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双月と蛇の夜襲

──作戦決行二日目の夜


 指定された『偽輸送経路』は、王都南端の砂岩地帯。昼は熱風が吹き荒れるが、夜になれば冷え込む、人気のない地帯だ。


 昼に焼けた岩肌が夜の冷気を吸い込み、触れれば一瞬で熱を奪われるほど冷たくなっている。砂はわずかに湿り気を帯び、足を踏みしめるたびに、乾いた昼とは違う鈍い音がした。


 白雅は襟元に忍び込む冷風に肩を竦めた。病みあがりの身体は、こうした温度差に弱い。無意識に指先へ力が入る。


 夜気は骨の芯まで染み込むような冷たさで、吐く息が白くほどけた。静まり返った砂岩の壁が、かすかな風音を反射している。


 白雅と紫闇は、荷台に偽の箱を積んだ簡素な駱駝車を停め、そこで一晩を越すふりをする。焚き火は小さく、光は最低限。


 砂漠の夜は静かすぎて、焚き火の爆ぜる音さえやけに大きく響いた。その静けさはまるで『音が吸われている』ようで、白雅の背筋に冷たい感覚を這わせた。遠くで獣がひとつ声をあげ、また沈黙が戻る。


「昔さ、王都から北方の砦を見張ったことがあってねぇ」


 紫闇が火をつつきながら言った。その膝の上には手入れ中の弓がある。


「そのときは凍えるほど寒くて、夜明けにようやく指が動くようになったっけ」

「紫闇でも震えることがあるのか」

「あるさ。あの砦の夜は特別でねぇ。耳の中まで凍りつくみたいで、音すら聞こえなくなるんだ」


 その言葉は、この砂漠の『静けさの質』とどこか似ていた。


 紫闇の視線が一瞬、過去へ向いた。白雅はその横顔を見つめながら、焚き火のぬるい光が妙に心細く感じられた。砂漠の静けさが、砦の『無音』と重なってくる。


 彼女は火の粉を眺めながら笑っていたが、その指先はわずかに強張っていた。緊張を隠す癖は昔から変わらない。


 砂漠の静寂は深く、まるで世界が呼吸を止めているかのようだった。


「それにしても、ナディル殿下には驚いたねぇ。いきなり、自分も同行する、なんて言い出してさ」

「……確かに。赤鴉ほどじゃないけど、あの人も行動派だよな」


 白雅も双剣の手入れをしながら苦笑した。手入れが終わった武器は荷台を覆う布の下に隠してしまう。行商人が大っぴらに武器を携行していれば、敵を警戒させてしまうからだ。


「ラフィーク殿が諌めてくれてよかったねぇ」

「あぁ。こういう役回りは私たちが適任だ」


 そんな話をしながら、白雅は夜空を見上げた。煌々と輝く白い月が、天頂に差しかかった頃だった。


『……今夜も来ぬな。ヤツらも簡単には動かぬか』

「焦りなさんな。噂が浸透するのに時間がかかってるだけさ」


 紫闇は焚き火をつつきながら、小声で呟いた。白雅は焚き火の光を反射する砂の粒を眺めていた。気が緩んだわけではない。けれど、ひとつ、胸中を占める影がある。


 竜神の気配は薄い霧に包まれたように掴みにくい。砂を踏む音だけが妙に大きく、世界との距離が半歩ずれたような感覚が胸に引っかかった。


 なにかを見落としているような、そんな一抹の不安。胸の奥で、理由のわからないざわりとした感覚がひっそりと動いた。


「心配かい?」

「え……?」


 紫闇がそう白雅に声をかけた。


「そんな顔してたから」

「別に……ただ、なにか見落としてるような気がして……」


 白雅のその言葉に、紫闇は小首をかしげた。


「ふぅん……なんだろうねぇ?」

「……わからない」


 病みあがりのせいか、視界の端がときおり揺れる。竜神の声もいつもより遠い。小さな違和感が、砂粒のように胸に積もっていった。


 紫闇はわざと白雅の懸念を明るく笑い飛ばす。


「大丈夫さ。アタシはハディーヤ婆さんみたいに占い師じゃないけど、なんだかそんな気がするんだ」

「……そっか」


 紫闇がそういうのなら、きっと大丈夫だ。白雅は心からそう信じた。そのとき──。


 ふいに風向きが変わった。それまで南から吹いていた風が、突然、冷たい東の風へと切り替わる。その瞬間、砂の匂いがわずかに変わった。乾いた匂いに、鉄のような渋みが混じる。


 冷たい風が頬を撫でた瞬間、砂がザワリと揺れた。夜空の明るさがわずかに濁ったように見え、白雅は息を呑んだ。


 竜神が急に黙った。先ほどまで白雅の思考に軽く相槌を打っていた気配が、ふっと途切れる。


(……璙?)


 返答はなく、ただ胸の奥にわずかな『圧』だけが残る。白雅は無意識に地面へ視線を落とした。砂が、かすかに脈打つように動いた気がした。


『……動いたぞ』


 竜神の低い声が、白雅たちの頭に鋭く響いた。


『南東。三、いや四の影……いや、五か。囲む気だ。白雅、紫闇、身構えよ』


 白雅は瞬時に立ち上がる。焚き火の向こうで、紫闇もすでに短杖を構えていた。


 砂岩と砂の隙間から、まるで夜そのものが染み出すように影が立ち上がった。続いて黒い影が次々と現れる。


 顔を布で覆い、紺と灰の装束──白雅が切り取ってナディルへ見せた、あの紋章と同じ『双月と蛇』を胸に刻んだ兵たちだった。


「……来たね」


 紫闇の声は低く、笑っているようで笑っていない。


 兵たちは無言のまま距離を詰める。最初に口を開いたのは隊長格らしき男だった。


「積荷を渡せ。抵抗は許されぬ」

「王族の荷を、身元の名乗りもなく奪うのかい? ずいぶんと乱暴だねぇ」


 紫闇が肩を揺らしながら返すが、兵たちは動じないどころかさらに近づいてくる。


 白雅は駱駝車の横に身構え、右手は腰の短剣へ。


『白雅、前だけを見るな。左後方に気配がひとつ潜んでおる』

(見張りを……いや、射手がいるのか……)


 白雅は息を潜めた。


──そのとき


 砂の影から、鋭い光が白雅めがけて飛んだ。反射的に身をひねる。銀色の矢が、白雅の耳元を掠めて駱駝車の木板に突き刺さった。


「っ──!」

『白雅!』


 竜神の叫びと同時に、紫闇が白雅の腕を掴み、後ろへ引き倒す。


 ほぼ同時に、二射目。最初の矢の位置を修正した狙撃。白雅のいた空間を真っ直ぐ貫いていく。


「チッ、狙いが正確すぎる!」


 紫闇が舌打ちした。このままではマズい。二人は荷台を覆う布の下に隠していた、それぞれの武器を取り出した。


 白雅は双剣を、紫闇は弓をそれぞれ構える。


『紫闇よ、後方の射手を狙え!』


 鳴弦とともに矢が飛び、背後の砂丘に隠れていた射手の頭を撃ち抜く。


 呻き声があがり、狙撃が止まった。


『囲まれておる……!』


 竜神の視界は、地上にいながらにして白雅たちから広く周囲へと広がっている。

 その眼には、兵たちの体温が砂の層を透かして、まるで灯のように浮かびあがっていた。


「歩兵は私が引き受ける。紫闇は身を隠せる場所へ!」

「わかったわ」


 白雅は双剣を煌めかせて兵の懐へ飛び込む。周囲はたちまち混戦模様となった。


 敵兵の鎧は薄い鉄板を布で覆った簡易装備だが、その分動きが速い。砂地での戦闘に慣れているのだろう。踏み込みの際に砂を押し固める癖がある。白雅はそれを見切り、足運びのタイミングを合わせて刃を滑り込ませた。


 砂煙が薄く舞いあがり、月光を乱反射する。深呼吸をしようとしても、肺はうまく膨らまず、呼吸が浅くなる。身体の反応が、ほんのわずかに遅い──その微差が命取りになりかねない。


 竜神の気配が広がるのと同時に、砂の層が透けて見えるような錯覚が白雅の視界に入り込んだ。竜神の眼を通して、夜闇に散らばる体温の残響や足跡の軌跡までもが淡く浮かびあがる。世界が二重に重なり、視界が一瞬だけ揺らいだ。


 双剣が月光を受けて冷たく閃き、白雅は兵の喉元へ踏み込む。受け止められた刃が鎧を擦り、甲高い音が闇に散った。返す一撃を兵が受けた瞬間、足元の砂が霧のように舞いあがる。


 白雅は兵の踏み込みの甘さを見切り、低く身を滑らせた。肩越しで剣筋をいなすと、その反動を利用して回転し、刃を横一文字に払う。


 砂漠の冷気が頬を裂くように吹き抜ける。体力はまだ万全ではないが、身体が染みついた戦い方を忘れることはなかった。


『左! 二人回り込む!』

「わかってる!」


 白雅は竜神の助言に合わせて体をひねり、刃を返して一人の武器を叩き落とした。


 上空から竜神は布陣を読み取っていた。


『十名が前衛、四名が側面で包囲……いや、まだいる。影が混じっておる』


 砂漠の夜が一気に騒めき始めた。白雅が血路を切り開き、紫闇は近くの岩陰に身を隠す。


『紫闇、白雅の右から来る者を防げ! そいつは毒刃を持っている!』

「任せな!」


 紫闇の放った矢は正確に兵の心臓を撃ち抜いた。この夜闇の中、見事なものである。


 竜神は彼女たちの動きを、俯瞰し、予測し、導いてゆく。


『……だが、まだ終わらぬぞ。ヤツらの狙いは荷ではない──そなたたちそのものだ』

(わかってる。私や紫闇を捕らえて、解毒剤の情報を訊き出すつもりなんだろう……)

『ならば、ここで倒れるな!』


 竜神の声は雷のように轟いた。


(了解──!)


 白雅は音もなく舞い、兵たちを次々と斬り倒してゆく。そこへどこか困惑したような竜神の声が届いた。


『……ひとつ、妙な影が紛れ込んでおるな。害意はない。だが……これは……』

(鳥……? いや……小さすぎるか……?)


 白雅自身も戦いながら妙な気配を感じ取っていた。だが、戦闘に集中していて、深く考える余裕はなかった。


 砂地は踏み込むたびに沈み、足首の角度が狂う。斬撃の反動で肩が軋み、肺の奥が熱くなる。呼吸を整える暇はひとつもなかった。


 兵たちは徐々に囲みを狭めてくる。白雅の頬には汗が伝い、珍しく肩も上下していた。病みあがりの身体は、思った以上に重い。


 まぶたの裏で脈打つ痛みがじわりと広がり、視界の端が水面のように揺れる。身体が砂と同じく沈んでいくような倦怠感が、思考に薄い膜を張っていく──その違和感が、今夜だけは妙にしつこかった。


 集中力が一瞬途切れた、その瞬間。


『白雅、後ろだ!』


 竜神が叫んだ。いつの間にか白刃を手に、白雅の背後に迫る影がある。


 白雅の視界が、わずかに揺れた。斬撃の軌道を読む集中が、一瞬だけ遅れた。


(くっ──! 間に合わない……!)


 そう思ったとき、弦の鳴る音がひとつした。矢が一陣の風とともに飛来し、白雅の背後に迫っていた兵の腰に刺さった。その瞬間、砂漠の喧噪が一拍だけ止まった。


 紫闇の放った矢ではない。兵が呻き声をあげて姿勢を崩す。その隙に白雅は兵を斬り捨てた。


「嘘……当たった」


 聞き覚えのある甲高い声に振り返ると、月明かりを背にした小柄な影がある。弓を握る指は震えていたが、逃げる気配は一度も見せなかった。その砂金色の瞳だけは必死だった。


 月明かりに照らされたライラの頬は、興奮と恐怖の入り混じった赤みを帯びていた。子供らしい無鉄砲さと、王族の気高さが同時に覗く。


「ライラ殿下!?」


 その砂金色の瞳を、見間違えるはずがなかった。顔色は強張り、唇の端は小さく震えている。それでも瞳だけは揺らがず、まっすぐこちらを捉えていた。


 白雅は心臓が痛いほど跳ねるのを感じた。守るべき存在が、もっとも危険な場所へ飛び込んできてしまった。その事実が、戦場の混乱よりも恐ろしい──その恐怖は、怒りや焦りよりも先に身体を硬直させた。戦場のどんな刃よりも鋭く、胸の奥を締めつける。


 紫闇もまた、弓を構える手をわずかにさげた。庇護者としての本能が先に働いたのだ。


「何故ここに!?」


 紫闇の悲鳴のような問いに、ライラは気まずそうに告げた。


「だって……ここ数日、貴女たちの動きがコソコソと怪しいから……あとを尾行していたの。ねぇ、これってどういう状況? どうして長老会の兵が、貴女たちを襲っているのよ!?」


 ライラの問いを無視して、白雅は竜神に詰問した。


(璙、王女の接近に気づかなかったのか……!?)

『気づいてはいた。だが、我らへの害意がないため放置しておったのだ』

(はぁ……!?)


 白雅は思わず絶句した。


(……放置した、だと? いやいや、放置で済む話か……? 害意がないからって、だからって……! 守るべき相手だってわからないのか……!)


 王女の登場は、拮抗していた戦局に決定的な影響をもたらした。


 次の瞬間、隊長格の男が砂を蹴りあげてライラに迫る。白雅が叫ぶより早く、男の腕がライラの身体を後ろから絡め取り──。


「ひっ……!」


 細い身体が、腕に絡め取られるように引き寄せられた。細い喉に、冷たい刃が押し当てられる。


「動くな!」


 男の怒号が砂漠に響く。ライラの喉元に刃が触れた瞬間、月光が反射して細く震えた。呼吸が喉でつかえ、白雅の視界は一点だけに収束していく。ライラの呼吸が浅くなり、涙が頬を伝った。


「武器を捨てろ。王女がどうなってもいいのか?」

「──!」


 まず紫闇が弓と矢を手放した。白雅も背に腹は代えられないと、双剣を手放す。乾いた金属音が、やけに大きく響いた。


 紫闇の瞳が一瞬、焚き火よりも赤く燃えあがった。次の瞬間にはもう消えていたが、白雅はその気迫に背筋が粟立つのを感じた。


「……王女だと? 本当に……」


 兵たちの陣に、ざわりと小さな波が走った。王族の顔を知る者は少ない。それでも『ただの少女ではない』と悟るには充分だった。


 想定外の獲物に、陣全体が揺らいでいる。だが、隊長格の男だけはブレなかった。


「……よくもまぁ、ここまで我々をコケにしてくれたな。まさか今夜、ここに王女が現れるとは……どうやら天は我々の味方らしい」

「……」


 白雅と紫闇は黙って男の演説を聞いていた。


「命令は『生け捕りにせよ』とのことだったが……こうなっては仕方がない。お前たちには死んでもらう」


 短い命令が飛んだ。


「……殺れ」


 兵の一人が白刃を閃かせて、無抵抗の白雅へ飛びかかる。


 刃が迫るのに、身体が追いつかない。足場が沈んだように、敵との距離が急に遠くなる──まずい。


 時間が、ゆっくりと捻れて歪む。月光を受けた砂粒が、ひとつ、またひとつ、宙で止まる。焚き火の火の粉だけが、時間の外側にあるかのように鮮やかだった。世界から音が抜け落ちる。


(……まずい、動けない)


 隊長格の男が握る短剣の切っ先が、ライラの細い喉元に触れている。そのわずかな震えすら、はっきりと見える。

 自分が動けば──その震えで彼女の命が途切れてしまう。


 紫闇は岩陰から半歩踏み出していた。だが次の瞬間──刃がライラの喉に触れた光景を見た途端、紫闇の気迫は、氷を流し込まれたように消えた。

 彼女の指が、まだ弦の感触を覚えているのか、小刻みに震えていた。


(くそ……! どうすれば──)


 白刃が迫る。その光景がひどく緩慢に白雅の瞳に映し出された。


(……ごめん、ライラ……)


 そう呟いたかどうかさえ曖昧なまま、時間だけが歪んだそのとき、竜神の気配が地の底で渦を巻き、白雅の背骨を内側から叩いた。


 次の瞬間、世界が震えた。竜神の怒りを孕んだ叫びが夜を震わせたのだ。


『白雅──ッ!』


 それは、砂漠そのものが怒りを噴きあげたかのような、地鳴りにも似た咆哮だった。その圧に空気が震え、白雅の皮膚の下で血が逆流するような錯覚すら走った。砂漠がひとつ息を呑んだように沈黙する。焚き火の炎が一瞬、風もないのに揺らいだ。


 そして白雅の足元で、砂が低く唸りをあげて沈んだのだった。

2025/12/24

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