第一話 大姫と義高・上
「助けて……誰でもいい、誰か…………を助けて……」
暗闇の中、遠くから声が聞こえる。
でもこれは夢。
何度も見ているからわかる。
いつもの風景、誰もいない夜の神社。
どこからか響く悲しげな若い女性の声もいつも同じ。
物心ついた頃から、夢の中で誰かが助けを求めている。
* * * * *
「大姫ッ、背筋を伸ばせ。聞いているのか」
少し苛立ちをにじませた男の声に合わせるように、隣に座る女性から肩を揺すられる。
「んにゃ?」
「姫ったら、日が昇っているのにまだ眠そうね」
「はぁ、もう六つになるというのに……館でならまだしも御所ではなぁ」
寝ぼけたまま頷くと男性がわたしの方を向いて頭を抱えていた。
あの夢を見た日は頭がひどく疲れる。
「きっと楽しみで眠れなかったのよ。なんと言っても姫が生涯を共にする相手と初めて会うのですから」
「…………そうだな、我らのように仲睦まじい夫婦になれればよいが」
「まあ、あなたったら」
瞼をこすっていた指をどけると、男性と女性、つまりわたしの父と母がイチャついている姿が目に入ってきた。
もう梅雨目前って感じだけど、やっぱり夢の疲れに関係なく春は眠い。
わたしを見て首を捻っている男性の名前は源頼朝。
微笑んでいる女性は北条政子。
そしてわたしは大姫こと一幡。
この男女の、というか源氏棟梁の娘らしい。
とまあ再度家族の顔を見ても、あまり親という感じがしない。どこか他人事のよう。それはきっと、わたしには少しだけ今の自分とは違う自分の記憶があるから。
しかも遠い未来、今が西暦にすると1183年だから~……ざっと800年以上未来で中学生として生きていた記憶だ。事故で死んだーと思ったらなぜかこの時代で目を覚ました。
「頼朝様、木曽義高殿が参られました」
「通せ」
まだ眠いけど、どうやら今日の来客が来てしまったらしい。
そう、何を隠そう、わたしの「婚約者さま」が!
今日は婚約者との初顔合わせ。
まだ六才なのに?って言いたくもなるけど、この時代じゃおかしい話でもない。あくまで婚約だもの、即祝言でもないしそんなものかと受け止めていた。
それに婚約者の話は多少なら聞いている。前世のわたしより少し年下の少年らしい。
おじいちゃんくらい年の離れた人とか、逆に若くて赤ん坊とかじゃないんだから、わたしは恵まれてる方だ。とにかく男なんてのは、政子お母さまのように夫の手綱を握ればいいのだ。
なーんて強がってはみたものの……やっばいどうしよう! ちょっとドキドキしてきた!
「姫、失礼のないようにね」
「はい、お母さま」
お尻を持ち上げて着物を直すと一人の少年が入ってきた。
腰を下ろし、両拳を床につけて頭を下げる。
「清水冠者、源義高と申します」
やっぱり若い!
事前に聞いてた話では、遠い親戚の子で年は11才――だと言うのに、なんて堂々とした振る舞いだろう。
頭の上に乗せられた烏帽子にもまったく違和感を感じさせない。
烏帽子をかぶるのは成人の証だ。普通は12から15才で元服すると聞いているから、元服を済ませたのは鎌倉に来る直前だろうに、こうして挨拶する姿には少年らしからぬ凛々しさすら覚える。まるで物語に出てくる貴公子みたい。
「――姫? 姫、義高殿が挨拶をしていますよ」
「え、あっはい、ごめんなさい」
つい義高くんに見惚れてしまっていた。
前世で一緒に過ごしていた男の子たちとはほんとに大違い。たしか前世では仲の良い男子はいなかった、なぜなら同年代なんてみんなクソガキだったからだ。
それに比べて、彼は立派な大人の表情をしている。こんな子が同じクラスにいたら女子の人気を独り占めだったと思う。
……あれ? しまった! これじゃむしろ、わたしの方がちんちくりんのガキンチョじゃないか。婚約者が六才の幼女とか思春期の男子からしたらがっかりしたかも!?
「ああもう、大姫ったらまた変な顔をして」
「よい、お前達は下がれ。俺の前では姫も義高も緊張して満足に話せぬだろう。後で時間を取らせる」
「はっ、心遣い感謝いたします、鎌倉殿」
お母さまに手を取られて部屋から出ていく。
前を通り過ぎる時に、こっそり義高くんに手を振ろうと――しかしそこで、彼の額に大粒の汗が浮かびあがっていると気づいてやめた。大人びて見えたけどやっぱりお嫁さんの父親との挨拶は緊張するよね。
義高くんの故郷は木曽だ。木曽っていうと長野県の西側だから、鎌倉までだと馬で山を越えて街道に出て……旅したことないからどれくらい遠いかわかんないや。とりあえず長旅で疲れてるのは間違いないだろうし、あとでゆっくり労ってあげよっと。
「姫が楽しそうでよかったわ」
「うんっ、義高くんとなら仲良くなれそう!」
「でも呼び方は義高さま、ね?」
お父さまの館から出る頃には、夢の疲れも吹き飛んでわたしの足取りはすっかり軽くなっていた。
* * * * *
「義高さまーーーっ!」
どたどたと大きな足音を立てて義高くんの待つ部屋へと走る。
「蹴鞠しよっ!」
滑り込んだわたしの手に持っていた丸いものを見つけると義高くんは大きく目を剥いた。
「け、蹴鞠? 公卿がやるというアレ? 叱られますよ」
「お母さまは用があるって奥から出て来ないし平気だもん!」
「ふふっ、確かに読経させられるよりは楽しそうですけど、今日もこの空ですし」
と、並んで見上げれば、いつ降り出すかわからない連日の曇り空がまだ続いていた。
初めて会った日から何日も経つのに、義高くんの顔色はあまり優れない。話しかければ丁寧に相手をしてくれても、妙に張り詰めた雰囲気があった。きっと故郷や家族が恋しいんだろう。
そんな義高くんだけど、わたしがバカなことをすると年相応の少年らしいはにかんだ笑顔を見せてくれる。
わずかだけど前世の記憶があるわたしにとって、義高くんは婚約者というよりカワイイ弟みたいなものだ。少しでも元気づけてあげたいと、できるだけ明るく話しかけるようにしている。
「……(ひそひそ)」
「こら海野ぉ! いま義高さまにわたしの悪口を言ったなぁ」
「言ってません言ってません。蹴鞠なんて貴族の猿真似をする平家みたいなこと木曽の男はしないなんて言ってませんよ」
しかし、少々邪魔者なのが、このぺこぺこと頭を下げつつ減らず口を叩く男子――海野幸氏だ。木曽から義高くんの部下として一緒に来た少年である。
「自分だって義高さまに双六なんて教えてるくせにっ」
「双六は歴史ある遊びですよ。みんなやっています」
「もぉー! 賭け事に使うのは大昔の天皇さまが禁止したでしょ!」
義高くんとは年が近いようで、気心の知れた悪いアニキ兼友人でもあるらしい。
飄々とした態度で義高くんのホームシックを和らげてくれている面もあるのだろうけど、わたしが何かした時に義高くんによくないことを耳打ちしている、なんともいやらしい感じの少年だった。
「義高さま、海野なんかほっておいて何かお話しましょ。もう少ししたら梅雨が明けるけど義高さまは何かしたいことある?」
「お待ちください。そういうことはまず鎌倉殿にお伺いを立てないと」
「だーかーらぁー! 海野は話の腰を折らないの!」
横からしゃしゃり出てくる海野を黙らせて義高くんの顔を覗く。
「ここで狩りはできませんし、まずは鎌倉に何があるのか把握しないとなんとも……」
「狩り? 義高さまは狩りができるの?」
「ええ、ここへ来る直前に、父上が木曽の武士として鎌倉者に舐められていけないと弓を教えてくれました」
狩りのことを聞くと、楽しそうに鎌倉に来る前の話をしてくれる。
やっぱり男の子らしくて体を動かすことが好きみたいだ。
「わたしも弓やってみたーい」
「ははっ、巴様じゃあるまいし……大姫様に弓など持たせたら私の首が飛びますよ」
「わたしそんなヘタじゃないもん!」
「……今の意味がわからないから子供は苦手なんだよなぁ」
「だから海野はだまれってば! このっ!」
お邪魔虫な海野の顔面に蹴鞠を投げるが――にゃろう、わたしの全力投球を軽々とキャッチしやがった。なんてにくたらしい小僧だろう。
「これ大姫様の手作りですか? 六つとは思えないほど物知りですし器用ですよね」
「むふふ、これでも源氏の姫ですから!」
嫌味な顔をしている海野と違って、義高くんは本当に感心しているようだった。
義高くんが海野から取り返した蹴鞠を優しく返してくれる。
「それでは聡明な大姫様、梅雨が明けたら私に鎌倉を案内してくれますか」
「いいよ、楽しみにしてて! ……桜が散る前ならもっとたくさんきれいな場所があったんだけど」
「そうですね、桜は残念でした。鎌倉の桜は木曽の薄紅色の桜と違って白いのですよね、見てみたかったなぁ」
「うん、源氏の色なの! 来年は一緒に見ようね」
知らないものを想像する義高くんはちょっと楽しそうだ。
「……あっそうだ、知らないものと言えば」
「どうしました?」
「あのねあのね、夏になったら海に行こう!」
木曽のある信濃は長野県、つまり内陸だ。
武士の交通手段なんて徒歩と馬くらいで簡単に遠出はできない。義高くんの年齢ならまだ海は見たこともないはず。
「海っ!? 実は行ってみたいと思っていました!」
「やっぱり! じゃあお母さまに義高さまと一緒に行くって言っておくね」
義高くんがきらきらと目を輝かせている。
ふふふ、やはり大人ぶってもまだお子ちゃまよ。お姉さんがしっかり引率してあげようじゃない。
その隣では海野少年がうらやましそうな顔をしていた。
しょーがないなー、このクソガキも連れて行ってやるか。
* * * * *
「それでは姫、はしゃぎすぎないようにね」
あっという間に肌が汗ばむ季節になった。
政子お母さまが夏服の単衣を正しながら注意してくる。
「義高殿、海野殿も、姫に無茶をさせぬよう見張っていてください」
「承知しました、御台所様」
念を押された義高くんと海野が直立姿勢で綺麗に頭を下げる。
義高くんは常にしっかりしてるけど、海野も大人の前では態度がいいんだよなぁ……と思って下から顔を覗いたら、二人とも額にすごい汗。
そういえば、ちょっと前にお母さまがやらかした事件がわたしの耳にも入っていた。何でもお父さまの不倫相手の家を御家人に命じて焼き払ったとか。
我が母親ながら恐れられるのもわかる。わたしの母親はとんでもねー鬼嫁だった。
「お母さまは本当に行かないの?」
「ええ、だって……暑いもの」
「ですよね!」
暑いから涼みに行くんですけど?とは言わない。
お母さまがついて来たら義高くんが海を楽しめそうにないですし。
義高くんと海野、さらにお父さまの御家人を護衛に連れて海に向かう。
「まっすぐ海へ行くのですか」
「うん、せっかくお父さまが作った道だから」
寄り道もせず若宮大路に出ると義高くんが聞いてきた。
若宮大路は由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に繋がる広い一本道だ。義高くんは鎌倉をいろいろ見て回りたいのかもしれないけど、わたしも一人で自由気ままに外を歩ける立場じゃないし、案内できるほど詳しくもない。
鎌倉は外と出入りできる場所が限られてるおかげもあって治安はいいけど、さすがに幼女がふらふらするのはいただけないってさ。
「弟君のために、という話でしたか」
「そうなの、万寿とはまだ一度しか会えてないんだけどねっ」
若宮大路の建設をはじめた目的は去年生まれた弟・万寿のためだった。
この時代はみんな信心深いって重々理解していたつもりだけど、安産祈願にこんな広い道を作るって流石にやりすぎだと思う。だって車なんてもちろんないし馬も牛も貴重だしでほぼ人力だよ。マジ親バカ。
海に着くと、肌にこびりついた汗を吹き飛ばす強風が涼しさを運んできた。真っ白な砂浜とどこまでも広い海が燦然と輝く太陽の光を反射してくる。久しぶりに当たる強い陽射しが、じりじりと皮膚を焼いてくるものの、海から吹き続ける風はそんな暑さを一瞬で忘れさせてくれる。
「なんと大きな……これが……」
義高くんは、感動して声も出ないといった様子だった。
ここは写真も動画もない。絵画もようやく平安貴族である公卿の専属画家が風景画を描くようになったばかりだという。だから内陸の人には海なんて単なる言葉でしか伝わっていない、果てのない水平線なんて想像もできないんだ。
「…………すいません。あまりの広大さに、圧倒されて」
そう言って謝る義高くんはまだどこか呆然としている。
でもね……わたしはもう限界! やっぱ海風あっても熱い! 一瞬で涼しくなるとか思ったの最初だけだったわ!
「義高さま、ちょっと動かないで」
「え、大姫様、一体なにを!?」
自分の単衣の裾と義高くんの袴を捲くって、濡れないようにヒモで結ぶ。
「まさかっ、入るつもりですか!?」
「もちろん! 海に来たら入るでしょ!」
草履を蹴とばし、義高くんの手を取って砂浜を走る。
ばしゃばしゃと飛沫を立てて海に入る。しかし、ほんの数歩行ったところで引っ張っていた義高くんの手が抵抗してきた。
「……どうかしたの?」
「お、大姫様っ、足がッ、海に飲み込まれていますっ!?」
「あっははッ、波の水で足元の砂が流れてるだけだよ。こわくないこわくなーい」
「木曽の男はこれぐらいで怖がったりしません! ちょっと驚いただけで! 本当ですよ!」
ムキになって否定する義高くんを再度笑う。
元服を済ませたばかりで背伸びする義高くんは少し不満そうだ。しかし、はじめての海と足をくすぐる砂の流れが面白かったのか、義高くんもすぐに笑顔になった。
「おおー、川の底とは感触がぜんぜん違う」
「あっちでもやっぱり夏は水に入って涼んでたの?」
「はい。でも木曽には緑がかった綺麗な大岩を平に切り開いたような不思議な場所に川があって、そこにござを敷いて寝転がるのが最高の過ごし方でしたね」
「えっなにその川、行ってみたい!」
「……木曽は道が悪いですから、大姫様が大人になったら一緒に行きましょう」
そう言いながら、義高くんがわたしの頭を撫でた。
わたしの方がお姉さんなんだけどな、ってちょっとむくれてみる。
でも、いつになく穏やかな笑みを浮かべる義高くんの顔を見ていたら、そんなちんけなプライドはどうでもよくなってしまう。海につれて来てあげてよかった。
その後も、波打ち際に沿って砂浜を散歩したり、浜の西側からうっすらと見えるわたしの故郷を眺めたり、海野が拾った巨大あさりに水をかけられて海にひっくり返ったりと、遊んでいたらあっという間に陽が沈みはじめていた。
「そろそろ帰ろっか」
あまり遅くなると心配性なお母さまがわたしの捜索隊を出してしまう。
声をかけるけど、義高くんは海の方を見たまま振り返らない。
「波はどこから来てどこへ行くのでしょうか。今、私をさらおうとしているこの波は、いつかまたここに帰ってくるのでしょうか……」
震えているような声に見上げてみれば、義高くんの横顔はわずかに濡れていた。
「義高さま、お顔……」
「いえこれは、急に波が跳ねて……さ、御台所様が待っています、帰りましょう」
着物の袖で顔を拭うと、わたしの手を握って若宮大路へ歩き出す。もう一度、義高くんの顔を見上げた時には何の痕も残っていない、すっかりいつも通りの義高くんだった。
泣いているように見えたのに……気のせいだったのかな。
年頃の男の子に「ホームシック(笑)?」とは聞けないし。なんて考えていたら、すぐお別れの場所に着いてしまった。義高くんの家はお母さまの家より南にあるからわたしは見送る形になる。
「義高様は早く着替えた方がいいですよ。海で尻もちついたからまだ濡れてるでしょう」
「たしかに風邪をひいたら困るし、海風に当たった日はべたべたするから今日はちゃんと蒸し風呂で体を拭いたほうがいいかも」
「本当だ……それでは大姫様、私はこれで失礼します。今日のお礼はまだ後日」
「うん、またね」
やっぱり濡れたお尻が気持ち悪かったのか、海野の言われ、いつもより簡素な挨拶をして義高くんは帰っていった。
その背中に手を振ってお別れをする。義高くんも鎌倉の海を楽しんでくれたみたいだし、今日は大成功だったな。
「…………海野は帰らないの?」
なぜか海野は家に入らず残っていた。
なんだろう、珍しく真面目な顔。
「今日はありがとうございました。あんなに楽しそうな義高様を見たのは鎌倉に来てはじめてです」
「あはは、海野はおおげさだなぁ」
「ですがッ」
突然の大声に驚いて、わたしは口をつぐむ。
「ですがあまり……いいえ、これ以上義高様に近づくのはおやめください。それが貴方様のためでもあります」
「は? なにそれ……」
海野は自分だけ言いたいことを言うと家の中へ入ってしまった。
この日はそれまでずっと楽しかったのに、いつものふざけた口調とは違う海野の不吉を孕んだ言葉が、妙に心に残った。
* * * * *
海野の謎の警告からも、わたしはできるだけ義高くんと一緒に過ごしていた。
だって何を言いたいのか意味わかんないですから。
義高くんが故郷を思い出して涙するなんてことがないように、もっともっとわたしが鎌倉を楽しませてあげるんだ。むしろそう決意し直して、それまで以上にかまっていた。
「ほら、背中を曲げないようした方が楽にできるでしょ?」
膝の上で蹴鞠がぽんぽんとリズムよく跳ねる。
「私がやるならともかく足を上げるのは、はしたないと怒られますよ」
「誰も見てないし平気平気ー」
「義高様ーっ! 近所の者が栗を……って、また一緒にそのような遊びを……」
隠れて義高くんに蹴鞠を教えていたら、海野に見つかってしまった。
海野はわたし達が並ぶ様子に一瞬気まずそうな顔をするけど、義高くんが栗の入ったカゴに頬を緩めると、すぐにいつものニヤニヤ顔に戻った。
義高くんと同じくわたしも栗を見てしまう。ちょっと気まずい海野よりこっちの方が重要だ。
栗と言えば秋。秋と言えば食欲の秋。
鎌倉は新鮮な魚が取り放題なおかげで食生活もそれなりに豊かなのは認めよう。
しかし、だがしかーし、圧倒的に甘味が足りないのもまた事実。ついつい目を奪われてしまうのも仕方ないってもんでしょ。
「大姫様も栗がお好きですか」
「うんっ好き!」
「では今度幸氏が作った栗まんじゅうを届けましょう。これが中々の腕前で」
「まんじゅうと言っても潰して練っただけですけどね」
義高くんに褒められた海野が嬉しそうに鼻をこする。
海野、まさかお主、武士でありながら菓子が作れるのか。
夏の一件以降、海野とは少しずつ話す機会が減ってきていたが、この平安時代に甘味を提供してくれるというのなら、これまでの小憎たらしいツッコミや訳のわからん態度は許してやらんでもない。
わたしは海野の手を強く握った。
「仲直りの握手!」
「……幸氏お前、大姫様に無礼を働いたのか」
義高くんが睨み、海野が慌てはじめる。
「エエーっ!? いえいえまさかですよ、別に私たち喧嘩とかしてないですよね。というか握手ってなんなんですか」
「海野! まんじゅう期待しているぞよ!」
「この姫様、ほんっと人の話聞かないなぁ……」
海野に極上の栗まんじゅうを約束させていたところで、通りの向こうに範頼おじさまと義経おじさまが見えた。頼朝お父さまのいる大倉御所の方へ急いでいる。これから軍議なのかも、難しい顔だ。
「そうだっイライラには甘くて美味しいものだよね。義高さま、わたしにも栗分けて」
「構いませんが、どうするおつもりですか」
「栗ご飯にして差し入れしてくる!」
「……栗ご飯?」
ふむ、まんじゅうはあるのに栗ご飯はないのか。
「できたら義高さまにもあげるから食べてね」
「はい、楽しみにしています」
義高くんが嬉しそうに笑う。
まー言っても料理するのはわたしじゃないんだけどね。
栗を抱え家に戻ると、侍女さんにレシピを教えて栗ご飯を作ってもらう。
大倉御所に着いたら、運んでもらっていたおひつを受け取る。重たいけどせっかくの差し入れは自分で渡したいからね。
それにしても今日は何やら物々しい。色んなひとがわたしの足を止めに注意してくる。うっとうしいので、お母さまに呼ばれていると嘘をついて早足になる。
「西国で苦――――仲殿が痺れを切らせ――――――」
「――の勲功が鎌倉――下だったから――。越後守に任官したところで――――」
「――――に苦言を申していた行家殿は――」
「食糧難の――では略奪を行って――、二十年ぶりに――――の旗が立ったと沸いている家もあれど、これでは――――」
屛風の影から顔を半分だして覗くと難しい言葉を並べて話し込んでいた。今日は本格的な会議の日かもしれない。
「姫っ!? どうしてここに!?」
引き返そうとした時、お母さまがわたしに気づいた。
お母さまは武士ではないけど何故かたまに軍議に参加している。
「ここには来ては駄目だといつも言っているでしょう」
「あの、ひさしぶりに範頼さまと義経さまを見たので差し入れに……」
うつむいてしおらしく言ってみる。
「そうか、陽も傾きはじめたところだ、一旦休みを入れよう」
頼朝お父さまがそう言うと、部屋に充満していた緊張が解けた。
家族には甘い男だね。
食事の用意に合わせて、わたしも持ってきた栗ご飯を運ぶ。
たまにだけど、前世の記憶が蘇った時に思いつきで作るわたしのレシピはお父さまの御家人たちの間でひそかに期待されていた。例の夢を見るのは決まって大きな出来事がある前なので、だいたいは祝い事の席でしか出されないのもある。
それまで険しい顔で難しい話をしていた武士のおじさん達も、一口食べれば「酒を持って来ればよかった」などと上機嫌になった。
「大姫様はまことの神童ですね」
「一昨年の飢饉も言い当てたという、神童というより神子と呼んでも過言あるまい」
「お母さま以外だれも信じてくれなかったのに、叔父さまたちは調子いいです」
「かはははっ、それは耳が痛い」
範頼さまは優しく微笑み、義経さまは豪快に笑う。
範頼さまはよく気を遣う人だ。若くして中間管理職についた苦労人って感じで、将来は落ち着きのあるダンディなおじさまになりそう。
一方で、鎌倉の中では若い義経さまは……なんというかギラギラしている。
なんで未来では、こんないかにも「The・武士」みたいな凶悪そうなお兄さんが優男風に書かれることが多いのだろう。不思議でしょうがない。
「大姫は義経が嫌いか?」
おっと、義経さまが伸ばしはじめたばかりの不格好なちょびヒゲを見過ぎたみたい。お父さまが変なことを聞くから義経さまがビビってる。
「嫌いじゃないよ。弁慶を懲らしめた時の話とか平泉での武勇伝は面白かった」
「……義経はそんな野蛮な話ばかりしているのか」
「あ、兄上、それは大姫様がせがむから仕方なくッ」
「事実か、大姫」
「んーどうだったかなー」
義経さまが立派な喉ぼとけを何度も上下させた。大きく開かれた双眸は睨んでいるというより助けを懇願しているようで気持ち潤んでいる。流石にちょっとかわいそうになったのですぐ肯定してあげた。
「まぁまぁあなた、女子は武士のお話に憧れる時期があるのですよ」
「ふむ、まあいい。それで…………あちらとは、どうだ、上手くやれているか?」
「あちら?」
「……義高だ」
お父さまとお母さまから気まずそうな顔を向けられる。
「姫は義高殿が好きよね? この人はまだ恋をする年齢じゃないなんて言うのよ。女のことをなにもわかってないんだから」
「うん、仲良くしてます。年の近い友達がいなかったからすごくうれしい!」
「なるほど……友人、か……」
まっすぐにお父さまがわたしの瞳を覗く。険しい顔で、全てを見透かされているかのような。お母さまもどうしてかちょっと顔をしかめている。
何か返事を間違えただろうか、理由はわからないけど初めて見る二人の複雑な態度になんだか怖くなる。
「大姫、もしも…………」
「ど、どうしたのお父さま?」
「いや……そろそろ軍議に戻る。姫はもう帰りなさい」
「今日は急に来てごめんなさい」
「俺も近く鎌倉を発つやもしれん。これまで以上に姫と会える機会は減るだろうから丁度良かった」
頼朝お父さまがわたしの頭に手を置く。
でも、その手にはいつもの力強さがなかった。
* * * * *
その日は朝から嫌な予感がしていた。
原因は、またあの夢を見たから。
前世のわたしは勉強が好きじゃなかったからか、あまりこの時代のことは覚えていない。けど、たしか源氏は今戦ってる平家に勝つんだよね。だからおかしな夢を見ても何が不安なのかはっきりしない。
それに、理由はそれだけじゃなかった。
冬に入ってから、嫌な噂話はわたしの耳にも聞こえていた。
夏の終わりに義高くんのお父さま、義仲さまが平家を京から追い出して法皇さまを救い出した頃はまだ良かった。
お父さまは先を越されたってピリピリしてたけど、まだ余裕があったし、鎌倉の町には源氏の勝利を聞いて喜んでる人もいた。
でも義仲さまはそこから失敗続きだったらしい。
安徳天皇と新しい天皇即位の儀式に必要な三種の神器は平家に持ち逃げされてしまった。さらに、西国まで追いかけても苦戦続きで良い結果が出せなかった。
京の町は二年前の飢饉の影響がまだ抜けてなくて、たくさん餓死者が出てるのに信濃から来た武士たちが追い打ちをかけるように略奪をしている。
その後も何を焦ったのか、次期天皇を誰にするか巡って後白河法皇と戦ったり、偉い僧侶の人を打ち首にして人望も失いつつあるとか。
そして、誰もわたしには詳しい話をしてくれないけど、今ではお父さまと義仲さまが険悪なようだ。
源氏と平家が争ってたはずなのに、どうしちゃったんだろう。
「大姫様っ、大姫様っ、大変です!!」
夕暮れ近くになっても帰ってこないお母さまを侍女さんと待っていたら、大倉御所で働いている別の侍女さんが血相を変えてやってきた。
「……大変? もしかしてお母さまに何かあった!?」
いくら噂好きと言っても、幼いわたしに話があるなんてこと自体が珍しい。
「政子様ではなく……義高様の父君が、義経様の軍に負けて……その……」
「義仲様が? え、義経様と戦って? え、え、そもそもどうして義仲様と義経様と戦ってるの!?」
「それは義仲様が頼朝様を殺そうとしたからで」
「そんなっ………………それで義仲さまはどうなったの!」
「近江で首を取ったと、伝令の者がさっき……」
「首!? 首って、死んだってこと!? なんで義仲さまが義経さまに殺されなきゃいけないの!?」
一瞬、驚きと怒りで頭が真っ白になった。
源氏にもいくつか派閥があることは知っていた。鎌倉の中の話でも、お父さまの部下や弟の範頼さまや義経さまも戦功を取り合っているのは知っている。武士はみんな戦って手柄を立てたいと思っている。
でもいつの間に源氏同士で戦をするほど関係が悪化していたのだろう。
義仲さま――会ったことはないけど、義高くんの父親で、わたしの義理の父親になるはずだった人が死んだなんて……。
「ですから義仲様が――」
「そんなのわたし知らないッ! 誰もそんなことになってるなんて言ってなかった! 教えてくれなかった!! みんな知ってたからわたしから距離を取ってたのね!?」
これまで出したことのないような大声で責め立てる。
わたしは源氏棟梁の娘だ。子供でも本気で叱責されたら侍女は身を縮こまらせて何も言えなくなってしまう。
「……そうだ、こんなところで揉めてる場合じゃない」
いま大変なのは義高くんだ。
もしかしたらもう報せを受けているかもしれない。これまでも、わたしより年上の義高くんはもっと詳しい事情を聞いていたはずだ。
居ても立ってもいられなくなって、重ね着していた邪魔な着物を脱ぐと外へと飛び出した。今年最後になるであろう雪に冷たく飾られた道を懸命に走る。
屋敷に着くと、タイミング悪くどこかから帰ってきた海野に出くわした。
義高くんとも海野とも、冬の始まりにお父さまと義仲さまが険悪になっているという噂を聞いてから少しずつ疎遠になっていた。久しぶりに会う海野はいつになく読めない表情をしている。
「今日は雲も厚くもう陽がありません。出歩くのは感心しませんよ。お供の方もあんなに息を切らして」
「いいからどいてッ!」
会った瞬間、海野が庭の方を見たのを見逃さなかった。
海野を押しのけて庭に出る。庭の奥では、義高くんが緑色になったばかりの真新しい桜のつぼみを見ていた。
一ヵ月ぶりくらいになるか、元々大人びていた子だったけど以前にも増して――いや、以前と違ってまとう雰囲気には暗い影を帯びていた。
「あ、あのっ、義高さまっ…………」
「おや、大姫様? 見てください、もうじき桜が咲きそうですよ」
「そ……じゃ、なくて……あの……」
「どうなさいました?」
どうしたことか本人を目の前にしたら声が出なくなってしまう。
何を言えばいいのだろう。
どう言えばいいのだろう。
ただ会いたい、会って慰めないと。
そう思って走ってきたけど――
そんなことできるはずがない。
義高くんの父親を殺したのはわたしのお父さまだ。
義経さまに命令して殺させたのは、間違いなくわたしの父親なのだ。
そんなわたしに一体何が言えるというのか。
かけられる言葉が見つからない。
「………………………………ああ」
しかし、言葉を詰まらせたまま唇を噛むわたしを見て、義高くんの瞳から一粒の涙がこぼれた。
「そうか……父上が、死にましたか……」
何も言葉にできないまま、悟られてしまった。
自分が卑怯者になったような気分に苛まれ、ますます声が出なくなる。
「…………父上……必ず、迎えに行くと……言って、くれたのに……」
義高くんの言葉はわたしに向けられたものではない。
こちらを一瞥しただけで、義高くんはもうわたしを見ていなかった。
「しばらく心細い想いをさせるが、必ず先に天下を取って、迎えに行くと、言って……言って……ううぅ、ああああああぁぁ」
「義高様ッ! それ以上はなりませんッ!」
海野が義高くんの言葉を遮るように駆け寄る。そして、次第に涙の川が深くなる義高くんの口を、抱きしめる胸で強引に塞ぐ。そのまま二人は抱きしめ合うように地面に膝をついた。
「ご、ごめんなさい、義高さま、ごめんなさいいぃぃぃ」
声を噛み殺して震える二人を前に、わたしは近づくこともできないでいた。
ただ訳のわからない申し訳なさや悔しさの混じった感情を抑えきれず、庭の端で謝罪の言葉を叫びながら空に向かって泣き続けた。
* * * * *
「姫、もっとしっかり食べないと」
お母さまが心配そうに声をかけてくれる。
でもそれ以上わたしの指は動かなかった。
何を食べても味がしないし、箸を握るだけで手が重く感じる。
あれから、義高くんとは一度も会っていない。
会う資格なんてないのだから当たり前だ。
「大姫、よく聞きなさい」
お母さまが珍しく厳しい声色を出した。
「まだ幼い貴方にはわからないかもしれないけど、こうなってしまったからこそ今まで通りに義高殿と接しなければなりません」
理解できないお母さまの言葉に目を逸らす。
しかし、お母さまはわたしの頬を両手で包むと強引に目を合わせてきた。
「いい? 義高殿は父君を亡くしました。それも……父君が頼朝様と敵対する形で」
「……だから?」
「それは義仲殿の息子である義高殿も頼朝様に反意があると見られる可能性があるということです。多くの鎌倉武士はそのように義高殿を見るでしょう。これから頼朝様の下へ来る北陸の源氏の中には義高殿に仇を討つをよう唆す輩も現れるでしょう」
お母さまの言葉に気づかされ、ハッと顔を上げる。
「わたしと仲が悪いと……義高さまが鎌倉に居づらくなる!?」
「そうです。義高殿はもはや木曽者ではなく鎌倉の武士なのだと、木曽義仲の息子ではなく源頼朝の息子なのだと貴方も示さなければなりません」
悲しげな顔でお母さまが抱きしめてくる。
理屈はわかっても難しいよ。
だってわたしは親の仇の娘なんだもん。
もし義高くんに拒絶されたらと思ったら、やっぱり怖いよ。
「お父……さまは……助けてくれないの?」
「…………あの人も難しい立場だから……でもね、頼朝様は父親の罪は子には関係ないと言ってくれています……ですから、あとは貴方が……」
自身も難しいことを言っている自覚があるのだろう。お母さまの言葉が途切れ途切れになっていく。
でも、わかったよ。
わたしのやるべきことが。
「……ああ、本当に聡い子ね」
背中に回した手に少しずつ力を込める。お母さまも同じ様に強くわたしを抱きしめてくれた。
お母さまに甘えて元気をもらった後は、また弱気になる前にその足で義高くんの家に行くことにした。
「大姫様が来られたと聞いて」
足音が聞こえ顔を向けると、期待していた人物ではなく、側近の海野少年が先に出てきて少し気が抜けた。
「わざわざありがとうございます。義高様の立場では今の鎌倉を自由に出歩くわけにもいきませんから」
海野は以前通りの飄々とした態度で言ってきた。
義高くんはどうしているか聞いてみると、またしても何を考えているのかわからない聞き慣れた口調で「変わりありませんよ」なんて答える。
海野の感情が読めないのは義高くんに紹介された時からずっとなので半ば諦めている。だけど、こうも情報を引き出せないと、わたしにプレッシャーを与えに来たのではないのか疑ってしまう。「親の仇がどの面下げて!」と責められているような気がしてならない。
しかし、それは杞憂だったみたいだ。
義高くんが遅れて顔を見せた。
穏やかだけど凛々しい少年らしからぬ顔。
足音は静かだけど堂々と胸を張り歩く姿。
また一段と大人っぽくなったように見えるけどこれまでと変わらない、わたしの知っている義高くんだ。
「あ、あの…………」
やっぱりダメだ。声が出ない。
唇をぱくぱくと動かすだけで声にできないわたしを見かねて、義高くんが口を開いた。
「……幼い大姫様にはまだ理解できないかもしれませんが、これが武士の家に生まれた者の宿命であり、私もまた武士なのです」
わたしに向けられたのは、強い男の人の瞳だった。
義高くんは、あの日、たった一度流した涙だけで、父との別れを済ませていたのだ。
「………………ごめんなさい」
長い時間をかけてどうにか一言だけ絞り出す。するとわたしの目から涙が落ちた。
義高くんは無言で隣にヒザを落とし、わたしの頭を撫でる。
訪ねてきたわたしを逆に気遣い、慰めるような優しい態度、そこにはウソも強がりもなかった。
もう「この子」なんて言えない。義高くんはわたしよりもずっと大人で、最初から気高い武士だったんだ。
「散る前に会えてよかった」
「……え?」
「約束通り、今年は一緒に桜を見られますね」
そう言って微笑む義高くんを見たら、また涙が溢れてきた。
義高くんはわたしを許している。
……違う、義高くんは一瞬たりともわたしを恨んでなんていなかった。
ずっと胸に奥に巣食っていた罪悪感が溶かされて、わたしの方が救われてしまった。
「本当は、もっと早くにこなきゃいけなかったのに……ごめんなさい」
「いいえ、大姫様が謝ることなどありません。私はこの一年、貴方の献身に救われてきたのですから」
わたしの心を読んだかのような返事に、なんだか急に気恥ずかしくなり、顔が真っ赤に染まっていくのがわかる。
わたしは次に会う約束だけ取り付けると逃げるように義高くんの家から立ち去った。
多分この時だろう。
それまで弟みたいに思っていた義高くんに本気で恋をしたのは。
この人と共に生きようと、この人と一生を共に生きていくんだと本当に理解したのは。
でもそれは、
わたしの勘違いだった。
わたしはまだ理解していなかった。
武士という人種を。
源氏という家を。
お父さまを、源頼朝という男のことを。