第101話 サプライズの準備中
昼食はいつもよりも早く終わった。
彼女は食べ終えると、まるで空腹も重荷の一つだったかのように体をぐっと伸ばした。
「本当にお腹空いてたんだね」
彼女は満足げに微笑んだ。
「うん、最近この時間になるとお腹が鳴っちゃうの。それに、夜になるとつい自分のために作りすぎちゃって……。お姉ちゃんに太るって言われたの。そしたらミナミくんに嫌われちゃうかも、って」
「え? なんでそうなるの……?」
そう聞き返そうとした瞬間、彼女が俺の膝に頭を乗せてきたのに気づいた。
あまりに突然で、下を見て初めて状況がわかった。
彼女はにこっと小悪魔のように笑い、唇を指差してささやいた。
「“なんで”って、どういう意味? ミナミくん」
その姿があまりに可愛くて、俺はもう何も言えなくなっていた。
彼女の頭をそのままにして、邪魔しないようにそっとしておくことにした。
「……いや、なんでもない。忘れて〜」
………………
「ねぇ、ミナミくん。ひとつ聞いてもいい?」
「ん? なんだ?」
「将来、何かしたいことってある? 大学で勉強したいこととか、夢とか……」
「うーん、まだ考えてないな。正直、今はまだ早い気がしてて……何も決まってないんだ」
「どうして?」
「なんというか……あまり考える余裕もなかったし、まだ時間はあるかなって」
「そうなんだ。わかる気がする」
「リョウコは? 将来どうしたいって思ってる?」
彼女は少しだけ視線を逸らして、考えるように口を開いた。
「うーん……正直、私もはっきりとは。でも、多分、パパの会社の一つを引き継ぐことになると思う。それで今、一生懸命勉強してるんだ」
ちょうどいいタイミングだった。ずっと心にあったあの質問を、今こそ聞こうとした――。
……が、その瞬間、リョウコがまたぐっと体を伸ばして、ゆっくりと起き上がった。
そして、にやりとした顔で自分の膝をポンポンと叩いた。
「次はミナミくんの番ね。でも、上を見ちゃダメだからね? ちょっと恥ずかしいんだから〜」
俺は素直に従って、彼女の膝に頭を預けた。
その仕草だけで、彼女が忙しい理由を無理に説明する必要もないと思えた。
……仕方のないことなんだ。そう感じた。
少しして、彼女が優しく俺の髪に触れ始めた。
その指先は、とても穏やかで、温かかった。
彼女の膝は、春先の陽だまりの草原に寝転んでいるような感触だった。
柔らかくて、温かくて、静かで――でも、痛みのない沈黙。
「ごめんね、ミナミくん……あまり一緒にいられなくて。怒ってるかもしれないし、変なこと考えてるかもしれないけど……もう少しだけ待っててくれないかな? 終わったら、ちゃんとお礼するから」
「え? お礼って……どんなの?」
彼女は顔を近づけてきて、俺の頬にそっとキスをした。
その間もずっと、優しく髪を撫でてくれていた。
「それは……秘密。言っちゃったら、サプライズにならないから」
「そっか……じゃあ楽しみにしてるよ。なあ、リョウコ。最初に出会った時は、すごく冷たい子だと思ってたけど、今は本当に優しくて、まっすぐで……そういうところ、すごく好きなんだ」
その言葉に、彼女は顔を真っ赤にして、うつむいた。
「ミナミくん……そういうの、急に言わないでよ……どうしたらいいかわからなくなるから……」
俺はその反応が見たくて、つい顔を上げてしまった。
でも――その瞬間、彼女が再び俺にキスをしてきた。
今度は、唇に。
まるで、感情が先に体を動かしたみたいに。
一瞬だけのキスだった。けれど、そこにはまだ超えられない境界があるような気がした。
「……もう、ミナミくんのバカ。見ちゃダメって言ったのに」
「ごめん。どうしても我慢できなかったんだ。あまりにも可愛くて、君の顔が見たくなったんだよ。」
彼女の言葉通り、もう一度そっと視線をそらした。
静かな時間が流れた。しばらくすると、彼女はまた、優しく僕の髪を撫で始めた。
そして、思いがけず、柔らかい声で囁いた。
「……ねえ、ミナミくん。試験が終わったら、うちの両親に会ってみない?」
「えっ? 急にどうしたの? それに……うまく話せるか分からないし、嫌われたらどうしようって思って。」
「そんなこと、絶対にないよ。きっと気に入ってもらえるって思う。……私、確信あるから。」
そう言った彼女の目は、少しだけ不安そうに揺れていた。
そしてそのまま、声を落として――まるで夢みたいに小さな声で呟いた。
「それに……できれば、その時……私のこと、お嫁さんにしてくださいって……言ってくれたら、嬉しいな。」
「そ、そんなこと言われたら、断れないじゃないか……。うん、分かった。君がそこまで言うなら、その時が来たらちゃんと行くよ。」
彼女はさっきと同じ、あたたかな笑みで頷いた。
その表情だけで、不思議と勇気が湧いてきた。
それと同時に、胸がふわりと温かくなった。
僕はそのまま、彼女の膝の上で目を閉じた。
彼女の手が、また静かに髪を撫でていた。
何も考えずに、そのぬくもりに身を預けていた。
……少なくとも、チャイムが鳴るまでは。
昼休みの終わりを知らせる、あの音が鳴り響いた時まで。
気持ちの整理はまだ完全じゃなかったけど、少しだけ――
ほんの少しだけ、心が落ち着いていた。
いつも通り「また明日」と約束して、僕たちはそれぞれの教室へと戻った。
彼女が何をしているのか、本当のところはまだ分からない。
けれど、無理に問い詰めることじゃない。
きっと、大切なことなんだろう。
だったら……もう少しだけ、待とう。
信じたいんだ。彼女のことを。
その日の放課後、早めに帰ることになった僕は、下校中にふと耳にした。
「バレンタイン」の話題。
すれ違う生徒たちが、楽しそうにおしゃべりしている。
これまで一度も気にしたことのない行事だったけど――
もしかしたら、何かが起こるかもしれない。
そう思うと、不思議と胸が高鳴っていた。
「……もしかして、リョウコ……何か準備してるのかな。」
そんな考えがふと浮かんで、思わず呟いた。
「……川木さんに聞いてみようかな。」
その日の授業の合間。
ふとした空き時間に、僕は川木さんに近づいた。
彼女は前の授業のテキストを読んでいた。
そっと背中に手を伸ばして、軽く肩に触れる。
驚いたように彼女が振り返り、僕に問いかける。
「どうしたの、佐々木くん?」
「ちょっと、聞きたいことがあってさ……。もしかしたら知らないかもしれないけど……」
「なになに? 前の授業のこと?」
「ううん、違うよ。実は、リョウコのことなんだ。」
「リョウコちゃん……?」
「最近、ずっと忙しそうで……。その理由を教えてくれるって言ってたんだけど、やっぱり気になって仕方がなくて。
川木さんなら、何か知ってるかなって……思ったんだ。」
川木さんは、小さくため息をついて苦笑した。
そして、手で額を押さえながら言った。
「……はあ、やっぱり気づいてなかったんだ。佐々木くんって、ほんと鈍いよね。」
その表情と口調だけで、何かを知っているのは明らかだった。
でも、それ以上は話してくれないような雰囲気だった。
「……それって、どういう意味?」
「うん、私、ちゃんと知ってるよ。でもね――
リョウコちゃんが自分で伝えたいって思ってるはずだから。
彼女を信じて、待ってあげるのがいちばんだよ。」
──やっぱり。
彼女のことは、彼女自身の口から聞きたい。
そう思っていたのは、間違いじゃなかった。
……もしかして、チョコレート……?
いや、もうすぐバレンタインだし、その可能性は高い。
どうして、それに気づかなかったんだろう……。




