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白き翼の帰還

──翌朝


 それは、久しく味わっていなかった穏やかな目覚めだった。どこか遠くのほうで、やさしい光に触れたような夢を見ていた気がする。


 白雅はゆっくりと瞬きをした。天幕の布越しにやわらかい朝の光が染み込み、かすかな草木の匂いが鼻をくすぐった。


 遠くでは、アシュマール族の子供たちの笑い声が聞こえた。誰かが焚き火の後始末をしているらしく、パチ、パチ、と小さな炭が弾ける音がする。日常の気配が胸の奥に沁みていく。


 数日間眠っていたあいだに、世界だけが勝手に先へ進んだような、そんな取り残された感覚が胸に残った。


 右手を軽く握れば、まだ力が入りきらず、かすかな痛みが走る。だが、その痛みさえも『今生きている』証のように思えて、白雅は小さく息をついた。


 寝台から身体を起こした瞬間、全身に薄い痛みと倦怠感が走った。数日、眠り続けていたせいだろう。普段は軽い身体が、いまは鉛を流し込まれたように重い。

 それでも、起きて動き出せばじきに戻る──そう直感できる程度には快復していた。


 そこで、白雅はふと気づいた。天幕の空気の奥に、誰かのかすかな寝息が混じっている。


 隣に人の気配を感じて視線を向ければ、紫闇が白雅の簡易寝台に突っ伏すように眠っていた。誰かがかけてくれた毛布に半ば埋もれ、肩が小さく上下している。

 その疲れ切った寝顔に、どれほど心配をかけたのかが胸に迫った。


『白雅』


 竜神の声がした。


「おはよう、璙。いい朝だな」


 いつものように答えて、それから白雅は驚いた。


「声が出る……」

『紫闇のお陰だ』


 白雅の疑問に答えてくれたのは竜神だった。


『そなたのために不眠不休で解毒剤を作り、ここまで駆けつけたのだ。気の済むまで寝かせてやるのがよかろう』

「……そっか」


 心配かけたんだろうなぁ。白雅はそう思うと、胸の奥が少し痛んだ。それでも──さすがは紫闇だ。砂哭の解毒剤を完成させてしまうなんて。


「ありがとな、紫闇」

『本人が目覚めてから言ってやれ』


 その言葉に白雅は頷いた。


「なぁ、璙……私が意識を失っている間のこと、聞かせてくれるか?」

『……我の主観でよければ語ろう』


 竜神は、訥々と状況を語り始めた。


『……そなたが眠り続けていた間、アシュマール族の者たちは、そなたの天幕をそっと覗き込んではため息をついていた。とくに子供たちは、毎朝のように傷薬や花を持ってきてな。ハディーヤが困り果てて『もう置く場所がないよ』と笑うほどだった』


 白雅は思わず目を瞬いた。


『ハーリドは毎晩、そなたの天幕の前で見張りのように座り込んでいた。あの男は無口だが……そなたが目を覚ますまでは、砂漠の夜風でさえ頼りなく感じていたのだろう』


 淡々と語られる竜神の言葉には、静かな温度があった。


『砂狼神への祈りを捧げた者もいた。祈りなど久しく忘れていた者たちでさえ、だ。そなたの帰還を願わぬ者はいなかった。我は……それが少し嬉しかった』


 白雅は静かに竜神の話に耳を傾けていた。


『ハーリドは、そなたに『アズラの民』と会う方法を教えたことで、自分を責めている様子だった』

「そんな……ハーリド殿のせいじゃないのに」


 白雅が反論する。しかし、竜神は声を落とした。


『我とて同じだ。あのとき、そなたをもっと強く止めていれば……『アズラの民』の気配を教えなければ……そなたはこうも苦しまずに済んだ』


 その苦渋の滲んだ声音に、白雅は胸が締めつけられる気がした。


「……璙のせいでもないよ。私が自分で彼らに会いに行くと決めたんだ」

『だが……我は死地に赴くそなたを止められなかった。それは我の咎だ』

「そんな……」


 何故、誰も彼もが自分を責めているのだろうか。すべての責任は『アズラの民』に会うと決めた白雅にあるというのに。だが、疑問は竜神の言葉で氷解した。


『立場を置き換えてみよ。もし紫闇が死地に向かうとしたら、そなたはどうする?』

「もちろん止めるに決まってる」

『止められなかったら? 死地で紫闇が死にかけたら?』

「それは……たぶん、止められなかったことを後悔するだろうな。あぁ……そういうことか」


 胸の奥でなにかが、こつんと落ちた──大切だからこそ、後悔するのか。そう思った瞬間、白雅はなにも言えなくなった。


「……ごめん」


 素直に反省して謝罪する白雅に、竜神はため息とともに答えた。


『よい。そなたはこうして戻ってきた。我はただそれだけで……』


 そこから先は言葉にならなかった。白雅は一命を取り留めた。そのことに安堵したのは当然だが、それよりもなによりも大きな感情が竜神の胸のうちに渦巻いていた。


『白雅……我はそなたを失いたくない』

「璙……」


 竜神は胸につかえた想いを少しずつ吐き出した。


『そなたの命の刻限が迫ったとき……我は願った。そなたを死なせたくない、と。だが、我はかつて自分で決めたのだ。願いを叶えるためには、対価が必要だ、と。だからこそ、そなたに呼びかけ続けた。我を呼べ、『助けて』と言え、と』


 言葉が落ちた瞬間、白雅は無意識に毛布を握っていた。その指先が小さく震えていた。竜神がそこまで思いつめていたなんて、想像もしなかった。


『だが、そなたは結局、我の助けを望まなかったな。死を……受け入れていたのか?』

「……あぁ」


 白雅の答えは短かった。それがどれほど残酷な選択だったか──今になって、ようやく胸に刺さる。


 一方で、紫闇ならば必ず解毒剤を完成させてくれる、と信じてもいた。それが白雅に間に合うかどうかは運次第だったが。


 竜神は、そこで一度だけ深く息をついた。吐く息が震えていた。


『……そなたを救うためなら、我は──神意の理すら捻じ曲げてもよいと思った』

「!」


 その告白を、白雅は理解した瞬間に息を呑んだ。神が理を曲げる──それがどれほどの代償を意味するのか、直感だけで背筋が冷えた。


『神が一度決めた理を覆すのは……すなわち神格の剥奪を意味する。だが、それでも我は、そなたに生きていてほしかった』


 そなたを失いたくないのだ。竜神はもう一度そう繰り返した。


『だが……そんな我を止めたのは、そなたとのかつてのやりとりであった』

「……私?」


 竜神は続けて言った。


『その昔……我は人間を確かに愛していた。だからこそ、惜しみなく祝福を与え、その願いを叶えた。だが、それは間違いであった。我は、彼らの願いを叶えるのではなく、信じて見守るべきだったのだ』


 その事実に気づいたからこそ、理を曲げるわけにはいかなかった。信じて見守ると決めたそばから、違えるわけにはいかなかった。


『だから、信じて見守ることにした。だが……その間は、生きた心地がしなかった……!』

「璙……」


 その血を吐くような、身を切るような告白に、白雅はただ呆然と竜神の名を呼ぶことしかできなかった。


『結局……奇跡は起きた。紫闇の手によってな。彼女の不断の努力と、白雅を救いたいという強い想いが引き起こした、とびきりの奇跡だ。本当に……人間という生き物は……愛おしいな』


 竜神の声が震える。おそらく泣いているのだろう。白雅は自分の左の二の腕の、白銀の腕輪に変化した竜神に、そっと手を触れた。


「あぁ……そうだな。ありがとう、璙」


 その気持ちが、とても嬉しいよ。白雅の思いが温もりとともに直接伝わってきて、竜神は思わず震えた。


『白雅……そなたが助かって、我は本当に……本当に……!』


 竜神の声は、その先を言えなかった。竜神の嗚咽が伝わってくる。白雅はただ、腕輪に触れたまま、そっと目を閉じた。


「本当に、ごめんな……信じてくれて──ありがとう」


 白雅は、腕輪越しの震えを感じた。それは、言葉よりも確かな、答えだった。



 紫闇が目覚めたのは、昼過ぎのことだった。彼女の目の下には深い隈が刻まれ、唇は乾いて白く荒れていた。


 目覚めるなり、食い入るように白雅を見つめ、ようやくもう大丈夫だと確信したのか、紫闇はヘナヘナと脱力した。


「紫闇、ありがとな」


 そんな紫闇に苦笑しつつ礼を言った白雅に、紫闇は入り乱れる感情を誤魔化すように明るく笑ってみせた。


「当ったり前でしょ。アタシを誰だと思っているのさ……」


 強がる声の裏で、張りつめていたなにかがふっと緩む。それは、彼女が一晩中必死に支えていたものだった。その瞬間、紫闇の声は涙に濡れた。


「白雅……よかった……! もうアタシゃ駄目かと……間に合って本当によかったよ……!」


 顔をグシャグシャにして泣きじゃくる紫闇を、白雅は両腕を伸ばしてしっかりと抱きしめた。彼女の肩は細かく震え、白雅の胸元に涙の温度がじわりと染みていった。


「ありがとう。さすがは紫闇だな。解毒剤、完成させたんだろ?」


 白雅の言葉に、紫闇は泣きながら頷いた。


「そうだよ……! あいにくと他の旅人たちには間に合わなかったんだけど、アンタにだけは間に合わせようって……!」

「……!」


 その言葉で、白雅は砂哭に冒された旅人たちを助けられなかったことを知った。白雅の手は、彼らに届かなかったのだ。


「……そうか。間に合わなかったんだな……」


 白雅の胸に、ヒヤリとした痛みが走った。彼女は短く息を吸い、目を伏せた。


「あとで、彼らに謝りに行くよ」

「こんなときまで他人のことかい! まったく、アンタって子は……!」


 紫闇は泣きながらプンスカと怒る。


「まぁ、気持ちはわかるけどね」

「だろ?」


 それから、紫闇は白雅をしっかりと抱きしめ返した。


「おかえり、白雅……アタシの可愛い娘」

「……ただいま、紫闇」


 二人はようやく生きて再び会えたことを心から喜び合ったのだった。


 紫闇が泣き疲れて眠ったあと、白雅はひとり外へ出た。天幕の外では、砂漠の風がゆっくりと地面を撫で、夕陽が長く伸びる影を作っていた。


 砂哭で命を落とした旅人たちは、王都・ザハラの共同墓所に弔われたという。


 白雅は王都・ザハラの方角を向いて、静かに頭をさげた。


「助けられなかった……すまない。せめて、安らかであってくれ」


 悔しさが喉の奥でひっそりと疼き、言葉にならないなにかが胸を押しあげた。


 風が頬を撫でる。砂がさらりと流れ落ち、砂丘の影が揺れた。


 しばらく風に身を預けていると、胸の奥にひどく細い痛みが残っていることに気づいた。彼らの最期を看取れなかった後悔と、そこへ辿りつくことすらできなかった無力さ──それらが重なって、静かに沈殿していく。それでも歩みを止めるわけにはいかない、と白雅はゆっくり息を吸った。


 この砂漠のどこかで、自分も同じように消えていたかもしれない。その現実がひどく重くのしかかったが、同時に、誰かに生かされたという実感も胸に残った。


 生きると誓った以上、自分にできることをやるしかない。白雅は、そっと目を閉じた。


 目を開けると、夕陽は少し傾き、砂丘の端が淡い金色に染まっていた。風が運んでくる砂は細かく、肌に触れるたび、世界が確かに動き続けていることを知らせてくる。


 胸の奥に、かすかだが温かな脈動のようなものがあった。それは──今日、生きているというなにより確かな実感だった。



──それから数日が過ぎた


 集落を歩く間にも、白雅は何度か声をかけられた。子供たちは照れくさそうに手を振り、大人たちは安堵のこもった視線を向けてくる。


 砂漠の太陽はまだ高いが、空気にはひんやりとした陰が混じり、夕暮れの気配が忍び寄っていた。遠くでは家畜の鈴の音がかすかに響き、日常の営みが緩やかに戻りつつあるのがわかる。


 それらのひとつひとつが、白雅の胸に穏やかな力を灯していった。


 それから白雅と紫闇は、ハディーヤの天幕を訪ねた。中にはハーリドもいた。


「もう歩いて平気なのか……? ハクガ殿」

「平気、平気。少しでも身体を元に戻さないとな」


 そう言って笑う白雅に、ハーリドは感心した。


「……強いな、お前は」

「そんなことないよ。今回の件では、ハーリド殿にも心労をかけた。申し訳なかった」


 ペコリと頭をさげた白雅をハーリドは慌てて止めようとした。


「ハクガ殿が謝ることじゃないだろう……いや、ちょっと待てよ……」


 ハーリドは少し考え込むと、前言撤回した。


「この際だから、大いに反省してもらおう」

(うわ、来た……)


 白雅は内心で苦笑した。


「……もう、あんな無茶はするな。二度と自分の命を粗末にしないと──そう約束してくれ」


 白雅は、叱られているのにどこか救われるような気持ちになっていた。自分を案じてくれる声が、こんなにも温かいものだと、今更ながらに思い知る。胸の奥がじんと熱くなった。


「それ、いい! もっと言ってやってよ、ハーリド殿」


 紫闇がハーリドを煽る。白雅は苦笑して頷いた。


「あぁ。私も今回ばかりは肝を冷やした。以後、気をつけるよ」

「約束だからね」


 しつこく念を押す紫闇に、白雅は口に出して約束することにした。


「私、白雅は、もう二度と自分の命を投げ捨てるような真似はしない、とここに誓う。これでいいか? 紫闇」

「上出来!」


 言葉を口にしながら、自然と背筋が伸びた。これ以上、誰かを泣かせたくない──そんな思いが、静かに根をおろしていく。


 ハーリドは知らないことだが、この場には竜神がいる。白雅も紫闇も、その気配をはっきりと感じていた。神の前で誓った言葉を違えるわけにはいかない──それが二人の共通の認識だった。


「おやおや、病みあがりだってのに元気だねぇ」


 それまで静かに会話を見守っていたハディーヤが苦笑する。


「風が元気になったねぇ。やっぱりアンタはこうでなくちゃ」

「ハディーヤ殿、砂毒事件が解決したのは貴女の情報のお陰だ。感謝する」


 白雅がハディーヤに礼を言うと、その隣で紫闇も頭をさげた。


「アタシも! 最初『水の気配』やら『急がば回れ』なんて言われたときには、どうしようかと思ったけどねぇ……」


 ハディーヤは穏やかに微笑んだ。


「どうだい、当たっていただろう?」

「もうバッチリよ。お陰で時間を無駄にせずに済んだわ。本当にありがとう」


 ハディーヤはしばらく紫闇を見つめ、それから、長い旅路を終えた人のようにふっと肩から力を抜いた。


「いいんだよ。本当はアンタみたいに熱意のある子に、アタシの持てるだけの知識と技術を教えたかったんだけどねぇ……上手くいかないもんさ」


 彼女の意外な本音に、紫闇は思わず苦笑した。


「その話はもういいのよ。お陰でアタシは白雅に出会えたんだから」


 もしハディーヤに弟子入りしていたら、今の紫闇はいなかった。赤鴉とも白雅とも出会わず、呪術師・サリナとして、このローラン国で一生を終えていたことだろう。


「アンタに弟子入りを断られたお陰で、アタシには大切な人ができたのさ。だから気に病むんじゃないよ」

「そうかい、ありがとうねぇ」


 それは、長年のわだかまりがようやく解けた瞬間だった。


 白雅は二人のやりとりを見守りながら、胸の奥に温かなものが満ちていくのを感じた。紫闇もハディーヤも、それぞれの道を選んだ末に、今こうして同じ場所に立っている。その偶然が誰かの命をつなぎ、今日の奇跡へとつながったのだと思うと、世界の広さと縁の不思議さが沁みるように胸へ落ちていった。


 天幕の中にふわりと温かい風が流れた。生きて帰ってきた──白雅はようやく、そう実感できたのだった。

2025/12/21

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