銀の髪に触れる指先
龍神様の社での生活は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
朝、鳥のさえずりで目を覚まし、琥珀様が用意してくださる温かい食事をいただく。 村にいた頃の私……紗良には考えられないような、夢のような日々。 あの日、雨の中で凍えていた私は、もうどこにもいない。
「紗良、何をぼうっとしている」
不意に背後から声をかけられ、私は肩を跳ねさせた。 振り返ると、そこにはいつものように美しい銀髪を揺らした琥珀様が立っていた。 彼は私の手元にある、半分ほど編み上げた籠をじっと見つめている。
「あ、琥珀様……。すみません、少し考えごとをしていて」
「考えごとだと⁉ この社の居心地が悪いとでも言うのか」
彼は少しだけ不機嫌そうに眉を寄せ、私の隣にどっかと腰を下ろした。 その拍子に、彼が纏うお香のような、清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。 近くにいるだけで、心臓がトクトクと騒ぎ出すのを、私は必死に抑えた。
「いえ、逆です! あまりに幸せすぎて、バチが当たるんじゃないかって……。私、私ね、今までこんなに優しくされたことがなかったから。あなたに出会えて、本当によかったって思っていたんです」
素直な気持ちを口にすると、琥珀様は目を見開いた。 金色の瞳が揺れ、彼は気まずそうに視線を逸らす。
「……ふん。お前は本当におめでたい娘だな。生贄としてここにいるというのに、感謝するなど」
「でも、琥珀様は私を食べていないじゃないですか」
「それは……まだ食い頃ではないと言ったはずだ。泥人形が少しはマシな顔つきになってきたが、まだ足りん。もっと私の側にいろ」
彼はそう言って、私の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。 大きな手のひらの熱が、私の心まで温めてくれる。
ふと、彼の長い銀髪が、私の指先に触れた。 月の光を糸にしたような、細く、滑らかな髪。 私は吸い寄せられるように、その髪に指を這わせた。
「……琥珀様の髪、とっても綺麗。まるで冬の初雪みたい」
「おい、気安く触るなと言っただろう……」
口では拒絶しながらも、彼は動こうとはしない。 むしろ、私の指の動きに身を委ねるように、少しだけ目を細めている。 私は勇気を出して、彼の耳元で囁いた。
「あのね、私……あなたのことをもっと知りたいです。龍神様のことじゃなくて、琥珀というお方のことを」
彼は一瞬だけ、悲しそうな表情を浮かべた。 それは、永い時を生きてきた孤独な神様が見せた、一瞬の隙だったのかもしれない。
「……知ってどうする。私は神だ。お前のような人間とは、流れる時も、見ている世界も違うのだぞ」
「違ってもいいです。今、こうして一緒にいるこの時間は、同じだと思うから」
私が真っ直ぐに彼を見つめると、琥珀様は観念したように息を吐いた。 彼は私の手を握り、その指先に自分の唇を寄せた。
「……困った娘だ。お前は、私が孤独であったことを、これほどまでに暴こうとするのだな」
触れられた指先から、熱い衝動が全身を駆け巡る。 あなたは、どうしてそんなに切ない目をするのですか⁉ 私は彼の手を握り返し、そっと肩を寄せた。
◇ ◇ ◇
穏やかな昼下がり。 私たちは縁側に座り、庭に咲く牡丹の花を眺めていた。 琥珀様は私の膝に頭を乗せ、目を閉じている。 龍神様が人間に膝枕をさせるなんて、村の人が聞いたら腰を抜かすに違いない。
「……紗良。一つ、聞いてもよいか」
閉じた目のまま、彼が静かに口を開いた。
「はい、何でしょうか。琥珀様」
「お前は……あの村を恨んでいないのか? お前を捨て、死に追いやったあの連中を」
その問いに、私は少しだけ言葉に詰まった。 恨んでいないと言えば、嘘になる。 継母の冷たい言葉。義妹の嘲笑。村人たちの無関心。 思い出すだけで、胸の奥がチリチリと痛む。
「……恨んでいました。でも、今はもう、どうでもいいって思えるんです。だって、あそこにいたら、私は一生あなたの温かさを知ることはなかったから」
私は彼の銀髪を優しく梳きながら、微笑んだ。
「今の私は、不幸ではありません。生贄に選ばれたことで、私はあなたという光を見つけたんです」
琥珀様はゆっくりと目を開け、私を見上げた。 金色の瞳に、私の顔が映っている。 彼は体を起こすと、私の頬を両手で包み込んだ。
「お前は、本当に……馬鹿な娘だ。だが、その馬鹿さ加減が、今の私には酷く愛おしい」
至近距離で見つめられ、私は息が止まりそうになる。 琥珀様の顔がゆっくりと近づいてくる。 ……けれど、唇が重なる寸前、社の結界が激しく揺れた。
「――ッ! 何だ⁉」
琥珀様が鋭い視線を山の麓へと向け、私の前に立ちはだかる。 空が急に暗く陰り、不気味な黒い雲が社の周りを取り囲んでいた。 その雲の中から、聞き覚えのある汚らしい声が響いてきた。
「龍神様! お返しください! その娘は、村の宝です!」
……村長の声だ。 あんなに冷たく私を追い出したはずの彼らが、どうして今さら私を求めてやってきたのだろうか。 嫌な予感が、背筋を駆け上がる。 幸せな時間は、いつもこうして唐突に壊されてしまうのだ。




