第72話 穏やかな午後の裏側
「いいわよ。でもその話はまた今度ね。とりあえず行ってきなさい。あとで飛行機代を送金しておくから」
「ありがとう、お父さん」
姉さんは電話を切ると、にっこり笑いかけてきた。
「ね? 言ったでしょ。じゃあ、東京に戻りましょう」
その誇らしげな笑顔に、私は思わず笑ってしまった。
本当にやってくれるとは思っていなかったけど、約束はちゃんと守ってくれたんだ。
「本当にありがとう、姉さん」
そうして、私たちは日本へ帰ってきた。お父さんとどんな約束をしたのかはよく分からなかったけど、今は気にしなくていい。姉さんなら、きっとうまくやってくれる。これまでもずっとそうだったんだから。
三人で帰国して、シャワーを浴びてリラックス。そして今、こうしてここにいる。
◇◆◇◆
それがリョウコの話だった。でも、私は彼女にとってそこまで大切な存在なんだろうか? そんなふうに言ってくれるなんて……。しばらくの間、彼女がいてくれて本当に幸運だと感じた。そんな一面があるとは思ってもいなかった。
「えっと……正直、何て言えばいいのか分からない。そんなこと聞けるとは思ってなかったし、まさかここまで来るなんて……。こんな決断をしてくれたことに、何かお返しした方がいいのかな?」
すると、リョウコの顔がふと躊躇うような表情になった。
「キス。」
「え?」私は思わず聞き返した。
「キスでいいよ、そこまでしてくれたから――……。」
キス? なんで突然? キスは嫌いじゃない。むしろ気持ちいい。でも、なんで今なんだろう?
リョウコは肩をすくめたが、後悔している様子はなかった。とはいえ、断る理由もなかった。私は「君の望みを受け入れる」って言ったばかりだったから。
「うん、それが望みなら、いいよ。」
するとリョウコはぱっと顔を上げ、どこか嬉しそうに表情を浮かべて、照れながら髪を耳の後ろにかけた。
彼女は少しずつ近づいてきて、私も彼女に近づいた。時間はかからなかったけど、そのキスはまるで初めてのように感じた。
そしてその後、二人の間には気まずい沈黙が流れた。
けれど、すぐに彼女は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう、ミナミくん。まるで最初の時みたいで……嬉しかった」と、顔を赤らめながら言った。
今では、前よりも彼女と自然に接することができるようになった私は、静かに微笑んでドアを開けた。まるで彼女を迎え入れるかのように。
彼女はすぐにそれを察して、ゆっくりと中に入っていった。
「お邪魔します……あ、ミナミくん。佳澄さんは家にいるの?」と言いながら、靴を脱ぎ始めた。
「え? あ、いや、いないよ。今はパパと一緒に海外に行ってるんだ。」
「そっか、じゃあミナミくんと、妹さんたちだけなんだね……」と小さく呟いた。「ミナミくん、私、美翔ちゃんと一緒に料理してもいいかな?」
どうやら料理を手伝いたいようだった。望みなら問題ないだろうと思い、私は頷いた。彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、ミナミくん。実はいっぱい練習してきたんだ。自分の成果を見てみたいの」
リョウコは楽しそうに言いながらスリッパを履いて、中へ入っていった。もちろん、今回は私が彼女の後ろを歩く番だった。ただの付き添いというよりは、彼女がどうやって周囲と馴染んでいくのか、そしてどれだけの注目を集めるのかを見守る者として。
「こんにちは、美翔ちゃん、茜ちゃん。元気だった?」
リョウコは優しい笑顔でそう声をかけた。二人も同じようににっこりと微笑み、彼女の挨拶に応えた。
「もし邪魔じゃなければ……お料理を手伝ってもいい?」
そう言いながら二人に歩み寄るリョウコに、美翔は嬉しそうに大きく頷いた。
「もちろん! めっちゃ嬉しいよ。ありがとう、リョウコお姉ちゃん!」
三人が和やかに話しているその横で、ふと視線を落とすと、直人がこちらをじっと見ていた。何かを聞きたそうなのに、どう話しかけていいのか迷っているような表情だった。
数秒の沈黙の後、彼は意を決したように口を開いた。
「あの……」
その声に私は顔を向ける。
「初めて来たので……お手洗いってどこにありますか?」
「ああ、廊下の奥、右側だよ。」
そう教えると、直人は小さく頭を下げて、静かにその方向へ歩いていった。
さて……私は今、何をすればいいのだろう。
キッチンにはすでに人が多くて、私が加わるときっと邪魔になってしまう。それなら――。
少し迷った末、私はそっと階段を上がり、自室のベッドに腰を下ろした。せめて料理ができるまでの間だけでも。
ひとりきりの部屋。静けさが心地よくて、胸の中にあった不安も少しずつ薄れていく。
リョウコは下でみんなと一緒にいて、まるで前からこの家の一員だったかのように自然に馴染んでいた。
◇◆◇◆
やっと……やっとミナミくんの家に来れた。
本当はずっと会いたかった。あの夜、気持ちを伝えてから、彼のことばかり考えてる。
でも――こんなふうに思い始めたのは、いつからだったんだろう?
そんなことをぼんやり考えながら、私は台所で立ち尽くしていた。
――そのとき、ふいに肩に何かが触れた。
「きゃっ……!」
驚いて振り返ると、そこには美翔が立っていた。彼女はピンクのエプロンを手に持ち、もう片方の手で私に差し出してきた。
その様子に思わず笑いがこみ上げる。驚いた自分が可笑しくて、私もつられて笑った。
私はエプロンを受け取り、そっと身につけた。背中の紐がうまく結べずに戸惑っていると、美翔がすぐに気づいて、後ろから結んでくれた。
「ありがとう、美翔ちゃん」
「ううん、こっちこそ手伝ってくれてありがとう」
そう言って彼女は少し視線を落としたまま続けた。
「ところで茜、直人くんの相手してくれない? 私たち三人で大丈夫だから、リビングで一緒に過ごしてあげて」
茜は静かに頷いた。納得したような様子で、もともと料理が得意じゃなさそうだったこともあり、すぐにその場を離れた。
ちょうどそのとき、直人がトイレから戻ってきた。ミナミくんの姿は、もうそこにはなかった。
「ねぇ、直人。テレビでも見ようよ。何か見たいのある?」
「うーん……」
少し考えるように首をかしげながら答える直人に、茜は優しく微笑みながら肩に手を添えた。まるで昔からの親しい友人のような自然な距離感だった。
二人がリビングへと姿を消したその瞬間、私は悟った。
――来た。最も恐れていた瞬間が。
美翔と茜、二人のあの笑顔。
まるで最初から示し合わせていたかのように、完璧に一致した視線。
それは、まさに「これから何か企んでやろう」という、あの無邪気で恐ろしい笑顔だった。




