静謐の国にて
「その沈黙は、命を奪う」──砂漠を蝕む『声の呪い』に、白雅たちが挑む。
──銅鑼の音が高らかに鳴り響く
港の空気がビリビリと震え、大きな船が白い波を押し分けながら、ゆっくりと港へ滑り込んできた。錨をおろし、帆を畳んでいる船員たちを尻目に、人々がゾロゾロと下船していく。
潮と油の混じった匂いが漂い、港の喧噪は島国とはまったく違う生の熱を帯びている。
ふと潮風が強く吹いて、帆を畳んでいた船員の一人がよろけそうになった。
「おっと……大丈夫か?」
とっさに腕を掴んで支えてくれた小柄な人影に、船員は胸を撫でおろした。
その人影は、頭の天辺から足の爪先まで隠すような分厚い外套を着込んでいるため、容姿はよくわからない。だが、声と上背からまだ若いのだろうと船員は判断した。だが、どこか『人ならざる静けさ』をまとっている気もした。
「おう、ワリーな、あんちゃん。助かったぜ」
「気にするな。困ったときはお互い様だ」
どうやら悪いヤツではなさそうだと感じた船員はニカッと歯を見せて笑った。
「若ぇのによくわかってんじゃねーか。アンタ、一人旅かい?」
「いや、連れがいるんだが……あぁ、来た来た」
人影の視線を追って船員が目を向けると、そこには黒髪に褐色の肌をした派手な美女がいた。人影と似たりよったりの外套を羽織っているが、その下の衣服は肌の露出が多く、とても扇情的だ。人波に揉まれたのか、軽く息を切らしている。
「ちょいと白雅、アタシを置いて先に行くんじゃないよ……やれやれ、昔はこんなに船旅するヤツらなんていなかったのにねぇ……」
外套の裾を軽く払って砂を落としながら、美女は深いため息をついた。
「悪い、紫闇。一人旅のくせで、つい……」
白雅と呼ばれた小柄な人影は苦笑したようだった。二人の間に流れる空気は、気安い。
紫闇と呼ばれた美女が、ポカンとしている船員の存在に気づいた。
「……アラ。素敵な船員さんと、なにかあったのかい?」
「いや、彼が倒れそうになったから支えただけ」
「そう。いいことしたんじゃない。じゃあ、行きましょ」
美女が人影の右腕を取る。人影は彼女に引きずられるようにして、雑踏の中に消えていった。
「……いいなー、ちくしょー。なんて羨ましい」
船員は彼らの名もすぐ忘れてしまった。だが──このとき港を出た二人は、のちに国を揺るがす大事件へ巻き込まれていくのだった。
***
港町は大層栄えていて、行き交う人々にも活気がある。海の近くだというのに、内陸に近づくほどに、乾いた空気が頬を撫でた。
白雅の肌にはそれが懐かしいような、少し緊張を呼び戻すような奇妙な感覚を残した。
「やっぱ、大陸は賑やかだよなー」
白雅がそう呟くと、音ならぬ声が脳裏に響いた。
『そういうものか?』
それは白雅たちのもう一人の同行者──竜神である璙王だった。普段は銀色の蛇を象った腕輪と化して、白雅の左腕に納まっている。
その質問に、白雅は少しだけ考え込んだ。
「んー、良く言えば賑やかで華やかだけど、悪く言えば無秩序って感じだな。この雑多な感じが大陸に来たんだなーって思わせるよ。それに比べたら、韋煌国や桜花国は平和で秩序立ったところだと思うぞ」
さすがは神に祝福された島だけはあるよな、という白雅の声にはなんの含みもなく──心からそう思っているようだと知れる。
『……そうか』
どこか意気消沈したような竜神の言葉に、白雅はようやく己の失言を悟った。
「悪い、璙。考えなしな発言だったな」
『よい。遥か昔の我もそうだった』
かつて、まだ人と神が語らいを交わしていた頃。竜神は人の祈りによく応えていた。願いを叶え、祝福を与え、その清らかな心をこよなく愛していた。
だが、人の欲は年月とともに膨れあがり、いつしか神をも恐れぬ有様となった。祈りは感謝から願望へと変わり、差し出される手は祝福を求めるだけのものになっていった。
それでも、当時の竜神はただ人が愛おしかった。願いを叶えてやりたかった。だが、今となっては、それが間違いだったとわかる。
(我がすべきだったのは、彼らの願いを叶えることではなくて、信じて見守ることであったのだな……)
そうすれば──人々は増長することもなく、神と人は今もなお友好な立場を保っていられただろうか。
いや、今更たらればを言っても仕方がない。もはや取り返しのつかない過去を思い、竜神は深く嘆息した。
港町で充分な物資を補給した白雅と紫闇は、隊商を探すことにした。護衛として雇ってもらうためだ。
キャラバンの代表らしい初老の男は白雅たちを見て眉をひそめた。
「外套……確かに必要だが、その厚さで砂漠を越える気か?」
紫闇が肩を竦めた。
「心配いらないよ。アタシたち、見かけによらず丈夫でね」
「そうかい。途中で倒れるんじゃないぞ」
首尾よく首都を目指すキャラバンを見つけた白雅たちは、この国最大級のオアシスを目指して再び陸の旅に出たのだった。
*
──砂漠の国・ローラン
広大な国土の約七割が砂丘地帯という、まさに『砂漠の王国』である。その各都市は砂漠に点在するオアシスの周囲に形成されていた。
現在、ローラン国の首都・ザハラでは『アマラ祭』と呼ばれる年に一度の『伝統文化祭』が開催されている。ザハラはローラン国最大のオアシスの上に建つ『交易中継都市』であるが故に、多種多様な人々で溢れていた。
内陸の風は、海辺とは違う乾いた熱を帯び、砂粒がかすかに肌を刺した。
しかし、市場のど真ん中だというのに、空気の奥に静かな沈殿がある。大陸の喧噪とは質の違う『重さ』だ。
白雅は足を止め、街のざわめきを耳で測るように目を細めた。
「……やっぱり、この国は静かだな。声より目線って感じだ」
紫闇は涼しい顔で頷く。
「そういう土地だからね。慣れてるでしょ?」
「まぁな」
キャラバンを無事に送り届け、報酬も手にした白雅たちは、人通りの多い市街地を歩いていた。
「きゃっ!」
突然、紫闇が悲鳴をあげた。何事かと思って振り向くと、どうやら急いでいたと思しき九歳くらいの少年とぶつかったらしい。
「ご……ごめんなさい、お姉さん」
おどおどと謝罪する少年に、紫闇は腰を屈めて視線を合わせると、にっこりと微笑んでみせた。
「平気さ。次からは気をつけるんだよ」
「はい」
ペコリと頭をさげて、早足で立ち去ろうとする少年の後ろ姿を見送って、紫闇はニマニマと白雅を見遣った。
「なんだかボウヤを思い出すねぇ。元気かしら」
「……まぁな」
白雅は小さく目を伏せた。その仕草には、言葉にしない感情の影が差していた。
束の間、感傷にふける白雅だったが、頭をひとつ振って気を取り直すと、再び前を向いて歩き出した。
白雅と紫闇は人混みの中を黙々と歩く。この国の人々は互いに微笑み合うだけで、ほとんど声を出さない。
砂漠では、砂の風に言葉が攫われる。だからこそ、人々は声ではなく『目線』や『仕草』で意志を伝える術を磨いてきた。
無駄な言葉はないに越したことはない──そういう土地柄だった。
『白雅』
唐突に竜神が話しかけてきた。
(どうした? 璙……)
頭の中で返事をすると、竜神はやや言いにくそうに口を開いた。
『いや、その、先ほどの子供……』
竜神がそう言いかけたときだった。
「アラ、あれって競駝じゃないかい?」
紫闇が嬉しそうな声をあげた。つられて視線を向ければ、その広場では確かに賭け事が行われているようだった。
ちなみに、競馬ならぬ競駝というのは、ラクダ・レースのことである。ローラン国で唯一公認の賭博であるため、かなりの大金が動くという噂だった。
「賭博師の血が騒ぐわ〜」
紫闇の目が、獲物を見据える蛇のように細まった。それから白雅をちらりと盗み見る。
「まったく……ほどほどにしてくれよ? 紫闇」
白雅は紫闇の内心を心得たように苦笑した。
「わかってるわよ。もう、白雅は心配性なんだから……って、アラ……?」
紫闇が固まった。その顔からはみるみる血の気が引いていく。
「どうした?」
「……お財布がない」
紫闇に預けていた金額を思い出して、白雅は血相を変えた。
「冗談だろ……? あれには十日分の路銀が……」
『白雅』
再び竜神が白雅を呼ぶ。だが、今はそれどころではなかった。
「なんだよ、璙。悪いが今は取り込み中……」
『その財布とやら、先ほどの子供が盗っていったぞ』
一瞬、沈黙が降りた。
「……なんだって!?」
思わず大声が出た。道行く人が不審そうに白雅たちを避けて行くが、白雅はそれどころじゃない。
「あんのガキんちょ……! 紫闇はここで待ってろ。ちょっと行って捕まえてくる!」
「……? いってらっしゃーい」
竜神の声は白雅にしか届いていない。紫闇は事情がわからないなりに、なにかを察したようだった。
砂漠の町の路地は複雑に入り組んでいる。白雅は紫闇仕込みの地図と振り子を用いた呪術で、スリの少年のおおよその位置を特定すると、あとは勘を頼りに捜した。
ようやくその小さな姿を視界に捉える。
(見つけた……!)
少年のほうでも白雅の接近に気づいたようだったが、子供の足では逃げきれない。
ついに白雅はムンズと少年の首根っこを捕まえたのだった。
「うわぁっ!?」
少年が悲鳴をあげた。周囲の人々が、なんだ、なんだ、と注目してくる。
「おいこら、よくも財布をスリやがったな! 返せ!」
「離せよ、こいつ!」
どうにか逃れようと、ジタバタ暴れる少年の手が白雅の頭巾を掠め──布が乾いた音を立てて滑り落ちた。あらわになった白い髪と紅い瞳に、周囲の空気がヒュッと細くすぼまる。世界が、わずかに止まった。
次の瞬間、人々にザワリと衝撃が走った。足を止める者が現れ、さざ波が一気に広場へ広がる。
人々のざわめきが広がるにつれ、白雅の体の中心からふっと熱が引いていくのを感じた。
「『白い子供』だ……」
近くにいた中年の男が呟いた。その言葉に、少年はつい大人しくなって白雅を見上げ、次いで腰を抜かし、尻もちをついてしまう。
長く雪のように白い髪に、血のように紅い瞳──それが白雅という存在を、決定的に異形たらしめていた。
「凶兆じゃ……!」
枯れ木のような老人が叫んだ。
「あぁ、砂狼神様。我らをお守りください……」
砂漠の守護神に祈る年配の女の声まで聞こえてくる。白雅の胸がキュッと縮むように痛んだ。
白雅は無言で外套を深く被り直すと、腰を抜かしたまま必死で逃げようともがいている少年の前にしゃがみ込んで、手を差し出した。
「……驚かせて悪かったな。とりあえず財布、返してくれないか? あれがないと困るんだ」
スリの少年は震える手で懐から財布を取り出した。受け取って中身を確かめると少し減っていたが、それは仕方がないと諦めることにした。八割方戻ってきただけ、御の字だ。
「……もうやるなよ」
静かな声で少年に釘を刺し、白雅は立ち上がる。そのまま踵を返して来た道を引き返した。紫闇が待つ広場へと。
あとには恐怖に怯える人々だけが残された。
『……よかったのか? あのままで』
竜神が語りかけてくる。
「……胸の奥が少し痛むのは、いつものことだ。でも、慣れている。これ以上怖がらせるのも、本意じゃない」
慣れている──本当は、そう思い込まなければやっていられないだけで。
白雅は、笑った。その笑みは、怒りでも悲しみでもない。ただ、どこか諦めることに慣れきった者のそれだ。竜神はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。
胸に残った痛みをそっと押し込むように、白雅は息を吐いた。
広場に戻った白雅を待っていたのは、大興奮で競駝に興じる紫闇の姿だった。
「紫闇、お前、なにやって……!?」
「アラ、おかえり、白雅。なにって……見ればわかるでしょ? 競駝よ、ケ・イ・ダ」
うふっ、と紫闇は楽しげに笑う。白雅は顔を引き攣らせた。
「元金はどうしたんだ……?」
「もちろん借りたわ。白雅、あとで上手く丸め込んでおいてね」
お財布、取り返してきたんでしょ? あっさりと悪びれずにそう言った紫闇に、白雅は思わず頭を抱えた。
「私が財布を取り返せなかったら、どーするつもりだったんだ!?」
「なによ、勝てば帳消しじゃないか」
それにしても、広場の熱気は港の喧騒に勝るとも劣らなかった。紫闇はわざと負けて机を叩きつつ、観客の愚痴にさりげなく耳を傾けている。白雅はその豪胆さに呆れながらも、どこか救われる思いで彼女を見ていた。
ウキウキと次に賭けようとする紫闇をどうにか止めて、負債額を精算する。この四半刻ばかりで、紫闇は手持ちの三割をドブ金にしたようだった。
「あーあ、せっかくいいとこだったのにぃ……」
「どこがだ。負けっぱなしじゃないか」
これで財布の中身はあと半分である。白雅は深いため息をつくと、紫闇に尋ねた。
「それで? わざわざ負けた意味はあったのか?」
すると、紫闇は得たりとばかりにニンマリと笑った。
「もちろんよ。とっても面白い話が聞けたわ」
続きは宿で。紫闇はそう言って艶冶に微笑むのだった。
*
その日の夜。薄暗い油灯が揺れる宿の一室で、白雅と紫闇はひとつの寝台に毛布をかけ、肩を寄せ合っていた。砂漠の夜気が早くも足元から忍び込む。白雅は毛布の端を握りしめ、吐き出す息が白く揺れた。
砂漠の夜は冷える。昼間の灼熱のような暑さとは裏腹に、夜は肌を刺すような寒さが特徴だった。
「……『砂毒』? なんだ、それ?」
白雅は首をかしげた。旅を重ねてきたはずの自分が知らない言葉だ。どこか、胸の奥がざわつく。
「ローランの古い伝承よ。『砂漠の守護神の涙が乾いたもの』とされているの。古い石碑にも、その記述が残っているとか残っていないとか……」
紫闇は油灯の揺れを見つめながら、声を少し落とした。
「昔、砂狼神が人に裏切られてね……『もう声なんて聞きたくない』と嘆いた。その涙が砂になって風に舞い、毒になった──そんな説があるのさ」
そんな話が、なぜ今頃になって人々の口にのぼるのか。それにはこの国が抱える、ある事情があった。
「……しかもね、どうも最近、急に『声の出ない旅人』が増えたらしいのさ。ひと月前にはほとんど聞かなかった症状だって。この町の医術師たちも原因が掴めないらしいのよ」
医術師たちが口を揃えて言うには、最初は喉の渇きから始まるのだと。次に声が掠れ、音にならなくなるらしい。
「旅の者が多い町だからね。声を失った旅人が数人出れば、それだけで噂が一気に広まるのさ」
その『声を奪われる』症状が、砂狼神の涙の理由を想起させる。だから、『旅人が砂狼神を怒らせたんだ』『声を奪われたんだ』──そんな囁きが、夜の市で交わされているらしい。
砂漠は沈黙の地だ。声を奪うという砂毒の噂は、静けさを愛するこの国にとって、なおさら不吉だった。
「だけど、ここだけの話、どうもローラン王家の跡継ぎも砂毒に冒されてるっぽいのよね」
「えっ……? それって、赤鴉の友人の……?」
赤鴉とは、かつて幼い白雅を拾い、育ててくれた武人の名である。白雅にとって赤鴉は、親代わりであり、世界の広さを最初に教えてくれた人でもある。紫闇もまた、赤鴉とともに旅をした仲間だった。
紫闇は、そんな白雅に神妙な顔をして頷いた。
「そう……ナディル王太子殿下のことよ」
白雅は息を呑んだ。赤鴉の古い友人である王太子までもが砂毒に、と考えると、白雅の胸の奥で、言葉にならない寒気がひと筋、静かに横切っていった。砂漠の夜気よりも、ずっと冷たいなにかだった。
2025/12/15
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