死を待つ社に、春の雨は降る
降りしきる雨の音だけが、古い社の中に響いていた。
私の体は冷え切り、指先一つ動かす気力も残っていない。 白装束の袖をぎゅっと握りしめ、冷たい板張りの床に正座したまま、私はただその時を待っていた。
村を救うための、生贄。
そう聞こえはいいけれど、実際にはただの厄介払いだ。 継母にとって、実の娘ではない私は目障りな存在でしかなかった。
家じゅうの掃除を押し付け、冬でも冷たい水で洗濯をさせ、満足な食事も与えなかった彼女。 そんな継母が、村の寄り合いから帰ってきたときに見せたあの笑顔を、私は一生忘れないだろう。
「紗良、おめでとう。お前が選ばれたよ。龍神様の生贄にね」
歓喜に震えるその声に、私は反論することさえ許されなかった。 村の飢饉を救うため、山の奥深くにある社に娘を捧げる。 古くからの言い伝えに従って、私はこうして冷たい闇の中に放り出されたのだ。
……お腹、空いたな。
ふと、場違いな思考が頭をよぎる。 最後に口にしたのは、昨日の朝に食べた薄い粥だけだった。
どうせ死ぬのなら、せめてお腹いっぱいおにぎりでも食べたかった。 そんなことを考えていると、不意に、社の重い扉が音もなく開いた。
冷たい風が吹き込み、私の細い肩を震わせる。
カラン、と乾いた音がして、誰かが中に入ってきた。 人ではない、圧倒的な気配。 空気が重く沈み、肺の奥が苦しくなるような神聖で不気味な圧力に包まれる。
「……これが、今回の供物か」
低く、地鳴りのような声だった。
私は恐ろしくて顔を上げることができない。 視線を床に落としたまま、震える声で答えた。
「はい……紗良と申します。どうぞ、私を召し上がってください。それで村に雨が降るのなら……」
死ぬのは怖い。 けれど、あの家に戻っても、待っているのは地獄のような日々だけだ。 それなら、ここで神様に食い殺される方が、いくらかマシな結末に思えた。
だが、待てど暮らせど、牙が喉元に突き立てられる気配はない。 代わりに聞こえてきたのは、深いため息だった。
「顔を上げろ。私は、泥をまぶしたような娘を喰らうほど趣味は悪くない」
泥……⁉ 失礼な言い草に、私は思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、透き通るような銀髪を背まで流した、この世のものとは思えないほど美しい男だった。
瞳は鮮やかな金色で、切れ長の目が私を鋭く射抜いている。 頭上には、なだらかな曲線を描く二本の角。 彼は、琥珀と名乗る龍神その人だった。
「ひっ……」
その美しさと威圧感に、私は声を漏らして後ずさる。
琥珀様は私の前にしゃがみ込むと、細く長い指先で私の顎を掬い上げた。
「ガリガリではないか。まともに飯も食わされているのか? これでは、食うどころか骨を折って終わりだ」
彼は忌々しげに舌打ちをすると、私の体を軽々と横抱きにした。
「え、あの……どちらへ⁉」
「奥へ行く。お前をそのままにしておけば、龍神の社で餓死者が出たと山の笑い草になるからな」
あなたは、私を食べるのではないのですか⁉ 問いかけようとした言葉は、空腹による激しい眩暈にかき消された。
視界がぐにゃりと歪み、私は彼に抱かれたまま意識を手放した。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、私はふかふかの布団の中にいた。
……ここは、どこだろう。 天界だろうか。それとも、あの世だろうか。
辺りを見渡すと、そこは社の外観からは想像もつかないほど豪華な部屋だった。 金箔が施された屏風、香木の良い香り、そして何より、部屋の中が驚くほど暖かい。
「気がついたか。しぶとい娘だ」
部屋の隅に、彼が座っていた。
琥珀様は手に持っていた書物を閉じると、音もなく私の枕元まで歩いてきた。
「お前、名は紗良と言ったな」
「……はい。あの、龍神様……」
「琥珀でいい。お前の村の連中には、雨を降らせてやった。その代わり、お前はもうあそこには戻れん。よいな?」
その言葉に、私は小さく頷いた。 戻る場所なんて、最初からどこにもないのだ。
彼は私の額に手を当て、熱がないかを確認するように目を細める。
「……冷たい体だ。私、私ね……ずっと、一人だったから」
独り言のように漏らした言葉に、琥珀様の手が一瞬止まった。
彼は何かを言いかけるように唇を動かしたが、結局何も言わず、代わりに卓の上に置かれた膳を私の方へ押しやった。
「食え。それが、今の私がお前に命じる唯一のことだ」
そこには、つやつやと光る白米と、湯気を立てるお吸い物、そして色鮮やかな川魚の塩焼きが並んでいた。
私は信じられない思いで彼を見上げる。 あなたは、どうしてこんなに優しいのですか⁉
けれど、琥珀様は不愛想に顔を背けた。
「勘違いするな。不味い肉を食いたくないだけだ。少しは肥えろ、紗良」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、その瞳には、私が今まで誰からも向けられたことのない、静かな温度が宿っていた。
私は震える手でお箸を取り、初めて温かい食事を口にした。




