第32話 お願いがあるんだけど〜パート2
その日の残りの時間は、特に変わったこともなく、いつも通りに過ぎていった。
授業が始まり、ふと前を見ると、陽葵が少し驚いたような表情でこちらを見ていた。まるで「佐々木くんを探してたんだよ」と言いたげな顔だった。
彼女は、クラスメイトの6人ほどの女子生徒に囲まれていたが、その輪を抜けてまっすぐ俺の方へ歩いてきた。その様子から、どうやら俺に話したいことがあるようだった。
「佐々木くん、ずっと待ってたよ。ねえ、リョウコは部活のこと、何て言ってた?」
その言葉に、俺は少しだけ焦った。そういえば、クラスが近いのにすっかり伝えるのを忘れていた。
「ああ、それか… 彼女はいいって言ってたよ。でも、それでももう少し興味を持ってくれる人を集めるべきだと思う。今年はみんなもうどこかの部活に入ってるし、結局、来年まで待つしかないかな。」
俺がそう言うと、陽葵は少し肩を落とした。まるでこれが最後の頼みの綱だったかのように見えた。でも、彼女も分かっているはずだ。新学期の初めなら、新入生を勧誘できるし、必要な人数を揃えるのも楽になるだろう。
それが、今のところ最善の方法に思えた。
「まあ仕方ないね… そうだね、そのほうがいいかも。」
彼女は小さくため息をついたが、すぐに笑顔を取り戻し、「ありがとう」と言ってくれた。その表情は、少しだけ寂しそうでもあった。
俺は自分の席へ向かい、彼女は後方の席に集まっていた友達のもとへ戻っていった。彼女の後ろ姿を見送りながら、俺はふと思った。陽葵はどれだけ本気でこの部活の設立を考えているんだろう。
そんなことを考えながら、残りの授業は特に何事もなく進み、気がつけば夕焼け小焼けのチャイムが校内に響いていた。
◇◆◇◆
今日も、いつも通りリョウコと一緒に帰ることになるだろう。
教室を出ようとしたその時、ふと入り口の方を見ると、リョウコがちょうど俺の教室の前で待っているのが目に入った。
「へえ、ちょうどいいタイミングで会えたね。」
彼女は軽く微笑みながら、俺に近づいてきた。その表情はどこか楽しそうで、まるで「偶然だね、一緒に帰ろうか?」と言いたげだった。
俺は思わず苦笑しながら、自然と彼女の隣に立った。こうして俺たちは、夕暮れの光が差し込む廊下を並んで歩き出した。
「うん、これで少しは待たなくてもよくなるかな。行こうか?」
そう言うと、まるで俺が彼女の心の中を読んだかのようだった。
すると、リョウコは一瞬、言葉をためらったように見えた。
「…どうかした?」
「えっと… 少しだけ寄り道してもいい?」
どうやら、どこかに行きたい場所があるらしい。俺は特に気にすることもなく、
「行きたいなら別にいいよ」
と答えると、彼女は嬉しそうに微笑み、俺たちは歩き出した。
並んで歩きながら、俺はそっと彼女の手を握った。自分でも自然にそうした理由はよく分からなかったけど、彼女の手の温もりが心地よく感じられた。
彼女は驚いた様子もなく、むしろそのまま受け入れてくれているようだった。けれど、ふと彼女の耳に目を向けると、少しだけ見えていた耳の先が赤く染まっていた。
「…大丈夫?」
「な、何でそんなこと聞くの?」
「耳が赤いけど、何かあった?」
俺の言葉に、リョウコは思いがけない反応を見せた。慌てた様子でパッと手を離し、両手で耳を隠してしまったのだ。
しかも、動きを止めてしまったせいで、その顔がうっすらと赤く染まっているのがはっきり分かった。
彼女はぎこちなく髪を直し、耳が隠れるように整えてから、恥ずかしそうにもう一度そっと俺の手を握った。
「…よし、じゃあ… い、行こう」
「ところで、まだ行き先を聞いてないんだけど?」
「あっ、ごめんね、すっかり忘れてた!」
彼女は少し慌てた様子で続けた。
「実はね、今日が最後の販売日なの。限定のアイスがあるんだけど、私、まだ一度も食べたことがなくて… こういうのって逃したくないじゃない?」
「なるほど。でも、それが俺と何か関係あるのか?」
「えっと、それがね… そのアイス、カップル限定なんだよね。」
そう言うと、彼女は少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「だから… 察してくれると助かる。ごめんね、巻き込んじゃって。でも、その代わりに何かお礼するから!」
「ふーん、じゃあ、ひとつお願いがある。」
「え? 何?」
「これからも、一緒に出かける時はこうして手を繋いで歩きたい。」
俺がそう言うと、彼女は一瞬、言葉を失ったようだった。
別に、そう頼んだからといって、特別な意味があるわけじゃない。ただ、彼女の小さくて温かい手に触れるのが心地よかった。それだけで十分だった。
けれど、彼女の反応を見る限り、それをお願いするのは少し図々しかったかもしれない。
「…もしかして、私のこと好きなの?」
まあ、そう聞かれるのは予想していた。
「いや。ただ、君の手が温かくて気持ちいいから。それだけ。」
リョウコはしばらく俺をじっと見つめたあと、ふっと小さく笑った。
「…分かった。そうしよう~。」
「ありがとう。」
「別にいいよ。これでおあいこだね。」
リョウコの視線が再び恥ずかしそうに揺れ動いた。
屋上で「これから手を繋ぐことを始めよう」と俺が言った時とは違い、あの時の彼女は「たまにそうするくらいなら…」という雰囲気だった。
しかし、今回は「一緒に出かけるたびに手を繋ぐ」という話になっている。さすがにずっと繋ぎ続けていると手が疲れることもあるかもしれないが、それでも悪い気はしなかった。
そうしてしばらく無言のまま歩き続け、ようやく目的のアイスクリームショップに到着した。
店内はそれほど混んでおらず、列もなかった。空いている席もいくつかあるようだった。
俺たちは適当に席を選んで座り、しばらくすると店員が注文を取りに来た。
「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか?」
明るい声でそう言われ、リョウコがすぐに答えた。
「あ、すみません。カップル限定のスペシャルをお願いします。」
「かしこまりました。少々お待ちください!」
そう言って店員はカウンターの方へ戻っていった。
数分後、運ばれてきたのは大きめのガラスの器に入ったバニラとチョコのアイスクリーム。その上には可愛らしくチェリーが乗っている。
リョウコはそれを目にした瞬間、嬉しそうな表情を浮かべた。
俺はというと、特に感動するわけでもなく、スプーンを手に取ってまずは端の方から食べ始めた。
口に入れた瞬間、ただのバニラアイスではないことが分かった。何か特別な材料が使われているのか、普通のものよりも濃厚で、奥深い甘さがある。
なるほど。これならリョウコがこだわるのも分かる。確かに、一度食べたらやみつきになる味だ。
そんなことを考えていると、向かいに座る彼女が嬉しそうに微笑んでいた。
「ほんとに好きなんだな、こういうの。」
「うん、好きだよ。あなたと同じくらい。」
──その瞬間、空気が止まった。
俺も彼女も、言葉を失ったまま沈黙が訪れる。
しかし、リョウコ自身は最初、その静寂の理由に気づいていないようだった。
そして20秒ほど経ってから──
「ち、違うの! そういう意味じゃなくて! アイスが好きってこと! あなたが好きって意味じゃないからね!? アイスのことよ!? 分かった!? ほ、ほら、期待外れでごめんね!」
彼女は慌てて訂正しながら俺を見る。
俺はその言い訳じみた言葉を受け止めつつ、肩をすくめた。
「うん、まあ、そうだと思ったよ。」
そう返すと、彼女は少し安心したのか、再びアイスに集中し始めた。
スプーンが進むにつれて、アイスの量も徐々に減っていく。
そして、残りわずかになったところで、リョウコがまた店員を呼んだ。
なんだか、彼女の態度がさっきよりも俺に対して自然になっている気がする。
少しずつだが、俺にだけ見せるリョウコの一面が増えてきた。
彼女はアイスを食べ終えた後、追加でチョコレート味のスペシャルを注文した。今度はテイクアウト用らしい。
その後、会計を済ませて店を出ようとした時だった。
「お客様、お待ちください! こちらもセットに含まれています!」
店員が俺たちを呼び止め、手渡してきたものは──
小さなチャームだった。
白と青の二つのマスコット。それぞれの胸の部分に半分のハートが描かれており、二つを合わせるとひとつのハートが完成するデザインになっていた。
リョウコはそれを受け取り、笑顔で店員にお礼を言った。
リョウコは俺の方へ向き直り、そのまま店を後にした。
「ミナミくん、これは今日の記念に渡しておくね。私はもう片方をリュックにつけるから。」
そう言って、彼女は青いマスコットを俺の手にそっと乗せた。そして、自分の白いマスコットをリュックの目立つ場所につける。
「…それに、せっかくもらったのに無駄にするのももったいないし…もし要らないなら、私がもらっちゃうけど?」
彼女は冗談めかした口調で続けた。
「いや、大丈夫。俺もちゃんとつけるよ。さっき頼んだことの埋め合わせみたいなものだしな。」
そう言いながら、俺は彼女の左手にある袋に目を向けた。さっきテイクアウトしたチョコレートのスペシャルアイスが入っているやつだ。
「それ、持とうか?」
俺がそう尋ねると、リョウコは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「…うん、お願い。」
俺が袋を受け取ると、彼女はゆっくりと俺の手を取った。まるで、それを望んでいたかのように。
「そういえば、これね、美翔ちゃんとアカネちゃんの分なの。LINEで頼まれたから買ってきたの。もちろん、お金は気にしなくていいよ。私が勝手に買ってきたものだし。」
「なるほどな。…ていうか、お前ら結構話してるんだな。」
「うん、最近は特にね。」
彼女が少し微笑みながら答える。
夜風が少し冷たくなってきて、ふと周りを見れば、街のネオンがいつの間にか明るく灯っていた。
「もうすっかり夜だな。家まで送るよ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとうね、わざわざ付き合わせちゃって。」
彼女が少し照れたように言う。
手の中にある温かい感触と、冷たい夜風。その対比が妙に心地よかった。




