砂漠の夜の火
天幕の内側は外の夜気とは別世界だった。乾いた香草の束が天井から吊られ、焚きしめた薬草の香りが淡く満ちる。
壁際には飴色に磨かれた呪具が静かに並び、天幕の空気をどこか厳かなものにしていた。
白雅は思わず足を滑らせぬよう、慎重に歩を進めた。
ハディーヤが子供たちの手を借りて簡易寝台の上に腰をおろす。薬草の匂いが白雅の鼻先を掠めた。
「さてと……ハクガ、『風』の申し子よ。よく訪ねて来てくれたねぇ。うちの若いモンたちが失礼したこと、まずは謝らせておくれ」
その穏やかな言葉に、白雅はつい頬を緩めた。
「いいんだ。気にするな。それより、身体、少し無理してるんじゃないか? 歩き方を見てて、どうにも気になった」
ハディーヤが目を丸くする。
「おや、わかるのかい?」
「昔、ちょっとだけ医術を齧っててさ。よく見りゃ手が震えてるし、その前傾姿勢と歩幅の小ささがね。それに、立ち上がった瞬間の揺れ……あれは腰か膝を庇っている動きだ」
自分の痩せた手をさすりながら、ハディーヤは苦笑した。
「よく見てるねぇ……そうなのさ。まぁ、こればかりは歳さね。天命には逆らえんよ」
それからハディーヤは紫闇を見た。
「……サリナも、久しぶりだねぇ。アンタが弟子入り志願で飛び込んできて、追い払ったとき以来かい」
紫闇の頬がピクリと引き攣り、視線が一瞬だけ泳いだ。忘れたくても忘れられない黒歴史なのだろう。
「……本っ当に、よく覚えてること」
ハディーヤは朗らかに笑った。
「弟子入りのためだけに、うちの部族まで単身乗り込んで来たのは、あとにも先にもアンタだけだったからね。よぉく覚えているよ」
紫闇は眉間を押さえる。
「あの頃は……若かったのよ」
彼女の脳裏に、灼けるような砂を踏みしめながら天幕へ突撃していった若き日の自分の姿がよぎる。門前払いを食らい、なお食いさがって三度追い払われた屈辱。
砂を蹴立てて突撃する若き紫闇の姿が脳裏に浮かび、白雅は喉の奥で笑いを噛み殺した。
「へぇ。でも、なんで駄目だったんだ?」
不思議そうに小首をかしげる白雅に、ハディーヤはおかしそうに苦笑した。
「うちの呪術は門外不出だからねぇ。一族の人間にしか伝えられないのさ」
「……なるほど」
それは紫闇とて引きさがらざるを得ない状況だ。おそらくだが相当粘ったのに違いない。こうしてハディーヤの記憶に刻まれているくらいなのだから。
聞くところによると、ハディーヤは村の中で最高齢の女性というだけではなく、『占いババ』としての地位を確立しているらしく、その的中率は限りなく高いのだそうな。
「凄いな。紫闇みたいだ」
白雅の感想に、ハディーヤはホッホッホと声をあげて笑った。
「どうやらあれからまた腕を磨いたようだねぇ、サリナ」
「当ったり前でしょ。伊達に呪術師を名乗ってるわけじゃないんだから」
紫闇はむくれたようにそっぽを向いた。白雅としては珍しい紫闇が見られて、少しニマニマしてしまう。
「それで……アンタたちは砂毒と『アズラの民』について知りたいんだったね」
ハディーヤの言葉に、白雅は表情を引き締めた。
「……! そうなんだ。教えてくれるのか?」
「あぁ。うちの一族を守ってくれた礼に、アタシが知る限りのことを教えよう」
「助かる! ありがとう」
素直に礼を言う白雅に、ハディーヤは目元を和ませた。
「ほんによい風だ……実はね、我々アシュマール族と『アズラの民』はもともとひとつの一族だったのさ」
「!」
ハディーヤは焚き火の火を箸のような棒でつつき、パチリと火の粉が弾けた。
彼女は語った。薬草と呪術に長けたこの一族に、いつしか、毒に魅入られた者たちが現れ始めた。
彼らは毒を崇め、毒を誇り、毒を力の象徴とした。自らを『死告天使』の使いであると称し、様々な毒物を扱って、ローラン国の歴史に幾度となく介入しようとしてきた。
「だけど、時の権力者たちは、これまで『アズラの民』を相手にしてこなかった。理由は簡単さ。それまでの『アズラの民』が扱う毒には、きちんとした解毒薬が特定されていて、脅威でもなんでもなかったんだよ」
ハディーヤは遠い目をして続ける。
「昔、アズラの民の者どもが城都に毒霧を流したことがあったよ。夜半、街路の明かりが青く滲み、異変に気づいた兵士たちが次々と喉を押さえて倒れた。だが、そのときも解毒薬があったからね……翌日には皆、笑って働きに戻ったもんさ」
白雅は息を呑んだ。今の砂毒とは『質』が違う。その実感が骨の奥へ沈んでいく。
「だがね、いつの頃からか、彼らは砂漠に昔から存在した砂毒に目をつけた。砂毒の解毒薬は──今のところ見つかっていない」
「──!」
それは治療の手立てがないということだった。
「……ハディーヤ殿、砂毒とはそもそもなんなんだ?」
白雅の問いに、ハディーヤは目を細めた。
「……『光る砂』さ」
ハディーヤは遠い昔を思い返すように、ゆっくりと目を細めた。
「砂の中に一部『珪光』と呼ばれる細かい粒子が混ざっていることがある。まるで乾いた砂に溶けた灯のようなものでね、それが身体に入り込むと発症するんだ。本来なら風土病みたいなものだったのさ。それを『アズラの民』は抽出して、毒として成立させた……それが砂毒だよ」
彼女は静かに目を閉じた。当時の光景を思い出すように。
「珪光はね、夜になるとほんのわずかに光るんだよ。砂の海に埋もれた小さな星みたいにね」
ハディーヤの声はどこか懐かしげだった。白雅は思わず想像した。月明かりに照らされた砂丘で、風に浚われながらも淡く瞬く粒子の群れを──白雅の胸に小さな震えが走った。美しさと危うさが同じ呼吸で迫ってくる。
「そうだったのか……」
思わぬ話が聞けて、白雅は感心するしかない。
「……しかし何故、今頃になって砂毒と『アズラの民』の話が出てきたのかねぇ」
不思議そうに首をかしげるハディーヤに、白雅は目を丸くした。
「そうか、ハディーヤ殿は事情を知らないのか。実は……」
白雅はザハラの王宮でナディルにした説明を、もう一度繰り返した。ここ一ヶ月で増えた『声の出ない旅人』たち、町の医術師たちの話、王太子の助言、長老会の陰謀──。
白雅の話が進むにつれ、ハディーヤの眉間にはゆっくりと深い皺が刻まれていった。
「……そういうことかい。それは……迷惑をかけたね。すまないねぇ」
謝罪するハディーヤに、白雅はもう一度目を丸くした。
「どうして謝るんだ? ハディーヤ殿が悪いわけじゃないだろう?」
「でもねぇ……元はうちと同じ一族だから」
しかし、白雅は頭を振った。
「悪いのは砂毒を悪用しようとしている『アズラの民』と長老会だ。ハディーヤ殿が気に病む必要はないよ」
ハディーヤはどこか困惑したように白雅の言葉を受けとめて、次いで破顔した。
「ほんによい風が吹いておる……だからこそ、『光』もアンタとともにあるのだろうねぇ」
「……光?」
聞き返した白雅に、ハディーヤが頷いた。
「あぁ。アンタと常にともにある強い光さ。心当たりがあるだろう?」
光とともにある──その言葉が、なぜか胸の奥で静かに響いた。心当たりといえば、ひとつしかない。
「……璙、か」
得たりとばかりにハディーヤは笑った。
「大事におしよ、ハクガ。それから……サリナ」
突然呼ばれて、紫闇が思わず身構える。
「なに?」
「アンタ、『水』の気配がしているよ。近いうちに誰かを癒すことになるんじゃないかねぇ」
ハディーヤの言葉は意味がよくわからない。
「……具体的には?」
だが、ハディーヤは笑って首を横に振った。
「それを言ったら、面白くないだろう? あぁ、でもひとつだけ、忠告しておこうかね……急がば回れ、さ」
ハディーヤはそう言うと、砂漠の夜気を読むように一度だけ、天幕の入口から見える地平線へ視線を送った。
「……はぁ?」
紫闇は意味を掴みかねて眉を寄せるが、ハディーヤはそれ以上なにも言わない。
さらにわけがわからなかった。
***
一転して白雅たちを歓待する空気になったアシュマール族の集落では、ささやかではあるが宴が催された。
焚き火の香ばしい匂いが夜気に混じり、笛の乾いた音色が砂漠に吸い込まれていく。光の揺らぎの中で、歌い踊る娘たちの影が柔らかく波打った。それは賑やかではあるが、どこか神聖なものに見えた。
「ハクガ殿! こちらに来て話さないか?」
ハーリドが白雅を呼ぶ声がする。白雅は紫闇にひと言断ってから、ハーリドの席へと向かった。
白雅が歩くごとに、焚き火の明るさが背後へと遠のき、笛の音も砂の向こう側へ吸い込まれていくようだった。
「ハーリド殿、お招きありがとう」
「なんのなんの。ハクガ殿は一族を守ってくれた英雄も同然だ。さ、こちらに座って楽にされよ」
白雅が腰をおろすと、背後から子供たちの笑い声が風に乗って届いた。焚き火の明かりが砂に反射し、遠くの天幕がユラリと揺れる。
賑わいの中心から一歩外れるだけで、世界の色が静かに変わるのを白雅は感じた。さっきまで金色に揺れていた世界が、砂の夜気に溶けて淡い藍へ変わっていく。
ハーリドは白雅に山羊の乳を勧めた。ありがたく受け取って口をつける。棗椰子の蜜が溶けているのか、舌の上でほのかな甘みが広がる。
「ところで、ハクガ殿はどうやって武の腕を磨いたのだ? 昨夜見せてもらった剣技は実に鮮やかだった」
ハーリドの問いに、白雅は苦笑して事実を口にした。
「剣の師匠がよかったからな……赤鴉という名の武人で、私はその人に育てられたんだ」
すると、ハーリドが跳びあがるようにして驚きをあらわにした。
「なんと! セキアといえば伝説の武人ではないか。なんと羨ましい……」
伝説? と疑問に思った白雅だったが、それは口に出さなかった。
「ハディーヤ婆さんから話は聞いた。私にできることがあれば、なんでも言ってくれ。力になるぞ!」
あまりの対応の変化に、白雅は苦笑を隠せない。焚き火の熱気が揺れ、どこか遠くで笛の音が細く続いていた。
そんな賑わいから半歩だけ距離を置くように、白雅は声を落とした。
「それはありがたい。そういえば、ハディーヤ殿には訊きそびれたのだが、『アズラの民』に会うにはどうしたらいいだろうか?」
すると、ハーリドは周囲をキョロキョロと見回すと、白雅に顔を寄せて声をひそめた。
「会いに行くつもりか? 危険だと思うが……」
「お気遣い、感謝するよ。だけど、最初に言ったように友が砂毒に冒されているんだ。こうしている間にも、症状は進む……『声の出ない旅人』も増え続けていることだろう。だから、私は行かなければ」
白雅の決意が固いと悟ったハーリドは、うーん、と大きく唸り、それから観念したように口を開いた。
「わかった……だが、行くなら一人で行くんだな。シアン殿まで命の危機に晒したくなければ」
「……! わかった。教えてくれ」
ハーリドは懐から地図を取り出すと、大まかな位置を指で示した。それは、ここからそう遠く離れてはいない、小さなオアシスの町だった。
「ここだ。ヤツらに会うには合言葉がいる」
囁かれた合言葉に、白雅はほんの少しだけ口元をへの字に曲げたが、すぐに頷いてハーリドに感謝を伝えた。
「教えてくれて感謝する、ハーリド殿」
ハーリドは一瞬ためらったが、結局は疑問を口にした。
「……なぁ、ハクガ殿。聞いてもいいか?」
「?」
「どうしてそこまでするんだ? ただでさえ『アズラの民』に会うのは命懸けだ……正直に言えば、理解が追いつかない。命を懸けてまで砂毒事件に関わろうだなんて……普通じゃ考えられない」
沈黙が降りた。ハーリドの言葉は正しい。わざわざ自ら死地に赴くようなものなのだから。
白雅はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決して口を開いた。焚き火の爆ぜる音がやけに大きく聞こえた。
「……ハーリド殿。これは、誰にでも話すことじゃないんだが……実は、私は『白い子供』なんだ」
「……なんと!」
ハーリドが驚きをあらわにする。白雅は外套の頭巾を少しだけずらして、ハーリドに紅い瞳を見せた。彼が息を呑む気配が伝わってくる。だが、ただ驚愕の感情があるだけで、その目に忌避や恐怖の色はなかった。
「こんな容姿だからこそ、昔から周囲に忌み嫌われてきた。石を投げられたときの冷たい痛みだけが、今も鮮明に残っている。しかし、そんな私を赤鴉は拾って育ててくれたんだ。私はその恩を返したい。だが、赤鴉はそれを望まない。だから、周囲の人々に還元することにしたんだ」
「!」
ハーリドの顔に、一瞬だけ影が差した。尊敬と、そして痛ましいものを見たような複雑な色だ。だが、白雅は気づかない。
「私一人の命で大勢の命が助かるのなら安いものだ、とどうしても考えてしまう……誰にも言われていないのに、いつの間にかそう考える癖がついてしまった。気づいたら、それが当たり前になっていたんだ」
それが間違っているのかどうか、考えたこともなかった。お陰で紫闇に叱られた。白雅は自嘲気味に笑った。その笑みは、胸の奥を押し込めるような痛みを帯びていた。
「それは……」
ハーリドが絶句する。自分でもいつからそう思うようになったのかはわからない。ただ、この道を外れれば、どこかで誰かが涙を流す──その可能性を見過ごすことがどうしてもできなかった。
『守られた命なら、次は誰かを守りたい』
ふと胸に浮かんだ言葉を、白雅は飲み込み、静かに呼吸を整えた。
「暗い話をしてしまって、すまないな。戻るよ」
「ハクガ殿」
立ちあがり、歩き出した白雅の耳にハーリドの声が届いて、白雅は足を止めて振り返った。
「?」
「……必ず無事に戻られよ。シアン殿と、砂毒に倒れた友と──セキア殿のためにも」
「……あぁ。ありがとう」
自分たちの席に戻ると、紫闇がいなかった。見れば、焚火の周りの賑わいに加わっているではないか。あの適応力の高さは紫闇の長所だった。
『白雅』
頭の中で竜神の声がする。
『本当に『アズラの民』に会いにゆくのか?』
それは珍しくもどこか不安の滲む声だった。
「なんだよ、璙。それがどうかしたのか?」
『いや……』
言い淀む竜神に、白雅は「眠いのか?」と的外れな心配を返す。
竜神は答えなかった。己の感情の変化に戸惑っていたからだ。
なんだろう、この感覚は。昔は当たり前に抱いていたはずの感情の名を、今の自分は思い出せない。長い眠りの中で忘れてしまったのだろうか。
白雅が自ら危険に飛び込んでいくことなど、わかりきっていたというのに。なぜ今更、行ってほしくない、などと思うのか。
竜神は小さく息を潜めた。胸の奥を掠めるざわめきは、風に似ていながら風ではない。砂の粒が擦れ合う音とも違う。もっと柔らかく、しかし掴みどころのない感覚だった。
白雅が向ける無邪気な気遣いが、どうしようもなく胸に引っかかる。
『……危うい』
言葉にならない思いが、脳裏を掠めた。この旅のどこかで、白雅の心に見えない影が差し始めている──そんな直感があった。それがなんなのか、竜である自分ですら掴めない。
だが、ただひとつだけ確かだった。白雅が『行く』と決めた道なら、自分は否応なく伴うしかないということ。
竜神はそっと目を閉じた。胸のざわめきの名を知らぬまま、ただ風の音を聞いていた。
2025/12/15
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