死を謳う老人
翌朝。一緒に行くと言い張って聞かない紫闇をどうにか説き伏せて、白雅は一人で──いや、竜神と二人で駱駝に乗って出発した。
目指す小さなオアシスの町は、アシュマール族の集落から北西の方向にある。
白雅は駱駝の背で揺られながら、耳にまとわりつく風の音だけを聞いていた。紫闇を説き伏せたときの彼女の表情がふと脳裏をよぎる。
──アイツには悪いことをしたな
紫闇の目に浮かんだ悲しみの影が、胸のどこかに貼りついたままだ。彼女は白雅を守りたいと言ったが、それは違う。守られるだけの存在にはなりたくなかった。紫闇自身の未来を、ここで危険に縛りつけたくなかった。
だからこそ一人で行かなくてはならない。紫闇を危険に晒したくない自分のために。そう自分に言い聞かせるように、白雅はひとつ息を吐いた。これでよかったのだ。
砂漠の陽炎の向こうに、オアシスの町が揺れていた。駱駝の足音が町の手前で砂に吸い込まれるように感じた。陽に焼けた砂の匂いの奥に、鉄のような苦い匂いがわずかに混じっている。風の流れが途切れ、耳が詰まるような圧が白雅の胸を押した。
だが、白雅は黙々と駱駝を進め、昼前には町へ到着した。
町の空気は淀んでいた。熱が渦を巻くはずの昼に、ヒヤリとした影ばかりが漂っている。その冷たさは風ではなく、町そのものから滲み出ているようだった。家屋の影には人の気配があるのに、誰も目を合わせようとしない。
かつては賑わっていたであろう広場には、干からびた噴水だけが残り、底に溜まった砂が風に浚われた。白雅の胸に、説明のつかぬ重さがのしかかる。
「よっと……」
町の入口で駱駝を降り、手綱を引いて歩く。市場には客の姿がなく、店主らしい老人だけが虚ろな目で白雅を見送った。まるで生者を見ていないような濁った目が、白雅の背にまとわりついた。
ふと、ある路地に差しかかったとき、竜神が語りかけてきた。
『この町には多くの悪意が渦巻いておる……本当に『アズラの民』に会う気か?』
白雅は小声で呟いた。
「なんだよ、今更……その話は昨日もしただろう? 璙」
『それは……そうだが……』
竜神の歯切れは悪い。
「ここまで来て、会わないってのはナシだ。璙や紫闇には悪いと思うけど……やっぱり私は人助けがしたい」
『……そうか』
一瞬の沈黙。それから竜神はため息をついた。
『ならば、次の角を左に曲がれ。その近くから、悪意に満ちた呪の気配を強く感じる』
「……! でかした、璙。ありがとな」
喜ぶあまり白雅は気づかなかった。竜神の声がいつもより重く沈んでいたことに。
言われた通り、白雅は次の角で左に曲がった。そこはなぜか行き止まりになっており、石壁の前では数人の人相の悪い男たちがたむろしていた。
白雅は一瞬ためらった。喉が乾く。だが、覚悟を決め、ハーリドから聞いた合言葉を小さく囁いた。
「……すべては死告天使の御名のもとに」
男は目を細めると、ついてこい、と仕草で合図をした。しかし、向かう先は行き止まりで、目の前には石壁が立ち塞がっている。
男は無言で壁に手を伸ばすと、石壁の一部に触れた。石壁がわずかに軋み、内部の闇が裂け目からゆっくり滲み出した。
すると、途端に壁の一部が動いた。なんと回転扉になっていたのだ。扉の向こう側には降りる階段が続いている。
「入れ。駱駝は預かっておいてやる」
「……わかった」
男たちに駱駝を預け、白雅は石の回転扉をくぐった。背後で大きな音がして、振り返ると最初の男が扉を閉めたところだった。男は提灯を手にしていた。
「こっちだ。ついてこい」
男の足音は妙に軽い。まるで人間を地下に誘うことを『日常』としている者の足取りだった。
男の背を追いながら、白雅はそっと呼吸を整えた。階段を降りるにつれ、空気が湿り、土の匂いが濃くなる。壁に触れれば、ざらついた砂が指に付く。逃げ場のない一本道──油断すれば一瞬で命を奪われる構造だった。それでも歩く速度は落とさない。ただ、竜神の気配だけを自分の中心に置くように、意識を研ぎ澄ませた。
言われた通り、男のあとをついて目の前の階段を降りていくと、やがて階段が途切れ、道が平坦になる。地下隧道に入ったらしい。
隧道の奥からは、どこか湿った衣擦れのような音が微かに響いていた。生き物ではない、もっと無機質な『なにか』の気配だ。自分の呼吸がひどく耳に近い。音を立てた覚えのないなにかが、奥でゆっくり擦れた。白雅は足音を殺しながら、無意識に剣の柄へと指を寄せた。
男はなおも歩き続けた。置いていかれないよう、足早にその背を追う。どこをどう歩き回ったのかはわからないが、しばらく進んだあと、わずかな風が頬を撫でた。地上が近いのだ。今度はのぼる階段が見えてきた。
階段をのぼり、地上に出ると、そこは広い廃墟のような場所だった。朽ちかけた建物は、半ば砂に飲まれていた。地上の光が、容赦なく白雅の目を刺す。
「おい、客だ」
男がひと声かけると、崩壊した建物の陰から数人の男たちが姿を現した。
「連れは?」
「いない。こいつと駱駝だけだ。族長様は?」
「今呼びに行かせている」
廃墟の静けさは、砂の音すら吸い込んでしまったかのようだった。建物の隙間から差す光は細く弱く、まるでこの場所だけ時が止まっているように感じられる。白雅は背筋のこわばりを意識して解き、微かに息を整えた。
しばらくして、やや奥まった廃墟から一人の人影が姿を現した。
「よく来た。異邦からの客人よ」
静かな声がした。しわがれたその声を、白雅はどこかで聞いた覚えがあった。いつ、どこで聞いたのだったか。奇妙に胸がざわついた。
「儂の名はアズハルという……ザハラの町でまみえて以来じゃな。凶兆の『白い子供』」
それは、小柄で枯れ木のようにやせ細った老人だった。年齢は百歳に近いのかもしれない。影だけが先に伸びてくるようだ。骨ばった手には、病的なほど血の気がない。ただ、その落ち窪んだ目だけが爛々と、砂漠の夜の獣のように光っていた。
『凶兆じゃ……!』
ザハラでスリの少年を捕まえたとき、そう叫んだ老人ではなかったか。白雅がアズハルと名乗った老人をマジマジと見つめていると、老人はニタリと笑ったようだった。
「どうやら思い出したようじゃな。それにしても『白い子供』とは珍しい……十三年前に闇市で買い損ねて以来じゃ」
「──!」
乾いた手の感触が、十三年の砂を破って突然現在に触れた。
白雅は目を見開いた。十三年前、闇市、人買い。符号が次々と合致していく。十三年前のあの夜、六歳だった白雅を買おうとしたのは、この男だったのだ。
(コイツが……!)
砂を噛む匂い。粗末な麻布。六歳の自分の腕を引いた乾いた手──記憶の残滓がこめかみを刺す。
十三年前──砂の夜、泣き腫らした自分の手首を掴んだ、あの骨ばった感触。白雅の喉は一瞬、乾いたように動かなかった。胸の奥で、あの日置き去りにした感情が暴れ出そうとする。湧きあがるのは、恐怖か、憎しみか。
だが、ここで呑まれれば判断を誤る。白雅は奥歯を静かに噛み、視線だけを鋭く持ちあげた。憎悪ではなく、見極めるための眼差し。それが今の自分だと、言い聞かせるように。
白雅は意図的に息を吐いた。迷いは、剣の重さになる。彼女の沈黙を、アズハルは気にも留めずに語りかけた。
「アシュマール族に会いに行ったらしいな」
「!?」
なぜそれを知っているのだろうか。尾行されていたとは考えにくい。ならば、考えられる可能性はひとつだった。
「どうやらアシュマール族に、アンタらの内通者がいるっぽいな」
「クックック……ご名答」
物陰から一人の男が姿を現す。白雅はその男に見覚えがあった。夜半の襲撃は白雅たちの手引きではないかとあのとき言い出し、周囲を扇動した男だった。
「……なるほどな」
白雅の顔に理解の色が浮かぶ。つまり、白雅たちの事情はアズハルに筒抜けということだった。
「だったら、遠慮は要らないってわけだな。なんで王家を狙う? 旅人まで巻き込んで……なにがしたいんだ?」
開き直った白雅は本題へと単刀直入に切り込んだ。だがアズハルは、待っていました、とばかりに口元を笑みの形に歪ませた。
「毒は力。恐怖は支配じゃ……死を知る者こそ世界を導ける」
「勝手なことを……本当にそう思っているのか? だとしたら呆れたな。恐怖で人を支配することはできない。それは過去の歴史が証明している。アンタは神にでもなったつもりか?」
「そうとも。儂は砂毒の力で、この国の新たなる神となる」
老人の声は震えていた。自信の震えか、狂気ゆえかは判別できない。どこまでも独善的で利己的な思想に、白雅は呆れ返ってしまった。
「……馬鹿馬鹿しい」
だが、アズハルは白雅の返答を気にした様子もなく語り続けた。
「砂漠は、生きる者を選ぶ。儂はただ、その声を聞くだけよ」
それこそが『正義』だとでも言わんばかりに、アズハルは狂気に満ちた目を白雅に向ける。そのあまりのおぞましさに、白雅は思わず吐き捨てた。
「そんなものは誰も望んでない。迷惑だ」
「じゃが、実際に王太子は砂毒に冒され、死の床についておる。もはやこの国に未来はない。儂の作った砂毒への恐怖に従う以外にはな」
もはや話し合いは意味をなさない。白雅はそう悟った。この老人は砂毒という妄執に取り憑かれている。修正は不可能だった。
「長老会と手を組んだらしいな。王族を始末したら、次は長老会というわけか?」
白雅の言葉に、アズハルは感心したような素振りを見せた。
「ほう……よく知っておるではないか。そうか、ガルハーンじゃな? お喋りな男じゃ。そこまで気づかれてしまったからには仕方がない。消えてもらうしかなさそうじゃのう」
アズハルのそのひと言で、周囲の男たちが一斉に殺気立ち、ジリジリと包囲網を狭めてくる。
だが、白雅はまったく動じないばかりか、逆にのんびりと待つ構えだった。
「気をつけろ! コイツは長老会直属の兵を一網打尽にしたヤツだ。尋常じゃない強さだぞ!」
アシュマール族の内通者が叫ぶ。だが、男たちは意にも介さなかった。所詮は小柄な女と侮ったのだろう。
男たちが射程圏内に入った、その瞬間。白雅はひと呼吸すら置かず、砂の上を滑るように駆けた。双剣が、光でも影でもない『無音の軌跡』を描く。
双剣が空気を裂いた瞬間、砂が小さく舞いあがる。十人近くいた男たちが倒れたのは、その一拍後だった。
「な……なんと……!」
いつ剣を抜いたのかさえもわからなかった。
「だから言ったのに!」
内通者の男はそう叫んで逃げ出した。だが、それでも白雅の射程圏内からは出ていない。
白雅は懐から取り出した短刀を勢いよく投擲した。短刀はあっという間に逃げる男の背に迫り──またひとつ、骸が転がった。
「残るは一人、か……ずいぶんと呆気なかったな」
双剣の血糊を拭き取って、ひと振りを鞘に収めた白雅は、もうひと振りをアズハルの首筋に突きつけた。アズハルは腰が抜けたのか、尻もちをついて動けないでいる。
「ひっ……!」
「吐け。王太子が冒された砂毒からは呪術の気配がした。他の毒を使って砂毒の毒性を強化したな? なんの毒を使った?」
情の通わぬ冷酷な声。恐怖が飽和したのか、アズハルはベラベラと話し出した。
「本来、砂毒に冒された者は、ほとんど苦しむことなく眠るように黄泉へと旅立つ……じゃが、そこに蛇毒と蠍毒を用いて砂毒の毒性を強化することを儂は思いついた。死の質を変えれば、王族と民衆に『恐怖の種類』を使い分けられる」
アズハルは箍が外れたように喋り続ける。
「すなわち、蛇毒で強化すれば、じわじわと長く苦しみ死に至り、蠍毒で強化すれば、即死に至る……新たに生み出された砂毒を儂は『砂哭』と名付けた」
「砂哭……」
それが新型砂毒の名前か。白雅はその名を脳裏に刻んだ。
「そうじゃ。砂が泣くときに生まれ、すべてを砂へと還すもの……砂哭の名がふさわしい」
白雅はなんの感動もなく尋ねた。
「そうか。解毒剤はどこにある?」
だが、アズハルは嘲笑うかのように引き攣った笑声を漏らした。
「……解毒剤など存在せぬわ。砂哭に冒されし者すべて、苦しみ死するが運命」
その狂気に満ちた瞳を一瞥して、白雅は口を開いた。
「……嘘だな」
「!」
白雅には医術の心得がある。かつては薬師に師事したこともあり、薬作りにも詳しかった。
「強い薬を作るときには、あらかじめ中和剤を用意しておく。薬と毒は紙一重。毒を作る者は、必ず自分のために『逃げ道』を残す。そういう顔だ、アンタは」
その冷たい声音と、首筋に突きつけられた剣が少しずつ肌に押しつけられるのを感じ取ったアズハルは、慌てて白状した。
「じゃ……じゃが、今ある解毒剤の数には限りがある。儂を殺せば解毒剤の製法は永遠に闇の中じゃぞ!?」
だが白雅は微塵も動じなかった。
「構わない。アンタ如きの脳みそで作れた薬なら、私の仲間はもっと上手くやる。アンタは死んで被害者たちに詫びろ」
それを聞いたアズハルは跳びあがらんばかりに恐怖した。アズハルの胸はわずかに上下し、肩は痙攣するように震えている。
「解毒剤は儂が出てきた廃墟の中じゃ! そこにニ本だけ予備が……!」
そこまで口にした瞬間、老人の心臓が悲鳴をあげたようだった。胸を押さえ、痙攣し、そのまま砂の上に崩れ落ちる。
近づいて脈を確認すると、とっくに事切れていた。どうやら恐怖で心臓麻痺を起こしたらしい。
あっけない終わりだ──白雅は胸の奥で、安堵とも失望ともつかない感情が渦巻くのを感じた。
***
白雅は廃墟にあるアズハルの研究室に踏み込んだ。中は意外なほどに整然としており、白雅はその空間を一瞥するだけで必要そうな物を素早くより分けていく。
解毒剤と思しき小瓶が二つ。砂毒の標本。ページがところどころ破れた記録帳──いずれもアズハルの研究内容を知る手がかりだ。
なにかを急ぐようでいて、指先だけは異様に落ち着いていた。
砂毒──『砂哭』に冒されたと思しき跳鼠がいるのを見つけ、跳鼠の体格をざっと見積もる。人間の体重換算に置き換え、投与量を逆算する。
こうした計算は慣れたものだった。白雅の手は、躊躇なく二本のうち一本の小瓶を傾ける。
砂漠で手に入る器具には限界がある。それでも無駄のない動きで量を計り、跳鼠に解毒剤を投与する。その手際は『齧った程度』という域を、明らかに越えていた。
かつて旅の医術師にしごかれた夜のことを思い出す。分量を誤れば、誰かの命を奪う──その緊張が、指先を落ち着かせた。
跳鼠の胸の上下が、先ほどよりわずかに規則的になっていく。白雅はその変化を確かめ、静かに息をついた。毒性のものではない──そう判断するには充分だった。
見つけたものを回収し、白雅が再び地下隧道を通って地上に戻ると、男たちは回転扉の前で律儀に駱駝を見張っていた。
返り血を浴びて戻った白雅の姿を見た男たちはいきり立ち、刃を抜いて飛びかかってきた。
だが、白雅の剣が閃いたのは、彼らの足が砂を蹴るより先だった。短いやりとりだけで決着はついたが、白雅はほんのわずかに息を整えた。
白雅は荷物を駱駝に積み込み、自らも駱駝の背に騎乗する。そのとき、不意に喉の奥が刺すように痛んだ。
砂の乾きではない。灼けつくでも冷えるでもなく、金属の味だけが喉奥に張りついた。ひと呼吸ごとにじわりと広がり、胸の奥へ沈んでいく。白雅は首もとを押さえ、目を細めた。
竜神がなにか言いかけた気がしたが、風に掻き消されていった。
──嫌な予感だけが、静かに白雅の背を撫でていく
2025/12/15
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