第103話 バレンタインのひととき
こうして、その日がやって来た。
私はいつもより早く起きて、胸がドキドキしていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋を柔らかな金色に染めていた。
まだ少し眠たそうな目をこすりながらも、私はまっすぐ台所へと向かった。
今日こそは、必要なものをすべて準備するつもりだった。
用意するチョコレートは、渡す相手によってデザインを変える予定だった。
女の子の友達には可愛い動物の形を──
でも、ミナミくんには……もう何日も前から決めていた。
「うん。彼のは、ハートの形にするって」
チョコの成形には数時間かかった。
溶けたカカオの甘い香りが家中に広がっていて、
それはまるで、彼と過ごした時間を優しく思い出させてくれるような香りだった。
チョコが冷えたら、透明な袋に丁寧に詰めて、リボンや小さな花の飾りを添えた。
女の子たち用のチョコは一つの場所に、
そしてミナミくんだけの特別なチョコは、別にして大切に保管した。
準備が整ったら、新しいリボンで髪を結び、学校へと向かった。
***
登校すると、いつもと変わらないような日だった。
だけど、空気にはどこか違う気配があった。
ただの風じゃない、何か温かいものが流れている気がした。
以前ならそんな雰囲気が少し鬱陶しく感じていたかもしれないけど──
今日だけは違った。
ずっと待ち望んでいた何かが始まるような、そんな気がした。
「緊張する……。ミナミくん、どんな反応をするかな……?」
胸の中で蝶が舞っているようで、じっとしていられなかった。
教室に入るとすぐに自分の席に座り、気持ちを落ち着かせようとした。
まもなくして、ユメがいつもの明るさでやってきて、
その後ろからはよし子が、元気いっぱいの笑顔で入ってきた。
「おはよう、リョウコちゃん!」
「おはよう、ユメ、よし子」
私はバッグの中を探り、チョコの小袋を取り出した。
よし子は穏やかながらも興味津々の表情で私を見ていた。
「ねえ、これ……何日も練習して作ったの。
味はどうか分からないけど、心を込めたから」
二人は目を輝かせながら、袋を受け取った。
まるで宝物を大切に扱うように、そっと手に取った。
「わあ〜! すごく可愛い!」
「ほんとだ。お花の飾りもついてて、形も素敵。
リョウコ、めちゃくちゃ上手じゃん!
佐々木くんも、きっと喜ぶと思うな〜」
──ああ、彼にはもっと特別なのを用意してるんだって言いたかった。
袋を開けてひと口食べた彼女たちの顔が、すべてを物語っていた。
目を見開いて、ぱっと笑顔になる。
「なにこれ、すっごく美味しい! 初めて食べる味!」
「そう言ってくれて嬉しい。ありがとう……
あ、そうだ……川木ちゃんにも渡そうと思ってたけど……やっぱり私が渡すよ」
最初はお願いしようと思っていたけど、やっぱり自分の手で渡したくなった。
昼休みにミナミくんと会う前に、ちょっとだけ時間を使えばいい。
二人は私の計画をすでに知っていたから、何も言わなくても分かってくれていた。
ありがたかった。
だって、チョコを誰かにあげるのも、
誰かと「付き合う」のも、今日が初めてだったから。
まもなく先生が入ってきて、授業が始まった。
でも私はずっと時計を見ていた。
1秒1秒が、やたら長く感じた。
そしてようやく、昼休みのチャイムが鳴る。
すぐに席を立って、川木さんに声をかけた。
そのタイミングで、ユメとよし子は別の女子に呼ばれて離れていった。
たぶんファンの子たちがチョコを渡しに来たのだろう。
数分後、期待を込めた表情の川木さんが私のところへやってきた。
時間がなかったので、私もそのまま彼女のほうへ向かう。
「これは、友情チョコなの。よかったら食べてみて……」
言い終わる前から、彼女はもう笑っていた。
袋を両手で丁寧に受け取り、顔いっぱいに嬉しさを浮かべていた。
「ありがとう、リョウコちゃん。まさか今日チョコをもらえるなんて思ってなかったから、ちょっと疑ってたの。すごく嬉しいよ」
「気にしないで、友達なんだから当然だよ。あのね……その前に、ちょっと相談してもいい?」
「うん、もちろん。なに?」
「その……ミナミくん用のチョコも作ったんだけど、どうやって渡せばいいか分からなくて。サプライズにしたいけど、いい方法が思いつかなくて。何かアドバイスある?」
「うーん、そうだな……放課後に渡すのがいいかも。ちょっと焦らしてから渡すと、特別感が出ると思うよ。いいアイデアでしょ?」
それも良さそうだったけど……その時、ふと思いついた。もっと良い方法があるかもしれない。
「ありがとう、川木ちゃん。そうしてみる」
そう言って、弁当を手に私は急いで屋上へと向かった。
いつもミナミくんと一緒にお昼を過ごす場所だったけど、今日は少し遅れてしまった。
廊下の窓から差し込む光が、階段を黄金色に照らしていた。
胸の高鳴りを感じながらドアを開けると、そこに彼はいた。
フェンスの前で立ち尽くし、空をじっと見つめていた。
風が髪を揺らしていて、その横顔はまるで絵葉書のようだった。
彼はすぐにこちらを振り返った。まるで、私が来るのを感じ取っていたかのように。
「遅れてごめんね、ミナミくん」
「謝らなくていいよ。ほんの2分くらいだったし。2分くらい遅れるのは悪くないよ」
「そっか……それで、さっきは何してたの? 何を見てたの?」
「え? ああ、空を見てたんだ。今日は完全に晴れてるし。
しばらく見てると、すごく広くて……果てがないように感じるんだ」
もう一度空に目を向ける彼を見て、私もつられて同じ空を見上げた。
「本当だ……すごく綺麗。どこまでも続いてるみたいだね」
それから、私たちは一緒にお昼ご飯を食べ始めた。
そして、食べ終わる頃には、私が彼の膝枕で少しだけ横になるのが当たり前のようになっていた。
でも今日は、最後の一口を食べ終えたときに、私は真面目な顔で言った。
「ねえ、今日は……キスはなし、ね? 最近ちょっと多すぎる気がしてて、大事なことを飛ばしちゃってるような気がするの」
彼は少し驚いたように私を見た。
「そんなにしてないけど、そう感じる?」
「うん。もっと特別な時だけにした方がいいと思うの。どう思う、ミナミくん?」
「それって……どのくらいの頻度のこと?」
「たとえば……昨日みたいに。二人とも、ね〜その、すごくその気になったときとか」
彼はすぐに察したようで、表情を変えずにうなずいた。
「うん、わかった。リョウコがそう思うなら、それでいいよ」
「……ぷっ、ふふっ、ごめんねミナミくん。今のはちょっと冗談だったの。
でも、ほんのちょっとだけ本気でもあるの。
こうしてると、私たち、ちょっと早すぎる気がして。
もっと大事なことを、すっ飛ばしちゃいそうで」
「うん、実は僕も思ってた。
このままだと……その、最後のステップに進んじゃいそうで……未来の話だけど」
「未来の話?」
彼は視線を逸らし、少しうつむいた。
私は思わず前のめりになって、その顔をのぞき込んだ。
そして見てしまった。
彼の頬が、真っ赤に染まっているのを。
「つまり……その……もし将来、僕たちが結婚することになったら……って話。
まだ付き合ってそんなに経ってないのに、変な話だよね。ごめん」
私の目が大きく見開いた。
頬が一気に熱くなるのを感じた。
──え? ミナミくん、今、もし私たちが将来結婚するとかって……?
そんなふうに考えてくれてるの……?
いやいや、深く受け止めすぎちゃだめ。
きっとただの言い回し、そんなつもりじゃない。
でも……それでも、嬉しい。
もう、心臓の鼓動が止まらなかった。
このままじゃ、彼に全部バレちゃう……
「ミナミくん、それじゃあ決まりだね。あ、その前に……失礼」
そう言って、私は彼の膝にそっと頭をのせた。
あのちょっと恥ずかしくて、でもすごく優しい時間の後、
もう一度落ち着くために。
見上げると、彼の顔が見えて、私は笑った。
「リョウコ……」
「ちょっとだけだから、ね? 少しだけ」
「……うん、少しだけなら」
「ありがとう、ミナミくん」
──そうして過ごしたこのひとときは、
ほんの短い時間だったけど、永遠のように感じられた。




