第104話 初めての本命チョコレート
いつの間にか眠ってしまっていたみたい。
お昼休みの終わりを告げるチャイムの音で、私は目を覚ました。
ぱっと目を開けると、そこにはミナミくんの視線があった。
彼はまだじっと私を見ていた。
「寝ちゃってたよ。しばらく起きないかと思った。」
私は慌てて起き上がった。髪の毛が顔にかかって乱れていたので、急いで整えながら、彼の目を見ないようにしていた。
なんだか、見つめ返す勇気が出なかった。
「すごく幸せそうな顔で寝てたから、起こすのがもったいなくてさ。」
「なんで起こしてくれなかったの!? 起きなきゃダメでしょ。授業始まっちゃうよ、ミナミくん、早く行こう、遅れちゃう!」
私は立ち上がって、すぐに教室のドアに向かって歩き出した。
次の授業にはまだ間に合いそうだった。ミナミくんもすぐに後ろからついてきた。
そして彼は自分の教室へ、私は自分の教室へとそれぞれ向かった。
来年も、同じクラスになれるのかな……なんて、ふと思った。
***
授業が終わって教室を出るとき、私はスマホを取り出してミナミくんにメッセージを送ろうとした。
準備はすべて整っていた。あとは、いつもの場所で彼に会うだけ。
……のはずだった。
荷物の中を確認したそのとき、違和感を覚えた。
──ない。
もう一度よく探してみたけど、見当たらなかった。
それで、やっと思い出した。今日、授業中に何度か優衣からの着信があったことを。
その時は授業中だし気にしなかったけど、今となっては──
「もしかして……」
すぐに彼女に電話をかけた。数コールのあと、電話に出てくれた。
「リョウコ様、今そちらに向かっています。ササキ様用のチョコレートの袋をお忘れです。」
「ごめん、優衣……授業中だったから気づかなかった……」
「大丈夫です、リョウコ様。家の用事がちょうど終わったところなので、今出たばかりです。もう少しだけお待ちください。」
「うん……ありがとう、優衣。本当にありがとう、こんなことまでしてくれて。」
「お気になさらず、リョウコ様。」
通話を切ると、私は小さく息を吐いた。
とりあえず、少し安心できた。優衣がこうして動いてくれてる。
でも、それでも時間が押してきていた。
私はミナミくんにメッセージを送り、少し遅れることを伝えて、公園で待っていてもらうようお願いした。
時間はあっという間に過ぎていった。
気づけばもう午後6時。ようやく、誰かがやって来るのが見えた。
私はその人をじっと待っていた。遠くから見慣れた車が見えた瞬間、すぐに分かった。
──あれは、優衣だ。
車が私の前で止まった時、私はすぐに乗り込んだ。できるだけ公園の近くまで送ってもらうようお願いする。
後部座席に座ると、安心から自然とため息が漏れた。優衣はいつも通り、助手席に座っていた。
ようやく、チョコレートが手元に戻った。
あとは、ミナミくんの元へ行くだけ。
これ以上は、待たせたくなかった。
「リョウコ様、ご武運を……と申し上げたいところですが、きっとその必要もないでしょうね。」
彼女はこちらを振り返らなかったけれど、その穏やかな声だけで、十分に伝わった。
それを聞いた私は、小さな自信をもらった気がして、微笑んだ。
彼女がそばにいてくれるだけで、心強かった。
「ありがとう、優衣。あなたがいてくれて本当によかった。」
***
もうすぐ公園に着くところだった。
あとは、ほんの少しの勇気を振り絞るだけ。
私は深く息を吸って──そしてもう一度吸って──
ようやく、一歩を踏み出した。
足が震えるような気がして、ゆっくりと歩いた。
公園を囲む塀の角から、そっと顔を覗かせてみると……そこに彼がいた。
でも──ミナミくんは、ひとりじゃなかった。
彼の隣には、女の子が立っていた。
明るい表情と、あたたかさを感じさせる笑顔。
真っ直ぐで艶のある黒髪が肩にかかっている。
その距離からでは彼女の目元まではよく見えなかったけれど──
知らない子だった。見覚えはなかった。
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女はまるでミナミくんと親しいかのように、自然に近づいていた。
──まるで、私の知らない信頼関係がそこにあるように見えた。
どうして、そんな子のこと、私に話してくれなかったの?
……ちがう、そんなふうに考えちゃだめ。
きっと、何か理由がある。きっと……
──誰を騙そうとしてるの? 自分自身に?
わたしは、もう、待っていられなかった。
知りたいなら、今、知るしかない。
一歩前へ。
そして、もう一歩。
私は、まっすぐ彼らのほうへ歩き出した。
ミナミくんの表情から目を離さないまま。
彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
他人と話すときに見せる、あの優しい笑顔。
私だけに見せてくれる笑顔じゃなかったけど……
──それが、少しだけ、安心させてくれた。
ふたりが何を話していたかは聞き取れなかったけど、
まもなく、私の存在に気づいたようだった。
黒髪の女の子は、ミナミくんの隣で笑っていたけど、
私を見ると同時にその笑顔がぴたりと止まった。
表情が、すっと変わった。
ミナミくんは焦ることなく、自然な口調で彼女に向かって言った。
「お、来た。彼女だよ。俺が付き合ってるって話してた子。」
──えっ……?
私は、目を大きく見開いた。
今……今、ミナミくん、今のを……
他の人の前で、言ったの……?
動けなかった。頭が真っ白になった。
黒髪の女の子は、ぽかんと口を開けたまま私を見ていたけど、
すぐに、にこっと笑って──
次の瞬間、いきなり私のほうへ走ってきた。
「うわ〜! ササキくんの彼女さんって、あなたなんだ! 可愛い〜!
ずっと会ってみたかったの〜!」
……会ってみたかった?
どうして……?
なぜ彼女が、そんなことを……?
──その顔。
どこかで見たことがある。
絶対に……どこかで。
「えっと、ありがとう……。でも……なんだろう、どこかで見た気がするんだけど……はっきり思い出せなくて。」
彼女は、ちょっと困ったようにミナミくんのほうを見て首を傾げた。
「えっ?もう話してたと思ってたんだけど?」
彼女は小さく笑いながら肩をすくめた。
「それに……私のこと、みんな知ってるんじゃないの?」
その言い方は冗談めいていたけれど、どこか自信に満ちていて、自然に周囲を惹きつけるような明るさがあった。
「でも、ちゃんと自己紹介するね。内緒にしてくれるなら、だけど?」
私は小さくうなずいた。なんだか緊張して、喉が少し乾いていた。
彼女は自信たっぷりに微笑むと、片手を腰に当て、少し身を乗り出して私を指差した。
「私の名前は高宮マリー。アイドルなの。最近デビューしたばかり。サワタリさん、これからよろしくね♪」
──た、高宮マリー!?
頭の中が真っ白になった。まさか、あの高宮マリー!?
もちろん知ってる。芸能界で今注目されてる新人アイドル。テレビでもよく見る顔。そんな人が、目の前に……!
「た、高宮さん……こちらこそ……えっと、すごい……信じられないくらいです」
心臓がドクドクしていた。ただ知っている人というだけじゃなかった。
本当に「特別」な存在──そんな人が、私に向かって普通に話してくれてるなんて。
ミナミくんは、少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん、リョウコ。前もって言えなくて。急に話しても信じてもらえない気がして……」
「ううん、大丈夫。ミナミくんの言う通りだよ。証拠なしでそんなこと言われても、たぶん冗談だと思ってた。…それにしても、どうやって知り合ったの?」
まだ心の整理がつかないまま、私はそう尋ねた。
ミナミくんと有名アイドルが一緒にいる光景が、あまりに現実離れしていたから。
「ふふ、じゃあ、私はそろそろ行くわね」
マリーは軽く手を振って、笑顔のままくるっと踵を返した。
「今週末ライブがあるから、来れたらぜひ。二人とも、またね〜!」
まるで風のように現れて、風のように去って行った。
***
彼女が立ち去ると、そこにはミナミくんと私だけが残った。
まるで時間が止まっていたように、彼は同じ場所でじっと私を待っていた。
私はゆっくりと近づいていき、そっと声をかけた。
「待たせちゃってごめんね、ミナミくん。呼び出しておいて、遅れるなんて……」
「大丈夫。きっと何か事情があったんだと思ったよ。気にしてないよ」
彼の穏やかな声が、少しずつ私の不安を溶かしてくれた。
それでも、手の震えは止まらなかった。
バッグの中から、慎重に、あの袋を取り出す。
リボンの結び目を確認して──
そして私は、一歩前に出て、両手でその袋を差し出した。
視線は下を向いたまま、目を閉じて、言葉を絞り出すように口にした。
「これ……ずっと準備してきたの。あなたのためだけに、心を込めて作ったチョコレート……」
しばらく沈黙が続いた。
だけど、その静けさの中で、彼の手が袋をそっと受け取る気配を感じた。
「……これは、本当に予想外だった。ありがとう、リョウコ。
……誰かからこうしてチョコをもらうの、実は初めてなんだ」
その声を聞いて、私はゆっくりと顔を上げた。
彼の目が、まっすぐ私を見ていた。
変わらない、優しくて静かなまなざし。
「ありがとう、ミナミくん……。実はね、ちょっと怖かったの。
受け取ってくれなかったらどうしようって……」
私は少しだけ笑いながら、そう告げた。
彼は軽く首を振って、まっすぐ答えた。
「そんな理由で断るわけないよ。断る理由なんて、一つもない」
その瞬間、胸の奥にあった不安が、ふっと消えていった。
ミナミくんは、ためらうことなく袋を開け始めた。
あの、いつもの落ち着いた仕草で。どんな時も慌てず、私の心を静かに乱すその穏やかさで。
彼はハート型のチョコを一つ取り出して、自然に口へ運んだ。
──全部ハート型にしたのに、こうして食べる姿を見ると、急に恥ずかしくなる。
一秒一秒が、永遠に感じられた。
おいしいかな……? 甘すぎたかな? 少し溶けて形が崩れちゃってたらどうしよう……?
視線を逸らしながらも、彼の表情をうかがっていた。
「ど、どう……だった……?」
ミナミくんは、ふっと優しく微笑んだ。
「すごく美味しいよ。リョウコが作ったんだから、当然だよね」
そう言って、また次のチョコを手に取った。
──止まらない様子だった。
その光景を見て、私は自然と笑顔になった。
ああ、よかった……これでようやく、胸のつかえが取れた気がした。
ふーっと長い息を吐いて、心の底からほっとした。
それから私は、最近のことをミナミくんに話した。
どうしてこんなに忙しかったのか、どうして優衣を頼ることになったのか、
そして、どれだけこのレシピに時間をかけてきたかを──。
***
「つまり、何日も前から準備して、いろんなレシピを調べて……それで優衣さんが最後まで手伝ってくれたんだね」
「うん……改めて考えると、優衣には感謝しきれない。ほんとに、たくさん助けてくれたの」
「……リョウコ、本当にありがとう。
女の子からこういうのをもらうの、初めてなんだ。しかも、こんなに美味しいなんて……」
その言葉だけで、今日一日が報われた気がした。
心から嬉しくて、体が少し震えるくらいだった。
──本当に、間に合ってよかった。
「ううん……そんなにすごいことじゃないよ。
だって……これって、彼女として当たり前のこと、でしょ……?」
そう言いながら、自分の言葉に自分が一番照れていた。
顔がぽっと赤くなって、視線を合わせるのも少し恥ずかしかった。
──気づけば、もう帰る時間だった。
試験も近いし、そろそろ解散するのがちょうどいい。
名残惜しさを感じながら、私たちはそれぞれの家へと帰ることにした。
だけど、帰り道はどこか軽くて、心がぽかぽかしていた。
ずっと頑張ってきたことが、ちゃんと伝わって、ちゃんと届いて──
そして、彼の笑顔が見られた。
それだけで、今日は完璧だった。




