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第96話 答えのない衝動

 ◇◆◇◆


 今年に入ってから、彼女が友達と出かけるのは初めてだった。

 別に悪いことじゃない。友達との時間は誰にとっても大切なものだ。

 でも、ひとつだけ――どうしても気になることがあった。


 ユメさんから、「今日の授業中、リョウコが寝ちゃってたよ」ってメッセージが届いたんだ。


 俺が彼女を知ってから、そんなこと一度もなかった……少なくとも、俺の知る限りでは。

 昼休みに聞いてみるべきかもしれない。今は、残りの授業が終わるのを待つしかない。


 朝は話せなかったし、昨夜も何度か電話をかけてみたが、彼女には一度も届かなかった。まるで携帯の電源が切れていたみたいに。


 ……でも、今思えば、ただバッテリーが切れて、充電し忘れただけかもしれない。

 きっと、頑張りすぎてるんだ。


 ***


 しばらくして、授業が終わった。

 彼女を昼食に誘うためにメッセージを送ろうか迷ったけど、いつもの場所に直接行くことにした。

 もし彼女がいなかったら、そのときはメッセージを送ろう。


 だが、階段を上がったところで思わぬ光景が目に入った。

 彼女が、もうそこにいたのだ。ちょうど五メートルほど先に。


「リョウコ、まさかここで会えるとは思わなかったよ」


 彼女は振り向いた。少し驚いたような顔で、手には上品な装丁の本を持っていた。

 そこからではタイトルまでは読めなかったが、どうやら興味深い内容らしい。


「ミナミくん? ……こんなところで会うなんて、偶然だね」


 彼女はその本を慌てて隠した。まるで、それを見られたくなかったかのように。

 ちょっと怪しい……もしかして、それが原因で授業中に寝ちゃったのか?


「なに読んでたの? 面白そうだったけど」


 彼女は少し返事に困ったような様子で、しばらく考えてから言った。


「女の子っぽいことだよ。ミナミくんには分からないと思うな」


 そう言って、にっこりと微笑んだ。


 ……彼女の言葉を信じることにした。

 嘘をついているようには見えなかったし、仮にそうだとしても、きっと理由があるはずだ。

 だから、それ以上は聞かないことにした。


 俺は自分のお弁当を掲げて見せた。


「一緒に食べようよ。……って、君も持ってるなら、言うまでもなかったかな」


 彼女はふんわりと笑いながらうなずき、そして一緒に屋上へと向かった。


 屋上に着いて、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。


「リョウコ、何かあった? 今日、授業中に寝ちゃってたって聞いたんだけど」


 彼女は驚いた顔をした。「どうしてそれを……?」という顔だった。

 でもすぐにうつむいて、ぽつりと口を開いた。


「すいません、ミナミくん……。でも、もう少しだけ待ってて。

 時が来たら、ちゃんと話すから。それまで……お願い、ミナミくん」


 正直、よく分からなかった。けれど、彼女がそう頼むなら、それだけの理由があるはずだ。

 だったら、話してくれるときを待てばいい。


「わかったよ、気にしなくていい。でも、あんまり無理はしないでね?」


 彼女は静かにうなずいた。俺に心配をかけたくないんだろう。

 でも、もし頑張りすぎてるなら、それを放っておくわけにもいかない。


 ちょっと空気が重くなった気がしたから、俺は話題を変えることにした。


「それよりさ、昨日はどうだった? 楽しかった?」


「うん……まあまあかな。カラオケに行ってきたの。

 みんな、すごく歌いたかったみたいで。

 あと、日本中で話題になってるアイドルの話で盛り上がってたよ」


「へぇ、それはすごいな。もしかして、俺も知ってるかも。その子って誰?」


 リョウコは少し思い出すように目を閉じて、そして言った。


「最近デビューしたばかりの女の子だったと思う。ちょっと不思議だったよ。

 アイドルって聞くと、たいていイケメンの男の子ばかりじゃない?

 でも今回は、女の子だったから」


 ……最近デビューした女の子?

 ――それって、高宮さんじゃないか?

 あの条件に当てはまるのは、あの人しかいない。


「もしかして、タナカやカズトがよく言ってる子? 『マリーちゃん』って呼んでる……あれ、本名かも」


 リョウコは「あっ!」という顔をして、ぱっと笑った。


「それだ! そういえば、そんな名前だった。

 それにしても、どうしてこんなに一気に話題になったんだろう。すごいよね」


「タナカとカズトが言ってたけど、SNSに上がった動画がバズって、それがきっかけで全国の有名人に注目されたらしいよ」


 俺たちは、ただただ驚いていた。

 同い年なのに、もう国民的アイドルなんて――それだけで衝撃だ。


「すごい子だよね。いつか会ってみたいな」


「たぶん、仲良くなれると思うよ」


「本当に? ミナミくん」

 彼女は少し期待したような顔をして、俺の言葉に喜んでくれた。

 まるで、それが本当の可能性になったかのように――

 でも、俺もそう思っていた。

 もし二人が出会えたなら、きっと良い友達になれるだろう。


 だから、俺は強くうなずいた。

 ……まあ、マリーさんとまた会えるかどうかは分からないけど。


 久しぶりに、こうして自然にリョウコと話せたことが、ただ嬉しかった。


 しばらくして、昼食を終えた。

 まだ少し時間があって――

 なぜか分からないけど、彼女のことを考えると、急に胸がざわついてきた。


 どうして自分でもそんなことをしたのか、よく分からない。

 だけど――気づいたら、キスしていた。


 彼女は何も言えないほど驚いていた。でも、すぐに俺に応えてくれて、深くそのキスに身を委ねてくれた。


 ふたりきりだった。いつもより、ちょっとだけ――いや、かなり親密な時間だった。


 そしてそのキスのあと、顔を真っ赤に染めながら、彼女は言った。


「どうして……ミナミくん。突然だったから、心の準備も何も……。次は、ちゃんと教えてよね?」


 赤く染まった彼女の顔を見たとき、

 ――ああ、俺、間違ってなかったんだ、って思った。

 ……いや、でもやっぱりちょっと早すぎたかも。


「ごめん。衝動的に……なんでそうしたのか、自分でも分からない」


「いいよ。でも……次のステップに進むのは、もう少しだけゆっくりにしよう。ね、ミナミくん。今のままで、十分幸せだから」


 ……そう言いながら、彼女は再び俺にキスをした。

 さっきと同じくらい強くて――まっすぐな気持ちが伝わってくるキスだった。


 ただのキス。

 ――だけど、そのひとつが、簡単には離れなかった。


「リョウコ……」


「ミナミくん……ちょっとだけ、クリスマスイブのこと、覚えてる?」


 彼女はすっかりいつも通りに戻っていた。

 本当に、こういう切り替えがうまい子だなって、改めて思った。


「うん。どうかしたの?」


「そのとき話してたことに関係あるんだけど……もし、好きなチョコレートをひとつ選ぶとしたら、どんなのがいい?」


「えっ……? ただの質問だよ? 変な意味じゃないからね?」


「そうだな……。俺は、どれでもいいかな。なんでも嬉しいよ」


 すると、彼女は疑わしそうにこちらを見た。


「ミナミくん、ちゃんと選んで」

 その顔はちょっとだけ怒っていて、でもどこか興味津々だった。


 答えに迷っていたそのとき、ふと思いついた。


「じゃあ……手作りチョコが食べてみたいな。今まで一度も食べたことないし、きっと特別な味がすると思う」


「……手作りチョコ、ね」

 彼女はぽつりと呟いた。考え込むような顔で。


 ああ、これはますます怪しいな……。

 リョウコは何かを隠すとき、妙にこうなる。


「じゃあ、ホワイトとブラックならどっちが好き?」

 急に真剣な顔で聞かれた。


「どっちでもいいよ。両方好きだし」


「そっか。ありがとう、ミナミくん」


 ……そのとき、チャイムが鳴った。


 俺はベンチから立ち上がり、彼女の前に立った。


「じゃあ、また放課後にね」


「えっと……それなんだけど」

 彼女はちょっと肩をすくめて、目を伏せながら言った。


「ごめんね、ミナミくん。今日はちょっと用事があるの。明日でも、いい?」


「えっ? そうなんだ……でも、何の用事?」


「それは……秘密。今はまだ言えないの」


「そっか。わかった。じゃあ、また今度だね」


 ――たとえ今、彼女が何をしているのか知らなくても、俺は信じてる。

 きっと、近いうちに話してくれるはずだ。

 それに……もう、これが最後の「秘密」だと思いたい。


 きっと、今日という日は昨日とよく似ているだろう。

 ――ただ、今日はあの「彼女」には会わないと思うけど。


 ……そろそろ、受験勉強も始めないとな。

 やるなら早いほうがいい。


 こうして、またリョウコと帰れない午後が始まった。

 でもその代わりに、俺の頭の中では彼女の「秘密」が何度も繰り返されていた。

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