暗き水面より
白雅の呼吸は、風前の灯火のように頼りなかった。ひと息、ひと息が今にも消えそうな灯を辛うじてつなぎとめていた。胸を上下させるたび、ヒュウ、と乾いた音が漏れる。竜神はそのたびに胸を貫く稲光のような苦痛を覚えた。
額には薄い汗。唇は青く、手足は冷え切っている。何度も、何度でも、声をかけたくなる衝動に駆られたが、呼びかけたところで人間の身体を直接癒せるわけではない。
竜神は白雅の呼吸のひとつひとつを数えるように見つめていた。人間の命など、本来ならば瞬きほどの軽さで散るものだ。幾千、幾万の死を見届けてきたはずなのに──白雅の呼吸が乱れるたび、胸の内側がざわりと揺れる。
あの軽やかな笑い声も、砂漠の風に紛れてしまうのだろうか。自分が思っていた以上に、白雅という存在が己の中に根を張っていることを、竜神は否応なく思い知らされていた。
見守るしかできぬ無力さ。その感情が、長い歴史のなかでもほとんど味わったことのない重みとなって心臓を圧した。
(我が望めば助けられる……だが、それは『掟破り』だ。それに我は学んだはずではないか……)
ローラン国に到着したばかりの頃の自省の念が竜神の脳裏に甦る。
『我がすべきだったのは、彼らの願いを叶えることではなくて、信じて見守ることであったのだな……』
だから竜神は、ただ見守ることしかできなかった。
──もし白雅がこのまま死んだら
白雅の声も笑みも、二度と聞けなくなるのだ。胸の奥に黒い渦が回り続け、竜神の世界を暗く覆い始めていた。
(何故…白雅よ、なぜ我を呼ばぬのだ。『助けて』と言うだけでよいというのに……!)
焦りは、やがて怒りに似た熱を帯びて膨れあがった。大地が軋むような焦燥が胸を震わせる。
(そうか……我は、見捨てられたのか? いや……違う。違うと、言ってくれ……)
竜神の心の底で、なにかが音を立ててひび割れた。
『白雅……』
自ら定めた戒めが、竜神の手を縛っていた。だが掟を破れば、かつて自らが人間を堕落させた、あの過ちの道を辿ることになる。
だが、それでも白雅が死ぬよりは──。
(そなたのためならば……戒めなど……)
竜神の脳裏には禁忌すらよぎる。砂漠の夜は、底冷えするほど静かだった。昼間の灼熱が嘘のように、風は肌を刺す冷たさを帯びている。遠くで砂粒同士が擦れ合う細やかな音が、まるで無数の囁き声のように流れていった。
この沈黙の中で、白雅の呼吸だけが不規則に響く。その音が途切れるのではないかと、竜神は何度も耳を澄ませた。
そのときだった。夜風とは逆向きに砂を巻きあげるような一筋が、地平線の向こうに現れた。それは風の流れに逆らうように一直線にこちらへ向かってくる。
竜神の目がわずかに見開かれた。
(……紫闇か?)
駱駝の足音が近づき、薄紫の衣が夜の砂漠に揺れた。紫闇は降り立つなり、全身を震わせながら白雅のもとへ駆け寄る。
竜神は強い警戒の色を浮かべた。紫闇の疲弊は隠しようがないほど深刻だった。
紫闇の指先は氷のように冷え、唇には乾いた血が滲んでいた。それは彼女がここに至るまで、どれほど急ぎ、どれほど無茶をしたのかを物語っていた。
竜神はその異様な蒼白さに、一瞬、彼女が先に倒れる未来を想像してしまう。その未来の残酷さに、竜神は思わず喉奥がキュウと狭くなるのを覚えた。数日まともに休んでいないのは明らかだった。
「白雅……!」
息を切らしながら紫闇が膝をつく。竜神は思わず彼女に語りかけた。
『粗末な薬など、もう通用せぬ。時間が……足りぬのだ』
喉元まで迫った焦燥が、苦く胸を刺す。だが、なんと紫闇はクワッと食ってかかったのだ。この竜神相手に。
「白雅を助けたいんだったら、黙って引っ込んでな! 邪魔するんじゃないよ!」
言い放った瞬間、紫闇は自分の声にハッとした。神を前に、なんて口を。
だが、その迷いをすぐに振り払うように深呼吸し──そっと微笑んだ。
「大丈夫……絶対に助ける。信じとくれ、璙王」
その言葉は、ひどく小さく、弱々しかった。なのに、不思議と竜神の胸へと温かく染みこんでいった。
紫闇は震える指で、小瓶を取り出した。淡い金の液体が灯りに揺れ、ほのかな甘さを漂わせている。
(これは……『朝日』の色か……)
竜神は無意識に息を呑んだ。砂漠の地上に住まう者が、夜明けをそのまま瓶に閉じ込めたかのようだった。
「白雅、これを飲んで」
紫闇は白雅の身体を支え、細い喉へと薬液を流し込んだ。白雅は弱々しく咳き込みながらも飲みくだす。
竜神は祈るようにその動作を見つめていた。
(頼む……効いてくれ……)
己が祈りを捧げる日が来るとは思わなかった。神が祈るなど本来あってはならない。だが竜神は、ただ白雅の呼吸が戻ることを願わずにいられなかった。
*
──気づけば暗い水面を漂っていた
あたりは一面真っ暗でなにも見えない。暗い水面は、どこまでも静かだった。触れれば冷たさに指先を奪われそうな闇が、ユラユラと波紋を描きながら白雅を包み込む。
足が地に着かない。不安定な浮遊感が、身体の輪郭を曖昧にしていく。息を吸っているのかさえわからない。ただ意識だけが、薄い膜のように揺れ続けていた。
その奥で、小さな光がいくつも瞬いては消える。記憶か、願いか、あるいは恐怖か──白雅はそれを見分けることもできなかった。だが、どれも自分のものだと、なぜか胸の深いところで理解していた。
しばらく揺られているうちに、白雅の意識はトプリと暗い波間に沈んでいった。
***
白雅は夢を見ていた。懐かしい過去の夢を。
(あれは……六歳の私だな……)
泣きながら複雑に入り組んだ夜の路地を必死に走っている。追いつかれる──幼い白雅の恐怖が弾けた瞬間、視界が血の赤に染まった。
『おいおい、大の男がよってたかってガキ一人を追い回して……お前ら暇なのか? 俺も混ぜてくれよ』
(あのとき……初めて赤鴉に出会ったんだ……)
色がふっと溶け、次の記憶が立ちあがる。
(これは……赤鴉との修行の日々か……)
日々ボロ雑巾のようになるまで鍛錬した。
『お前、本当に弱っちいなー。怪我、テキトーに放置するんじゃねぇぞ』
鍛錬が終わると、紫闇に手当てをしてもらいながら、なにが駄目だったのか、どうすれば赤鴉から一本取れるのか、ひたすらに考えた。
また次の記憶が立ちあがった。
(赤鴉が私を置いて行ったあとか……)
『なんで赤鴉は私を置いて行ったんだ……? 私、赤鴉になにか嫌われるようなこと、したかなぁ……それとも、やっぱり私は要らない子だったのか……?』
十三歳の白雅が、紫闇の腕の中でボロボロと涙を流しており、紫闇が慰めていた。
『違うに決まってるだろ! なんてことを言うんだい。まったく……赤鴉のヤツ、許せないよ……』
次に場面が変わると、無心で剣を振るう十六歳の白雅がいた。
『もっと強く……もっともっと力を……! でなきゃ、赤鴉を捜し出すことなんてできっこない! 私は……絶対、赤鴉に認めてもらうんだ!』
(赤鴉は……当時の私の世界のすべてだった。彼に追いつきたくて、認められたくて、ただそれだけで走っていた……)
十八歳の白雅は、桜花国の幼い王太子・忉李とその近衛隊長・景葵に出会った。
桜花国の宮殿の庭に舞う薄桃の花びら。その中で、幼い忉李が必死に背伸びする姿が見えた。
(あの頃の私は、ただ強くなることだけが正しいと思っていた……でも今は違う。紫闇がいて、璙がいて、守りたい人が増えた……)
『白雅、僕を子供扱いするな!』
幼い忉李の照れたような声がする。
『白雅、お前は人の懐に入るのが上手すぎる』
柔らかく苦笑する景葵の声も。
『白雅。お前、ちっとも成長してねーのな』
赤鴉の憎まれ口まで聞こえてきた。
『白雅。そろそろ起きなさいな、アタシの可愛い娘』
紫闇のどこまでも優しい声がする。
『白雅、頼むから目を覚ませ! 生きよ!』
──そして、璙王の音なき声がした
(──!)
途端に甦るのは、肌を刺すように冷たい砂漠の夜風が頬を撫でる感触。フワリと舞いあがる光の微粒子。その幻想的な光景に、我を忘れて見入ってしまう。
(そうだ、私は……)
まだ砂毒事件を解決していない。ナディル王太子が助かったかどうかも確認していない。なによりも。
『白雅──!』
こんなにも悲痛に、こんなにも切なく自分の名を呼ぶ声を、白雅はこれまで聞いたことがなかった。
(璙……私は……)
まだ死ねない。初めて白雅はそう思った。こんなにも自分の名を求める音なき声を──置いていけるはずがない。まだ、ここで終わるわけにはいかない。
再び、水面がトプリと揺れる気配がした。その氷の手で心臓を掴まれたかのような異様な雰囲気に、唐突に理解する。
これは生と死の狭間の走馬灯なのだ。あの暗い水に完全に呑まれてしまえば、待っているのは死だった。
──死ねない
否。
(私は、ここでは死なない──!)
強く、強く、白雅はそう願った。遠くで誰かが呼ぶ声がした。水の底から響くような、くぐもった音だ。それでも白雅にはわかった。自分を求める声。必死で手を伸ばしてくれる声。
その声を追っているうちに、胸の奥でなにか小さな火種が灯った。凍えた身体を、かすかな温もりが内側から押し広げていく。
生の世界へ向かって伸ばした指先が、わずかに熱を帯びた。闇の底に沈んでいたはずの身体が、少しずつ輪郭を取り戻していく。胸の奥で、微弱ながらも確かな脈動が『まだ終わりではない』と訴えかけてきた。
温かい。誰かの手が自分を引き上げようとしている。光の粒がゆっくりと水面に浮かびあがり、白雅の意識を照らした。そこには、必死に名前を呼び続ける声の形が見えた気がした。
息が、吸える。ほんのひとすくいの空気だったが、それだけで世界が色を取り戻す。暗い水面がパタリと弾け、白雅の意識は現実へと急速に引き戻されていった。
*
数瞬──永遠にも等しい沈黙が流れる。そして。
「っは……」
白雅の胸が、さっきよりも深く上下した。ヒュウ、と漏れていた音が、わずかに和らいでいく。紫色がかった唇に、うっすらと血色が戻っていた。
(──効いている……!?)
竜神は心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。白雅の指先がわずかに動く。
「……紫闇……?」
掠れた声だが、確かに白雅が紫闇の名を呼んだ。紫闇は涙をこぼしながら、白雅の頬に手を触れた。
「よかった……ホントに……間に合った……」
竜神はその光景に、胸奥が静かに震えるのを覚えた。
(……人間というものは、かくも脆く、かくも強いのか……)
紫闇は神でも精霊でもない。ただの人間だ。だが彼女は、己の身を削り、夜を越え、たったひとつの命をつなぎとめた。
『……白雅よ』
低く、深い声が、ようやく安堵の色を帯びた。
『よく……戻ってきてくれた』
白雅が小さく笑った気がした。その瞬間、竜神は悟った。自分の見守る選択は間違っていなかったのだ、と。
(……救ったのは、我ではなく紫闇か……)
白雅の指先が、生を思い出したようにかすかに震えた。その事実だけで、胸の奥に名をつけ難い震えが走った。
もし遅れていたら──その想像が、今更になって竜神の背筋を冷たいもので撫でた。安堵と恐怖が入り交じり、胸の奥で小さな波紋を広げていく。
だが、安堵が胸に満ちるのも束の間、白雅の胸の上下は落ち着いたものの、まだ浅い。竜神はすぐに察した。紫闇もまた、限界の糸が切れそうなほど消耗しきっていた。
紫闇の白雅を支えた腕が、ふいに震えた。砂に膝が落ちる音が、夜気に吸われて消える。
「大丈夫……大丈夫だから……白雅を起こすまでは、倒れられないんだよ……」
誰に言うでもなく漏れた紫闇の声は、掠れていた。
竜神はその横顔を見つめる。砂漠の夜気に晒された彼女の姿は、あまりに小さく儚く、それでも折れぬ意志を宿していた。
(──この娘は、なんという……)
竜神とて、長い時の流れのなかで幾千もの命を見てきた。
しかし、紫闇のように、己の限界を当然のように超えてゆく人間など、ほとんど見たことがない。その細い肩が支えたのは、白雅の命──そして、彼女自身の覚悟そのものだった。
(かつて我は、人の身を脆く儚いものと定めていた。だが……この娘は、その理を軽々と覆すのか……)
ふと、白雅が再びかすかに眉根を寄せ、苦しげに身じろぎした。紫闇は慌てて彼女の体に手を添える。
「白雅、無理に動かないで……まだ、寝てなきゃ……」
自分が倒れそうなほど疲弊しているのに、紫闇はまず白雅のことを案じる。その姿に竜神は胸の奥がじんと熱くなるのを覚えた。
(なぜそなたは、これほどまでに白雅に……いや、人というものは、どうしてここまで誰かのために己を差し出せるのか……?)
竜神は静かに目を閉じた。そこには、一点の驕りもない。『神』としての傲慢を押し返すように、静かな畏敬が満ちていた。
***
白雅の呼吸が徐々に落ち着いていく一方で、紫闇は完全に力が抜けたように地面へ座り込んだ。
だが、その表情は満足げで──まるで、やっと間に合った、と胸を撫でおろしているようであった。
『紫闇よ……礼を言う』
「え?」
顔をあげると、紫闇の瞳は涙と疲労で赤く腫れていた。
『そなたのおかげで、白雅は……戻ってきた。我がどれほど安堵したか……そなたには伝わるまい』
「……璙王が、そんなこと言うなんてね」
紫闇はかすかに笑った。その笑みには、勝ち誇りも称賛欲もない。ただ、大切な人を守れた、その事実だけが彼女を支えていた。
『そなたは己の身を削った。その代償は……大きい。人の身では、なおさらだ』
「代償なんて……どうだっていいよ」
彼女の表情は、力の抜けた安堵で満たされていた。
「それで白雅が、生きてくれるなら」
その言葉に、竜神は心底驚いた。
(……己が命より大切なものがあると、迷いなく言い切るか……)
神ですら、そんな言葉を軽々と言えるものではない。それは、重く、強く──世界の理さえ揺るがす真実だ。
『紫闇よ。そなたは強い……人の強さとは、このようなものなのか』
「強くなんてないよ。私は、ただ……白雅を失いたくないだけ」
言い終えると、紫闇はその場にうつ伏せるように崩れ落ちた。意識を手放したのだ。
(そなたこそ……『奇跡を起こせし者』だ……)
白雅の呼吸は安らかだ。紫闇は静かに眠っている。その二人を、竜神は見つめ続けた。
(……気づけば、そなたらを守りたいと願っている。我は、いつの間にこうなった……)
竜神は横たわる二人を見つめながら、静かに息を吐いた。長い歴史のなかで、己がここまで心を揺らがせたのは何度あっただろうか。
力を持つ側が守るのは当然だと、どこかで思っていた。だが今、白雅を救ったのは紫闇だった。神ではなく、人の手だった。
この脆い存在が、どうしてここまで強くなれるのか。その理由を知りたいと思った瞬間、胸の奥でなにかが柔らかくほどけた。
夜は静かにその色を深めていく。竜神は、寄り添い眠る二つの命を、永き時の一刻のごとく、ただ静かに見守り続けた。
星々は高く、二人の眠りを静かに照らしていた。
2025/12/20
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