第96話 答えのない衝動
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今年に入ってから、彼女が友達と出かけるのは初めてだった。
別に悪いことじゃない。友達との時間は誰にとっても大切なものだ。
でも、ひとつだけ――どうしても気になることがあった。
ユメさんから、「今日の授業中、リョウコが寝ちゃってたよ」ってメッセージが届いたんだ。
俺が彼女を知ってから、そんなこと一度もなかった……少なくとも、俺の知る限りでは。
昼休みに聞いてみるべきかもしれない。今は、残りの授業が終わるのを待つしかない。
朝は話せなかったし、昨夜も何度か電話をかけてみたが、彼女には一度も届かなかった。まるで携帯の電源が切れていたみたいに。
……でも、今思えば、ただバッテリーが切れて、充電し忘れただけかもしれない。
きっと、頑張りすぎてるんだ。
***
しばらくして、授業が終わった。
彼女を昼食に誘うためにメッセージを送ろうか迷ったけど、いつもの場所に直接行くことにした。
もし彼女がいなかったら、そのときはメッセージを送ろう。
だが、階段を上がったところで思わぬ光景が目に入った。
彼女が、もうそこにいたのだ。ちょうど五メートルほど先に。
「リョウコ、まさかここで会えるとは思わなかったよ」
彼女は振り向いた。少し驚いたような顔で、手には上品な装丁の本を持っていた。
そこからではタイトルまでは読めなかったが、どうやら興味深い内容らしい。
「ミナミくん? ……こんなところで会うなんて、偶然だね」
彼女はその本を慌てて隠した。まるで、それを見られたくなかったかのように。
ちょっと怪しい……もしかして、それが原因で授業中に寝ちゃったのか?
「なに読んでたの? 面白そうだったけど」
彼女は少し返事に困ったような様子で、しばらく考えてから言った。
「女の子っぽいことだよ。ミナミくんには分からないと思うな」
そう言って、にっこりと微笑んだ。
……彼女の言葉を信じることにした。
嘘をついているようには見えなかったし、仮にそうだとしても、きっと理由があるはずだ。
だから、それ以上は聞かないことにした。
俺は自分のお弁当を掲げて見せた。
「一緒に食べようよ。……って、君も持ってるなら、言うまでもなかったかな」
彼女はふんわりと笑いながらうなずき、そして一緒に屋上へと向かった。
屋上に着いて、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「リョウコ、何かあった? 今日、授業中に寝ちゃってたって聞いたんだけど」
彼女は驚いた顔をした。「どうしてそれを……?」という顔だった。
でもすぐにうつむいて、ぽつりと口を開いた。
「すいません、ミナミくん……。でも、もう少しだけ待ってて。
時が来たら、ちゃんと話すから。それまで……お願い、ミナミくん」
正直、よく分からなかった。けれど、彼女がそう頼むなら、それだけの理由があるはずだ。
だったら、話してくれるときを待てばいい。
「わかったよ、気にしなくていい。でも、あんまり無理はしないでね?」
彼女は静かにうなずいた。俺に心配をかけたくないんだろう。
でも、もし頑張りすぎてるなら、それを放っておくわけにもいかない。
ちょっと空気が重くなった気がしたから、俺は話題を変えることにした。
「それよりさ、昨日はどうだった? 楽しかった?」
「うん……まあまあかな。カラオケに行ってきたの。
みんな、すごく歌いたかったみたいで。
あと、日本中で話題になってるアイドルの話で盛り上がってたよ」
「へぇ、それはすごいな。もしかして、俺も知ってるかも。その子って誰?」
リョウコは少し思い出すように目を閉じて、そして言った。
「最近デビューしたばかりの女の子だったと思う。ちょっと不思議だったよ。
アイドルって聞くと、たいていイケメンの男の子ばかりじゃない?
でも今回は、女の子だったから」
……最近デビューした女の子?
――それって、高宮さんじゃないか?
あの条件に当てはまるのは、あの人しかいない。
「もしかして、タナカやカズトがよく言ってる子? 『マリーちゃん』って呼んでる……あれ、本名かも」
リョウコは「あっ!」という顔をして、ぱっと笑った。
「それだ! そういえば、そんな名前だった。
それにしても、どうしてこんなに一気に話題になったんだろう。すごいよね」
「タナカとカズトが言ってたけど、SNSに上がった動画がバズって、それがきっかけで全国の有名人に注目されたらしいよ」
俺たちは、ただただ驚いていた。
同い年なのに、もう国民的アイドルなんて――それだけで衝撃だ。
「すごい子だよね。いつか会ってみたいな」
「たぶん、仲良くなれると思うよ」
「本当に? ミナミくん」
彼女は少し期待したような顔をして、俺の言葉に喜んでくれた。
まるで、それが本当の可能性になったかのように――
でも、俺もそう思っていた。
もし二人が出会えたなら、きっと良い友達になれるだろう。
だから、俺は強くうなずいた。
……まあ、マリーさんとまた会えるかどうかは分からないけど。
久しぶりに、こうして自然にリョウコと話せたことが、ただ嬉しかった。
しばらくして、昼食を終えた。
まだ少し時間があって――
なぜか分からないけど、彼女のことを考えると、急に胸がざわついてきた。
どうして自分でもそんなことをしたのか、よく分からない。
だけど――気づいたら、キスしていた。
彼女は何も言えないほど驚いていた。でも、すぐに俺に応えてくれて、深くそのキスに身を委ねてくれた。
ふたりきりだった。いつもより、ちょっとだけ――いや、かなり親密な時間だった。
そしてそのキスのあと、顔を真っ赤に染めながら、彼女は言った。
「どうして……ミナミくん。突然だったから、心の準備も何も……。次は、ちゃんと教えてよね?」
赤く染まった彼女の顔を見たとき、
――ああ、俺、間違ってなかったんだ、って思った。
……いや、でもやっぱりちょっと早すぎたかも。
「ごめん。衝動的に……なんでそうしたのか、自分でも分からない」
「いいよ。でも……次のステップに進むのは、もう少しだけゆっくりにしよう。ね、ミナミくん。今のままで、十分幸せだから」
……そう言いながら、彼女は再び俺にキスをした。
さっきと同じくらい強くて――まっすぐな気持ちが伝わってくるキスだった。
ただのキス。
――だけど、そのひとつが、簡単には離れなかった。
「リョウコ……」
「ミナミくん……ちょっとだけ、クリスマスイブのこと、覚えてる?」
彼女はすっかりいつも通りに戻っていた。
本当に、こういう切り替えがうまい子だなって、改めて思った。
「うん。どうかしたの?」
「そのとき話してたことに関係あるんだけど……もし、好きなチョコレートをひとつ選ぶとしたら、どんなのがいい?」
「えっ……? ただの質問だよ? 変な意味じゃないからね?」
「そうだな……。俺は、どれでもいいかな。なんでも嬉しいよ」
すると、彼女は疑わしそうにこちらを見た。
「ミナミくん、ちゃんと選んで」
その顔はちょっとだけ怒っていて、でもどこか興味津々だった。
答えに迷っていたそのとき、ふと思いついた。
「じゃあ……手作りチョコが食べてみたいな。今まで一度も食べたことないし、きっと特別な味がすると思う」
「……手作りチョコ、ね」
彼女はぽつりと呟いた。考え込むような顔で。
ああ、これはますます怪しいな……。
リョウコは何かを隠すとき、妙にこうなる。
「じゃあ、ホワイトとブラックならどっちが好き?」
急に真剣な顔で聞かれた。
「どっちでもいいよ。両方好きだし」
「そっか。ありがとう、ミナミくん」
……そのとき、チャイムが鳴った。
俺はベンチから立ち上がり、彼女の前に立った。
「じゃあ、また放課後にね」
「えっと……それなんだけど」
彼女はちょっと肩をすくめて、目を伏せながら言った。
「ごめんね、ミナミくん。今日はちょっと用事があるの。明日でも、いい?」
「えっ? そうなんだ……でも、何の用事?」
「それは……秘密。今はまだ言えないの」
「そっか。わかった。じゃあ、また今度だね」
――たとえ今、彼女が何をしているのか知らなくても、俺は信じてる。
きっと、近いうちに話してくれるはずだ。
それに……もう、これが最後の「秘密」だと思いたい。
きっと、今日という日は昨日とよく似ているだろう。
――ただ、今日はあの「彼女」には会わないと思うけど。
……そろそろ、受験勉強も始めないとな。
やるなら早いほうがいい。
こうして、またリョウコと帰れない午後が始まった。
でもその代わりに、俺の頭の中では彼女の「秘密」が何度も繰り返されていた。




