第100話 アイドルにとっての予期せぬ再会
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──そして今、三ヶ月ぶりに彼女の姿を目の前にした。マリー。
かつて、あらゆる世界の理に通じていた少女。今はこの世界の誰よりも有名な存在。
……けれど今日、この瞬間に限っては、彼女より少しだけ先に手を打っていたのは、俺の方だった。
目の前に立つ彼女は、今のこの姿の俺を知らない。
──いや、知らない「はず」だった。
それでも、俺の顔を見た瞬間の彼女の表情は、明らかに“何か”を感じ取っていた。
驚きと戸惑い、そして……記憶の底にある断片を探るような目。
目を細めて、まるでスキャンするように俺の姿を上から下まで見つめてくる。
でも、決定的な「確信」はまだなかったようだった。
……そう見えた、ほんの一瞬の間までは。
そのまなざしの中に、ほんのわずかに宿る光を、俺は見逃さなかった。
彼女は、確実に“何か”を思い出しかけていた。
「ねえ君、もしかして……ファンとか?」
あたりに誰もいなかったからこそ、俺の微笑みと、小さくつぶやいた“その名前”が余計に怪しく聞こえたのだろう。
それに、「ハグキ」という名を口にしたせいで、さらに誤解を招いたに違いない。
だが、俺はあえて微笑を崩さずに、懐かしい言葉を返した。
「誰がそんな、面倒くさい子供のファンになるかよ?」
──“面倒くさい子供”。
そう、かつて上位世界で彼女をそう呼んでいたのは、俺ただ一人だった。
時間に囚われない俺たちは、永遠に子供のままだった。
だが、彼女は成長した。
名を変え、姿を変えて。
それでも、変わらない部分があるとしたら──この俺だけが、それを見抜ける。
そして彼女は、ついにその名前を口にした。
「……喜稔。いつから、この世界に?」
「へえ、やっと気づいたんだ。少し、話せるか?」
「話す? 悪いけど、今は時間がないの。マネージャーとの約束があるのよ。
スタジオに遅れたら探しに来るだろうし……そんな時に“知らない男”と一緒にいるなんて、見つかったら噂になっちゃう。」
「ふーん。ずいぶん気にするようになったな、イメージってやつを。前の世界じゃそんなのお構いなしだったくせに」
「前の世界と、ここは違うの。……じゃあ、LINE教えるから。それで今度ゆっくり話そう」
──彼女は大人ぶった口調だった。
けれど、その目には確かに懐かしさが残っていた。
……演技かもしれない。それでも、いい。
「また今度」なんて、本来の彼女なら言わないはずだから。
俺たちはそれぞれ別の道を歩いて、今日の出会いはそこで終わった。
けれど──
***
その帰り道、俺は一人で広い道路を歩いていた。
今日は珍しく、送迎車を使わずに、自宅まで徒歩で帰ることにしたのだ。
誰もいない夜道。ビルの隙間から見える都会の星空。
遠くにかすかに響く電車の音と、街灯に照らされた自分の影だけが、静かに俺に寄り添っていた。
住んでいるのは、240平米を越える大きな家。
でも、こんなに広くても、心が満たされることはなかった。
──欲しいのは、物じゃない。
ただ、あの頃のぬくもりだった。
ハグキ。
そして、隼人とリンコ。
あの三人と過ごした時間は、俺にとって唯一無二の宝物だった。
今日のマリーは、確かにいつも通りだった。
あのLINEを交換した後、結局、堅苦しい空気はもたずに、すぐに元の彼女に戻っていた。
──それでいい。いや、それがいい。
ハグキがもし記憶を取り戻したとして──
最初に目にする妹が、別人のように振る舞っていたら、きっと悲しむだろうから。
だから今日も、俺は静かに願う。
いつか、またあの場所に戻れる日が来ることを。
……たとえ物語の中心にいられなくても、俺はここにいる。
同じ空の下、彼らのすぐ近くで。
──僕だって、ここにいる。君たち三人と同じように。
◇◆◇◆
ここ数日、リョウコとの関係はあまり良くなっていない気がする。
どう説明すればいいんだろう……。
たしかに彼女は、「今度こそ、ちゃんと一緒に帰ろうね」って言ってくれた。
でも、実際には──その日から、一度も一緒に帰れていない。
……俺、何か悪いことしたのかな。
彼女が言いづらいだけで、本当は俺のどこかが嫌になってしまったんじゃないかって、不安になる。
今日こそ、ちゃんと聞かなきゃ。
昼休みに、思い切って話してみようと思う。
これ以上、このモヤモヤを抱えたままじゃ、きっと関係が壊れてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
今朝も、いつも通り一人で登校していた。
ただ、今日は珍しく──二人とも道で会えなかった。
でも、学校に着けば、どこかで会えるはずだと思っていた。
そうやって自分を落ち着かせていたら──
彼女の姿が、目に入った。
……リョウコだ。
久しぶりに、こうして自然に姿を見かけた。
本当に、偶然だった。
彼女も、一人だった。
ユメさんも、よし子さんもいない。
その手には一冊の本があって──遠くからだったけど、前に読んでいたものと同じに見えた。
……でも、俺は声をかけなかった。
彼女が何かに集中していたなら、邪魔したくなかったから。
もしかして、勉強に集中してて、俺を避けているんじゃ……?
でも、それならちゃんと伝えてくれるはずだ。
それすら言えない何かがあるってこと……?
いや、深く考えすぎかもしれない。
とりあえず、落ち着こう。
今は、いつも通りに接して……そして、昼休みにちゃんと話そう。
昼休みがやってきた。
あとは、屋上で彼女を待つだけ。
たいてい、彼女は少し遅れてやってくる。
……そして、今日も同じだった。
「ミナミ君、お待たせ」
彼女の表情は、どこかぼんやりしていた。
いつもより集中していない……そんな印象を受けた。
「リョウコ、大丈夫? なんか、ちょっと様子が違う気がするけど」
すると、彼女は少し困ったように笑った。
「え? 私? ごめんごめん、最近ちょっと忙しくて……それに慣れちゃったせいか、なんだか変な感じで」
「変な感じって、どういう意味?」
「うーん……なんていうか……
何かにすごく集中してると、ふと周りを見た時に、世界がすごく遠く感じるっていうか。
居心地が悪いというか、馴染めないというか……そんな感じ」
彼女は、そう言いながら俺の隣に座った。
いつものように、自然に。
でも、俺の心の中には、さっきからずっと一つの言葉が引っかかっていた。
──聞くべきか、聞かないべきか。
……どうする?
今、言うべきなのか?
「……そっか。で、なんでそんなふうになったの?」
まだ様子を見た方がいい。
まずは、彼女の言葉をちゃんと聞いてから。
「うーん……やっぱり、勉強かな? ずっと机に向かってたから……
まあ、そう言うと分かりやすいかな」
「そりゃ、疲れるよな。
精神的にも、けっこうきてるんじゃない?」
彼女は小さくうなずいた。
それから、俺たちは黙ってお弁当を広げた。
……だけど、その沈黙は、いつもの静けさとはまったく違っていた。
落ち着かない。
なぜか、胸の奥がざわついてしかたがなかった。
でも、そんな俺の心とは裏腹に──
彼女は、少しずつ距離を詰めてきた。
まるで、俺を安心させるために。
何も言わずに、そっと寄り添うように──。
それだけで、少しだけ救われた気がした。




