな性格では怒ることもかなわず、売る分がなかなかたまらないほどだ。
そうした姿を他の男子生徒が見れば、ちょっとばかり手先が器用だから女にもてている、と嫉妬されても仕方がないだろうが。
九月初旬、聡馬は学校の部活を終え、西の山の頂に沈む夕陽を仰ぎつつ、二級河川の堤防にそって帰宅を急いでいた。
左下は夕焼け空を写す朱の水面、右下は人家がずらりとひしめいている。
舗装されていない土の道は夏草がその両側に適度に繁茂して、その草むらでコオロギが愛を語り始めているから、多分季節は間違いなく秋に移行しつつあるのだろう。
けれども、岐阜県は雪国でありながら全国で一、二を争う暑い県でもある。
しかも盆地の山間なので、秋の気温となるのはまだまだ先の事。
地球温暖化の影響だろうか、最近では紅葉もめっきり遅くなった。
そんな事を漠然と考えて歩いていると、後から聡馬を呼ぶ女性の声。
「待って、待って」
憧れの小日向梨理だった。
長い黒髪を乱しながら彼に向かって手を振って走ってくるその姿を見て、冗談だろ? 僕を呼んでいるんじゃないよな? と思わず道端に寄り彼女が通過するのを見送ろうとしたが、その意に反して彼女は彼の目の前で立ち止まったのだった。
心臓が止まるかと聡馬が心配したのは大袈裟でもなんでもない。
確かに梨理の家は少年の住んでいる同じ地区内にあるが、登下校の際に顔をあわせれば手芸部員として、クラスメイトとして挨拶をする程度である。
「な、何? 何か用だった?」
聡馬のポッチャリした喉がひきつった。
少女はひいき目なしに美しい、が、それは単に目鼻立ちが整っているからだけではない。
彼女の父親がエジプト人というハーフであり、その頭蓋骨の骨格からして違う。
白人系の大理石の彫像を思わせる顔立ちは、凹凸の少ない日本女性とは明らかに異なる。
さらに、肌はやや褐色を帯びていて、それは夏の季節によく似合うし、二つの瞳は黒よりも黒く深遠で、目線が合うと、見詰められている目玉からとろけてしまいそうになるくらいに、とても情熱的だった。
唇は大きめで肉厚で、触れたくなるほどセクシーで、笑うと白い歯がさらに輝いて白く見える。
加えて、彼女は七歳までエジプトにいたらしく、アラビア語と英語に堪能。
そして勉強も学年でトップなのだから、よほど審美眼がおかしい男でない限り、彼女を恋人にしたいとみんなが狙っている。
そんな完璧な彼女が今手芸以外で目立ったことの無い聡馬に、路上で声を掛けているのだから、彼は当惑もしたが、これ以上ない幸運でもあった。
「ほら、これ忘れた」
彼女の細い指先につままれたスティックが揺れた。
「あ、本当だ。あ、ありがとう」
几帳面な性格の聡馬は、編み物用の金の棒針にも名前シールが張ってあるから直ぐわかるのだが、部室に置き忘れるなんて粗相はほとんどした記憶がなかった。
「どんな物にも名前を書くのね? 手芸品にも全部S.Mのイニシャルが入ってる」
「う、うん」
「わざと、部室に置いていったんでしょう?」
梨理がそう推理し、意地悪く笑う。
「え? なんで、なんで?」
対して少年は心からその言葉の意味がわからないようだ。
「へぇえ、そう、わざとじゃなかったんだ」
「どういう事?」
「歩きながら話さない?」
「う、うん」
全校男子生徒のアイドル的存在の彼女と並んで歩く、という機会に恵まれた聡馬は夢ならば覚めないで、と真剣に願い、足元がおぼつかず、実際草むらにつまずいて何度か転びそうになった。
「わざと棒針を忘れて、それをあたしに届けてもらいたかった、とか」
ああその手があったか、と少年は思いこそすれ、誓って、それは確かに彼の計算づくの行為ではなかった。
「そんな。違うよ。天地神明に誓って」
「ふふ、そんな台詞言う人に限って嘘ついてるものよ。でも、考えてみれば三田君が嘘つくわけないものね」
疑いが晴れて聡馬はほっと安堵したが、
「でもわざとだったら良かったのに」
次の瞬間、少女が悪戯っぽく笑うので彼は心臓が縮み上がった。
わざとだったらよかったのに、その言葉の真意を考えると途端に胸の中が沸騰した。
彼女は自分を好きなんだろうか? いや、そんなはずは無い、ありえない、と結論は少年の脳内で、常に否定的で消極的だ。
「そ、それってどういう意味?」
聡馬がそう彼女の横顔に尋ねようとした時、後から誰かが自転車で追い抜きざま、
「いよおっ、熱い熱い」
と冷やかしていったそいつは聡馬の同級生の男子生徒で、朝日輪という。
彼はもちろん彼女に恋心を抱いている一人で、かつ三田聡馬とは疎遠、というか仲が悪かった。
自転車乗りの輪郭が遠くに去ってから小日向梨理は、
「あの子、嫌な子ね」
と小さな顎を引き上げて聡馬に同意を求めた。
朝日輪はクラスでは文句なしのイケメンで女子の間で人気がある。
髪型も流行のウルフカットで、長身で、スタイルよくスポーツ万能、学業は今一だけど性格もさっぱりと明るいので、クラスの女子と気軽に会話を楽しんでいる風なのは聡馬には羨ましかったのだが、梨理が朝日輪を嫌っているとは意外だったし、心が晴れやかになった。
「僕も、彼はちょっと、苦手かな」
「そうでしょっ。なんか、ムカつくのよね。軽いというか、薄っぺらというか、見た目より逆に頼りになりそうにない、というか。私は、男は黙って勝負するみたいなタイプが好きだな」
それは自分の事を指しているのかな、とか都合よく考えたかった聡馬だが、慌てて首を横に振った。
そんなわけない、と。
だが少女は、
「三田君はそういうタイプだよ」
とさり気に言うのだった。
遠まわしな表現だけど、それは微妙な愛の告白を含んでいないでもないような、あるような。
「そうかな?」
「そうだよ」
もし彼女が愛情を胸に秘めて口に出しているのならば、聡馬にとって告白のチャンスであったろうが、無論彼にその勇気はない。
それから少し打ち解けて歩き、二人してコンクリートの橋を渡り下り坂を百歩くらい進むと、民家の集落が見え始め、彼女の家の一際大きな赤い屋根が見える。
その手前は恩田の森という神社になっていて、民家と神社の裏手は山の傾斜地で、そこに棚田がずらりと並び、黄金色に染まりつつある稲穂の頭が夕風に薙いでいた。
さらに棚田の上方に一軒の家、というかあばら家がある。
最近では見られなくなったトタン屋根に大石を乗っけただけの粗末な住まいで、そこには実に奇妙な人物が生活をしていた。
男はほとんど村の人と絶縁状態で、着の身着のままの暮らし。
どんな生業をして食べているのか不明。
ただ少年は彼と少しだけ近しい関係ではあった。
「ね、あそこに、棚田の上に、家があるでしょう?」
彼女は遠くを指差して左手を上げたので、三田聡馬は図らずしてその彼女の眩しい脇の下まで覗いてしまったが、直ぐに目線を上げて肯く。
「うん」
「あそこに住んでいる人に、あたし回覧板をいつも届けているんだけど、いつもいらしたためしがないのよ」
「だろうね。彼は人間嫌いだから居留守を使うだろう」
「よく知っている人?」
「知ってる。あの人は、僕のお爺ちゃんが生きていた頃に聞いたんだけど、村の外からふらっとやって来て、あそこに住み着いてしまったんだってさ。あの辺の土地は境界線が曖昧だったらしいんだけど、二十年も居座ってしまうと、その人の土地になっちゃうんだって」
「何してる人?」
「わからないんだ。でも本人は心霊研究家だと言ってる。名前は、亀井三郎」
「心霊研究家?」
「うん。僕が小学生低学年だった頃の話。聞きたい?」
「うん、聞きたい」
「えっとね、僕の家で飼っていた愛犬が亡くなったんだ」
「え、かわいそう」
「それで、僕はどうしても諦めきれなくって、その棚田の上のオジサンに頼んだんだ」
「何を?」
「生き返らせて欲しいって」
「そんな事」
「できるわけない、でも、偶然道で出会ったそのオジサンは、僕が泣いているのを見るに見かねて、蘇生させてあげてもいい、って言ったんだ」
「どうやって?」
「わからない。でもオジサンは約束を守ってくれた」
「信じられないよ、そんな話」
「でも本当なんだ」
「ひょっとして死んでなかったんじゃないの?」
「いや、確かに死んで、もう体が固くなっていたんだ」
「と、とにかく、よかったじゃない」
「それがそうでもなくって」
「どうして?」
「だって、生き返った僕の愛犬は僕の顔なんて覚えていなかったんだから。それどころか、僕の足を噛んだんだ」
「ええっ!」
「狂犬病じゃないかって、それで父さんがその犬を保健所に運んで処分してもらった。父さんが言うには、死んだ犬が蘇るわけがない。よく似た犬をどこからか用意して僕にくれたんだろうって」
「そうか。そうだよね。死んだ犬が蘇るわけないもの。三田君がまだ小さい頃の話だから、きっとだまされたんだよ」
「そうだね」
ともあれ、たった数分間の会話だったが、やがて至福の時間は終わりを告げ、彼は去り行く少女の背中を夕闇迫る中、電柱よろしく見送っていた。
***失踪***
翌日の朝、クラスに学級委員長小日向梨理の姿はなかった。
健康優良児で通してきた彼女が学校を欠席するのは極稀だったが、その理由は、彼女の友達の携帯電話の通話がまるでつながらないので、薄々、病気でもなければ家庭の事情でもないだろう事が明らかになってゆく。
そして、一時限目の国語の授業の際、クラスに刑事を名乗るスキンヘッドの男性が訪ねて来たことで、異常事態が決定的となった。
「小日向梨理さんが失踪した。君達の中で行方に心当たりがある人がいたら申し出て欲しい」
通常失踪後二十四時間経過しないと警察は動かないが、高校生女子という特別な事情を鑑み、彼女の両親の懇願を受け警察は万一の場合の手遅れにならないよう、既に捜査体制に入ったらしい。
「彼女のご両親が朝目覚めたら、彼女の部屋にいなかったそうだ。制服や私服を調べたが無くなっている衣服が無いそうなので、彼女はパジャマ姿で外出したらしい」
と刑事さんは付け足したが、誰もが不安にざわめくばかりで、いっこうに彼女の所在はつかめなかった。
「では、何でもいい。昨日君達が彼女と話して変わった事がなかったか、教えて欲しい。ほんの些細な事でも構わない」
すると朝日輪が立ち上がってわざわざ三田聡馬の傍まで行き、大きな声で証言した。
「昨日、この三田……君が、小日向さんと一緒に帰って行くところを目撃しました」
まるでお前が小日向梨理の失踪に関わりがあるんだろう、とばかりの勢いで、聡馬は心臓が口から出るくらいに驚いた。
「それは事実かね?」
刑事の目付きが鋭くなった気がしたが、聡馬はできる限り落ち着いて返答した。
「は、はい。でも特に変わったところはなかったと思います」
「君はいつも彼女と一緒に帰るのかね?」
「いいえ、昨日が実は初めてだったんです。偶然彼女が」
聡馬が言い終わらないうちに、刑事が疑問を投げた。
「初めてだって?」
同時にクラス中がざわめいた。
三田聡馬と小日向梨理がそんなに密接な関係であったわけがない事はみんなが承知していたし、初めて一緒に帰宅したという聡馬の言葉と梨理の失踪を関連づけて考えてしまうのは、刑事でなくとも無理からぬところかもしれない。
「先生、ちょっと、この三田君をお借りしたいのですが、よろしいですか。事は急を要すると思われますので」
と刑事は国語教師に了解をとり、聡馬を引き連れて教室を後にした。
教室を出るとき、ちらと振り返った聡馬の肩越しに、朝日輪がほくそ笑んでいる顔が憎憎しく映った。
聡馬は警察署に連行されテレビドラマの様に厳しい尋問を受けるかと思いきや、刑事はパトカーの中で彼に幾つかの質問を浴びせかけただけだった。
その帰宅時に何を話したか詳しく訊かれ、少年はありのままをできるだけ忠実に話をした。
中でも刑事の興味を惹いたのは棚田の上の怪しい人物、亀井三郎の事。
あばら家に独り暮らしで、変人で、誰も寄り付こうとしない場所に住んでいる亀井三郎に、刑事の長年の勘が働いたのであろう。
「僕は彼女と話した最後の学校関係者なんですか?」
「今のところそういう事になるな」
スキンヘッドの熟年刑事は、神経質な性格らしく、顔面をピクピクひきつらせながら話す。
「僕は容疑者なんですか?」
「いや、まだ事件かどうかわからない。仮にそうだったとして、それはありえない。これはみんなには内緒にしておいて欲しいんだが、彼女の自室は内側から鍵が掛けられてあったそうだ」
「じゃあ、彼女はどうやって外に出たんですか?」
「それがわからない。窓にはロックされていなかったので、そこから出たかもしれないが、彼女の部屋は二階で、伝い降りる樋もないし、その下の地面も調べたんだが猫の足跡ひとつ無かった。小日向梨理さんのご両親が嘘を言っている、という可能性はある。もしくはドアの鍵が開いていたのに記憶違いしているか、あ、いかんいかん、刑事のくせにおしゃべりが過ぎてしまったね。くれぐれも内密に」
刑事は少年に礼を言い降車させてから、急ぎ早に運転手の警察官に何か指示しているのが、聡馬にはウインドウ越しに透けて見えた。
「まさか、亀井のオジサンが」
こういう場合想像は最悪へ最悪へと向かう傾向にある。
今少年の頭の中には、亀井三郎が彼のあばら家で少女に乱暴をしている姿が、リアルに浮かぶのであった。
***
独り淋しく家路を急ぐ三田聡馬は、当然小日向梨理の安否にのみ心が占められていた。
堤防を道なりに行き橋を渡り、少年は棚田の上の一軒家を眺める。
あるいは家宅捜索でも行われていたり、マスコミの取材陣が取り囲んでいたり、といった物々しさはどこにも見られなかった。
むしろ昨日よりかは静かなくらいで、それはそれで少年は安心した。
あるいは家出かもしれない。
それがもっとも生存の可能性のある推測だった。
ただしパジャマ姿で移動できるだろう場所は限定される。
一番それらしいのは、彼女の友達か親戚の家に匿われているという回答だ。
だとしたら、それほど心配するには及ばない。
きっと家族と何かもめて、家出をした、ただそれだけだ。
多分明日には何事もなかったかの様に登校して、あの麗しい笑顔をみんなにふりまくに違いない、と聡馬は信じることにした。
するとカラスが頭上の電線につかまっていて、三たび鳴いた。
「縁起でもない」
少年は手近な石ころを拾ってその黒い不吉な影に投げつけたが、もちろんかすりもしなかった。
***バラバラ遺体***
三田聡馬の父親は専業農家で、暮らし向きは良いとはいえなかった。
それで少年は毎朝新聞配達のアルバイトをして家計を助けている。
毎朝三時、自転車で川向こうの新聞販売店まで約十分。
家事をこなし勉強をして、文化祭の手芸品の製作に追われ就寝は夜十一時。
珈琲を胃におさめただけの少年は、まだ夜の世界をネムネムとペダルをこいだ。
さてコンクリート橋を渡った頃だった。
少年は誰かに呼ばれたような気がして自転車を停めた。
満月にかかる雲もなく視界は上々で、聡馬は気のせいか、とまた走りだそうとする。
そこへ、
「三田君、三田君、私はここよ」
という声が川から確かに少年の耳に届けられるのだった。
「小日向さん、君なのかい?」
聡馬は自転車が倒れるのも構わず川へと草の斜面を滑り下りた。
はたして、直ぐに彼女を発見できた。
彼女は川の水面から首を出して両目をかっと見開いていた。
そんなところで何をしているんだい? という問い掛けは不要だろう。
何故なら、最近雨らしい雨が降らなかったせいで、現在の川の水位は川底に近いくらいに下がっているからだ。
つまり彼女の首から下がその川底に埋まっているのでなければ、彼女の首は胴体を離れて淋しがっている事になる。
「な、なんて、ことだっ!」
その瞬間彼女の首は水の流れに傾いで横倒しになり、その切断面が露わになる。
気持ち悪くはなかった。
その情景は月光の魔力に照らされて、何と美しかったことか。
少年は、自分がまだ寝床で夢を見ているのだ、と勘違いした。
その勘違いは少年を冷静に行動させたといえる。
彼は周辺を注意深く探索する。
するとピンクのパジャマを着た胴体が対岸の水草の茂みにあるのがわかった。
ジャブジャブ飛沫をはねて駆け寄ると、その胴体には手足がついていない。
「て、手足を探さないと」
その時少年のパンツのポケットの携帯がなり現実が彼を夢から引き戻す。
「はい」
「三田君、もう家を出てるよね? 今朝は広告が多いから、はやく来て」
新聞販売店の店長からだ。
少年はとっさに嘘をつく。
「ごめんなさい。起きたら熱が39度もあって、ふらふらするし、今日は休ませていただけませんか?」
「ええっ? んんん、そうか。滅多に休まない三田君の事だからよほど悪いんだろう。わかった、ゆっくり休んで、お大事に」
店長は一秒を惜しむかの様に電話を切った。
腕時計に目をやると三時四十五分で夜明けまではまだ一時間以上ある。
三田聡馬はある決意を胸に、小日向梨理の手足の回収に努めた。
目の前で鮒がピシャリと飛び跳ねては、水面に写る満月を割ってまた落ちた。
***蘇生***
「オジサン、オジサン」
どんどどどん、とあばら家の扉が叩かれている。
「うるさいな。こんな朝早くから何の用だ?」
太陽が山の端を黄色に染め始めている。
オンボロ引き戸が軋みをともなって開かれると、中から四角い顔に黒縁眼鏡の男性が、やや背を曲げて顔をのぞかせた。
「おお、お前さんは、いつぞやの犬の飼い主だな?」
「覚えててくれたんだ?」
「うむ。その左目の下に並んだ黒子でわかるわい」
小学生低学年の時犬の蘇生をお願いした亀井三郎はまだ黒々とした毛を蓄えていたが、今は総白髪になり皺もかなり増えている。
「お願いがあるんです。ある女の子を蘇生させて欲しいんです」
三田聡馬の酷く切迫した形相に押されてか亀井三郎は、
「ま、とにかく中に入りたまえ」
と少年を内に誘った。
小屋の中は物置の様にいろいろな道具が散乱していたが、少年にとってその一つ一つに特に意味はなかった。
「何だね、その大荷物は?」
亀井三郎がいぶかしんだのは少年が大きなカバンを三つも携えていたからだ。
「僕のクラスメートの女の子が殺されたんだ」
「ちょ、ちょっと待て。じゃ、何か? その三つのカバンには遺体が入っているのか?」
「うん」
「バラバラになっているんだな?」
「うん」
「警察には届けたのか?」
「駄目だよ。警察に通報したら死体は警察の手に渡ってしまうから。そしたら死体の解剖が行われて、それから遺族に引き渡されて、後は火葬されて骨になってしまう。そうしたら、もう彼女は絶対に蘇らないだろう?」
「ふむ。よし、ここにビニールシートを広げるから、少し待ってろ」
亀井三郎は畳みの座敷に上がり棚から青い巻いた物を取り出すと、土間の上にそれを敷いた。
三田聡馬はバッグのチャックを次々に開け、その中にしまわれていた少女の遺体を慎重に、生前と同じ状態に、並べていった。
ただ不思議な事に、それらはまるで生きているような柔らかな感触が残されていた。
「どんな殺され方をしたんだ。この切断面は、まるで引きちぎられたみたいに見える」
そうなのだ、これは鋭利な刃物で解体されたとは、とても思えない。
だが死因や殺害犯人の事は二の次、今少年は彼女を復活させるのが先決なのだ。
「蘇生できる?」
「ああ」
亀井三郎が大きく肯いたので少年はほっと息を吐いたが、男は冷徹に言い放つ。
「だが、初めに断っておく。犬を蘇らせた時の事覚えているだろう?」
「うん。だから、ここに来たんだ」
「あれは反魂の術を使用したのだ。昔西行法師という人が行った秘技ではあるが、西行にして、心までこの世に戻すことはかなわなかった。つまり、お前の愛犬がお前を覚えておらんかったのも、その心が戻らなかったからだ」
「狂っていたわけじゃないんだ。で、でも、それだと、彼女が蘇っても心が戻らなければ……」
「そうだ。それを承知で生き返らせたいか?」
少年は目を閉じて考えた。
もし彼女の心が戻らなかったら、それはまるでゾンビの様なものだ。
心の通わない人形が蘇生したとして、それで少女の両親は喜ぶだろうか?
学校にも通えないし、もちろん、あのとろける様なスマイルはおろか話すらできない。
だが、聡馬はもう引くに引けないない状況を作ってしまっているのに考えが至った。
ここで警察に連絡すればどうなるか、どう説明すべきか、彼には見当もつかない。
下手をすれば自分が同級生を殺害したのではないか、と疑いをもたれてしまうだろう。
「お願いします」
数分後、少年は深々と頭を垂れた。
「よし、わかった。しかし、このバラバラの状態はいかにもまずいな。つなぎ合わせないといけない。あいにく、この家には針も糸も無い」
「あ、それなら僕持っています」
本格的な裁縫道具は少年の家に置きっぱなしだったが、聡馬は常にポケットに携帯用の裁縫セットを忍ばせているのだった。
「そうか、では縫い合わせるがいい。わしはその間に反魂の術の準備をしよう」
少年は先ず少女の胴体に着せられているパジャマを脱がせる必要があった。
縫合の際布で隠れていては作業が困難だったが、いざ脱がせる段になると緊張に手が震えた。
胴体だけとはいえ、好きな人の裸を目の当たりにするのは、聡馬には顔が火照る思いだったろう。
***幸福の実感***
「もう随分よくなったね。抜糸もすんで、縫い目部分の腫れが引いたら家に戻れるよ」
心配だった縫合痕は、何故かしら日に日に薄らいでいった。
これはおそらく、もともと無かった傷として治癒されてゆくのだろう、と聡馬は勝手に想像した。
「ありがとう。本当に、三田君には、どんなに感謝してもしつくせないわ」
少女は少年のパジャマを借りて、元気な頃の、あの見ている者をとろけさせる笑顔を完全に取り戻している。
「うん。いいんだよ。でも酷い神様達だよね」
反魂の術は見事に成功した。
小日向梨理は蘇生し、夜間人目につかぬようにして、三田聡馬はまだ体の不自由な彼女を自分の家に運びこみ、匿い続けた。
父親に気付かれぬようにするのは大変な苦労だったが、彼女の食事や排泄の世話も全部少年がこなした。
案じられた、心が戻るか否かの問題も杞憂だった。
けれども、彼女の心が再び戻る事ができた背景を語るのはなかなか容易ではない。
簡単に説明しよう。
彼女がしゃべれるまでに回復してから、彼女自身が語ったところによると、彼女は睡眠時無呼吸症候群なのだそうだ。
で、あの晩も呼吸が一時的に止まってしまったらしい。
その時、間の悪い事に、近くを死神が通りかかっていたという。
死神は、彼女の呼吸が止まっているのを知り、これは臨終に違いないと勘違いした。
そして彼女を霊界に連れて行ったのだが、普通なら魂だけが運ばれるところ、死者ではないのだから肉体も彼女の部屋から持ち出されてしまった。
そして霊界に到着してからが、さらにややこしくなる。
というのは、彼女は元来エジプト人で、しかもキリスト教徒であり、加えて現在は日本国に在住している。
人は死ぬと裁きを受ける為に霊界に行くのだけれども、エジプトにはエジプトの、キリスト教徒にはキリスト教徒の、そして日本には日本の、それぞれ固有の領分というかテリトリーがあるらしい。
つまり彼女の場合、その霊魂(実は生身)の所有権を巡ってエジプト、キリスト、日本の神が喧嘩を始めてしまったそうだ。
エジプトの死を司る神オシリスとキリスト、それに日本の黄泉の国の女王イザナミは互いに自分が預かると譲らなかった。
ため、とうとう彼女の体を三等分しようという妥協案をいずれかの神が申し出て採択されたが、採択された小日向梨理こそいい迷惑である。
頭、胴体、四肢と引きちぎられて、その段階で初めて、彼等神は彼女が霊魂ではなく生身だと気付いたというのだから信じられない話である。
そうなると神々は、今度は責任をなすりつけあい、やがて、生ある者を霊界に連れて来てしまった死神にその後の処置を任せて消えうせてしまったのだ。
死神はバラバラになった死体の処置に困った。
そこで地上に降りて死体を河に投げ捨てたのだった。
実に無責任な話である。
ところで梨理の魂は成仏できずに死体とともにあったのだ。
冷たい川の中で、彼女は自転車で堤防を走る三田聡馬に気がつき、心の叫び声を上げた。
幸い少年が気付いてくれたからいいものの、下手をしたら火葬されて戻るべき肉体が消失してしまうところだったのである。
それから少年の手でつなぎ合わされて反魂の術で彼女の肉体は蘇り、そして心はもともとその肉体のそばにあったので、そのまま肉体に宿ったのだった。
少年が狂喜し亀井三郎に感謝の涙を流した事は言うまでもないが、ところで、その亀井三郎が一体何者であるのか、偶然インターネットで心霊というキーワードでひっかかった同姓同名の男性名があった。
その人物は昭和という時代に生きた霊能力者であり、超能力めいた力を有していたらしいが、1952年以降消息を絶ったという。
だが、棚田の上の一軒家のオジサンがその霊能力者であろうがなかろうが、少年にはどうでもよいことである。
むしろ亀井三郎なるオジサンは確実に縁結びの神様でもあるのだからだ。
「新聞見る?」
少年が手渡した新聞を少女が受け取り、その中に少女依然不明のまま、という見出しを彼女は笑顔で読む。
警察の捜索はあいかわらず継続されているが、三田聡馬の家に捜査の手が及ぶ事はなかった。
ところで、ある日、朝日輪が警察に呼ばれて事情聴取を受けたらしい。
小日向梨理の携帯電話は彼女の自宅にあり、警察がそのメールの記録を解析したところ、朝日輪が彼女に対して、ストーカーともみなされる一方的なメールを頻繁に送信していたからだ。
結局彼の疑いは晴れたが、警察でこってり説教されたらしく、その後朝日輪は猛省したのかどうか、まぁ大人しくなった。
問題は梨理の両親の事だった。
愛娘が失踪して心労がつのっているに違いない、と聡馬は彼女の両親に直接真実を話しに赴いた。
到底ありえない内容だったので彼等に信じてもらえるとは思わなかったが、彼女のご両親は聡馬が自分達を慰め元気付けてくれていると感謝し、娘が帰ってくるのを信じて待つ、と最後は笑顔になった。
「はやくパパやママに会いたいな」
「それももう直ぐだよ」
彼女は、はて何と言って家に帰ればいいのかしら? とか思案しながら、とにかくこうして好きな男性のところにいられる現状に満足している。
そして少女は将来三田聡馬に、自分と結婚してもらわなければならない、と心に固く決めている。
だって彼女は彼に自分の裸を見られたのだから。
一方聡馬も梨理はもう自分のものであると身勝手に考えている。
あの縫合の際、いつもの癖で、彼は彼女の背中にS・Mと、ついイニシャルを縫いこんでしまったのだから。
おしまい
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