束の間の幸せ
1
紗希はすくすくと成長した。気が付けばもう中学生だ。紗希が大会で優勝する度にマスコミは100年に1人の逸材と囃し立てる。しかし、当の本人は外の喧騒を全く気にせず、相変わらず暇さえあれば居間でうたた寝をしている。僕はそんな紗希が愛おしかった。
しかし、中学入学早々、紗希は”問題”を起こしてしまう。紗希が全日本新体操ジュニア選手権で2連覇し、全日本ジュニア体操競技選手権大会でも優勝したことは既に周知の事実になっていた。しかも、容姿麗しく成績が優秀・・・だから、1人でいることを好み友達を作ろうとしない紗希をお高くとまっていると毛嫌いするクラスメイトが出てきても当然だろう。
紗希は僕の本棚から持ち出した専門書を眺めるのが好きだ。何冊か持ち出されたことは僕も知っていたが、学部生ですら白旗を揚げる内容を小学生の紗希が理解できるとは僕は思わなかった。当然、眺めているだけだと思っていた。中学入学前の春休みのある日、紗希がノートを開いて居眠りしていたので、僕はどうせ落書きでもしていたのだろうとノートを見た。しかし紗希は演習問題を途中まで解いていた。僕は愕然とした。この娘に限界は存在しないのではないのかと。
「菊地、いつも何してんだよ?」
「・・・」
「何だ、この本?」
紗希が読んでいる本を男子生徒が取り上げた。
「マトリックス・データ解析法?お前、知ったかぶりしてこんな本見てんじゃねぇよ!」
「返してよ」
「じゃ、取り返してみろよ、お嬢さん!」
その男子生徒は別の生徒に本を投げる。
「返してってば!」
「返して欲しけりゃ自分で取りに行きな!」
その男子生徒は窓から本を投げ捨ててしまった。
「お父さんの本!」
紗希は次の瞬間、窓から飛び降りた。この教室は4階。下はコンクリートの中庭。飛び降りたら運良が良くて重傷だろう。ところが紗希は着地すると何もなかったの如く本を拾い上げ、騒然としている教室に向かい叫んだ。
「できるものなら真似してみろ!」
バカは死ななきゃ治らないとは正にこのことだろう。紗希の挑発を真に受けた先程の男子生徒が他の生徒達の制止を振り切って飛び降りてしまった。哀れな彼は全治10ヶ月の重症。留年する羽目になった。
僕は学校に呼び出された。男子生徒の母親は僕達に謝罪を求め提訴するといきり立った。
「あいつが勝手に飛び降りただけでしょ!」
紗希は母親を睨みつつ啖呵を切る。当然、母親は更に激高する。情けない担任は黙っているだけだった。
「提訴したいのであればお好きにどうぞ。紗希が彼を突き落としたり脅して強要したのであれば話は別ですが、御宅の御子さんは制止を振り切って自分の意思で飛び降りたそうじゃないですか。まして、紗希は本を奪われ投げ捨てられた被害者ですからね。謝罪すべきはそちらの方では?」
「何ですって!」
「紗希に落ち度はありません。にも拘らず提訴してそちらが敗訴すれば、こちらの弁護士費用もそちらが払うことになりますよ。それと、虚偽告訴等罪って御存知ですか?」
「知らないわよ、そんなもの!」
「虚偽の申告をした者は、犯罪者として、確か10年以下の懲役だったかと・・・そちらが提訴し敗訴すれば、御宅の提訴が虚偽であることを裁判所が確定させることになるんです。それを前提にこちらが刑事告発すれば、自動的に御宅の罪が確定する。つまり刑務所行きですよ。分かりますよね?それに加え、こちらは精神的苦痛を味わうことになるので、別途損害賠償請求を提訴しますが、それでよろしいですね?それと、この件は学校側の監督不行届が原因じゃないんですか?事実、生徒が4階から”転落”したわけですから。紗希に対する虐めもあったことだし、先生も首を洗っておいた方がよろしいのでは?」
「そっ、そんな・・・」
とにかく逃げようとする担任に僕は心底腹が立った。そして、相手が重傷を負ったとはいえ、こんなバカバカしい話にうんざりした僕は、追い打ちをかけた。
「そうそう、忘れていました。これ、御覧ください」
僕は母親と担任にスマホを見せた。
=====
27名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:43:57.27ID:nj+Fto9H
>>23
こいつ誰?
28名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:45:51.57ID:RdWcFzdV
>>27
俺も桜町中だったから部活の後輩に聞いてみるよ
29名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:46:47.24ID:vAQ3QCxn>>30>>648
>>28
よろしく
30名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:48:53.96ID:wPSdtw6y
>>28
担任もな
31名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:50:08.05ID:RdWcFzdV
桜町中学の1年女子です
菊地さんを虐めたのは1年E組の山口和也と高橋隆一
担任は三輪義彦
32名無しさん@新体操大好き2017/04/18(火) 12:52:03.64ID:pZiLamRg
こいつらの人生終わった
=====
僕の追い打ちに母親と担任は顔面蒼白になった。
「時間を見てください。今はもう午後3時半・・・既に御子さんと先生の顔写真も投稿されているでしょうね」
「そんな・・・」
「まぁ、御好きなようにどうぞ。僕達は逃げも隠れもしませんから・・・先生、もういいですよね?これ以上お話しすることもありませんし」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「先生の保身には興味ありませんので。紗希、帰るぞ」
「うん!」
大学教授を世間知らずの専門バカと侮ってはいけない。随分前から単位を落しただけで怒鳴り込んでくる親が急増していた。まして、それが原因で留年しようものなら両親揃って訴訟がどうこうと喚き散らす輩も少なくない。こうした修羅場を僕は何度も経験しているし、大学側も、特に国立大学は連携して対応マニュアルを整備している。素人が敵うはずがないのだ。
「お父さん、かっこよかったよ!あの裁判の話はホントなの?」
「さあね・・・でも、紗希は中庭にいた。そして彼は4階の教室にいた。そして自由意思で飛び降りた。どう転んでも紗希には責任がないよ・・・でもな、自分の身体能力で人を挑発するなよ・・・誰も真似することができないんだから。今回だって、下手すりゃ死んでたぞ、彼は・・・」
「・・・気を付けるよ」
「そうだな・・・さて、今日の晩飯は何にしようか?」
「お刺身!」
「ダメ」
「ケチ!」
“転落”した男子生徒は虐めの常習者だった。結果的に虐めの元凶をクラスから排除した紗希は、虐められたり、あるいは虐めを良しとしない生徒達から崇拝の対象になり、彼等は親衛隊を結成するに至った。同時に、キレると何をするか分からいと紗希を避ける生徒も少なからず生じた。こうした状況の劇的な変化にも関わらず、紗希は相変わらず1人でいることを最優先していた。
2
「菊池君、君には娘さんがいたね?」
久々に研究室に赴いたある日、仕事が一段落すると大久保教授が僕に声をかけた。
「はい、1人います」
「一緒に風呂入ったり寝たりするのも今の内だぞ。俺なんか10歳になる前に風呂と布団は別、中学になったら洗濯も別になり会話もなくなった」
「僕も同じですよ。今はバイ菌扱いですからね」
中野教授も話に加わった。世間のお父さん達は、思春期の娘に対して同じ悩みを抱えているらしい。
「それは大変ですね・・・」
「そうだよ、大変だよ。だから、今のうちに娘さんの裸を拝んでおけ!ガッハハハハ!」
何だ、この変態親父は!そんな精神構造しているから、娘さんが避けるんだろが!自業自得じゃないか!・・・僕はさすがに紗希と一緒に風呂に入ることは無くなったが、未だに一緒に寝ている。やましいことは何もないけど、この習慣も改めなければならないだろうな。紗希ももう中学生なんだから・・・
「お父さ~ん!もう寝ようよ!」
パジャマに着替えた紗希が、枕を抱きながら催促する。まだ9時だ。もっとも、毎朝5時になると紗希がお腹空いたと言って起こすので、ある意味就寝時間でもあるのだが。それにしても紗希の体内時計の正確さには驚く。目覚し時計を使わないのに、毎朝正確に5時に僕を起こすのだから・・・
「紗希、もう1人で寝たらどうだ?」
「何で~、私と寝るのが嫌になったの?」
「そうじゃないけどさ、紗希ももう中学生だろ?だから・・・」
「関係ないじゃん、そんなこと」
「じゃ、高校生になっても、大学生になっても、社会人になっても、僕と寝る気か?」
「そうだよ」
「違うだろ、それ」
「違わないもん」
こんな言い合いを1週間程繰り返した結果、やっと紗希が折れた。その日から紗希は自室で寝るようになった・・・が。
その夜、何だか息苦しいので、僕は目を覚ました。目を開けると、僕の目の前に紗希の頭があった。紗希は僕の胸に背中を押し付ける格好で、丸くなって寝ていた。
(全日本新体操チャイルド選手権優勝、全日本新体操ジュニア選手権2連覇、全日本ジュニア体操競技選手権大会優勝、100年に1人の逸材、か・・・どれだけ沢山の栄誉を得ても、中身はまだ子供だ・・・何時か反抗期が来れば、自ずと1人で寝るようになるだろう・・・それまで放っておくか・・・)
僕は紗希の布団を掛け直すと紗希に背を向けて横になった。何時か紗希も自立して僕の元から巣立っていく。そう考えると嬉しかったり悲しかったり、複雑な気分になった。
3
「お父さん!今日の御飯、私が作るからね!」
朝、家を出る時に紗希は大声で宣言した。僕は嬉しくなり、これで買物してきなと紗希に5,000円を渡した。結果的にこれが仇になった。
「紗希・・・これ何?」
「お刺身」
「これは?」
「御味噌汁」
食卓にあるのは、中央に刺身のテンコ盛り、味噌汁はほぼ透明の液体だった。この刺身の量は、渡した5,000円のほぼ全てを費やしたに違いない。
「確かに5,000円渡したけど、全部使っていいとは言っていないぞ」
「だって、食べたかったんだもん!」
「この味噌汁も・・・味がしない」
「塩分は身体に悪いよ。特に腎臓に」
腎臓?普通高血圧だろ?僕は耳を疑った。紗希は、以前から味が薄いと塩や醬油を追加する僕にそれは身体に悪いと言い続けてきた。しかし、高血圧を予防するために減塩をするのは誰にでも分かる。それを飛び越えて腎臓とは、紗希はどういう理由でこの知識を得たのだろうか?
「何故腎臓?」
「事実でしょ?」
「そうだけどさ・・・ところで、毎日晩飯に5,000円使っていたら、1ヶ月で幾らになると思う?」
「150,000円」
「僕の給料は?」
「知らない・・・払えないの?」
「そう、払えない。紗希が晩飯を作ってくれるのは嬉しいけど、買い物は1日上限1,660円!いいな」
「何その1,660円って。細かい」
「つまり、月50,000円以内ってことだよ」
「なるほど・・・分かった。そうするよ」
4
翌日から、紗希の”猛勉強”が始まった。学校から帰ってくると、テーブルに座りブツブツ言いながらスマホをいじくっている。暫くすると納得した顔になり、近所のスーパーに赴く。紗希は体操クラブに通っているものの、レッスンは土日だけなので、平日は所謂帰宅部だ。なので、買い出しから帰ってきても晩飯まで時間がある。その時間を使って、紗希は宿題を済ませ、授業で納得できなかった個所を納得できるまで繰り返し復習していた。
その結果、紗希の料理のレパートリーは飛躍的に増えた。コストも1ヶ月45,000円以内に収まってる。ただ、味が薄い、ってか味がしないという欠陥は改善されないが・・・
「紗希、これは?」
ある日、見たことも無い料理が出てきた。
「これはね、炒土豆絲と言ってね、中国の家庭料理なんだ。ジャガイモと唐辛子を千切りにして炒めただけだけどね、すっごく美味しいよ。ちなみに、今日はデザートも含めて1,078円だよ!」
紗希が料理だけでなくコスト意識も身に着けたことは嬉しい。しかし、最近はとにかく安く上げようとしていて、目的が明後日の方向に向き始めているが・・・しかし、この炒土豆絲、食感はいいのだけど、相変わらず味がしない・・・
「紗希、本当に申し訳ないんだけど、塩かけていいか?」
「ダメ!」
「そこを何とか・・・」
「しょうがないな~。少しだけだよ!」
塩を追加した炒土豆絲を口にすると物凄く美味い!思わず紗希の顔を見た。
「何?どうしたの?」
「美味いな、これ!」
「そうでしょ!美味しいでしょ!」
「確かに美味い!それとな、晩飯、もう少し使ってもいいんだぞ」
「だって、うち、ビンボーなんでしょ?」
「贅沢はできないけど、貧乏じゃない。月50,000円以内なら大丈夫だから」
「ホントに?」
「ああ」
紗希は目を輝かせている。何かおかしい・・・そういうことか!日々金を浮かせて、月末に刺身を大量に食う気だ!
「1,200円以上1,660円以下でね」
「ひょっとして、バレた?」
「刺身なら、財布と相談しながら、別会計で食わしてやるよ」
「やった!お父さん、大好き!」
「そう言えば、最近取材はどうだ?」
「まだたまに学校周辺にいるね・・・学校そのものにはお巡りさんが巡回しているから近付けないけど、学校から離れた場所で何回か尾行されたことある・・・」
「尾行かよ・・・大丈夫か?」
「大丈夫だよ。簡単に振り切れるし」
確かに・・・紗希の瞬発力は陸上の全国大会で十分通用するレベルだ。ろくに運動していない記者如きが追い付けるはずがない。
「それに私、三次元で逃げることできるから」
「三次元?」
「塀の上を走れば、簡単にまける」
「ははは、確かにそうだ。でも多用するなよ。塀は人様の所有物だからな」
「分かってますって!」
5
「菊地教授、今よろしいですか?」
院生の立川だ。僕は4年前に教授になっていた。
「何だ?」
「実は、実家が富山で温泉旅館してまして、先週法事で帰省した際に教授のことを両親に話したら、是非来て欲しいとこれを・・・」
立川は僕に封筒を渡した。
「開けていいか?」
「どうぞ」
封筒の中には、手作りの無料宿泊券が2枚入っていた。
「どうでしょう?もう寒ブリの季節が始まっていますし・・・」
(寒ブリか・・・紗希が狂喜しそうなネタだな・・・)
紗希は極端な寒がりだ。冬場に僕と遠出したことがない。初詣すら嫌がる。香織と詩織とは毎冬欠かさずスキーに行っていたけど、紗希が家に来てからはそれすら無くなった。いいチャンスかもしれない。
「ありがとう。でも、これから年末年始に予約できるのか?もう12月だし」
「大丈夫です!教授が来てくださるのであれば、予約客を追い出してでも部屋を用意しますから!」
「おいおい、穏やかじゃないな。分かった、1月の4日から6日なら大丈夫かな・・・それでダメなら辞退するよ」
「ありがとうございます!早速連絡します!」
立川は即座に実家に連絡したらしく、10分もしない内に戻ってきた。
「教授!1月の4日から6日、2泊3日で予約できました!」
「ありがとう!楽しみだな」
立川は頭を下げると研究室から出て行った。後は紗希次第だ・・・
6
「紗希、スキーとか興味あるか?まだ一度もしたことないだろ?」
「興味ない」
僕は台所でコーヒーを淹れている。紗希は炬燵の中から返事をした。僕は炬燵に近付くと布団をめくった。紗希は正に炬燵の中から返事をしていた。
「せめて頭だけでも出しとけ!髪から変な臭いがしてるし!」
髪の毛が炬燵のヒーターに触れて燃えたせいだ。全日本新体操ジュニア選手権3連覇、全日本ジュニア体操競技選手権大会2連覇、近い将来女子新体操と体操の世界に必ず君臨すると世界的にも評価されている”菊地紗希”と、冬になれば炬燵に籠り、髪の毛を燃やしている菊地紗希・・・このギャップが愛おしい・・・
「寒い!」
「嘘つけ!そこまで寒いはずないじゃないか!」
「寒いんだもん!」
紗希は布団を戻すと炬燵の中に籠った。しょうがないな・・・
「コーヒー飲むか?」
「刺激物はいらない」
「じゃ、スキーは?」
「どうしてわざわざお金払って寒いとこ行きたがるわけ?信じられない!」
「初詣も行ったことないよな?」
「だ・か・ら、何故わざわざ寒いとこ行くのよ!バカみたい!」
「バカは言いすぎだろ!」
「バカだよ!バカバカバカバカバカ!」
これじゃ話にならない。正直、僕も炬燵に入りたい。しかし、冬になると紗希が炬燵を占拠するから、紗希がこの家に来てからというもの、僕は炬燵に入れない。そこで、去年は紗希に占拠されるだけの炬燵は使うまいと決めて準備しなかったら、紗希が勝手に納戸から炬燵を持ち出してしまった。
「・・・院生の御両親が富山で温泉旅館していて、無料宿泊券もらったんだよな・・・旅館が無料でも電車賃がかかるから、お金払ってまで寒いとこ行くのは確かにバカだよな・・・スキーはともかく、寒ブリは夢幻か・・・」
「寒ブリ?」
紗希が炬燵から頭を出した。
「私行く!」
「えっ、寒いとこは嫌なんだろ?」
「行く!決めた!」
最初から寒ブリで釣れば良かった。でも、10年目にして初めて冬場に紗希を外に連れ出すことに成功した。
7
「予約した菊池です。これ、無料宿泊券です」
「菊池様、いらっしゃいませ、息子が何時もお世話になっています。今回は御二人様で御予約ですね・・・202号室になります」
僕はキーを受け取ると、荷物を持って部屋に行こうとした。
「あの・・・そちらのお嬢様はもしかして、新体操の・・・」
「はい!菊池紗希です!」
紗希が返事をした。これはマズいことになりかねない。此処は氷見、小さな街だ。紗希が此処にいることが知れたら、街中大騒ぎになるに違いない。
「紗希!お前がここにいることがバレたら騒ぎになるぞ!」
「・・・ヤバかった?」
「ヤバいよ・・・御主人、紗希が此処にいることはどうか御内密に・・・」
「・・・分かりました。その代わりと言っては何ですが・・・サインとかいただけますでしょうか?」
「はい、その程度なら・・・でも、僕達が帰ってから公にしてくださいね、必ず!」
旅館の主人、つまり立川の父親は、一旦奥に入ると色紙とサインペンを持ってきた。
「こちらにお願いします」
「紗希、書けるか?」
「大丈夫だよ」
紗希は色紙に何やら書き始めたが、それこそミミズがのた打ち回っているようで何が何だか分からい。
「こんなもんかな?」
「何だこれ?」
「ありがとうございます!家宝にします!」
「そんな大袈裟な・・・じゃ、僕達はこれで・・・」
部屋に入る。広い部屋だ。外には露天風呂もある。恐らく、最上級の部屋なのだろう。だから、瞬時に予約できたのかもしれない。
「あっ!露天風呂だ!お父さん、入ろ!」
紗希はコートを脱ぐと、厚手のセーターも脱ごうとした。
「ちょっと待て!露天風呂は使うな」
「どうして?」
「盗撮の危険がある」
「はぁ?何それ?」
既に紗希が此処にいることは露見している。宿の主人は悪い人ではなさそうだが、さっきの会話を誰かが盗み聞きしていた可能性は否めない。そいつが外部に漏らしたら・・・その時、女将さんが部屋に来た。
「お風呂の準備ができていますが、いかがですか?」
「そうですね・・・紗希、風呂に行こう・・・一応マスクしとけよ」
露天風呂に入り損ねた紗希は少し不貞腐れながら入浴の準備を始めた。女将さんに案内されながら1階に降り、廊下を進むと突き当りに大浴場があった。
「先生はこちらで。お嬢様はこちらへ・・・」
紗希が案内されたのは、大浴場の奥にある小浴場だった。
「此処は終日貸し切りにしてあります。お好きな時間に、ごゆっくりどうぞ」
主人の配慮だ。この分だと、この旅館内は”安全地帯”と見做して間違いなさそうだ。
「折角温泉に来たのに、お父さんと一緒に入れないなんてつまんない!」
露天風呂に入れず、1人だけで貸し切りの小浴場に入る羽目になった紗希が不満を爆発させたようだ。しかし、この期に及んで何を言い出すんだ、紗希は!此処は家の中じゃないんだぞ!無防備にも程がある!そんな紗希を女将さんは微笑みながら見つめていた。
僕がここまで神経質になる理由は、紗希の容姿にある。こう言っちゃ悪いが、新体操も体操も、紗希と一緒に関わるまで、背の低いカマキリみたいな女の子が飛んだり跳ねたりしているだけの、正直言って、僕にとって何ら魅力のないものだった。ところが紗希は、同年代の選手に比べ背が高く平均的な体型をしていて、体操ロボットと異なり少女としての健全な魅力があった、中学生になってからは大人びた女性らしさも纏い、親の僕から見ても美しい魅力的な女性になりつつある。大きな眼で鼻筋がとおり、常に微笑んでいる小さな口。つまり、容姿端麗な女優がそのまま体操選手になったようなものだ。不特定多数と接する機会が多い温泉という非日常的な空間だと、尚更神経質にならざるを得ない。
湯船から外の景色を眺めていると雪が降り出していた。風情があっていい。明日も降り続くのあれば、部屋でゴロゴロしながら酒飲んで雪景色を眺めるのもいいかもしれない。
僕が部屋に戻ってから30分近く経って紗希が戻ってきた。
「気持ち好過ぎて出られなくなちゃった」
「ああ、確かにいい湯だった。此処は正解だな」
「御飯はどうかな?」
「確認していないけど、当然刺身の船盛だろうな、寒ブリの」
「寒ブリ、早く食べたい!」
晩飯まで時間があるので、僕は本を読み、紗希はスマホをいじくっている。紗希の真似をして炬燵から頭だけ出して本を読んでいると、紗希の奇行を非難できなくなってきた。確かに暖かく気持ちがいいい。これは病みつきになりそうだ・・・
そうこうする内に食事が運ばれてきた。一見すると普通の船盛だが、大根の千切りで嵩上げすることなく、刺身だけで通常の高さがある。当然、メインは寒ブリだ。紗希の涎を飲み込む音が聞こえる。
「お酒はどうされますか?」
「熱燗でお願いします」
僕は即答した。ここで熱燗を飲まなければ此処まで来た甲斐がない。
「じゃ、食おうか?」
「いただきます!」
紗希はお目当ての寒ブリに箸をつけた。
「美味しい!」
「地元で食べる寒ブリがこれほど美味いとは・・・紗希!寒ブリだけ食うなよ!」
「・・・」
紗希はもう言葉を発しない。取り憑かれたかのように黙々と刺身を食べ続けていた。
8
翌朝、僕は5時過ぎに目を覚ました。習慣とは恐ろしいものだ・・・しかし、紗希は部屋にいなかった。どうやら紗希は僕を起こさないで、朝風呂に行ったらしい。朝食までまだ時間がある。外は雪が降り続いている。僕も朝風呂に行き、雪景色を楽しむことにした。
事前に立川から聞いた話だと、朝食は大食堂で摂るとのことだった。正直僕は気が引けたが、それも仕方ないと諦めていた。というのも、これまで僕が泊った温泉旅館の朝食は何処に行っても同じで、焼いたのか茹でたのか分からない鮭の切り身、固形燃料で加熱する鍋、納豆、卵、海苔・・・正直食欲が涌かない。しかし現実は違った。7時になり紗希と大食堂に行くために部屋を出ようとすると、女将さんがやってきて食事をこれから部屋に運ぶけどよろしいかとのこと。僕達は慌てた。布団は引きっぱなしだし服も脱ぎ捨てた状態だったので15分程待ってもらい、僕達は大慌てで部屋を片付けた。片付け始めてから20分程経った頃、食事が運ばれてきた。朝から刺身の船盛・・・昨晩も結構な量を食べているから、これは食いきれる量じゃない。この時、悪だくみが頭をよぎった。
「女将さん、追加料金で構いませんから、船盛をもう一つ追加できませんか?それと、地酒の純米酒を4合瓶で2本、それと烏龍茶を2ℓ・・・」
「かしこまりました」
女将さんはこちらの意図を瞬時に理解したらしく、小さく微笑んで部屋を後にした。
「お父さん、何する気?」
「ああ、外は雪だ。何処かに行くこともできないから、今日は1日中飲み食いしよう」
「賛成!」
これも主人の配慮だろう。紗希が大食堂に行けば、ほぼ間違いなく面が割れる。その結果の大混乱を考えれば、主人もそうしたリスクを避けたかったに違いない。
「お父さん、いけないことしようか?」
「おっ、おっ、お前、何言い出すんだ!」
僕は口に含んだ酒を吹き出しそうになり、慌てて飲み込んだ。僕と紗希とは法律上親子とはいえ、血は繋がっていない。しかも此処は温泉旅館・・・この状況下でいけないことって・・・
「えっ?・・・お父さん、今エッチな想像したでしょ!」
「してないよ!」
「ホントかな~」
「・・・で、いけないことって何だよ?」
「船盛を下において、炬燵から頭だけ出して、寝ながら食べようかな、って」
「・・・」
「家じゃできないことだからさ、してみようよ」
既に僕は炬燵という悪魔に魂を売っている。紗希の提案を僕は瞬時に受け入れた。
「紗希・・・意外と食い辛いんだけど・・・酒も飲み辛い・・・」
「そうだね・・・これは失敗だったかな・・・」
そう、失敗だった・・・船盛と酒、烏龍茶を炬燵の上に戻した僕達は、飲み食いを再開した。昼飯時には船盛と酒、烏龍茶が無くなったので、その後は2人並んで炬燵から頭を出して各々好きなことをしていた。そして晩飯はまた船盛。今迄これ以上刺身三昧な旅行は当然ない。僕も紗希も新鮮な刺身を堪能し、これ以上ない充実感を味わった。
9
「お世話になりました。船盛とかの追加料金は・・・」
「いいんですよ、サービスです」
「そう言われても・・・」
「・・・じゃ、こうしましょう。お嬢様とうちの従業員の集合写真というのは」
紗希を出汁に船盛食って酒飲んだみたいで釈然としないが、いろいろと配慮してもらったことは確かだ。僕は了承した。
主人と女将さんはフロントでの対応があるので、紗希と従業員だけ、僕がカメラ係になった。その写真と紗希のサインは、後日、フロントの一番目立つ場所に掲載され、当然SNSにも投稿された。
その後立川から聞いた話だと、深刻な経済不況の影響を受けた旅館の経営も、それ以前の状態に戻ったそうだ。今のところプライベートで紗希が宿泊した唯一の温泉旅館。こんなこともあっていいのかもしれない。