第69話 新たな一歩
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一日中の活動を終え、東京中心部から戻ってきた山田さんと翌日の約束を交わしてから、自分のアパートに戻ったマリーは、新しく購入したノートパソコンの前に座っていた。そのパソコンは、これから様々なメモを保存したりするために買ったものだったが、今はその用途では使わなかった。
マリーが今からすること、それは陽葵について調べることだった。頭の中でぐるぐる回る疑問たちは、まだ明確な答えを得られずにいた。
彼女の指はキーボードの上をすばやく動き、目は次々と情報を読み取っていった。そしてしばらく真剣な表情で画面を見つめた後、ようやく手を止めた。
ふと、マリーはぱっと明るい笑顔を浮かべた。今度は本当に嬉しそうな笑顔だった。
この世界における陽葵の情報を見つけたのだ。まるで普通の人間のように記載されていた。一目見ただけでは絶対に気づかない存在であり、本人が明かさない限り、誰も彼女の正体を知らないだろうと思った。
彼女の携帯番号、通っている学校、血液型など、いくつかの情報を見つけた今、後はタイミングを見計らって接近するだけだった。
マリーはひと息つき、椅子にもたれかかりながら大きく伸びをした。まるで、長い間胸に溜め込んでいた重圧を吐き出すかのようだった。
「これで少し安心できる……。でも、ちょっと気がかりなのは、パパが教えてくれた場所を知ってるのは私だけじゃないかもしれないってこと。誰かほかにもいるかも……。まあ、私たちが彼に過去を思い出させるようなことをしなければ、大丈夫なはずだけど」
そう考えながら、夜は更けていった。
そして翌日――。
今日はマリーに施設を案内する日だったが、彼女はソファの上で、体全体を毛布にくるまりながら眠っていた。
部屋の外では、コツコツとヒールの音が響き、黒いスーツを着た女性の姿が見えた。その手には鍵が握られている。
カチャリ――
ドアが開かれると、可愛らしい寝息がソファから聞こえてきた。
女性はマリーの前まで歩み寄り、ためらうことなく毛布をパッと剥ぎ取った。
「こんな時間まで寝てるつもり?」
低く呟くような声だった。
そして彼女はマリーの耳元に顔を近づけ、もう一度囁いた。
「いつまで寝てるつもり? ほら、起きなさい……」
しかし、マリーは無防備な寝顔を晒したまま微動だにしなかった。
ついに、女性は声を少し強めた。
「ったく、起きろって言っただろ! ほら、なんで起きないの? まだ寝てる場合じゃないっての!」
その怒鳴り声に、マリーはびくっと飛び起きた。
目の前に立つスーツ姿の女性を見て、マリーの顔には一瞬、驚きが走った。
「山田さん、どうしてここに?」
そう言った後、すぐに昨日のことを思い出したかのようにぽんと手を打った。
「ああ、そうだった。でも、山田さん、まだちょっと早くないですか?」
山田さんはじっと鋭い視線でマリーを見つめ続けた。その視線に耐えきれず、マリーは思わず気まずそうに笑った。
「……や、山田さん?」
「今、何時だと思ってるの?」
マリーは眠たそうに目をこすりながら、ぼんやりと山田さんを見た。
「えっと……朝の六時?」
山田さんは明らかに呆れた様子で、自分のスマートフォンを取り出し、それをマリーの目の前に突き出した。
スマホの画面に表示されていたのは――午前十一時四分。
その数字を見た瞬間、マリーは飛び上がるほど驚いた。
「これが六時に見える?」
山田さんの言葉に、マリーは慌てて叫んだ。
「えっ?! そんなに遅いの? ほんとに?」
ため息をつきながら、山田さんはマリーがソファから飛び起きるのを見つめていた。
バタバタと動き出したマリーを見ながら、山田さんの視線は自然と、ソファの前に置かれたガラスの小さなテーブルに置かれたノートパソコンへと向かった。
そして、何の疑いもなく、すぐにある結論に至った。
「……まさか、一晩中パソコンいじってたんじゃないでしょうね?」
マリーはバツが悪そうに黙り込み、山田さんと目を合わせるのを避けた。
「その……朝の四時まで起きてた、かも……」
「昨日、早く寝て、朝は下で待ち合わせるって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、すっかり忘れてました……」
マリーはのんびりとした口調で謝った。
その後、マリーは軽く叱られ、急いで身支度を整えた。
山田さんは持参してきた袋から食事を取り出し、簡単に温めた。こうして二人はなんとか早めに準備を終え、外へ出た。
だが、外にはいつもと違う光景があった。
目の前に停まっていたのは、黒い車。
マリーは車から数メートル離れた場所で立ち止まり、ただじっとその光景を見つめた。
その間に山田さんは車に向かい、ポケットから車のキーを取り出した。それを見たマリーは、ようやく状況を理解した。
――この車は、山田さんのだったのか。
その後、車に乗り込んでからの道中、マリーは質問攻めにしたが、あまりの多さに、途中から山田さんはマリーの質問を完全に無視するようになった。
駐車場に到着すると、マリーは眩しい笑顔で車を降りたが、山田さんはそんな様子を完全に無視し、「急ごう」とだけ言った。
その後の道中も、マリーにとっては見るものすべてが新鮮で、まるで観光客のようにきょろきょろと周囲を見渡してばかりだった。
そんな様子のまま、三階へとたどり着いた。
そこでは、いくつかの教室からダンスや演技の練習をしている女の子たちの姿が、ガラス越しに見えた。
マリーは興味津々でその光景を眺めた。どうやらここはかなり大きな事務所のようで、山田さんと同じ制服を着た人たちもたくさんいた。
少し歩き進むと、彼女たちはある部屋の前に到着した。上のプレートには『社長室』と書かれていた。
山田さんが先にドアを開け、中に入った。続いてマリーも、まるで恥ずかしがり屋の女の子のように、山田さんの影に隠れるようにして入室した。
先に待っていたのは、グレーのスーツを着た白髪交じりの紳士だった。
彼はデスクに座っており、優しげな笑みを浮かべていた。
「ようこそ、マリーさん。お会いできて光栄です。私はこの事務所の社長、久保湊と申します」
そう言いながら、彼は立ち上がり、にこやかに二人の方へ歩み寄ってきた。
マリーはまだ少し緊張していたが、ふと山田さんと目が合い、無言でお互いに小さくうなずき合った。
それを合図に、マリーは一歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「お会いできて光栄です、久保社長」
社長がすでに名前を呼んでくれていたので、マリーは改めて自己紹介はせず、そのまま顔を上げた。
しばらくして、社長はデスク前の椅子を指し示し、二人に座るよう促した。
そして、事前に交わした契約内容についての話が始まった。
――数十分後。
面談は無事に終了した。
マリーは自分の希望条件を伝え終え、まだこれからやるべきことは山積みだったが、それでも確かな一歩を踏み出したのだった。
ミナミに会うために。
ヒマリと話すために。
そして、白鳥ともう一度、未来の計画を立てるために――。
すべては、ここから始まったのだった。




