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白銀の咆哮

 白雅の視界の端で、空気がゆっくりと歪んだ。夜の砂漠に満ちていた冷気が一瞬で引き、代わりに肌を刺すような熱が吹きあがる。


 砂粒が細かな渦を作って舞い、まるでなにかに吸い寄せられるように黒い中心へと収束していく。息を吸うだけで胸の奥に圧がかかり、白雅は反射的に後退った。


 銀光が閃いた瞬間、重い大気が裂けた。舞いあがる砂の幕の奥から、巨大な影が身をもたげた。


 鱗は月光を反射して淡く光り、ひと振りした尾が大地を震わせる。兵たちの喉が一斉に鳴った。叫びとも息の詰まった音ともつかない、不規則な恐怖の音が夜気に吸い込まれていった。


 白雅に斬りかかろうとした兵の身体が、竜の尾の風圧だけで吹き飛ばされた。


「璙──」


 長大な身体が、白雅の前へ滑り込むように立ちはだかった。白銀の鱗は月光を受けて蒼く光り、その巨体は白雅をすっぽりと包み込むようだ。その姿は、神話の中の竜神そのものだった。


『白雅を害そうなど、この我が許さぬ──!』


 震えるような大喝が夜空に響き渡った。


「ば……馬鹿な……竜だと……!?」


 ライラの喉元に短剣を突きつけた隊長格の男が、竜神に視線を奪われて叫ぶ。その一瞬の隙を、白雅は見逃さなかった。


 地を蹴ると同時に、懐に隠し持っていた短剣を抜く。短剣が男の右手に突き刺さるのと、白雅がライラを奪還したのは、ほぼ同時だった。


「ぐわっ!」


 男が呻いて短剣を取り落とす。同時に紫闇も動いていた。落とした弓を拾い、ためらいなく男の脚を射る。男は再び呻いて地に倒れ伏した。


「ハクガ様!」


 ライラの身体を抱き寄せた瞬間、白雅の胸の奥に張り詰めていたなにかが音を立てて崩れた。


 細い肩が震えている。白雅の鼓動は異様なほど早く、耳鳴りが波のように押し寄せてくる。


 もし、あと数歩遅れていたら──その想像だけで、胃の底が冷たく縮こまった。


「……怖い思いをさせてすまない。大丈夫か?」


 ライラが小さく頷くのを確認してから、白雅は剣を拾い直した。震える指先が、自分の感情を白雅自身より先に語っていた。それが恐怖か、安堵か、自分でも判然としなかった。


 胸の奥では、いまだ残滓のような怒りと恐怖が渦を巻いていた。状況は収まったはずなのに、身体は戦闘の余熱を手放せず、呼吸もどこか浅い。


 ライラに怪我がないことを確認して、白雅は彼女を紫闇に預けると、隊長格の男の身柄を拘束した。


 やけに静かだと思い、他の兵たちは、と見ると、彼らは竜神という存在を本で知っていても、本気で信じてはいなかったのだろう。だが今、圧倒的な威圧と神性を前に、誰もが膝を折り、額を砂に擦りつけていた。中には、すすり泣きながら祈りの言葉を呟く者さえいた。


 砂上には、彼らが落とした武器がいくつも転がり、誰一人として拾おうとしなかった。肩を震わせながら、ただ竜神から視線を逸らすことだけに必死で、手の甲には砂が貼りついているのにも気づいていない様子だった。


 誰もが本能で理解したのだ。王命よりも、戦場の規律よりも、この存在の怒りに触れることのほうが遥かに恐ろしい、と。

 砂漠の夜に、彼らの荒い呼吸だけが哀れなほどに響いていた。


 白雅はため息をつくと、よく通る声で告げた。


「お前たちの悪行に、竜神様はお怒りだ。言え。お前たちは誰に、どんな命令を受けて我々を襲った!?」


 竜神も白雅の意図を察して、大音声で一喝した。


『答えよ!』


 すると兵たちは我先にと、口々に事情を語り始めた。彼らの話を要約するとこうだった。


「……つまり──お前たちは長老会の命令でここへ来たのだな? 我々が王宮に『毒』を持ち込もうとしていると聞かされて」

「は……はい! その通りです!」

「た……隊長も黙ってないで、なにか言ってくださいよ!」


 しかし、捕縛された隊長格の男は不貞腐れた表情でそっぽを向いたまま、沈黙を貫いている。コイツは真の事情を知っていると白雅は見た。


「……あいにくだったな。我々は王太子殿下の命により『解毒剤』を運ぶ途中だったんだ。つまり、貴様らは王太子殿下の命に歯向かった逆賊、ということになる」


 兵たちから一斉に悲鳴があがった。


「ひっ……そんな……!?」

「し……知らなかったんです……!」


 それはおそらく本当だ。だが、敵対した事実は事実だ。刑罰は免れない。


「だが、王太子殿下は慈悲深い。お前たちが真実を話せば、命だけはお助けくださるだろう」


 その言葉に、兵たちは縋るように答えた。


「なんでも話します!」

「誓って嘘は申しません!」


 彼らはどこまでも必死だった。


『……だそうだが、どうする? 王太子よ』


 竜神の声が厳かに尋ねた。白雅と紫闇は思わず顔を見合わせ、それから竜神に尋ねた。


「どういう意味だ? 璙」

『聞いた通りの意味だ。現在、王太子率いる直属部隊がこちらへ近づいてきておる。貴様らとのやりとりは逐一、王太子らへと届けておったのだ。もはや言い逃れはできぬ』


 白雅は少し困惑したように頬を掻いた。


「えーっと……ちなみにどこから?」

『白雅を害そうなど、この我が許さぬ、あたりからだな』


 心なしか竜神が胸を張ったように見えた。白雅はげんなりとため息をついた。


「……ほぼ全部じゃないか……やめてくれよ、そういうの」


 竜神からは静かな気配だけが返ってきた。返事がないのが、逆に恐ろしい。胸がむず痒く落ち着かず、白雅は歩きながら何度もため息をついた。


(あの状況、絶対に全部筒抜けだよな……)


 そう考えるたびに、顔の熱が引くどころか増していく。紫闇が後ろでニヤニヤしている気配を感じるのも腹立たしかった。


(……最悪だ。全部聞かれてたのか。どう言い訳しよう……)


 思いっきり嘘をついてしまったのに。


『心配するな。悪い気はしておらぬようだ』

「王太子の思考を読むなよ……」


 やはり人間である白雅と竜神である璙王の感覚は違いすぎる。白雅が頭を抱えたそのときだった。


「貴様ら、動くな! 王家への反逆罪で全員拘束する!」


 ナディルがようやく到着したのだった。


***


 王太子であるナディルの直属部隊が、兵たちの身柄を拘束し、隊長格を筆頭に全員牢へと連行する。


 ようやく安堵したのか、ライラがナディル目がけて飛び出した。


「お兄様!」

「ライラ、何故ここに!?」


 ライラが兄の腕に飛び込むと、ナディルは一瞬だけ目を見開き、すぐにその細い背を抱き返した。


 妹の存在に驚きを隠せないナディルに、ライラは必死に言い募った。


「ごめんなさい! わたくし、お兄様の力になりたかったの! ハクガ様とシアン様ばかりが頼られることに嫉妬して……本当にごめんなさい!」


 ライラの声が震えた。


「……わたくし、怖かった。でも……目の前で誰かが傷つくのは、もっと嫌だったの……」


 叱責の言葉が喉まであがったものの、震える肩に気づいた瞬間、それは静かに飲み込まれていく。白雅はナディルとライラの肩にそっと手を置いた。


「まぁまぁ、気持ちはわかるが、ライラ殿下は怖い思いをしたばっかりだ。まずは彼女の無事を喜んでやってよ」

「しかし……」


 それに、と白雅は続けた。


「ライラ殿下の弓には命を救われたよ。その点は褒めてやってくれ。ありがとな、ライラ殿下」

「ハクガ様……」


 そして、ライラにだけこっそりと囁く。


「お説教は、今度またじっくりな」


 その瞬間、ライラの表情が大きく引き攣ったのを紫闇は見たのだった。


 ナディルの手のひらがライラの肩を撫でるたび、彼女の呼吸は少しずつ整っていった。


「心配したんだぞ、ライラ」


 低く落ち着いた声とは裏腹に、その指先はわずかに強張っていた。


 ライラは兄の胸に顔を押しつけながら、白雅の名をそっと呟いた。憧れと感謝と、言葉にならない複雑な想いが入り混じっている。


 その声を聞いたナディルの眉がわずかに揺れ、彼なりの苦笑が浮かんだ。



──王宮にて


 複数の兵たちの証言により、長老会の面々には家宅捜索などを含む捜査令状が王より出された。


 捜査が始まるや否や、隠されていたはずの砂毒研究の証拠が雪崩のように見つかっていった。改良版砂毒である砂哭を使った王家転覆の筋書きも判明した。


 白雅は書類の山を見つめ、冷たい怒りが胸底から静かにせりあがるのを感じた。指先に力を込めすぎて、紙がわずかに皺を作る。それでも、怒りは収まらなかった。


 その日、長老会の大多数が王太子殺害未遂容疑と多くの旅人の殺害容疑、それから陰謀罪で投獄されたのであった。


──しかし、この騒動には、まだ続きがあった


「まさかハクガ様が女性だったなんて……」


 ライラは兄・ナディルの膝に頭をのせて、ふて寝していた。


「そうか、ライラは知らなかったのだな」


 ナディルの言葉は優しい。あのあと、白雅にこってりと絞られ、王族としての在り方などをコンコンとお説教されてしまったのだ。


 お陰で兄からは厳重注意だけで済んだのだが、ひょんなことから白雅の性別を知ってしまい、今のふて寝につながっている。


「女性なのに、あんなに格好いいなんて、反則だわ。わたくしのときめきを返してよ……」


 ぶつくさと文句を言う妹に、ナディルは苦笑を隠せなかった。


 命の危機に瀕したとき、自分を救い出してくれた白雅は、それこそ妹の目には勇者のように映ったのだろう。吊り橋効果も相まって淡い恋心を抱いていたに違いない。


「では、ライラはハクガ殿のことは嫌いになったのか?」


 ナディルの問いを、ライラは即座に否定した。


「あんなに格好いい方を嫌いになれるわけないわ」


 ライラは一度、ぎゅっと指先を握りしめた。


「同じ女性として……ううん、人として憧れるもの」

「そうだろう? ならば、そう落ち込むことはない。いつかはその胸の痛みも、よき思い出に変わることだろう」


 囁くようにそう告げるナディルの声は、とても優しい。ライラの脳裏に練武場での紫闇との会話が甦った。


『アンタのお兄さんは、アンタを本当に大切にしてるよ。そして、そんなナディル殿下を一番理解してるのは、きっとアンタさ。だから胸を張りな』

「そんなこと……わかっているわ……」

「そうか」


 ポツリと呟いた言葉を、どうやらナディルは自分への返事だと思ったようだ。


「……ねぇ、お兄様」

「ん?」

「わたくしのこと、大切?」


 膝の上から真摯に見上げてくる妹に、ナディルはその砂漠の朝日色をした瞳を優しく和ませた。


「……今更なにを言っている。お前が客人相手に粗相をしたときでさえ、私は強く叱れなかった。それほどに、お前を大切に思っている。ライラ」


 その言葉はまっすぐにライラの胸に響いた。


「わたくしもお兄様が大切なの……」

「あぁ、知っている」


 ナディルの大きくも繊細な手指が、ライラの青黒の艷やかな髪を撫でる。その手はどこまでもいたわりに満ちていた。


 ライラはそっと目を閉じた。兄の手の温もりが、不思議と胸の痛みを和らげていく。


──あぁ、わたくしが帰る場所は、いつでもここなのだ


「だから……お兄様には幸せになってもらいたい」

「そうか、ありがとう。私も同じ気持ちだ」


 兄妹水入らずで過ごす、穏やかな時間。ナディルは普段、感情を表に出さない。だからこそ、縁談を避け続けている理由も、ライラ以外にはほとんど語られない。


 兄はもう三十一歳。縁談が引きも切らないというのに、妹がまだ小さいから、という理由で断っているのを、ライラは知っていた。


 いつか兄に新しい家族ができるのならば、その相手は──。


 不意に扉の向こうから軽い足音が近づき、控えめに三度扉が叩かれた。


「失礼するよ。ナディル殿下、いるかい?」


 ナディルが返事をすると、入室してきたのは紫闇だった。


 今、まさに思い浮かべていた人物の登場に、ライラはつい、身体にかけられた掛布を引っ張って隠れてしまった。


「おやおや、かくれんぼかい? ライラ殿下。ずいぶんと嫌われたもんだねぇ」


 カラカラと明るく笑い飛ばす紫闇の言葉に、ライラは、違う、そうじゃない! と言おうとして、結局言葉を飲み込んでしまう。


「どうかしたのか? シアン殿」

「どうもこうもないよ。白雅がライラ殿下に言い過ぎた、って落ち込んでるから、二人の間を取り持ってやってくれないかい? って話に来たんだわ」


 ま、ここにその当人がいたけどね。紫闇はそう言って快活に笑った。その笑顔が本当に眩しくて、ナディルは思わず目を細めた。


「……大丈夫だ。ライラもきちんとわかっている。ハクガ殿には、心配ない、と伝えてくれ」

「了解。じゃあ、お邪魔したわね」


 本当に用件だけ告げて帰っていこうとする紫闇に、今度は焦れったくなってしまったライラは、兄のためにひと肌脱ぐことにした。


「ハクガ様にはわたくしから直接伝えるわ。どちらにおいでなの?」


 被っていた掛布を脱いだライラに、紫闇は嬉しそうに笑った。


「中庭さ」


 白雅の居場所を確認したライラは、コホンと小さな咳払いをすると、紫闇に告げた。


「お兄様を困らせたくはないの。わたくし、ハクガ様と仲直りしてくるわ。その間、シアン様はこの部屋から出てこないでくださる?」


 ライラの指示に紫闇は目を丸くした。


「へ? なんで……?」

「もう、鈍いのね! わたくしが恥ずかしいからに決まってるでしょ。いいこと? 絶対に出てきては駄目よ!」


 そう言うなり、ライラは兄の膝から起きあがると、中庭に向かって駆け出したのだった。


***


 ナディルと部屋で二人きりになると、空気の色が変わった。紫闇は急にその事実を意識して、どぎまぎしてしまう。


「シアン殿。妹が無理を言ってすまない」

「いやー……驚いたけどさ。まぁ、あの子なりになにか考えてるんじゃない?」


 沈黙。会話が続かない。これまでは仕事の話ばかりだったので、なにを話したらよいのか、そもそもわからなかった。


 沈黙を破ったのはナディルだった。


「よければ、こちらにきて座らないか?」


 ナディルの手は、先ほどまでライラが寝ていた彼の隣を示している。


「……じゃ、遠慮なく座らせてもらうよ」


 本来ならば、王族と同じ長椅子に座るなんて、礼儀的にはいただけない。だが、むげに断るのも忍びなかったので、紫闇はナディルと同じ長椅子に腰をおろした。


 距離は近いはずなのに、どこか心まで触れそうで触れない空気があった。


 紫闇はどこへ視線を置けばいいのかわからず、指先で裾をつまむ。ナディルは茶器を手にしていたが、ひと口も飲んでいない。沈黙は思いのほか重く、逃げ場のないほど静かだった。


 互いに呼吸の音だけが微妙に重なり、そのわずかな乱れが互いの緊張を伝え合っていた。言葉より先に、想いが部屋の温度を変えていくようだ。


「シアン殿」

「ん?」


 そのどこか緊張したようなナディルの横顔に、紫闇が違和感を覚えたのも束の間、ナディルは口火を切った。


「その、唐突にこういう話をしたら驚くかもしれないが……」


 ナディルは一度視線を落とし、言葉を探すように唇を閉じた。紫闇は息を呑んだまま動けない。


 紫闇の脳裏にある予感が生まれる。逃げられないと、本能が囁いた。


(あー……コレ、あかんヤツだわ……)


 心臓が、嫌になるほど自分の意志とは関係なく早まっていく。


 ナディルの視線が紫闇の頬を掠め──そこで止まった。部屋の空気が、ひとつ深く沈む。


「私は、貴女が好きだ」


 その一瞬で、紫闇の時間が止まったような気がした。

2025/12/25

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