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招かれざる客

 ザハラの町で食料や水を買い込み、白雅と紫闇は旅支度を調える。市場には香辛料の匂いが漂い、遠くで水売りの声が響いていた。


 いつもなら旅の支度は即座に済ませる白雅だが、この日の市場にはどこか落ち着かない空気があった。


 商人たちの声は賑やかなのに、どこか張りつめていた。目が笑っていない──そんな気配が白雅の足を止めた。


 砂嵐の予兆か、それとも別の不穏か。白雅は無意識に周囲へ目を巡らせていた。


 旅支度を整えた白雅は、肩に下げた水袋の重みを確かめるように手を添えた。


「……よし、これで準備はできた。あとはアシュマール族の位置だけど……紫闇、なにかわかったか?」


 白雅が尋ねると、紫闇は水晶の振り子を地図の上で軽く揺らし、その微細な振れ幅に目を凝らしている。


 紫闇が集中しているあいだ、白雅は市場の喧噪をぼんやりと聞きながら、地図に記された幾筋もの移動経路を思い浮かべていた。遊牧民の道筋は一定ではない。ほんの少し読み違えるだけで、日の入りまでに追いつけなくなる。焦りはしないが、気を抜く気にもなれない。


「うーん、あと少しなんだけど……なにかが邪魔をしてるんだよねぇ。探索避けの術でも使ってるのかしら?」


 ブツブツと独り言を口にする紫闇に、白雅は思わず鸚鵡返しに尋ねていた。


「探索避け?」


 白雅は眉を寄せる。聞き慣れない言葉だ。


「そうさ。呪術による位置の特定を阻むような術があるんだよ。有名なところでは『蛇の目』とかね」


 『蛇の目』とは、悪しき視線を弾く術である。なるほど、と白雅は思った。思ったよりも手強い相手なのかもしれない。そんな予感が白雅の胸を掠める。王太子の身に施された呪の『手口』が、ふと脳裏をよぎった。


「じゃあ、どうするんだ?」

「逆に考えてみるのさ。遊牧民ほどの規模が探索避けの術を行使して移動するなら、その分の空白地帯が生まれるはず。彼らは駱駝や山羊、それから羊なんかを飼っているはずだから、そいつらがいるのに遊牧民の気配がしないとなりゃ……」


 言葉を切って紫闇はニヤリとした。白雅も得たりとばかりに笑い返す。


「……確かに、そりゃ怪しいな」

「だろう?」


 紫闇は鼻先で笑い、指先で振り子を軽く弾いた。


 ご機嫌な紫闇は、すぐにアシュマール族と思しき遊牧民の位置を特定してみせた。


「見つけた!」

「さすがだな、紫闇。じゃあ、さっそく出発だ」

「えぇ」


 こうして、遊牧民アシュマール族を訪ねる旅が始まった。


 陽はまだ高く、砂漠の空気は揺らぐように熱をこぼしていた。町を離れ、王宮から借り受けた二頭の駱駝にまたがると、風の音すら変わる。風が吹くたび、砂の粒が細かく肌を撫でた。


 熱の匂いと乾いた土の香りが混じり合い、肺の奥をじんと刺す。人の気配が遠ざかるたびに、旅に出た実感がじわりと胸に満ちた。


 白雅は首筋に流れた汗を拭うと、遠くにかすむ地平線を見た。どれだけ進んでも揺らぎ続ける金色の世界──砂漠の息遣いには、どこか不思議な静けさがあった。


 駱駝の足取りは思いのほか確かで、一歩ごとに乾いた砂を押し固めるように進んだ。


「……ほんと、どこを見ても金色だねぇ。日暮れまでに辿り着けりゃあいいんだけど」


 紫闇が日除けの布を押さえながらぼやく。それでも、その瞳は周囲の観察を怠らない。白雅は遠くの地平線を見つめたまま、小さく息をつく。


「彼らは季節ごとに移動するって言ってたしな。今は季節の変わり目……移動されたら厄介だ」


 砂漠を進むと、鳥の影ひとつない空の下で、白雅は思わず王宮での出来事を振り返っていた。


 ナディルの苦しげな顔が脳裏に浮かぶ。あのとき胸に走った冷たい痛みが、まだ消えていない。彼を蝕む砂毒の気配。間に合うのだろうか、という焦燥が、胸の奥で鈍く疼く。


 横を走る紫闇が、ちらりと白雅を見た。


「白雅、また考え込んでるねぇ」

「……悪いクセだよな」

「別にいいさ。だけど、考えても仕方ないときは、風景でも眺めて気分を戻しな。砂漠って案外、癒されるんだよ?」


 紫闇の言葉に、白雅は小さく笑った。緊張と焦りが混じる旅路でも、こういう何気ない会話は不思議と心を軽くする。


 駱駝に揺られ、ときどき紫闇が位置を確認する。旅は順調に進んだ。


 太陽が傾き始める頃、風が変わった。熱を孕んだ荒い風から、乾いた草の匂いが混じった風へ。


「その砂丘を越えたら、そろそろ見えてくる頃だよ」


 紫闇の言葉に白雅は背筋を伸ばす。長い砂漠の風に、かすかに生活の匂いが混じる瞬間──それは見えないはずの『人の営み』を告げる、確かな合図だった。


 胸の奥がゆっくりと高鳴る。探し当てたという達成感だけでなく、この先に待つであろう困難を白雅は直感していた。


 紫闇が指し示す先には、ひと際大きな砂丘があった。風が変わったということは、これが最後の砂丘ということだろう。


 白雅は駱駝の首筋にそっと触れ、速度を落とす。


「……紫闇、あれ見てよ」


 白雅が指さす先、砂丘の向こうに雲のような薄い煙がたなびいていた。焚き火の煙だ。砂漠の真ん中で、それは人工の証である。


 耳を澄ませると、風の合間にかすかな家畜の鳴き声が混じっていた。


「やっと、見つけたかもね。アシュマール族」


 紫闇が目を細める。白雅は胸の奥に小さな緊張が走るのを感じながら、駱駝を導き、煙の方へとゆっくりと進んでいった。



 最後の砂丘を越えた先に、その集落はあった。移動用の天幕や簡易的な住居がいくつも点在し、羊や山羊の群れがゆったりと動いている。


 風に揺れる天幕の布がかすかに音を立て、焚き火の煙が細く立ちのぼっていた。


 天幕の間を小さな影が走り抜け、乾いた笑い声が一瞬だけ風に消えた。


 白雅が想像していたよりも規模は小さい。それでも、ひとつひとつの天幕に生活の匂いがあった。乾いた革の匂い、焚き火にくべた草の焦げた香り、小さな子供が走り回った足跡。


 視線を巡らせるたび、砂の地面に残る数々の生活の痕跡が白雅に『ここに暮らす人々』を強く意識させた。


 その静かな空気を破るように、鋭い声が飛んだ。


「何者だ!?」


 見れば、見張りと思しき数人の男たちが、武器を構えてこちらを睨んでいる。


 白雅は駱駝を降りると、よく聞こえるように声を張った。


「私は白雅という。連れの名は紫闇。アシュマール族を訪ねてきた。族長に目通り願いたい」

「!」


 見張りの一人がすぐさま知らせに走った。残りの男たちは、武器を構えたまま一歩も動かず、こちらの息遣いすら数えているかのように視線を張りつけていた。


 白雅と紫闇は身じろぎもせず立ち尽くした。ここで不用意に動けば警戒が跳ねあがる──そう判断して、ただ静かに砂の音を聞いた。


 やがて、天幕の中から一人の大柄な男性が姿を現した。長身で逞しい体躯を持つ壮年の男性は、ゆっくりこちらに歩いてくると、距離を保って歩みを止めた。


「私が族長のハーリドだ。我らが一族に何用だ、お客人」


 近づいた瞬間、砂漠の冷気とは別の、よく鍛えられた戦士特有の気配が肌を掠める。ハーリドと名乗ったアシュマール族の族長に、白雅は身を引き締めた。この男、強い。


「お初にお目にかかる、ハーリド殿。私は白雅だ。彼女は紫闇。砂毒と『アズラの民』について、話を聞きに来た」

「──!」


 その瞬間、緊張が走った。ビリビリと空気が震えるような、そんな強い緊張感だった。


 ハーリドが静かに問いを発した。


「……何故?」


 白雅も静かに返す。


「苦しむナディルを助けるために。そして多くの『声の出ない旅人』たちを救うためだ」

「……」


 痛いほどの沈黙が降りる。ハーリドは長く白雅を見据えた。

 外から来た者を不用意に受け入れれば、一族を危険に晒す。だが、他人のために動ける人間を、彼は久々に見た気がした。


 やがてハーリドは白雅たちにクルリと背を向けた。


「……じきに日が暮れる。今夜だけは泊めてやろう。野垂れ死にでもされたら寝覚めが悪いからな。その代わり、明日の朝には出ていってくれ。俺から言えるのは、それだけだ」


 ハーリドは見張りの男たちにいくつかの指示を出すと、二度とこちらを振り向くことなく天幕に戻っていった。


 見張りの一人に案内されたのは、枝と粗布で組まれた簡易の小屋の中だった。中には羊たちが静かに群れを作り、駱駝も隅に縄でつながれている。


 白雅と紫闇は互いに顔を見合わせた。招かれざる客扱いであるのは明らかだ。しかし、砂漠の冷たい夜風に吹かれるよりはずっと安全だった。


***


 夜の砂漠は昼間の熱気をすっかり失い、空気は冷え切っていた。白雅と紫闇は肩を寄せ合い、時折、白い息が宙で溶けていくのを眺めた。


「ねぇ、白雅……」

「ん?」

「アタシたち、明日どうなるんだろうねぇ。族長は一晩だけって言ってたけど」

「……どうにかする。話を聞き出す方法はあるはずだ」


 その静かな声に、紫闇は苦笑した。


「ほんと頼りないようで頼りになるねぇ、アンタは」


 白雅は小さな体を羊の群れに寄せ、モフモフとした毛皮の温もりを借りて息をついた。


「……あったかいねぇ、これなら夜も耐えられそうだ」


 紫闇は笑みを浮かべながらも、目は緊張で細められていた。


 羊たちは安心したように首をすり寄せ合い、周囲の草のざわめきに耳を澄ませている。


 二人の吐く息が夜空に白く漂い、遠くの焚き火の光が砂丘に淡く反射していた。


──夜半


 穏やかな静寂は長くは続かなかった。砂丘の向こうから、かすかな音が忍び寄る。風に混じって、革の擦れる低い音と、武器が微かに触れ合う金属音がした。


 白雅は瞬時に羊から離れ、紫闇の肩に手を置いた。


「……敵だわ」


 紫闇の声は冷たく、緊張で硬く震えていた。白雅もまた、胸の奥で鼓動が速まるのを感じる。


 白雅はふた振りの剣を、紫闇は弓矢をそれぞれ手に取ると、簡易小屋を飛び出した。


 闇の中で何者かが駆け抜ける影がちらつき、火を焚いたかすかな光が揺れる。それぞれの得物を手に、白雅たちは身構えた。


 ハーリドが叫ぶ声が聞こえる。


「もっと松明に火を灯せ! 同士討ちを防ぐんだ」


 砂漠の夜風に乗って、緊張の音がすべてを支配する。向けられる強い殺気に反応して、気づけば白雅は地を蹴っていた。風に紛れるように砂漠へ躍り出る。


 白雅の足が砂を軽く弾いた瞬間、その姿は霞に紛れるように消え──次に姿が現れたときには、もう敵陣の中心にいた。


 一陣の風が駆け抜けたように、周囲の砂粒がわずかに舞いあがった。


 闇の中で敵影が近づくたびに、白雅の感覚は研ぎ澄まされていく。砂の上を踏みしめる微かな音、鉄の匂い、風の乱れ──すべてが敵の動きを告げていた。


 双剣による斬撃の軌跡だけが、松明の赤い光をかすかに反射して残る。

 彼女の動きは常人とは比べものにならず、訓練された戦士でさえ反応できない。


 紫闇も弓矢で援護した。夜だというのにその弓射は正確無比。放たれた矢は綺麗に白雅だけを避けた。その連携には言葉すら要らなかった。


 やがて叫び声が消え、静寂が訪れる。白雅の吐息は白く、胸が熱を持って小刻みに上下していた。砂に足を取られた分、いつもより脚がわずかに重い。胸の奥が熱く脈打つ。戦いの余韻が身体の底からじわりと押しあげてくる。

 無理もない。斬り伏せた数がどうであれ、身体は冷たい夜気に触れればこうも震える。


 倒れた敵の装備に、見知らぬ紋章の刺繍を見つける。それは胸の奥をざらつかせる、不穏な意匠だった。


「白雅、無事かい!?」


 紫闇が叫ぶ。白雅も大声で返した。


「……あぁ。紫闇のほうこそ、怪我ないか?」


 白雅が無事だと悟って、紫闇は安堵に胸を撫でおろした。


「アタシは大丈夫! 集落の人たちに少し負傷者が出たみたいだけどね」

「──! すぐそっちに行く!」


 白雅は走って紫闇と合流する。気づけばハーリドが驚いた様子で近くまで来ていた。

 

「お前たち、いつの間に……!?」


 ハーリドはしばし白雅を見つめたまま黙り込んだ。一族を統べる者の目だった。


「あ……」


 白雅は思わず固まった。自分たちが招かれざる客なのをすっかり忘れていた。


 ハーリドはしばし口を閉ざし、倒れ伏す襲撃者たちと白雅を交互に見比べた。警戒の影がゆっくりと薄れ、代わりに戦士としての敬意がその瞳に宿った。


「……見事だ。あれだけの数を、この短時間で……」


 暗闇で不利なのはお互い様。だが初動が遅れたとはいえ、白雅と紫闇だけで敵を殲滅してしまった。


「俺の目測では、襲撃者は三十人はいたはずなんだ。それなのに、お前たちときたら……」


 白雅たちが自らとアシュマール族を守るために戦ったことを悟ったハーリドは、族長として、そして一人の戦士として、彼女たちを認めてくれたようだった。


 しかし──。


「おかしいじゃねぇか、ハーリド。そいつらが来た夜にデカい襲撃なんて……そいつらが手引きしたんじゃないのか?」


 一人の男が口を開いた。そうだ、そうだ! と他の男たちからも非難の声があがる。ハーリドが彼らを静めようと口を開いた、その瞬間のことだった。


 風がひとつ、音を変えた。


「──ずいぶんと清冽な風だねぇ……」


 老女のしわがれた声が夜気を震わせた。


「こんな美しい風を連れてくる子は滅多にいないよ。お嬢さん、アンタだね?」


 男たちは振り返り、自然と口を閉ざした。まるで叱られる子供のように。


 白雅も紫闇も、その場の空気の変化に息を呑んだ。ハーリドは目を丸くした。


「ハディーヤ婆さん、出てきて平気なのか?」


 静かに風が変わった。香のような、乾いた草の匂い。その気配に振り向いた男たちの間から、小柄な老婆がゆっくりと姿を現した。左右と後ろを子供たちに支えられている。


「はじめまして、お嬢さん方……アタシはハディーヤというんだ。この一族の最高齢者さ」


 白雅はハディーヤと名乗った老婆に、丁寧に頭をさげた。


「はじめまして、ハディーヤ殿。私は白雅という。こっちは紫闇」


 すると、ハディーヤが嬉しそうに目を細めた。


「そうかい……『風』のお嬢さんの名はハクガというんだねぇ。それに、シアンとやら……アンタ、サリナだろう?」


 見覚えのあるハディーヤの顔に、紫闇はわずかに泣き笑いの表情をした。


「……覚えていたのかい? ハディーヤ婆さん。元気そうでなによりだわ」


 ハディーヤは一族の男たちを一瞥すると、呆れたように手を振った。


「お前たち、なにをボサッとしているんだい? このお嬢さん方をアタシの天幕に案内しな」

「ハ……ハディーヤ様が、そう仰るなら……」


 ハーリドの決定には不服そうだった男たちも、ハディーヤの言うことは尊重するようだった。


 案内されたハディーヤの天幕は集落で一番大きな天幕だった。外側から見える影だけでも、そこがただの住居ではなく、一族の『拠り処』であることが伝わってくる。


 白雅は足を踏み入れる前、ふと冷えた夜気を振り返った。さきほどまで張りつめていた空気が、戦いの名残を含んだまま砂丘の向こうへ流れていく。


 紫闇が小さく肩をつつく。


「行こ。たぶん、ハディーヤ婆さんなら……話してくれるよ」


 白雅は頷いた。ハディーヤの眼差しには、砂漠の長い時を知る者だけが持つ、深い静けさが宿っていた。


 二人はゆっくりと天幕の布をくぐった。天幕の奥には淡い灯りが揺れ、その光は砂漠の夜とは違う、どこか柔らかな温度を帯びていた。

 その光を見た瞬間、白雅の胸の奥で、かすかな安堵と新たな緊張が同時に揺れた。

2025/12/15

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