第102話 チョコに込めた気持ち
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それでも、日々はいつも通りに過ぎていった──その日がやって来るまでは。
いくつもの変化のない日が続き、もう何も起きないのではと疑い始めていた。
希望は、もはやほんのわずかしか残っていないと思っていた。
その朝、ベッドから起きて登校の準備をしていた僕は、一階に降りたところで台所から声をかけられた。
「お兄さん、おはよう。ちょっと来てくれる? 聞きたいことがあるの」
声の主は美翔だった。僕は無言のまま近づく。
その時、彼女が何をしていたのか、すぐに分かった。
彼女は早起きしてチョコレートを作っていたらしい。
台所には、たくさんの道具、型、そしてラッピング用品が散らばっていた。
「おはよう、美翔……」
美翔はにこっと笑って、僕に小さなチョコを差し出した。
「このチョコ、味見してくれない? 感想が聞きたいの」
彼女の手のひらには、小さな動物の形をしたチョコレートが乗っていた。
しっかりとした質感で、見た目もとても可愛らしい。
僕はそれをそっと受け取り、口に運んだ。
味は濃厚でバランスが良く、甘すぎず、でも……何かが足りない気がした。
何かが欠けているような、でもそれが何かは思い出せなかった。
僕の表情に浮かんだわずかな疑問に気づいたのか、美翔は興味津々に身を乗り出した。
「で? 美味しかった?」
「──ああ、美味しかったよ。でも、なんとなく……何かが足りない気がするんだ。うまく言えないけど」
「え〜? 私は美味しく感じたけどなあ。お兄さんの気のせいじゃない?」
そう言って満足そうに笑うと、美翔は再びチョコ作りを再開した。
透明な袋にいくつかのチョコを丁寧に詰めて、小さな飾りまでつけていた。
数は多くなかった。せいぜい三人分くらいだろうか。
きっと仲のいい友達に渡すのだろうと思った。
ふと、美翔に彼氏ができたら……なんて考えてしまった。
できるだけ考えたくはなかったが、誰もがいつかは成長していくものだ。
今日という日、いったい何が起こるのだろう。
理由は分からないけど、どこか胸騒ぎがした。
◇◆◇◆
二日前──
授業が終わってからの時間、私はまだミナミくんを避けていた。
距離を置いてしまったようで、少し寂しくもあったけど……
でも、これにはちゃんとした理由がある。最後にはきっと、分かってもらえるはず。
今日が初めての本格的な練習の日。
たくさんのチョコレートのレシピを調べて、その中から選んだお気に入り。
うまくいけばいいな……そんな期待を胸に。
……だけど、何度やっても思い通りにいかない。
今回が、最初の本気の挑戦だった。
でも、オーブンから取り出してみると、出来上がりは想像とはまるで違っていた。
真っ白になるはずのものまで、どれも黒っぽくなってしまっていた。
ゼロからチョコを作るのは初めてのことだった。
上手くいくかどうかなんて分からない。
とにかく、味を見てみるしかなかった。
見た目が悪い中で、一番マシなものを手に取った。
「見た目じゃない、中身が大事」って言葉を信じて、口に入れてみた。
……でも、現実は違った。
苦すぎるし、少し酸っぱい感じもする。
なにより、硬くて、口の中で広がる感じがまるでなかった。
もっと練習しないと。
それでも、失敗するたびに少しずつ学んでいた。
甘さは増したけど、まだまだ硬さが気になる。
もう、どうしたらいいか分からなかった。
「どうすれば……ちゃんとしたチョコが作れるの……?」
そのときだった。
背後に気配を感じて、そっと振り返ると……
優衣が、廊下の隅からこちらを見つめていた。
その表情は穏やかで、どこかすべてを理解しているようだった。
静かに歩み寄ってきて、優しく声をかける。
「リョウコ様? どうなさいましたか? そこで何を……?」
「……あっ、その、チョコを作ってるの。でも、うまくいかなくて……」
話しているうちに、優衣はさらに近づいてきた。
彼女はこの家で一番料理が上手だったし、家系的にも料理の才能に恵まれていた。
この家の人たちは、どんな料理でも作ることができる。何だって。
でも、私はもうある程度大きくなったから、自分で料理を覚えようと思った。
だいぶ上達してきたとは思うけど、やっぱりまだ上手くできないこともある。
──その一つが、これだった。
でも優衣は違う。ちゃんと分かっていた。
メイド服を自然に着こなした優衣は、いつもの穏やかな雰囲気をまといながら近づいてきて、優しく言った。
「よろしければ、お手伝いしますよ。リョウコ様」
それはもう、失敗続きの私にとっては最高の知らせだった。
「ぜひお願い! 助けてほしいの」
彼女はすぐにテーブルの上の材料に手を伸ばし、作業を始めた。
私はその動きを一つひとつ、じっと見つめながら覚えようとした。
チョコレートを作っていく彼女の手元を見ていて、今まで自分がどれだけミスをしていたかが分かった。
バターの量、焼き時間、型の使い方──
小さなことの積み重ねが、大きな違いになるのだと実感した。
完成したチョコを見て、私のものとの違いは一目瞭然だった。
優衣のホワイトチョコはちゃんと白くて、ビターのものも綺麗な光沢のあるブラウンだった。
一方で、私のは全体的に焦げたような色で、焼きすぎてしまったことがよく分かった。
形もまるで違っていた。
優衣のチョコは小さな動物の形をしていて、とても可愛らしい。
それに比べて私のは……今見ると、なんだか変な形ばかり。
「優衣の、すごく綺麗……。私のなんて、変な形だよね」
彼女は微笑むことなく、静かに冷ましていたチョコの一つを口に運んだ。
私も真似して、まずホワイトチョコを、それからビターを食べてみた。
どちらも味が完璧で、バランスも良くて──思わず、もっと食べたくなるほどだった。
「優衣、本当にすごい。あなたのおかげで、作り方がずっとよく分かったよ。ありがとう」
「まだまだこれからですよ〜」
それは嬉しい言葉だった。
彼女が一つひとつ確認してくれれば、きっと成功に近づける。
初めての成功は味だけだったけど、それでも前よりずっと良くなっていた。
そんなとき、優衣が興味深そうに尋ねてきた。
「リョウコ様……そのチョコは、佐々木様に差し上げるために練習していらっしゃるのですか?」
──えっ?
その瞬間、思い出してしまった。
あの日、彼女に見られていたことを。
ごまかしても無駄だ。
ミナミくんのことで具合が悪くなったときから、優衣はきっと気づいていた。
ちょっと恥ずかしかった。
まるで妹のように世話をしてくれる彼女の前で、そんなことを言うなんて──
「うん……ミナミくんに渡したくて。ほかの人にも少し作るけど、彼のだけは特別なものにしたいなって」
「リョウコ様は、佐々木様のことをとても大切に思っていらっしゃるのですね。すごく努力されています」
「これはその……前に私が風邪をひいたときに、彼が看病してくれたから、そのお礼をしたいだけで──」
……しまった。口が滑った。
「お礼」なんて、それだけじゃない。
私は気づいていた。これは「ありがとう」だけじゃなくて……
私の「気持ち」だったんだ。
声に出すのが、ちょっと恥ずかしいだけで。
──……
「なるほど。ですが……その作り方は、ただのお礼以上に見えますよ」
「はは……バレちゃった。うん、実はそう。お礼だけじゃない。これは、私の気持ち。……内緒にしてくれる?」
嘘をつく意味なんてなかった。
今や、この家で私の本心を知っているのは、彼女だけだ。
「お任せください、リョウコ様。誰にも口外いたしません」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
信頼できると、はっきり分かった。
そして──今、味方が一人増えた。
だからきっと、これからはもっと上手く作れる。
完璧なチョコレートになるまで、一緒に練習していこう。




