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砂上に差す光

──その日の夕刻


 お別れの挨拶をしに、王宮へと向かった。白雅たちは旅立ちの支度を整え、王宮の外へと出た──そのとき、空気が湿った布のように重く沈み、肌にザワリと警告めいた寒気が走った。


 次の瞬間──地平の彼方から濁った砂の壁が巻き上がり、王宮の尖塔すら霞ませるほどの暴風が襲いかかった。

 それは、旅立ちの足を無慈悲に止めるほどの、大砂嵐だった。砂塵が建物の壁を叩きつけ、視界はたちまち茶色に染まる。


 もともとこの国は小規模の砂嵐が多いことで有名で、年に数回は街が砂に半分埋もれるほどだ。


「これは……『リーフ・ラーヒル』かい。珍しいね」


 その耳慣れない言葉に、白雅は首をかしげた。


「なんだ? それ」


 紫闇は記憶を辿りながら説明した。


「十五年に一度くらい現れる『大砂嵐』を、ローランでは『リーフ・ラーヒル』と呼ぶのさ。前回は……確かアリサが巫女に選ばれた年だったかねぇ」

「そうなのか」


 感心する白雅に、紫闇は微笑みを返した。


「この国では昔から、砂嵐は『歩く神』だといわれていてね。怒れば家を飲み込み、喜べば砂の下に眠る宝を見せてくれる──そんな伝承さ。巫女候補だった頃は、これを見るたびに少し背筋が伸びたものだよ。もしかしたらこれも……」


 そこまで彼女が口にしたときだった。


『鋭いな、紫闇。確かに、この大砂嵐からは何者かの意思を感じる。おそらくは砂狼神・シャフラールとやらのものであろう』


 口を挟んだ竜神に、紫闇は感心して渦巻く大砂嵐を眺めた。


「へぇ。もしかして、このローラン国の淀んだ空気を浄化しようとでもしてくれてるのかねぇ?」


 紫闇の軽口に、竜神はしばし考える風情だった。


『……そうかもしれぬ。しかし、悪い意図は感じぬゆえ、収まるまで待つのがよかろう』


 竜神の言葉に白雅はあっさりと頷いた。


「そっか。それは仕方がないな。どっちみち宿に泊まるつもりだったから、今夜はここに泊めてもらって、出発は明日の朝にしよう」


 砂毒事件を解決に導いた立役者として王宮の客間に泊めてもらえることになり、旅支度も簡単に済ませた白雅たちの部屋に、今はナディルとライラが遊びに来ていた。


「凄い風だなー」


 大音量の風の音とともに、建物が揺れているのを感じる。白雅は暢気な感想を口にした。


 王宮の回廊では、侍従や兵士たちが窓を覆いながらも、どこか祈るように静かに嵐の行方を見守っていた。

 十五年に一度の現象に立ち会えることを畏れつつ、どこか神聖な予兆のようにも受け止めているのが伝わってくるようだ。


「おそらくシャフラール様が、浄化と追悼をしておられるのだろう」


 ナディルの言葉に、白雅が首をかしげた。


「浄化と……追悼?」


 ナディルは頷いた。


「砂に埋もれたものは、いずれ風によってその姿を見せる……死者もまた旅を続けるのだと、我らは信じている」


 砂狼神も砂の中を走り、迷った者を導くと言われている。それはまさにローラン国の死と再生の神話だった。


 だからこそ、砂嵐のあとは胸がざわつくんだ。ナディルはそう思った。


「砂毒事件では多くの旅人たちが犠牲となった。我々生き延びた者は、そのことを忘れてはならないということだ」


 そう結んだナディルに、白雅も紫闇も複雑な表情を浮かべた。


 白雅は胸の奥に、乾いた痛みのようなものが走るのを感じた。砂漠に倒れた人々の影が、一瞬、脳裏をよぎる。忘れられない痛みこそ、旅を続ける理由なのだと改めて思わせられた。


 その微妙な空気に耐えられなくなったライラが、パチンと手を叩いた。


「あ、でも砂嵐のあとには珍しいものが見られることもあるのよ。たとえば『砂漠の薔薇』とか」


 聞き覚えのある名前に、白雅は目を見開いた。『砂漠の薔薇』とは、ある種の化合物が自然現象で、まるで薔薇のような形の結晶に成長した石のことである。


「なるほど、砂漠の薔薇か。話には聞いているが、実物はまだ見たことがないな」

「実はアタシもさ」

『我もない』


 竜神のひと言に、白雅と紫闇は思わず吹き出しそうになった。


「そっか、璙もないなら私たちにあるわけないな」

「そうねぇ。明日ちょいと近くで探してみるのもいいかもしれないね」


 楽しそうな白雅と紫闇に、ナディルは穏やかに尋ねた。


「今のは竜神様と会話をしていたのか?」

「いいなぁ、わたくしも会話してみたい」


 羨ましそうに言うライラに、白雅と紫闇はまた笑った。


「あぁ、二人には璙の声は聞こえていないのか」

「結構面白いわよ。璙王ったらわりとお茶目で」


 「狡いー」と頬を膨らませてむくれるライラに、白雅と紫闇はつい目を細めた。彼女の様子がとても可愛らしかったから。


「リョウオウというのが、竜神様の御名かな?」

「そう。璙は愛称」

「そう呼んでいいのは白雅だけなんだけどね」


 竜神を愛称で呼ぶという白雅の暴挙に、ナディルとライラはしばし固まった。二人は砂狼神を信仰するローラン国の王族なので信心深いのだ。


「……まぁ、我が国でいう巫女のような存在だと考えれば説明はつく、か」


 いち早く我に返ったナディルがそう結論づける。


「どういうこと?」


 ライラの疑問に答えたのは紫闇だった。


「神に愛されし乙女ってことさ」

「なるほどー」


 ライラの反応が白雅に似てきたかもしれない。紫闇はこっそりそう思った。


「どういう経緯で出会ったのだ?」


 その当然の疑問に、白雅がニヤッと笑って答える。


「これには深ーい物語があってだな……聞くか? 朝まで続くぞ」


 ナディルも負けじと口端を吊りあげた。


「いいだろう。望むところだ」


 二人の視線がかち合い、どちらも引く気がないのがひと目でわかった。


 その夜は、ライラがくたびれて眠りに落ちるまで、話は尽きることがなかった。



 夜明け前、長く荒れ狂っていた大砂嵐がようやく静かに息をひそめた。


 砂の海を覆っていた怒号のような風はやみ、代わりに、どこか遠い記憶の底から返ってきたかのような静寂だけが残った。


 風がやむと同時に、世界から音が消えた。その静けさを裂くように、朝の気配がゆっくりと満ちていく。


 王宮の外に出た白雅は深く息を吸い込む。ひんやりした空気が肺に広がり、心の奥でなにかが洗われていくようだった。


 やがて、砂漠の端からゆっくりと光が生まれる。薄紫がほどけ、金色がその上を滑り、静かに世界が始まりを取り戻していく。


 その光景に、白雅は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。夜の重さが砂に吸われ、かわりに新しい息が満ちていく。


 竜神がため息をついた。


『……この光は、ずいぶんと久しい』

「そっか」


 白雅は思わず瞳を細めた。光を受けたその笑顔は、眩しいほどに澄んでいて、竜神は一瞬、祈りを忘れた神のように言葉を失った。


「美しいな」

『……そうだな』


 竜神の声は、どこか遠くで揺れているようだった。その一瞬の間に、白雅が気づく。


「どうした? 璙」

『いや……なんでもない』


 これでローラン国ともお別れだった。


「……行こうか」


 白雅の声は、夜明けの冷たさを柔らかく溶かした。紫闇が隣で小さく頷く。ナディルとライラには昨夜のうちに別れを告げていた。


 砂原に、かすかな風の音が戻り始めた。嵐が去ったあとの静けさは、耳を澄ませば柔らかな囁きにも似ていて、世界そのものが深く息をつき直しているように思えた。


 歩き出そうとしたとき、白雅はふと足を止めた。乾いた砂の隙間に、あるものを見つけたのだ。


 砂漠の薔薇──夜明けの光を集めてひっそりと咲くその石を、白雅は膝を折り、指先でそっと砂を払った。


 結晶は朝日に濡れたように淡い光を宿し、角度を変えるたびに花弁の縁が金糸のように煌めいた。それは、まるで砂漠そのものが残した小さな置き土産のようだった。


 白雅は小さく息を呑んだ。


「ほら、見ろよ。紫闇、璙……ね、ちゃんと残ってた」


 まるで、砂の下で誰かが守っていたかのように。


「本当だ。偶然見つかるなんて、幸先がいいねぇ」


 竜神は、黙って石を見つめた。自然現象が創り出す神秘の薔薇を。


 ひと言も発さない沈黙には、どこかこの国との別れを惜しむような気配があった。旅を続けるのは人間だけではない──神もまた、その歩みに寄り添うのだと白雅はふと思った。


 竜神は長く息を吐いた。風とも溶け合うその息には、万象への静かな問いが滲んでいた。


『……世界は、まだ滅びを望んではおらぬようだ』


 竜神の言葉だけが砂原に沁みていく。その声には、神であるが故の人には分かちがたい寂しさと、わずかな安堵が混じっていた。


 砂漠の風がふわりと三人の背を押す。夜明けの道は、まるで新しい頁をめくるように静かに広がっていた。

2025/12/27

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