第87話 彼女の熱と僕の朝
「おはようございます。無事に家に着いたみたいですね」
美翔が好奇心から振り向いて、僕を見ると笑顔を見せた。
「おはよう、お兄さん。うん、大丈夫だったよ。家にもちゃんと着いて、もう寝ようとしてたところだったんだよ、ちょうどお兄さんがタクシーで帰ってきたころ」
「寝ようとしてた? じゃあ、僕を部屋まで運んでくれたの?」
「いやいやいや」茜が割り込んできた。「部屋まで運ぼうとはしたんだけど、お兄さんが『自分で行く』って言い張ってたから、私たちはただ見守ってただけ。それで、そのまま寝たの」
「そうか……そういうことだったのか……」僕は小さな声でつぶやいた。
「リョウコ姉が、お兄さんがちゃんと帰ったか聞いてきたよ。心配してるみたいだった。あの人、すごいね」
「本当にリョウコが? いや、悪いことじゃないけど、まさかそんなこと言うなんて、ちょっとびっくりだな」
「何を期待してたの、お兄さん? 今や恋人なんだから、心配するのは当たり前だよ。それに、私から見てもリョウコって本当にかわいいと思う。お兄さん、すごくラッキーだよ」美翔は驚きと少しの羨望を込めてそう言った。
リョウコは本当にすごい人だ。いつか、僕もあの子のために何かしてあげたい。
けれど今は、ただ黙って、美翔の言葉を噛み締めながら、どうすべきかを考えていた。
そんなとき、ポケットの中のスマホが通知を鳴らした。取り出して開くと、そこには一枚の写真があった。
悪いものじゃなかった。うさぎの発熱スタンプに「おはよう」と添えられていて、ベッドで微笑む彼女の写真だった。
……これはどういう意味だ? どうして彼女はこんな写真とスタンプを送ってきたんだ? もしかして……
何かあったのかもしれない。――けど、何だろう?
顔をじっと見つめると、少し元気がなさそうだった。熱でもあるのかな……?
「お兄さん、テーブルに座って。ご飯もうすぐできるから。茜、行くよ。昼ごはん出すからね」
「うん……」茜が立ち上がり食卓へ向かい、僕も黙って椅子に腰掛けた。
そしてそのまま、静かに食事を始めた。誰も言葉を発さずに――少なくとも、昼食が終わりかけるまでは。
そのとき、スマホが震えた。ポケットから取り出すと、春姫さんからの着信だった。
この時間に? まさか、やっぱり……
「誰から、お兄さん?」美翔が覗き込もうとした。
僕は立ち上がりながら答えた。
「すぐ戻る。ちょっと電話出るね」
玄関まで歩いていき、スマホを耳に当てた瞬間、春姫さんの声が聞こえた。
「ミナミ、いるの?」
その声は、いつもの明るさとは違った。深刻で、はっきりと不安が感じられた。
「はい、います。どうかされましたか?」
「ちょっとお願いがあるの。いい?」
話が進むにつれ、僕の中で疑念や不安が膨らんでいく。
「はい、なんでしょう? 何かあったんですか?」
「リョウコが熱を出したの」
やっぱり、そうだったのか。さっきの写真、スタンプだけじゃよくわからなかったけど、まさにそれだったんだ。
春姫さんの声は、少し落ち着きを取り戻していた。
「私、直人と一緒に国外に戻らなきゃいけないの。だから看病は無理だし、メイドたちに任せるのもなんだか気が引けてね。恋人であるあなたなら、彼女もちゃんと言うこと聞いてくれると思うの」
「言うこと? どういう意味ですか? 何か彼女の体調以外に……?」
少し呆れたように、彼女はつぶやいた。「まったく、ミナミ……女の子のこと、まだよく分かってないんだね。まあいいや、行けたら助かるよ」
そのときには、もういつもの明るくて軽快な声に戻っていた。
「行きます。でも、何をすればいいですか?」
「心配しなくていいわ。メイドに薬のことを聞いて。特に熱の薬ね。彼女たちが案内してくれるから。あと、入口の警備員には通してって頼んであるし、あなたのことも知ってるから大丈夫」
「わかりました。じゃあ、すぐに向かいます」
「ありがとう。リョウコのこと、お願いね。今日ちょっとわがままかもしれないけど」
「はい、任せてください」
通話を切ったあと、僕はしばらくスマホを見つめていた。まさか、こんなふうに彼女が熱を出すなんて思わなかったけど、ただの風邪ならすぐによくなるはず。
そのまま食卓に戻って、美翔と茜に出かけることを伝えた。
そして、身支度を整えて、家を出た。
「すぐ戻るね、行ってきます」
雪の降り始めた昨日からの寒さに備えてコートを羽織り、僕はリョウコの家へと向かった。




