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孤高の彼女  作者: 赤虎
1/45

突然の出会い

1


「行ってきます!」

「留守番、宜しくね」

「おう、気を付けて!」

「にゃー」


明日の日曜日は娘の詩織(4歳)のバレエ教室で発表会がある。詩織は端役であるものの、4歳児以下では唯一抜擢され、本人も意気揚々としていた。今日はその最終確認だ。僕と愛猫のさきは並んで詩織と妻の香織を玄関で見送った。


さきは詩織が生まれた3ヶ月後に我が屋に迷い込んだ野良だ。僕は即座に保護施設に連れて行こうとしたが、香織がこれも何かの縁だと言い張り正式に家族として迎えた。念のために動物病院で検査したが、生後3ヶ月前後の雌、健康面で全く問題なし、つい最近まで母猫に育てられていた可能性が高いという。何らかの原因で母猫とはぐれてしまい、我が家に迷い込んだようだ。


香織は詩織と同じ5月に生まれたであろう彼女に五月と名付けた。暫くの間、僕と香織は五月と呼んでいたが、その後、言葉を覚えたての1歳の詩織は”さつき”と発音し辛いらしく”さき”と呼ぶようになり、成り行きで彼女の名前はさきになってしまった。しかし、本人は自分の名がさきだと認識しているらしく、僕達がさきと呼べば必ず反応する。


僕は当初は猫を飼う気など全くなかった。しかし、香織が詩織の世話で悪戦苦闘する状況下で、さきの世話は自然と僕が担当することになった。その結果、さきは”命の恩人”である香織より僕に懐くようになり、何時も僕と行動を共にするようになった。何時も僕と一緒にいるさきに香織は嫉妬したほどだ。


「さてと、論文書いちまおうか・・・行くぞ、さき」


僕は学会発表用の論文を仕上げるために書斎に向かった。その後をさきがトコトコとついてくる。書斎といっても、北側にある四畳半の部屋に机と本棚を詰め込んだだけのものだが、一応それなりに機能はしている。


「もう6時か・・・そろそろ帰ってくる頃だな。飯を炊いとくか・・・」


仕事にけりをつけ、僕は台所に行くと米を砥ぎ始めた。


「はい、どちら様ですか?」

「御主人ですか?桜町警察署交通課の清水です」


インタホンが鳴ったので玄関のドアを開けると、玄関前に2人の屈強な男がいた。1人は警察手帳を示しながら、清水と名乗った。家の前にはパトカーが赤色灯を点灯させ駐車している。


「どのような御用件でしょうか?」

「先程、奥さんと娘さんが交通事故に遭い、桜町総合病院に緊急搬送されました。事故の具体的な状況等は車内で御説明しますので、御同行をお願いします」

「えっ?」

「御同行をお願いします」


問答無用とはこのことだろう。しかし、香織と詩織が交通事故とあっては躊躇するような時間はない。僕は近くにあったサンダルを履くと2人の警察官と共に病院に向かった。


「本日17時半頃、本町3丁目の路上で乗用車が暴走し、路側帯を歩いていた奥さんと娘さんを含む5人を撥ねました。奥さんと娘さんは心肺停止状態で桜町総合病院に緊急搬送されました」


心肺停止状態って、要するに医師による死亡確認ができていないだけで死亡と同義じゃないか。つまり、香織と詩織は・・・


「そんな・・・容疑者は?」

「88歳の男性です。現行犯で逮捕しました」


何と言うことだ。こうした高齢者による事故が目立ってきたことは当然認識している。しかし、まさか僕達が、しかも自宅の間近で巻き込まれるとは・・・しかも、路側帯を歩いていたんだから、防ぎようがない。一方的な殺戮と何処が違うんだ!


病院に着くと、いきなり霊安室に案内された。


「嘘だろ・・・」

「お二人とも即死でした・・・」


処置を担当したと思われる医師が、僕に深々と頭を下げた。


僕は辛うじてその場で取り乱すことはなかった。と言うか、頭が働かない。この現実を受け入れたくない脳が活動を停止したかのようだった。僕は茫然自失したまま、霊安室を出た。ふらふらとしながら受付まで行くと、先程の警察官2人が僕に頭を下げている。


「御悔やみ申し上げます」

「・・・当然、殺人罪で起訴されますよね?」

「・・・それは・・・容疑者に殺意がない以上、不可能かと・・・」

「そんなことないでしょ!90歳近い老いぼれが、身体能力が著しく低下している老いぼれがまともな運転ができないことは通常の知能があれば認識できるはず!つまり、事故を予見できた!事故が発生するにも関わらず運転したということは、事故になっても構わない、人が死んでも構わないということですよね!未必の故意じゃないですか!」

「・・・」

「今回が初めてであれば、法整備ができていないから殺人罪で起訴できなくても仕方ないかもしれない。でも、これで何件目ですか?何人殺されているんですか?確かに、貴方達に言っても始まらないかもしれない。でも、これ迄何をしていたんだ!お前等は!」


僕は激高した。この、現場の警察官に言ったところで何も始まらない。でも、僕は妻と娘を殺されたんだ!この事実は絶対に変わらない。


「・・・我々としても、容疑者が高齢者であろうと、厳罰で臨む所存です」

「・・・すみません。宜しく・・・お願いします・・・失礼します」


僕は病院を出た。何時の間にか雨が降り出していた。その雨は、僕の涙を隠してくれた。


2


香織と詩織の納骨が終わり、慌ただしい日々は終わった。しかし、香織と詩織の遺品に囲まれた家に1人でいると悲しさと寂しさがこれまで以上に込み上げてくる。気が狂いそうだ。88歳の老いぼれが調子ぶっこいて車を運転さえしなければ、香織と詩織は死なずにすんだ。まだ未来がある2人が・・・殺してやりたい。最も残忍な方法で、香織と詩織が受けた以上の苦痛を与えながら・・・


気配を感じて振り返ると、さきが僕を凝視していた。その目は僕に


(悲しまないで。そんなこと考えないで)


と訴えているかのようだった。


猫は、自分のテリトリー内で異変が生じた場合、その元凶を入念に観察するという。さきも、一般論でかたづければ猫のこうした習性に基づき異変の”元凶”である僕を観察していると言えるだろう。しかし、この時の彼女の目は明らかに異なっていた。


「・・・さき、おいで・・・」


僕は涙と鼻水に塗れた顔で彼女を招き寄せた。さきは無言で近づき僕の膝に乗ると静かに目を閉じた。


「・・・そうだよな・・・悲しんでも、恨んでも、香織と詩織は帰ってこない・・・お前しかいないんだな、僕には・・・」


さきの小さい頭を撫でながら、僕は呟いた。さきは目を閉じて僕の膝で喉を鳴らしているだけだった。


しかし、納骨から10日が過ぎたある日、さきは姿を消した。これまで何回もさきは”朝帰り”していた。最初は何時もの事だと高を括っていたが、2日経っても帰ってこないとさすがに心配になる、というか、さきまでいなくなったら僕はどうなるんだ!さきがいたからこそ、僕は悲しみのどん底から這い上がるきっかけを掴んだ。さきが心の支えだった。これからという時に、さきまでいなくなるとは・・・僕はさきに見放されたんだ。そりゃそうだろ、僕はさきを2週間近くろくに面倒見ていない。さきは嘆いてばかりの情けない飼主に見切りをつけ、自分に相応しい飼主を探しに出て行ったんだ・・・だから、僕はあえてさきを探さなかった。そして、遂に1人になってしまった僕は、酒に溺れるようになった。リモートで実施していた講義も休講し、完成間近だった学会発表論文にも手を付けなくなった。


3


毎日酒浸りの、廃人になりつつあったある日の深夜、玄関のドアをけたたましく叩く音がする。


(誰だ、こんな夜中に・・・)

「誰ですか?」


ドアを開けると、そこには4歳程度と思われる少女が立っていた。しかも全裸で・・・僕が驚愕して硬直していると少女は無言で家に入ってきて、僕の足元に擦り寄ってきた。


「おい、ちょっと・・・」

「・・・お父さん・・・」

「えっ、何?」

「お父さん・・・」


何だって?この子、見たことが無いぞ。しかも、何故全裸なんだ?事件に巻き込まれて逃げて来たのか?状況が全く理解できないけど、とにかく服を着せないと・・・僕は彼女を抱き上げると、詩織の部屋に向かった。


幸い詩織と年恰好が一緒なので、難なく服を着せることができた。少し落ち着きを取り戻した僕は彼女を問い質した。


「名前は?」

「・・・」

「御家は?」

「・・・」


ダメだ。何らかのショックで一時的な記憶障害なのだろう。これは警察に頼るしかないようだ。僕はタクシーを呼ぶと、彼女と一緒に桜町警察署に赴いた。


「概要は分かりました。今日はお引き取り下さい。明日、詳しくお伺いしますので、9時前にこちらにお越し下さい。そうそう、もう遅いですからパトカーでお送りします」


女性警官が彼女を何処かに連れて行った後、担当刑事が僕に説明した。


(逃亡阻止か・・・完全に疑われているな・・・)


大学職員のIDを見せても、風呂に入らず髪の毛はボサボサ、無精髭生え放題の酒臭い中年男がにわかに信用されるはすがない。仰々しくパトカーで家まで送られ、僕は家に入った。2階から外を見ると、しっかりパトカーが張り付いている。


(逃げも隠れもしないのに・・・お疲れ様)


翌日、僕は少し早く起きて無精髭を剃りシャワーを浴びた。酒臭さは多少残っているものの、昨日とは全く違う自分がいる。外見だけは・・・外に出ると、パトカーから警察官が出てきた。


「おはようございます!菊地さん!」


笑顔で爽やかに挨拶するが、眼は笑っていない。


「おはようございます。では、行きましょうか?・・・ところで、一晩中僕を見張っていたんですか?」

「この界隈も最近物騒でしてね、たまにするんですよ、夜間警備。ちょっと早いですけど行きましょうか」


何を白々しく・・・僕は思わず笑ってしまった。パトカーの中で、かの警察官は昨日の野球がどうだったとか、別の街でこうした事件があったとか、とりとめもなく世間話をしている。こうした雑談の中に出てくるどのキーワードに僕が反応するのかチェックしているようだ。考え過ぎかもしれないが、どうも警察は信用できない。


警察署に着くと、僕は小さな会議室に案内された。そこで、昨晩、少女が家に現れてから警察署に来るまでの状況をしつこく何回も尋ねられた。いい加減にしてくれと内心思ったが、ふと考えた。これは時間稼ぎだと。彼女は今頃、病院で検査を受けているはずだ。そこで、暴行の痕跡でも見つかったら僕をこの場で逮捕するつもりだろう。つまり、検査結果が判明するまで僕を警察署内に拘束しておきたいんだ。


昼飯時になった頃、1人の警察官がクリアファイルに入った書類を持ってきた。担当刑事はその書類に入念に目を通すと、僕に話しかけた。


「菊池さん、お忙しいところ長時間御協力ありがとうございました。御帰りになられて結構です」


どうやら僕に対する嫌疑が解消したようだ。


「あの・・・」

「何でしょう?」

「彼女の御両親は分かりましたか?」

「いえ・・・現時点で捜索願に該当者はいません。本人を特定するデータが全く存在しないんです。病院での検査の結果、外傷や暴行の痕跡は一切なく、事件性もなさそうですしね・・・」

「彼女は今後どうなるんですか?」

「児童施設に入所するしかないでしょう」

「あの・・・身寄りが見つからないのであれば、僕が引き取ることは可能でしょうか?」

「どうしてそこまで?」

「実は、僕は1ヶ月前に交通事故で妻と娘を亡くしているんです・・・娘は4歳になったばかりでした・・・彼女も同じ年頃ですし・・・」

「そうですか・・・菊地さんは国立大学の准教授ですから身元は確かだし養育するための経済力もある・・・書類さえ整えば大丈夫だと思いますよ。名前はもうお考えですか?」

「いえ、まだ・・・ああ、そうだ、紗希がいい・・・」

「紗希ちゃんですか・・・いいお名前だ」


人間の少女に猫の名前を付けるとは傍から見れば不謹慎そのものだが、さきは詩織が付けた名前のようなものだ。きっと、天国の詩織が僕を立ち直らせるために彼女を遣わせたに違いない。だから、僕にとって彼女には紗希という名前が一番相応しいと思った。


こうして、紗希は僕の娘になった。

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