命の刻限
王宮に戻った紫闇を待ち受けていたのは、整理すべき情報の山と、医術師や薬師たちからの尊崇の眼差しだった。
「シアン殿、これがシハーブですか!?」
「よく持ち出せましたね。いくら奇跡でシハーブが復活したとはいえ、おいそれと持ち出せるものではないはずなのですが……」
医術師や薬師たちが一斉に紫闇へ詰め寄り、口々に礼や質問を浴びせかけてくる。
紫闇はうんざりしたように手をヒラヒラと振った。
「たまたま当代の巫女と知り合いでね。その縁で譲ってもらったのさ」
紫闇が受け取った書類は、黒蛇の毒の成分図、各症例の経過一覧、砂哭との類似点を示した図。書類は机の上に乱雑に積まれ、紫闇が指で押すと山がわずかに崩れるほどだった。
紫闇は順番に読み進めているうちに、巫女修行の頃によくやってしまった爪を噛む『悪癖』が出ていた。気づけば、紙の端がわずかに湿っている。
あれからまったく進んでいない。否、情報そのものは出揃っている。問題はその点をつなぐ『鍵』が見当たらないことだった。
何度図を見返しても、別の可能性を潰しても、同じところに戻ってしまう。
(考え方が間違っているのかしら……?)
紫闇はこめかみを押さえ、乾いた呼気をひとつ吐いた。思考を追うたび、糸が指先でぷつりと切れた。
資料は揃っている。だが核心だけが、霧の向こうで手招きしている──その距離が埋まらない。あと一歩、ほんのひと押しが届かない。そのもどかしさに胸が焼けつく。
時間だけが削れていく。紫闇は机に置いた手のひらをキュッと握りしめた。なにか、どこかに抜け道があるはずなのに、それを掴む手が震えていた。
砂漠の黒蛇から抽出した毒物と砂哭の毒性は非常に近い。おそらくなにか介在物質があるのだ。それはなんだろう。
思考は砂上に水を注ぐように散っていく。紫闇がアシュマール族の集落を発って、すでに三日が経っている。ナディル王太子の症状の進行度合いを考えると、そろそろ白雅には呼吸苦が現れる頃だろう。
刻限が紫闇の首を細く締めつけるようだった。白雅を失う未来が脳裏をよぎるたび、胸の奥がヒュッと凍りついた。それでもやるしかなかった。紫闇自身以外に頼れる者はいないのだから。
(待っててね、白雅……必ず助けるから……!)
研究室の明かりだけが、夜通し灯り続けるのだった。
*
一方、アシュマール族の集落では、紫闇の予想通り、白雅に呼吸苦の症状が現れ始めていた。
白雅の呼吸は、乾いた砂を吸い込むようにザラついていた。胸が上下するたび、気管の奥で砂が擦れるような痛みが走り、細い悲鳴にも似た息が漏れた。
少しずつ速く浅くなっていく呼吸。それに伴い手足に痺れの症状も出てきている。もうまともに字も書けそうになかった。
白雅は浅い息を繰り返しながら、天幕の布越しに見える空の色をぼんやりと眺めた。夜明け前の冷たい風が頬を撫でるのに、胸の奥だけは熱を帯びて焼けるようだった。
息を吸うたび、肺が砂で満たされていくようだった。呼吸という行為そのものが、少しずつ奪われていく。
『白雅、大丈夫か……?』
竜神が心配そうに白雅に尋ねる。だが、白雅はただ微笑んで頷くばかりだ。本当は苦しいのに、平気なふりをしているのだとすぐにわかった。竜神の胸に強い自責と焦燥の念が渦巻く。
(あのとき……『アズラの民』に会いに行くと言った白雅を、どうしても止められなかった。我が強く制せば、白雅だけは守れたのに──)
その場合、王太子は助からなかっただろう。だが竜神にとって、白雅の命より重いものなど存在しなかった。
(もし、このまま白雅が死んでしまったら……)
そのときは後悔というひと言では済まされないだろう。足元の砂がすうっと抜け、底の見えない闇へひきずり込まれるようだった。
(白雅を失う……そんな未来、我は耐えられぬ……)
助けたい。ただ、その一心だった。だが自ら定めた掟が竜神の手を縛っていた。かつて人間を堕落させた『無制限の奇跡』──その戒めが、今もなお竜神を拘束している。
(せめて……せめて白雅が我に助けを乞うたなら……)
白雅が支払う対価と引き換えに、いくらでも白雅自身を助けてやれる。だが、白雅は一度も竜神に自らの命を救ってほしいとは望まなかった。
『白雅……頼むから我にひと言願うがいい。『助けて』と……それだけでよいのだぞ?』
だが、白雅は微笑みながら、自分の胸の上にそっと手を置いた。その仕草は、まるで『まだ大丈夫』と言い聞かせるようだった。
白雅の呼吸が弱々しく胸を震わせるたび、竜神の胸も締めつけられた。
(白雅よ……こんなにも近くにいるのに、なぜ我を呼ばぬのだ。このままでは──そなたが消えてしまうぞ……)
竜神は途方に暮れるしかなかった。
*
──王都・ザハラの王宮にて
必ず白雅を助ける、と決心した紫闇は、途中仮眠を挟みながらも、ほぼ夜を徹して砂哭の研究を進めていた。
紫闇が書類に手を伸ばした瞬間、視界の端がチカッと白く瞬いた。次いで、強い立ち眩みに襲われ、机の端を掴んでなんとか倒れずにこらえる。
「シアン殿!?」
ラフィークが慌てた様子で支えようと手を伸ばすが、紫闇は首を振った。
「……平気。ちょっとクラクラしただけよ」
喉の奥が乾いて貼りつくように擦れた。声の響きが自分でも薄く感じられる。普段冷静なラフィークの顔から血の気が引いた。
椅子に座ろうとした紫闇は、力の抜けた足が震え、座面に腰を落とした瞬間に肩で大きく息をする。紙に走らせた手は小刻みに震え続けていた。
「シアン殿、少し休みなさい。このままでは貴女が倒れてしまいますよ」
ラフィークが彼にしては珍しく強めに助言してきたが、白雅の命の刻限が迫っているのだ。そんなわけにもいかなかった。
紫闇が彼を無視していると、ラフィークは一旦研究室から出ていって、茶器の載った台車を手に戻ってきた。
「まったく……では、せめてこれでもお飲みなさい。紅茶を淹れてきました。砂糖を加えて甘くしてあります。疲れが取れますよ」
ラフィークは、普段なら甘味を控える紫闇の嗜好をよく知っている。それでも彼は、あえて砂糖を多めにした──疲労で感覚が鈍っていると読んでの判断だった。
「んー……ありがと」
資料と睨めっこしながら、紫闇の返事はどこか上の空だ。視線すら向けずに、置かれた茶器に手を伸ばす。ひと口含むと、紅茶の華やかな香りと強い甘みが口の中に広がった。
「……甘っ! いくらなんでも甘すぎでしょ、コレ。てっきり蜂蜜でも入れたのかと……ん?」
そこまで言って、紫闇の指先が止まった。紫闇は今しがたの自分の発言を振り返った。蜂蜜を入れたかのように甘い紅茶──蜂蜜。
砂哭の持つ『最後の違和感』。黒蛇の毒だけでは説明できなかった不可思議な毒性。
(……まさか、あれは蜂蜜由来……?)
視界のどこかで、ずっと探していた点が一気につながった。
「それだわ! ラフィーク殿、蜂蜜って手に入る!?」
ラフィークはやや呆れたように返した。
「砂漠では蜂蜜が貴重品で神殿にしかないことは、貴女もよくご存じでしょう? どうして突然そんなことを……」
「あいにくともう一度、神殿まで行っている暇はないわ。急がないと……!」
その瞬間、紫闇の脳裏にハディーヤの言葉が甦った。『急がば回れ』──必要なものを取りに戻ることこそ、最短の道。
呪術師の助言には意味がある。紫闇は心を決めた。
「やっぱり、今から神殿に行ってくる!」
ラフィークは思わず目を剥いた。
「今から!? 無茶です、シアン殿!」
ただでさえ不眠不休で、今は日没後。夜の砂漠は危険だと彼女も知っているはずなのに。
「それでも、白雅を助けるためには行くしかないんだよ!」
その必死な言葉に、ラフィークは思い出す。娘のような存在だと白雅を語った彼女の顔を。それは、まるで本当の母親のように慈しみに満ちた表情だった。
「……わかりました」
「!」
「その代わり、私も行きます。すぐに駱駝車と兵の準備をさせましょう」
そう言い切ったラフィークに、紫闇は思わず困惑した。
「いや、そこまで大ごとには……」
「充分大ごとですよ。出立の準備をしてください」
なんだかラフィークに押し切られてしまった気がする。紫闇はその立場の逆転をおかしく思って小さく笑った。
「……なんです?」
「いや、ありがたいと思ってさ。アンタ、意外と熱血なんだねぇ」
「!」
ラフィークの頬にサッと朱が差す。その色を隠すように、彼は咳払いして紫闇を促した。
「実験道具も、持てるだけ持って行きましょう」
「そうだね。調剤設備なら確か神殿にもあったはずだよ」
希望の糸はまだ途切れていない。つなげなければ、という熱い思いが紫闇の胸を満たしていた。
駱駝車の用意ができたと聞いて、紫闇とラフィークは荷物を手に門へと向かう。
そこには何故か当然のようにナディル王太子が立っていた。
(……どうして殿下まで来るのよ……)
危険を承知のうえで、夜の砂漠を強行する理由など、本来ないはずだ。紫闇は胸の内で首をかしげた。
(白雅の件は確かに重要だけど……王太子として出向く必要はないはず。ラフィーク殿一人を派遣すれば充分なのに……)
だが、思いつく理由はいくつかあった。紫闇は指折り数えてみた。
ひとつ。紫闇が倒れかけたのを知って、放っておけなかった。
ひとつ。自分の責任で発生した『砂毒事件』を見届けたいという、王太子としての矜持。
そして、もうひとつ。紫闇はその可能性だけは慌てて掻き消した。
(いやいや……ないない。ないけど……あの目、なんなんだろうねぇ……)
ラフィークが背後で駱駝車に荷を積む音が、紫闇の胸のざわつきを紛らわせてくれた。
***
深夜の神殿で、閉じられた扉をドンドンと叩く音に、アリサは思わず飛び起きた。急いで厚着をして、燭台を手に入口の扉へと向かう。
「アリサ、力を貸してちょうだい!」
扉を開けると飛び込んできたのは紫闇だった。その後ろには何故かラフィークと──ナディル王太子の姿まである。
「巫女よ、深夜の訪問を許してほしい。危急の用なのだ」
ナディルの言葉に、アリサは王族に対する正式な礼を取ると、顔をあげて言った。
「大切な幼馴染の危機ですもの。構いませんわ」
「感謝する」
それからアリサは紫闇に向き直った。
「なにが必要なの?」
「蜂蜜を分けておくれ……!」
アリサの菫色の目が途端に丸くなる。
「蜂蜜ですって? ……こんな夜更けに、またどうして」
とりあえず紫闇を椅子に座らせ、アリサは蜂蜜の保管庫に向かう。指定された量を計り、小瓶に詰めて戻ると、紫闇はようやく落ち着いたところのようだった。
「はい、蜂蜜」
「……ありがと。事情は聞かないのかい?」
だがアリサは淡く微笑むだけだった。
「事情は、殿下とラフィーク殿に伺います。ここは神殿。貴女が迷う必要はありませんわ。だから、安心して作業に没頭してくださいませ」
「……助かるよ」
紫闇はわずかに肩の力を抜いた。張りつめていたものが、ほんの一瞬だけ緩む。
神殿で実験器具を広げ、紫闇は手にした蜂蜜を顕微鏡で確認する。
砂毒に蛇毒を掛け合わせて、その毒性を強化した砂哭。だが、これまでの研究結果では、砂哭と砂漠の黒蛇の毒とでは、研究結果に微妙な差異があったのだ。もし紫闇の発想が正しければ、その差を埋めるのは──。
「いるいる! あとはコイツらを、砂毒と蛇毒に掛け合わせれば……ほら出た」
実験結果は、砂哭にピタリと一致した。
「お見事です」
だが、紫闇はラフィークの称賛など聞いてはいなかった。蜂蜜の顕微鏡像に見つけたのは、春の蜜特有の糖鎖──中和する『鍵』になるはずの構造だった。
「あとは今できている解毒剤の基剤に、シハーブから抽出したエキスと蜂蜜を加えて……よし、これでいいはずだよ」
紫闇が最後の一滴を落とすと、器の中の液体がふっと色を変えた。濁っていた薬液が、砂漠の朝日を思わせる淡い金色に澄んでいく。
「……できた」
その声は自分のものとは思えないほど掠れていた。だが確かに、なにかが収まる音がした。
淡い金色が、器の底で静かに揺れた。ほんのり甘い匂いが立ち昇り、蜂蜜とシハーブの香りが混ざり合う。その温かさに、紫闇は思わず指先を震わせた。
「美しいな。しかし……蜂蜜が解毒薬の媒介だったとは」
間近で紫闇の手元を覗き込み、思わず唸ったナディルに、アリサがおっとりと微笑んだ。
「砂漠で採れる蜂蜜は、春の金合歓が咲く数週間だけなのですわ。私どもはそれを『砂狼神の甘露』と呼び、病人に授けますの」
なるほど、とナディルが頷いた。砂漠では蜂蜜が希少で、神殿でしか保管されていない理由はそれか。
「そんな貴重品まで使わせて悪いねぇ」
紫闇が申し訳なさそうにそう言うと、アリサは柔らかく首を横に振った。
「貴女を助けるためなら、いくらでも」
「……ありがと」
それから紫闇は、なにかを思いついたように、荷物を漁り始めた。
「問題は、コイツの効能を『なに』で試すかなんだけど……」
王宮の砂哭の保管棚には、試料採取から数日が経過し、毒性が大きく低下した『ほぼ無毒の標本』が残っていた。
「これなら、失敗しても危険はない。毒性が低いほど、解毒反応の『細部』を確認しやすいのよ」
薄濁りの液体──砂哭から毒性をほぼ抜いた試料を、紫闇は静かに取り出す。
「これで効かなきゃ、全部やり直し……お願いだから、うまくいって」
この一滴が成功すれば白雅は助かる。だが失敗すれば、彼女は二度と笑えない──そんな予感が、喉の奥をヒュッと狭めた。
怖い。それでも進まなければ。紫闇は自分の中に宿ったその覚悟を抱きしめるように、解毒剤の小瓶を握りしめた。
紫闇は新しく作った解毒剤を、慎重に試料へと滴下した。
一滴。落ちた瞬間、紫の液がわずかに泡立つ。その泡が鎮まると同時に、色が抜けていく。そして──底から金色が滲むように広がった。
「……反応してる」
紫闇は顕微鏡を覗き込んだ。毒素由来の構造が、まるでほどけるように分解されていく。
ラフィークが緊張した声で問うた。
「シアン殿、どうです?」
紫闇は息を詰めたまま観察し、そして──。
「……やった。毒素が完全に崩壊してるわ。これは……いける!」
その瞬間、神殿の静寂が破られたかのように、ナディルが胸を撫でおろした。
「本当に……成功したのだな」
「えぇ」
心から嬉しそうに微笑む紫闇に、ナディルは息を呑んだように目を見開いた。その笑みの柔らかさに、胸の奥がわずかに跳ねる。気づけば、彼は頬を赤らめて視線を逸らしていた。
アリサはその変化に気づいたように、そっと目元を緩める。一方、紫闇は解毒剤の反応を確かめることに意識のすべてを奪われていた。
白雅が見せた、あの泣き笑いの顔が紫闇の胸に浮かんだ。
「白雅、待ってて……必ずこれで助けるから」
紫闇は震える手で、完成した解毒剤の瓶を固く握りしめたのだった。
2025/12/19
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