聖草は甦る
再び駱駝を借りて、紫闇は砂狼神を祀る神殿へと向かう。王都・ザハラにほど近い小さなオアシスの傍に巨大な神殿がひっそりと建っていた。
灼熱の砂漠を抜けた先──淡い朱色の砂岩で造られた巨大な神殿が現れた。陽光を浴びて橙に輝く外壁には、象形文字と砂漠の獣の彫刻が刻まれている。紫闇が足を進めるほど、風に磨かれた威厳が、じわりと肌へ迫った。
紫闇は駱駝の手綱をゆるめ、思わず息を呑んだ。砂漠の旅路で荒れた肌を撫でる風が、神殿の近くではどこか湿り気を帯びている。周囲の砂は細かく締まり、わずかに白い光を返していた。
砂狼神・シャフラールを祀る地は、たとえ周囲が灼熱の荒野であろうと『息づいている』。神が守護する土地は、砂が眠らず風が迷わぬ、という言い伝えが、ふと胸をよぎった。
駱駝が低く鳴き、紫闇の胸の奥に懐かしいざわめきが浮かぶ。この神殿を訪れるのは久しぶりだ。小さくなった太陽が、砂岩の壁に濃い影を落とし、紫闇の心にも知らず静かな緊張が宿った。
重い扉をくぐると、砂の匂いと神聖な香の入り混じった空気がふわりと押し寄せ、自然と呼吸が深くなる。
高い天井の小さな開口部から光が差し込み、金色の霧となって広間全体を満たしていた。
壁際では数名の下働きの女性たちが静かに働き、紙を擦る音だけが神殿の静謐を破る。
そして中央には古い石造りの祭壇──水盤に満たされた澄んだ水が、砂漠の生命の象徴のように輝いていた。
祭壇の前には祈りを捧げている一人の巫女の姿がある。紫闇は祈りを捧げる巫女の背に、どこか既視感のようなものを覚えていた。紗越しに見える輪郭、指先の細やかな震え、祈りに呼応してわずかに揺れる空気──どれも遠い昔に見た情景と重なる。
神殿特有の、時間が緩やかに沈むような静けさが胸に染み込んでいき、紫闇はふと旅の疲れを思い出した。砂漠の喧騒とはまるで違う、柔らかな静寂が、まるで心を包み込んでくれるかのようだ。紫闇は彼女の祈りが済むまで待った。
長いような短い時間。巫女が伏せていた顔をあげる。その頃合いを見計らって、紫闇は声をかけた。
「相っ変わらずお堅いわねぇ、アンタは」
「その声は……!?」
巫女が弾かれたように振り返る。何枚もの紗に隠された菫色の瞳と紫闇の琥珀色の瞳がかち合った。紫闇は艶冶と微笑む。
「久しぶりだねぇ……砂狼の巫女・アリサ」
巫女の唇が震える。
「貴女……サリナ、ですの?」
「いろいろあってね。今は紫闇って名乗ってるのさ。今後はそっちでお呼び」
しかし、彼女は嫌そうに眉根を寄せた。呆れと安堵が入り混じった、懐かしい反応だ。
「……お断りしますわ。サリナは、サリナですもの」
「あぁ、そうかい。ったく、昔から人の言うこと聞かないよねぇ、アンタもガルハーンも……」
舌打ちせんばかりに忌々しげな言葉に、巫女・アリサは笑ったようだった。
「貴女も変わりませんのね、サリナ。安心しましたわ」
久しぶりの再会にも関わらず、二人の呼吸はどこか昔のまま馴染んでいた。アリサのまっすぐな優しさは、紫闇にとって救いだった。だからこそ、こうして向かい合うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だが同時に、昔とは違う『距離』も紫闇は感じていた。自分が背負ってきた旅の年月と、アリサが神殿で積み重ねた年月──交差しない道を歩んできたのだ。
「アンタもね、アリサ。でも、今回は旧交を温めに来たんじゃないよ」
「え?」
目を丸くするアリサに、紫闇は本題に入った。
「聞いたよ。シハーブが枯れかけてるそうじゃないか」
「それは……」
アリサは菫色の目を伏せる。異国の血が混じる彼女の瞳は、昔から神秘的な優しい色合いをしていた。
「ねぇ……アタシに見せておくれでないかい? そのシハーブを。枯れたヤツでいいからさ」
「──!」
驚くアリサに、紫闇は続けた。
「アンタも知ってるだろうけど、アタシは世界中を回った呪術師だ。アンタたちが気づかないことでも、アタシなら気づけるかもしれない──その可能性に賭けてみたいのさ」
束の間、紫闇とアリサの視線が交錯する。アリサはやがて小さなため息をついた。
「……なにやら事情があるのですね。わかりました。案内しますわ」
「助かるよ」
案内されたのは、神殿の奥に設えられた温室である。アリサの説明によると、ここの空気は年中温暖で少しだけ湿潤に整えられているのだという。
「へー……」
「って、サリナ。巫女修行のときにも聞いたはずですわよ?」
「あいにくと記憶にないねぇ」
紫闇の態度は飄々としていて、本当か嘘かわからない。彼女は昔からこうだ、とアリサは思った。
「それで……シハーブはどこにあるんだい?」
「……目の前にあるのが、そうですわ」
「へ?」
紫闇は思わず目を丸くした。目の前の鉢には黒く萎びた植物が植えられている。それも何個も。彼女はひと目でその正体を看過した。
「間違いない……こりゃ毒だね」
「なんですって……!?」
驚愕するアリサに、紫闇は黒く萎びた植物を指し示した。
「よく見なよ。まるで焼け焦げたみたいに枯れてるだろ? 自然の枯れ方じゃない」
「自然の枯れ方でなければ、どうやって……?」
紫闇は記憶を辿るように顎に手を当てた。
「外国には『除草剤』と呼ばれるものがあるのさ。触れた部分だけが最初に黒く縮む。水分を吸う毒はね、枯れるというより『焼ける』のさ。見た目がそのまんまだろ?」
「そんな……」
「……それにね。温室の湿度なら、本来ここまで黒く縮む前に『変色の兆し』が出るはずなんだよ。これは明らかに薬をかけられた枯れ方だね」
シハーブの枯れた原因は人為的な毒の散布によるものだった。その事実は、敬虔なる巫女・アリサに強い衝撃を与えたようだ。
紫闇はキョロキョロと周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、声をひそめた。
「実はさ……」
紫闇はひと呼吸おき、アリサの顔をまっすぐに見る。紫闇はアリサに砂哭と『アズラの民』の話をした。毒使いである『アズラの民』がこの件に関わっているかもしれない、と。
「で……でも神殿に仕える人間は、皆、身元の確かな方々ばかりですわ」
「うん。でも、言っただろう? アシュマール族にも内通者が潜伏していたんだよ。ここにアシュマール族出身の者はいないのかい?」
アリサがなにかに気づいたように、口元を押さえた。
「……一人だけおりますわ。でも……信じられませんわ。あの方が、なんて……」
「証拠がありゃ嫌でも信じるさ……で、誰なんだい?」
アリサはしばらく唇を震わせた。だが、やがて誰の名を挙げるかを覚悟したように、静かに口を開いた。
紫闇はその名を聞くなり、細く息を吐いた。
「……なるほどね」
*
その日の夜、神殿ではシハーブの復活を砂狼神に祈る儀式が、急遽執り行われることになった。
祭壇の前に、関係者が勢揃いする。広間に立ちこめる香煙は、いつもよりわずかに重い。紫闇は鼻腔を抜ける香りの中に、微かに焦げた草の匂いが混じっていることに気づいた。聖なる儀式の場に似つかわしくない、乾いた気配だ。
関係者たちは互いに視線を交わし、緊張を隠しきれずにいる。誰も口には出さないが、この場に『犯人』が紛れ込んでいるという事実が、全員の背筋をわずかに強張らせていた。
紫闇は、儀式を仕切る大司祭の目の動きをじっと観察した。老齢のはずの目は驚くほど鋭く、広間を見渡すたびに、罪を暴く炎のような光を帯びて揺れている。
(……見落とせば、この国の未来が潰える……)
紫闇は肩の力をほんの少しだけ抜いた。場を乱さず真実を暴くには、焦りは禁物だ。息を整え、静かに機を待つ。広間の沈黙が限界まで張りつめた、その瞬間──浄めの儀が始まった。
「身に帯びる瓶と道具はすべて浄めを受けます」
神官がそう言うと、皆、それぞれに手持ちの用具や聖水を入れる小瓶を差し出した。件の人物も渋々小瓶を差し出したようだ。
紫闇はその小瓶の沈殿に気づき、目を細める。
「へぇ……ずいぶん面白い沈殿だこと。ねぇ、これ、アンタたちの聖水、こんな沈殿出たっけ? 小瓶の外にも粉がついているしねぇ」
そう言われて神官が小瓶を検めると、確かに小瓶の外に白い粉状の残渣がついていた。
「司祭様、これはなんですか?」
神官にそう尋ねられたのは、中年の女性司祭だった。こういう状況に慣れていないのか、すでに顔色が悪い。
「これは……」
喘ぐように呼吸しながら言い訳を探すその女性司祭に、紫闇は畳みかけた。
「そういえば、今日はおかしな話を聞いたんだよ。シハーブの枯れ方が、どうも人為的なものなのではないか、ってね。その小瓶、怪しくないかい?」
「!」
神官の顔色が変わる。小瓶と女性司祭を見比べて、信じられない、とでもいうような顔をしている。
「わ……わたくしの小瓶が……? し……知らぬ間に誰かが……!」
そう叫んだ女性司祭に、紫闇は呆れたようにひとつため息をついた。
「往生際が悪いねぇ……でも、真実は嘘を庇っちゃくれないよ。ものは試しさ。シハーブ以外の植物で、ひとつ試してみようじゃないか」
「し……しかし……」
まだ半信半疑な神官に、紫闇はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫さ。試してみて違ったら、アタシを名誉毀損で好きなように罰すりゃいい。だが、もしその小瓶の中身が除草剤だった場合──ほら、さっきから手が震えてるじゃないか」
「くっ!」
そこまでだった。除草剤という核心を突く言葉に、中年の女性司祭は紫闇に背を向けて、脱兎の如く逃げ出したのだ。
だが、神殿の出入口にはあらかじめ事情を説明してあった聖騎士たちが待機していた。女性司祭はあえなく捕まり御用となったのだった。
「その小瓶の中身、サリナの言う通り、試してみよ」
指示を出したのは、それまで沈黙を貫いていた老いた大司祭だった。神官は慌てて温室から植物の鉢をひとつ持ってきた。香りからすると薄荷のようだ。
神官の震える手が、小瓶の中身を薄荷に垂らす。薄荷に雫が落ちた途端、葉面がじわりと波打ち、次の瞬間には黒く硬直していた。焦げた草の匂いが、薄く立ちのぼった。
「なんと……サリナの言葉は真であったか!」
重い沈黙が降りた。その沈黙を破ったのは、捕縛された女性司祭だった。
「おのれ……いきなり現れて、何者なのだ、貴様は!」
だが、紫闇は飄々として挨拶した。
「そうねぇ。この中じゃあ、はじめましてなのはアンタと他数人くらいだったものね……アタシは流れの呪術師・紫闇さ。ま、呪術師・サリナって言ったほうが、この国では通りがいいんだけど」
女性司祭が目を剥いた。
「なっ……! 貴様が、あの悪名高いサリナだと!? 我がアシュマール族にまで押しかけてきた図々しい売女め!」
だが、紫闇は気にも留めなかった。
「あーら、負け犬がなんだか吠えてるわねぇ……アンタ以外の『アズラの民』は壊滅したよ。アンタが最後の一人さ」
「なんだと!? う……嘘だ……!」
紫闇は小さく肩を竦めた。
「嘘じゃないさ。どうやら首長のアズハルは自らの死に恐怖して、心臓麻痺を起こして死んじまったらしいし……アンタも観念して罪を償うんだね」
彼女の言葉に、女性司祭は膝から力が抜けたようによろめいた。
「そんな……」
一族の壊滅がそれほど衝撃だったのか、それとも彼女の『族長』が自らの死を恐れて恐怖死したことに失望したのか、女性司祭はそれ以降はすっかり大人しくなって連行されたのであった。
「……まさかシハーブの一件が人災であったとは」
「しかし、いまだシハーブは枯れたまま……いったいどうすればよいのか……」
神官たちが口々に不安を吐露する中で、紫闇はとびっきり明るく言ってのけた。
「大丈夫さ! なんてったって、この神殿には稀代の大巫女・アリサ様がいるんだし!」
「もう、サリナったら……」
アリサが苦笑する。その表情には強い哀しみが滲んでいた。アリサは胸元の数珠をそっと握りしめ、静かに目を伏せた。
「思想を洗脳されていた可能性があるならば……彼女もまた、迷い傷ついた魂だったのでしょう。しかし、聖なる薬草・シハーブを枯らすとは言語道断。彼女に代わって、シャフラール様に赦しを請わねばなりません」
「……そうだね」
害を為した者にすら慈悲深いアリサ。紫闇の脳裏に、巫女修行時代、誰よりも仲間を大切に慈しんでいたアリサの姿がよみがえる。
そんな彼女だからこそ──神託は彼女を巫女に選んだのだろう。かつてサリナだった紫闇は、そう思った。
***
温室にて、皆が見守る中、巫女・アリサが静かに膝をつき、枯れ果てたシハーブへ掌をかざした。
古代語の祈りが温室を越えて神殿にまで響く。風のはずのない密閉された空間で、ふ、と草の周囲だけに、静かな風が生まれた。
祈りが頂点に達した瞬間──温室の空気が音を失った。『音の消失』は一拍だけで、すぐに淡い振動が空気を震わせ、光が砂をなぞり、古代の紋様を浮かびあがらせた。
次の瞬間──枯れ草から鮮やかな緑が噴き出すように広がった。人々は息を呑み、誰もが言葉を忘れて跪いた。
誰かが震える声で呟いた。
「……砂狼神様の、御業だ」
感動に打ち震える人々の一方で、紫闇は冷静にこの状況を観察していた。
(こんな復活、普通はあり得ない……)
そう思いながらも、シハーブは確かに息を吹き返していた。実際に起きている現象は否定できない。そして、きっとこれが、シハーブが神殿でしか育たない理由でもあるのだ。
まるで流星が煌めくように光を散らすシハーブの鉢を、アリサはそっと手に取ると紫闇に手渡そうとした。
「持っておいきなさいな。これが必要だったのでしょう?」
「でも、決まりは……?」
戸惑う紫闇にアリサはクスクスと笑った。
「シハーブは、この国を救うためにこそ存在するものですわ。貴女が持っていくのが、いちばん理に適っています」
それに、とアリサは微笑んだまま続けた。
「貴女のお陰でシハーブは復活したんですのよ? シャフラール様もきっとお許しくださいますわ」
「ん……ありがと」
アリサの微笑みの奥に、確かな寂しさが揺れていた。
またしばしの別れだ。否、もしかしたらこれが永遠の別れになるかもしれない。旅をしていれば、当然そういうこともあり得る。そう思うと、別離の哀しみが紫闇の身体を突き動かした。
「サリナ……?」
紫闇は両手を目一杯に伸ばし、シハーブの鉢ごとアリサを抱きしめた。
「……元気でね。アタシの大事な幼馴染」
アリサはやれやれと苦笑すると、紫闇をギュッと抱きしめ返した。
「貴女こそ、元気でいてくださいまし、サリナ。新しい名前も、とっても似合っていますわ」
「ありがと」
旅人と巫女──二人の距離は、再会したときよりも遠く、しかし心は近かった。紫闇はシハーブを抱え、振り返らずに歩き出した。
振り返らない背中こそが、二人が選んだ別れの形だった。
2025/12/18
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