落日
1
全日本新体操ジュニア選手権4連覇、全日本ジュニア体操競技選手権大会3連覇という未踏の大記録を打ち立てた紗希だが、11歳をピークにその後は年々技の切れが甘くなり、周囲を困惑させていた。技の切れが甘いと言っても、紗希には他の追随を許さない圧倒的な身体能力があるのでこの問題は表面化しなかったが、15歳になると練習中のミスが目立つようになり、大技の習得にも時間がかかるようになった。居間でうたた寝する時間も以前より長くなり、僕の目には長年の疲労が蓄積しているように見える。僕は、紗希に無理をさせてしまったのかもしれない。
ある日、紗希は着地に失敗して右足首を痛めた。今迄の紗希にはあり得ないことで、紗希も動揺していた。
「紗希、一度、精密検査受けてみるか?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろ?着地に失敗するなんて、今迄なかったことじゃないか」
「たまには着地に失敗しますよ」
「いや、今迄とは明らかに違う気がするんだ・・・でもさ、検査受けて何処にも異常が無いことが分かれば、それはそれでいいじゃないか。不安なく練習できるんだから」
「・・・分かったよ」
2
嫌がる紗希をなだめ、僕は市内の総合病院で紗希に精密検査を受けさせた。1週間後、検査結果が出たので、僕は1人で担当医を訪れた。
「お嬢さんの検査結果です。血液検査、心電図、内視鏡、CT等々、全ての検査で異常はありません。ただ・・・」
「何ですか?」
「内臓の機能が・・・70歳代の高齢者と同じなんです・・・僕も疑問に思い他の内科医や大学時代の恩師、同僚達にお嬢さんの年齢を伏してデータだけ見せたところ、全員が70歳代の高齢者と判断しました」
「そんなはずないでしょ!紗希はどう見ても15歳の少女じゃないですか!」
「早老症という疾患がありますが、この疾患は内臓だけでなく頭髪や皮膚、運動能力にも顕著な老化の症状が出ます。しかし、お嬢さんの外見は実年齢と齟齬がないし、運動能力も全く問題がないので早老症とは考えられない。原因不明の、未知の疾患としか言いようがありません・・・」
「ということは・・・」
「はい・・・お嬢さんは18歳で日本人女性の平均寿命に達する可能性があります。そうなれば、20歳を迎えることは困難かと・・・」
「そんな・・・治療はできるんですか?根治しないまでも、病気の進行を抑えるとか」
「原因が分からない以上、治療も困難・・・失礼、できません・・・」
僕は絶句してしまった。内臓機能だけが急速に老化する疾患?当然そんなもの聞いたことがない。しかし、複数の医師が同じ判断をしたということは、紗希の内臓機能が70歳代まで低下してしまったことは確実だろう。そして、今後進行するであろうことも・・・どうする?紗希に話すべきか?体操を継続することは不可能だろう。70歳代の高齢者があんな激しいトレーニングを続けることができないのは目に見えている。
「体操を続けることは・・・」
「軽いものでしたら特段問題ありませんが、お嬢さんがされているようなトレーニングは無理です。何時か大事故になります」
「そうですか・・・」
「それとですね・・・」
「まだ何か?」
「・・・問診ではこれ迄大きな病気は無いとのことでしたが・・・」
「はい、入院するような病気はこれ迄ありません」
「そうですか・・・実は、お嬢さんには卵巣がありません。それも、先天的なものではなく、手術で全摘出した痕跡があります」
「えっ!」
「菊池さん・・・問診表には4歳以降、と但し書きがありますが、これは?」
「実は、僕は紗希が4歳の時に彼女を養子にしたんです・・・それ以前のことは紗希が記憶を失っていることもあって、定かではないので・・・」
「全生活史健忘ですか・・・」
「はい、そのように聞きました。」
僕が紗希と記憶を共有しているのは、紗希を保護してからだ。それ以前は、紗希が記憶を失っていることもあって、紗希がどのような生活をしていたのか一切分からない。
「だとすれば、卵巣摘出は4歳以前に行われたことになりますね・・・幼児期でも卵巣嚢腫で片側の卵巣を摘出することはありますが、全摘出は通常考えられません・・・」
「あの・・・これは内蔵の老化と何か関係あるのですか?」
「いえ、関係ないでしょう。幼児期に卵巣を全摘出したことにより、内臓の老化が始まったとは考えられませんから・・・ただ、お嬢さんの人間離れした身体能力、内臓だけの極端な老化、幼児期の卵巣全摘出・・・僕にとって理解不能ですので・・・」
臓器売買。その言葉が僕の脳裏をよぎった。紗希は臓器売買の犠牲者だったのか?紗希はその組織から逃げた、あるいは誰かが逃がして僕の家に辿り着いたのか?紗希はその手術のショックで記憶を失った・・・考えすぎだろ・・・分からないことは分からないとするのが正解だ。それにしても、僕の家に来る以前の紗希は、何処で何をしていたのだろう?
3
紗希は同じ病院の整形外科に通院していた。それぞれ同じような時間に終わったので、和食レストランで昼食を摂ることにした。
「足首はどうだ?」
「順調に治っているって先生が言ってた。精密検査の結果は?」
「異常はないそうだ・・・ただ・・・」
「ただ?」
「・・・疲労が溜まっているそうだ・・・体操は止めた方がいいと・・・」
「そうか・・・やっぱり・・・」
「やっぱり?」
「・・・私、今季限りで体操辞めるよ・・・お父さんに心配させたくないし、大事故起こしたら尚更・・・」
「紗希・・・気付いていたのか?」
「何のこと?」
「いや・・・その・・・」
「体操始めた頃と同じように身体が動かなくなっていることは私が一番よく知っているから・・・もう限界かな・・・次の全日本新体操ジュニア選手権と全日本ジュニア体操競技選手権大会で引退だ・・・」
紗希は寂しそうに笑った。後1年あれば、シニアとして大会に参加できる。世界の頂点に立つことが確実なのに・・・でも、これ以上無理はできない・・・
「それと・・・」
「何?」
「僕の家に来る前、何処かで手術した記憶とかある?」
「何でそんなこと聞くの?」
「前から気になっていたんだけどさ、紗希のお腹には微かに手術痕みたいなものがあるだろ?だから・・・」
「ああ、あれのことか・・・手術がどうこうとか、全然覚えてないよ」
「そうか・・・」
「何かあったの?」
「いや・・・それより、飯食おう。ここの刺身定食は美味いらしい」
「そうだね。いただきます!」